写真①竪穴住居
2024年(令和6年)1月28日に東京都千代田区有楽町マリオン11階にある有楽町朝日ホールで開催された「北海道・北東北の縄文遺跡群 世界遺産登録2周年記念 東京フォーラム」を聴講してきました。この遺跡群は2021年(令和3年)7月に、日本で25番目の世界遺産(文化・自然含め)に登録されています。会場は約750人の来場者で満員となり(↓写真②参照)、先史時代の日本について第一線の研究者らによる講演や報告、パネルディスカッションが展開されて最新の調査研究成果と動向に触れることができました。
写真②満員の会場
学生時代から地理・歴史が得意だった筆者は、世界遺産登録に向けて活動と関心が高まっていた2019年(令和元年)10月に、15か所の遺跡群の中でも評価の高い特別史跡とされている青森市にある「三内丸山遺跡」を訪問していましたから、興味津々でした。
このフォーラムの中で、筆者が最も印象的だったことは以下の点です。すなわち、縄文時代の始まりは約1万5~6千年前の土器の発明であるという大枠のコンセンサスがあります。しかし、縄文の終わり(=すなわち弥生の始まり)については、単純に水田耕作を基準とすると複雑だということです。
水田耕作は縄文末期には既に始まっていた北九州とそれから数百年遅れた北東北地方まで、水田耕作と畑作農耕の状況があまりに多様で複雑で年代的特定が難しいということです。ましてや北海道(先住民のアイヌが多く生活)には稲作は伝わらず、よって弥生時代は始まらず縄文文化(続縄文時代)が続きました。昔でも今でも、日本列島の地理的・気候的・文化的な地域差は歴然で、縄文・弥生時代の稲作についても差異は当然と思われます。
加えて、最近では朝鮮半島から来た“多数”の渡来人が稲作を持ち込み・全国に広めたという教科書的な常識に疑問符があるといいます。弥生時代に渡来人は“少数”しか渡ってこなかったという見解です。”多数”は、弥生時代の次の古墳時代にやってきたということです。
そんな話を聞いて筆者が想像したことは、土器や土偶を作り、採集・漁労・狩猟により豊かな定住生活を始めた“縄文人”と水田耕作を生業とした“弥生人”という時代区分的な呼称は適切ではないのではないかということです。縄文時代にも弥生時代にも「日本」という国家は存在していなかったので「日本人」と呼ぶのは不適かもしれません。当時日本列島に住んでいた人々(縄文人)は朝鮮半島から持ち込まれた稲作にチャレンジし、徐々に徐々に九州から東北へと取り入れていった、あるいは取り入れなかった地域の人々が混在したと解釈するのが妥当のように思います。以前から朝鮮半島と日本列島は双方向で行き来がありましたから、縄文人の一部が海を渡り、朝鮮半島で稲作を学んで持ち帰ったとも想像できます。
文字の無かった先史時代に関しては、毎年毎年、全国津々浦々で続けられている考古学の新たな発掘・発見や遺伝子解析技術の進歩等により、その昔学校で習った教科書的な常識が書き換えられています。それだから日本人のルーツ・日本文化の変遷は、興味深く面白いのです。
以上