夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

反日デモと政治的正統性への強迫観念

2005年04月12日 | Weblog
中国各地で暴力を伴う激しい反日行動があった。
 
香港では大きな動きはなかったようだが、2年前まで領事館勤務の夫と共に住んでいたところなので、もし、いる間にこういうことがあったら、邦人保護の仕事に忙殺されていたな、と思った。
ただ、大きなデモがあった深土川は、香港時代によく買物等に出かけ、中国人の友達もたくさんいる所だ(先日の中国出張でも長野県事務所を訪問した)。

映像を見ても、警官が積極的に投石等をとめているようには見えない。大体、中国にはまだ十分な法の支配がなく、刑事被告人の弁護をする弁護士がねらい撃ちされて微罪や冤罪でつかまることもあるという国で、犯罪者の人権も十分守られているとはいえないのに、顔も隠さないで投石等をしていること自体が、「つかまるおそれがない」という理解が群集の方にもある証拠だろう。

これでは、国家として暴力行為を取り締まるという作為義務違反を犯しており、国家ぐるみでやっている、といわれても仕方ないのではないか?

どんな理由があれ、法治国家を名乗る以上、民間人に危害を及ぼすような暴力行為を容認するかのようなことは、国際社会で許されるべきではない。
日本はもっと強く抗議すべきだ。

中国政府が、反日教育に熱心なのには、政治的意図がある。
それは、中国共産党が、政権を握っているということについての正統性(legitimacy)のためである。

選挙で首相や大統領を選ぶ国では、政権担当者に民主的正統性があることになるが、中国の場合、選挙で選ばれたわけでもなく、なぜ共産党が政権を掌握しているのか、説明に窮することになる。
そこで、日中戦争の際、日本軍を敗退させたのは、共産党なのだから、ということに正統性を求めることになる。それゆえ、国民に「極悪非道な日本、その軍隊を追い出したのは共産党、だから共産党に政権を握る正統性がある」と思わせる必要がある。だから、反日感情が下火になると困るのだ。

日本人にはちょっと想像しにくいが、この政治的正統性の問題って、どこでもシビアな政治的課題なのだ。
昨年、中国茶の先生と研修旅行で訪れた台湾で、どのカレンダーでも「民国93年」と表示されているのに驚いたが、これは、辛亥革命の翌年を元年とする暦なのである。
台湾政府の正統性は、辛亥革命で清朝を倒したことにあるので、この暦を使って、被統治民にこのことを忘れさせないように腐心しているのである。

こういう事件は腹立たしいが、日本では当たり前にある(ように見えるが、最近怪しい)法の支配、民主主義、人権擁護、言論の自由というものについて、相対化して考え、appreciateしてみるいい機会だと思う。

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桐野夏生・『I'm sorry, Mama』『白蛇教異端審問』(ネタばれ注意)

2005年04月12日 | 読書
I'm sorry, Mama

実は、2月末から3月にかけてのボストン出張中に読んでいた。
両親が誰とも知らず、娼家で育った女主人公が、冷酷な殺人を重ねていくというピカレスク・ロマンなのだが、ヒロインの造形よりもむしろ、彼女に関わるいろいろな人間がそれぞれに面白い。それぞれの、人生で背負った業や醜さが非常にリアルに描かれ、そちらの方に引き込まれた。
女主人公・アイ子はむしろ、読者をこのような多様な業をもつ人間の人生にいざなう狂言回しにすぎないのではないか、とさえ思えてくる。

その中の一人である、ホテルチェーンの女性社長は、ある実在の人物を容易に想起させる。
(本人から苦情が来なかったのだろうか)
そのホテルに旅行中夫と泊まったことがあるが、ビジネスホテルなのに、お風呂がトイレ一体のユニットバスでなく、洗い場でお湯を流せる家庭のような仕様になっていることや、タオルが、青とピンクの2色になっている(利用者がそれぞれまちがえないように)ことが、ユニークでいいサービスだな、と感心した。
しかし、看板に自分の肖像を使うのはいいが、片手で自分の髪の毛を引っ張っているのは、ちょっと違うのではないかと思った(容姿や服のセンスについては全く論点にするつもりはない)。自分の髪の毛を引っ張るという動作には、いろいろなimplicationが考えられるが、いわゆるしなを作る、性的魅力をアピールする、いらいらした時のしぐさ(私は論文の原稿が進まない時とか、いらいらすると自分の髪の毛を引っ張る癖がある)、等が考えられるが、いずれもホテルビジネスとは何の関係もない動作であり、社長として自分の経営するホテルを宣伝する看板でこういう動作、というのは違うのではないか、という違和感である。

小説のラストは、ヒロインが追っ手を逃れるため、隅田川に飛び込み泳ぐシーンで終わっている。
これは、藤山直美主演『顔』(傑作だと思う)のラストを髣髴とさせる。

『白蛇教異端審問』
エッセイ集を初めて読んだが、ジェンダーの視点による社会時評、書評の的確さに改めてファンになる。もっとエッセイを書いてくれればいいのに。

前半は、直木賞受賞日記を含む身辺雑記なのだが、後半のタイトルと同名の文章は、不当な批評への抗議だった。
笙野頼子の純文学論争のようなことを桐野もやっていたとは知らなかった。
こういうのは消耗するし、徒労感を覚える作業なのだが、やらなければ筋が通せないと思ってやるのだろうな、でも大変だな、ぼろぼろになるよね、と他人事でなかった。

私は『OUT』で直木賞をもらうべきだったと思う。
実はそのころ、本当の名作は賞を逸して、その次回作で受賞というパターンがあった。
なかにし礼も、『長崎ぶらぶら節』もよかったけど、前作の『兄弟』の方がはるかに名作だった。

ところで、数日前、偶然同じ大学の別部局の教員のHPを初めて見たら、ちょっと関連妄想だった。
というのも、彼の日記に、パトリシア・ハイスミスの記述があったが、このエッセイ集にもハイスミスのことが書いてあったからだ。

桐野氏は、ハイスミスのセクシャリティーから、アメリカ的父系社会やその流れをくむアメリカミステリー界に合わなかったので、アメリカ生まれなのにヨーロッパで活躍したのでは、と分析している。

桐野氏の描く人間の救いがたい心の闇に通じる世界があるようなので、今度ぜひ読んでみよう。


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