忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

余呉湖-2017年早春

2017年03月31日 | 余呉湖を歩く
天気予報を見て大丈夫だろうと思って来てみたが、天気は良くない。
やはり余呉湖の天候は難しい。
琵琶湖との間に横たわる賤ヶ岳が余呉湖の気候をより北陸性気候に近づけているようだ。





太陽はときどき顔を見せるものの、すぐにまた湖面は厚い雲に覆われる。
風も強く、その風にのってパラパラと雨を運んでくる。





こんな余呉湖は初めてだ。
雨を避けながら南へ南へと移動する。





余呉湖の南部はやや水深が深くなる。
湖面の標高は琵琶湖より約50メートルほど高く、賤ヶ岳が湖面に微妙な影を落とし湖面は暗く淋しい独特の表情を見せる。





賤ヶ岳の裾が湖面に沈み込むこの辺りは、賤ヶ岳の戦いでは激しい戦場となり、兵が血濡れの槍を湖水で洗ったと言われる。





湖の南部をぐるっと廻って対岸を北部へ。
かつてこの辺りは養蚕用の桑が栽培されていたが今は水田となっている。
四月を迎えると余呉湖の桜が開花し本格的な春を迎える。
余呉湖の湖畔は長閑な春景色に様変わりする。





余呉湖2014-秋のおとずれ

2014年09月14日 | 余呉湖を歩く


大雨続きの夏もようやく終わりを告げ余呉湖に秋がおとずれた。



湖畔の水田はほとんど稲の刈り取りを終え、



あちこちに野焼きの煙が立ちのぼる。



湖面を野焼きの煙がゆっくりと流れていく。
この時期にしか見られない長閑な景色である。



今年の余呉湖はこの時期としては例年になく水嵩がたかい。



夏の大雨が原因らしい。



水質の汚れも気になる。
湖面のあちこちで藻が繁茂し、狭い湖面を我が物顔で占拠している。
湖北一帯で昭和40年代に行われた農業水利事業の一環として、この余呉湖にも水量確保のために琵琶湖の水がくみ上げられるようになった。
繁茂している藻は琵琶湖でよく見られる藻であり、その事が関係しているように思われる。



湖畔の樹々はかすかに色づき、深まりゆく秋への準備に余念がない。



短い秋が終わると余呉湖は厳しい冬を迎える。



2014年-梅雨明けの余呉湖

2014年07月23日 | 余呉湖を歩く

今年の近畿地方は7月21日に梅雨が明けた。
ほぼ平年並みだが、7月に入って早々に梅雨明けしてしまった猛暑の昨夏と比べるとかなり遅い。



でも何かおかしい。
梅雨明けの翌日というのに、空はどんより、太陽は雲に隠れて顔を出さず、むしむしと暑い。



シベリヤ寒気団が南下して日本列島上空にドッカリと居座り、それに太平洋高気圧が怖じ気づき進むか引くか引っ込み思案をする。
そんな異状気象に梅雨前線も自分の居場所が見つからない。
そんな気象状況が長く続いた。



そうした中で梅雨入り宣言も、そして梅雨明け宣言も、梅雨前線そっちのけで雨の続き具合で見切り発車。
と、どうもそんな感じなのだ。



でも、梅雨明けは梅雨明けだ。
「さあ本格的な夏だ」
と湖畔の木々は張り切っているように感じられる。



湖畔で釣り糸を垂れる人がいる。
「どんな魚が釣れますか」
と、訊ねてみた。
ブラックバス、とその人は答えた。
ここでも外来魚が固有種の棲息を脅かしつつある。



そういえば湖水もかなり汚れてきているようだ。
鏡湖とよばれた嘗ての透明度は次第に失われつつある。




でも、余呉湖は今も静か、とても癒される。


私にとっての余呉湖

2014年05月26日 | 余呉湖を歩く

     私 に と っ て の 余 呉 湖  

琵琶湖の北に余呉湖という小さな湖があるのを知ったのは、40年も前のことである。
私の最初の任地である大津地方裁判所に赴任して10ヶ月余が過ぎたころである。
所属していた刑事部合議係に、会社勤めをしていたある男が妻に去られ、嬰児を育てながらの生活に疲れはて、自殺しようと嬰児を抱て真冬の余呉湖に身を投じたが、わが身だけ救い揚げられて助けられた事件が、嬰児に対する殺人罪に問われたのである。そして、それを新任の私が主任として担当することになったのである。その事件に接するまで私は琵琶湖のさらに北に湖があることを全く知らなかった。

 

湖北の山間にひっそりと湖水を湛える余呉湖の静かな佇まいを知れば、妻に逃げられた被告人が、嬰児を育てながら働く生活に疲れ果て、我が子と共に余呉湖に身を投げて死のうとした、その心情はなんだか理解できるような気がし、一度ゆっくりと歩いてみたいと思うようになった。

 

その思いを果たすこともないまま3年後、私は次の任地へと転勤した。

その思いを果たしたのは、妻が逝った翌年の夏であった。
5年前の事である。

 

あの事件以来、私は余呉湖に淋しい暗いイメージを持ち続けていた。
しかし、目の前の余呉湖は夏の太陽を湖面に受け、静に穏やかに湖水を湛えるごく普通の湖であった。
それでも惹かれるところがあって、それから季節季節に余呉湖を歩くようになった。
そして段々と分かってきたのは、いつ行っても、それが平日であれ、土日祝日であれ、湖辺に人影はなく、まるで貸し切りのように静かに訪れる人を迎えてくれることである。
人と群れることを嫌い、常に自分一人の道を歩こうとする私にとって、それが何よりの魅力だった。
美しい湖は他に沢山見てきたが、私にとって余呉湖が一番心のやすまる湖なのである。

 

余呉湖のこの静けさこそ大古の地核変動によってこの山奥の地にその姿を現わすことになった余呉湖の、いわば湖としてもつ宿世のようなものなのではないか。だとすると、人の群れを嫌う宿世を産まれ持った私が余呉湖に心の安らぎを覚えるのは、どこか響き合うものがあるからだ。そう思えてくるのである。
だから、これからも、自分の足が動くかぎりは、季節季節の折り目に余呉湖へ足を運ぶことになるだろう。
余呉湖はいわば私の癒やしの場なのである。 

余呉の湖~2014 年大寒

2014年01月26日 | 余呉湖を歩く

                余 呉 の 湖 ~ 2 0 1 4 年 大 寒

この季節、余呉湖は雪の中である。

  

レンズをどこに向けてもカメラが写し取る影像はすべてモノトーンである。


                         

景色は凍りついたまま動かない。
まるで壁に懸けた絵のようである。

  

血洗池の南に賤ヶ岳が黒い屏風のようにその山裾をたらす。

  

凍りつくような雪の余呉湖に動くものが二つ…

一つは生け簀の上に、
釣り客である。
ワカサギ釣りであろう。
ここだけはかすかに人の温もりを感じる。

  

もう一つは沖にうかぶ水鳥たち…、
外敵の少ないこの時期、水鳥たちはのびのびと時を憩う。

   

かくして余呉湖は春が来るまでひと眠りである。


  


       水鳥(とり)群れて 
                人こもりおり 
                      雪の余呉


余呉湖を歩く~2013年晩秋

2013年11月25日 | 余呉湖を歩く

           余呉の湖~2013年晩秋

湖北の秋は短い。
湖畔の木々が紅に染まる頃、奥山はもう冠雪しはじめる。

  

多くの渡り鳥が南へと帰った後も、琵琶湖の水鳥が飛来して湖面に
羽を休める。琵琶湖の水鳥にとって、余呉湖はさしずめ休息のため
の手頃な別邸なのであろう。ここは琵琶湖のように鳥同士の厳しい
生存競争はなく、どの鳥もゆったりと時を憩う。

  

賤ヶ岳の山裾が延びる余呉湖南部のこの辺りはかつて「七本槍の池」
とよばれた。
賤ヶ岳の合戦では湖水が血の色に染まったといわれる。

  

この辺りはまた釣りのポイントでもあるようだ。
静かな湖面に終日糸を垂れる釣人がいる。

  

紅葉のシーズンの週末も、湖畔に紅葉狩りをする人の姿はなく、
公園の四阿(あずまや)にも人の気配はない。
でも、この静けさこそ余呉湖の魅力なのである。

  

何処を歩いても湖畔はまるで貸し切りのように静かである。

  

木々はもう冬支度を始めている。

  

川並集落の水辺に立つ石灯籠。
この辺りは余呉湖には珍しく人の生活の匂いがある。

        鐘の音に
           紅葉ちりなむ
                        余呉の湖

  

       


余呉湖を歩く~湖畔の風景

2013年05月26日 | 余呉湖を歩く

                湖 畔 の 風 景

余呉湖は北国街道や北陸自動車道からも遠く外れ、人家も少なく、
これといった商業施設もないため、湖の周辺はきわめて静かで、ワ
カサギやフナなどを目当ての釣り客が訪れるほか、人の姿も四季を
通じて少ない。

  

鏡湖と呼ばれていた昔の余呉湖は、周囲の山々の谿水がわずか流
入するほか流入河川はなく、自然の湧水によって水が保たれる自水
湖であった。

  

昭和40年代に国営の湖北農業水利事業の計画に組み入れられ、
余呉湖への導水路が設けられ、ここに余呉川の水が導水され、ま
た揚水設備によって約48㍍水位の低い琵琶湖からも水が汲み上
げられるようになった。
これによって、今の余呉湖は保水ダムの性質を帯びるようになった
が、それでも、周囲に汚水源のない余呉湖は、昔ほどではないにし
ても、他の湖に較べると湖水は今も清澄である。

   

養蚕が盛んであった頃は桑畑が広がっていた周辺の農地は、
今は稲作水田に変わり、整備された水利設備によって潤沢な
水が常に供給され、

  

湖の周辺は、あたかも水郷の感がある。

  


余呉湖を歩く~2013年5月

2013年05月19日 | 余呉湖を歩く

       余呉の湖~2013年5月


余呉の湖は滋賀県伊香郡余呉村にある。琵琶湖の北端にに聳え
る賤ヶ岳を越えて、約一キロばかり、山を分け入った地点にある。
滋賀の湖といえば、誰もが琵琶湖を連想するから、北の山一つへ
だてた裏側に、ひっそりとして在るこの湖のことを気にとめる人は
少ない…
水上勉の小説「湖の琴」はそんな書出しで始まる。
余呉湖のひっそりとしたたたずまいは、余呉村が長浜市余呉町に
変わった今も、あまり変わっていない。
五月若葉の今の季節、湖は山の緑の底に静かに湖水を湛え、訪
れる人の姿も稀である。

   

   


若狭の貧しい農家から西山集落へ糸ひき工として働きに出た栂
尾さくと松宮宇吉。
二人は互いに惹かれ合い将来を約束する仲となるが、卯吉が兵
役に出ている間に、さくは京都の長唄師匠に強く乞われ、断り切
れずに住み込みの弟子となる。
やがてさくは師匠の子を宿し、西山の工場へと戻るが、お腹が目
立ち始め、それを宇吉から問いつめられ、悩み苦しんだあげく、
行く先も告げずに姿を消す。
必死になってさくを捜し求める宇吉は、山向うにかつて二人で桑
の葉を摘んだ作業小屋があったことを思い出し、山を越える。
その作業小屋で宇吉が目にしたのは、自ら撚った琴糸を長押に
懸け、白い足をぶらりと下げて縊死しているさくの変わりはてた
姿であった。
悲しみに悶えながら、宇吉は、さくの遺骸を琴糸の箱に納め、自
らもその中に入って内から蓋を閉じ、それを余呉湖の淵に浮かべ、
共に湖底へと沈んでいった。

   

  

人の「業」を見つめつづけた作家の水上勉が、その地に残る実話を
もとに、書き上げた悲しくもはかない二つの命の物語である。

   

   

秋ふかい一日の夕刻、この山陰の石近くに降りたって、かげろう
淵の深々とした水面を眺めていると、湖底の遠くから、琴の音が
ひびいてくる…、
そんな文章で、その物語は結ばれている。

  


余呉湖を歩く~2013年元旦

2013年01月07日 | 余呉湖を歩く

    2013年元旦

元旦の余呉湖は、真冬とは思えないほど暖かく、軟らかな陽ざし
が湖面に映える。
普段なら憩いを楽しむ人の姿があちらこちらに散る湖畔も、
さすがに元旦の朝ともなると人の気配すらしない。


   


クリスマス寒波で降り積もった雪が溶けて消え、湖畔の所々に
その痕跡を留めるのみ。


   


湖畔に句碑が建つ。


   


    秋晴れに
      湖の自噴を
          想ひ見る

京都生まれの俳人山口誓子がこの湖畔で詠んだ句である。


湖面には無数の水鳥が羽を休める。
琵琶湖から賤ヶ岳を越えて飛来したものだろうか。


    


そして、
ここにも句碑が…

   鳥共も
      寝入てぬるか
                 余呉の湖
                        (路通)


   


傍らに「去来抄」の一部を刻んだ碑が建てられている。

去来抄の修行の段に、

野明曰く「…細みとはいかなる物にや」。
去来曰く「…細みは便りなき句にあらず、…細みは句意にあり、
是も又俳句をあげて辨ず、として路通の上の句をあげ、
先師、此句細みありと評し玉ひしと也、
とある部分を碑に刻んだものである。

しかし、水鳥が浮かぶ静かな湖面を眺めていれば、


   
    

ひちめんどうな説明など必要なさそうだ。


       


余呉湖を歩く~2012晩秋

2012年11月27日 | 余呉湖を歩く

      2012晩秋

琵琶湖が現在よりも数倍の広がりをもっていた太古の時代
余呉湖は琵琶湖の一部だったと言われる。

  

今は賤ヶ岳が中に割って入り、水位も琵琶湖より49メートル高い。

  

晩秋の今、湖岸は秋の衣を少しづつ脱ぎ、冬の装いへと変わり
つつある。

  

鏡湖と呼ばれた、かつての名残を今も留め、湖面は湖岸の秋を
浮かべる。
鳰か小雁か、水鳥が水面に点々と群れ憩う。

  

賤ヶ岳の山頂に立って見下ろす余呉湖は、ただただ静か。

  

振り向くと、淡江の海が、葛籠尾崎の南へと無限に広がる。