忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

嵯峨野-愛宕念仏寺

2013年05月14日 | 京都嵯峨野

         一千二百羅漢の寺-愛宕念仏寺

大乗仏教の菩薩をまだ知らなかった小乗仏教の時代、とくに部派
仏教の時代には、仏道修行者は、出家をして、厳しい戒律の下で
長い長い修行を続け、預流、一来、不還と、一段、一段、聖者への
位を登りつめ、最後に阿羅漢果を取得してその修行を完成した。
その頃の教えでは、佛は釈迦牟尼ただ一人で、人は佛になること
はできず、阿羅漢が人の到達できる聖者としての最高位とされた。
羅漢さんである。
今も部派仏教の流れを汲む南伝仏教の国々では、多くの出家者が
阿羅漢を目指して日夜修行に励んでいる。

そんな羅漢さんの石像を一千二百体も境内に集めた寺が奥嵯峨
にある。
愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)である。
愛宕街道が試峠とさしかかる手前にその寺は仁王門をかまえる。

   

寺伝では、称徳天皇(孝謙天皇重祚)によって開かれたと伝えられ
るから、寺歴は古い。
現在は天台宗の寺で、今の地に移転したのは大正11年である。

石段の踊り場に設けられた三宝の鐘。
仏、法、僧の音をかなでる。
山の傾斜地をうまく利用して開かれた寺でである。

  

階段を上る苔むした沢山の羅漢さんが迎えてくれる。

   

本堂とふれあい観音堂。

  

同じ顔をした羅漢さんは一体もない。
見ているだけで楽しくなる。

煩悩を去れば人は生まれたままの天真の姿になる。
羅漢さんはそれを教えてくれている。

  

  

多宝塔

  

紀元前後になると、在家信者の間から空と廻向の思想を柱とする
新しい仏教の流れが興り、人は菩薩として自ら佛になれると説き、
上求菩提、下化衆生が説かれるようになった。
その教えを信じる人々は、自らの教えを衆生済度のマハーヤーナ
(大乗)であるとし、それまでの教えを、自らの菩提のみを求めるヒ
ーナヤーナ(小乗)であると批判した。
後に大乗仏教と呼ばれるようになった仏教の流れである。
その流れは、中央アジアを経て中国へ、そして朝鮮半島へと伝え
られ、やがて日本へも伝わった。
いわゆる北伝仏教である。
そうした流れの中で、羅漢さんは菩薩におきかえられ、やがて羅
漢の名前すら人々の記憶から忘れ去られていった。

奈良時代に学ばれていた南都六宗のうち、倶舎、成実は前者の、
残る三論、法相、華厳、律は後者の流れを説く教えである。


嵯峨野-大河内山荘

2013年05月02日 | 京都嵯峨野

         大 河 内 山 荘

丹下左膳の当たり役で一世を風靡した名優大河内傳次郎が、嵯峨
小倉山の南麓に営んだ山荘である。
大河内は主に時代劇で活躍した役者だが、殺陣にはいつも真剣を
帯びたといわれる芸への強いこだわりが、そのままこの山荘の造
営にもいきづいている。
約六千坪の傾斜地に松、楓、桜など四季を彩るさまざまな木や植
物を巧みに配置する作苑の妙は、晴れれば東に四明岳、如意ヶ岳
など東山の峰々や衣笠山、仁和寺の塔をいだく大内山、その南に
広がる古都京都の市街、そして双ヶ岡や京都タワーなども一望し、
西には嵐山と小倉山の谷間を縫って流れる保津峡を見下ろすとい
う、その借景の見事さと相まって、類い希な名苑を形づくっている。

  

仏教に深く帰依した大河内は、昭和6年(34歳時)に、この地に
持仏堂を建て、撮影の合間は、かならずここで座禅を組んだと伝
えられる。

  

それから64歳で亡くなるまでの30年間にわたって、彼はこの山荘
造りに情熱を傾けた。
この間、苑地を次々と拡げ、苑内には、
  
  中  門

   

    大 乗 閣
 
  

    適 水 庵( 茶 室 )

    

などの数寄をこらした建築物を配置した。
これらの建築物は日本建築の粋をこらしたもので、現在はいずれも
国の有形文化財に登録されている。


嵯峨野-化野念仏寺

2013年04月25日 | 京都嵯峨野

       化 野 念 仏 寺

愛宕街道が試峠にかかる手前、小倉山と曼荼羅山の間を、東に
裾を広げる山合の地は、かつて化野(あだしの)と呼ばれる風葬
の地であった。
古代では人が死ねば、その骸は土葬にも荼毘にふさず、そのま
ま野に晒した。
鳥、獣、そして大地の諸々の恵みを糧とすることで生を営んだ人
間が、一たび死を迎えれば、大地に等しく生を授かる他の諸々の
生命と何一つ変わりはなく、その血肉は鳥、獣、そして生きし生け
る他の生命の餌としてこれを供し、その身骨は大地へと戻す。
そこにはこの大地に等しく生を授かる一個の生命としての、古代
の人々の素朴な共存の哲学があった。
そんな風葬の地も、時代が下るにつれ、そこに人が住みつき、愛
宕神社の参詣客のための茶屋が、宿屋が、そして土産物屋が建ち
並び街が出来ていった。
鳥辺野が、蓮台野がそうであったように、この化野も時と共にその
歴史も風景も書き替えられていった。
今、鳥居本の伝統的建造物群保存地区の街並を歩くとき、この目
に映る風景にかつての風葬の地化野のそれを偲ばせる何ものも
ない。
そこに強いて何かを捜し求めれば、化野念仏寺の境内を埋めるお
びただしい数の無縁仏の石塔婆くらいなものである。

   

化野念仏寺は、弘法大師が約1200前にこの鳥居本に五智山如
来寺を開き、野ざらしにされていた遺骸を埋葬し、供養したのが起
こりといわれる。

  

境内に列べられたおびただしい数の石塔は明治中期に化野に野
晒しとなっている石塔を拾い集めたもので、そのほとんどは無縁仏
となった古い墓石である。
その数は八千体を超えるという。

  

寺はその後、法然上人の念仏道場となり、現在に至っている。

   

毎年8月の地蔵盆の夜、無縁仏の一体、一体に蝋燭を灯す千灯
供養が催され、

    

多くの参拝者がこの寺を訪れる。

  

無縁仏に灯される千灯の蝋燭の明りは、闇の中に幻想の世界を
現出し、

   

念仏唱和の中、無縁仏共々に訪れる人を現世の浄土へと誘う。

   

春は花、夏は木々の緑、そして秋は紅葉と、四季折々の自然に包
まれ、整然と列べられた無縁仏の墓石は訪れる人を厳粛な祈りに
誘い込まないではおかない。

  

本堂の阿弥陀仏座像は湛慶作といわれる。

   
   
境内のみず子供養の地蔵堂にはいつも香華が絶えない。
   
  


  誰とてもとまるべきかは
            あだし野の
                        草の葉ごとにすがる白露

                                    (西行法師 山家集)
                    


嵯峨野-嵯峨野点景

2013年04月19日 | 京都嵯峨野

       嵯 峨 野 点 景

何事かにゆき詰まった時、そして心憂い時、ふらっと行ってみたく
なる。それが嵯峨野だ。
中之島公園のベンチにかけて渡月橋や小倉山をぼんやりと眺め
ていると、それまでと別の自分が見えてきたりする。
すると自然に足が動き出す。その足の向くまま動くまま、地図も
磁石もいらない。
時間を忘れて歩けば良い。
そこに新しい出会いが待っている。

  

京都北部の山間に源流をもつ大堰川は亀岡盆地で保津川と名を
変えて保津峡の急流を下り、嵐山まで来ると大堰川の旧名に復す
る。そして、渡月橋を過ぎた辺りで今度は桂川と名を変える。
変わるのは川の名前ばかりではない。
自分だって変われるのだ。

   

竹林を散策する外人の家族。
嵯峨野も外国人の観光客が増えてきている。
それも若い人ばかりでなく老人や子供、そしてベビーカーを引いた
夫婦まで。
これもアベノミクスの影響?

   

人力車も増えた。
どういう訳か乗るのは決まって女性だ。
男どもはどうした?

  

さりげなく道端に建つ趣味の店。

  

嵯峨野には繭人形など趣味の小物を商う店が多い。
入るのはやっばり女性ばかり。

  

辻のお地蔵さん。
数えると八体ある。
地蔵は六体と思い込みの目に驚きと新鮮さが飛び込んでくる。
この辺りはかつての化野なのだ…。

  

嵯峨鳥居本は愛宕神社一の鳥居の門前に開けた町筋である。
奥へ奥へと続くその道は愛宕山へと向かう愛宕神社の参詣道な
のである。

  

化野念仏寺の水子地蔵

  

昔ながらの茅葺屋根の茶店。
愛宕詣りの参詣客で繁盛した茶店、今は観光客で賑わう。

  


春を待つ嵯峨野(3)

2012年02月12日 | 京都嵯峨野


春を待つ嵯峨野(3)
(御室から一条通を歩いて行く嵯峨野)

 御室から一条通を歩いて嵯峨野へ入ろう。
そう考えて嵐電を帷子ノ辻で北野線に乗り換え御室で降りた。
無人の改札を出ると仁和寺は目の前である。
 
 
光孝天皇がその建立を発願し、その遺志を嗣いだ宇多天皇がこれを建てた。
宇多天皇はその後、退位、出家して自らこの寺の住持となった。
以来この寺は御室御所と呼ばれるようになった。
華道の御室流はこの寺が発祥である。
今は真言宗御室派の総本山で、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録されている。
写真上段左は二王門、入ってすぐ左(写真上段右)が御室御所の勅使門である。
境内の奥に建つ金堂(写真下段左)は江戸初期の慶長年間に京都御所の紫宸殿を移築したものだそうだ。
      わたしゃお多福御室の桜
         はなが低くても人が好く
と歌われるように御室の桜は背丈が低く、精々3メートルどまり。
それでも花の季節は人で溢れる。花は八重咲きで花期は五月である。
      仁和寺や足もとよりぞ花の雲
と詠んだ俳人がいるそうだ。
見下ろして楽しむ桜はこの御室桜ぐらいのものであろう。
その御室桜(写真下段右)も今はまだ蕾が堅い。
ちなみに、双ヶ岡の一の丘から見下ろすと、
           
大内山南麓にたたずむ仁和寺はこんな風情を示す。
さて、御室を後にして一条通りを西へ西へと歩く。
一条通りが周山街道と交差する福王子の交差点を過ぎ、鳴滝本町で御室川を跨ぐ。
御室川から西を嵯峨野と考えると、ここから嵯峨野に入ったことになるのだが、辺りはまだ嵯峨野という感じではない。さらに西へ歩き、「一条山越通」の交差点を過ぎ、道が下りにかかった辺りから「ああ嵯峨野に入った」という実感が湧いてくる。
そこからさらに西に少し歩くと印空寺がある。
 
印空上人が仁和寺門跡から土地を賜り建てたといわれる。今は西山浄土宗のお寺である。
灌仏会には参詣客に甘茶がふるまわれる。
写真右に写る大木は多羅葉樹である。
多羅葉樹は葉の裏に硬い物で字を書くと、樹葉に多く含まれるタンニンの成分が化学変化を起し、文字が黒く浮か出る。平安時代にはこの葉で文の遣り取りをしたとか。
「葉書」の語源はここからきているといわれる。
多羅葉樹は京都市内のあちこちに見られるが、これだけの巨木は珍しい。
推定樹齢300年とか。京都市指定の保存樹である。
ちなみに、この辺り一帯は桜の花の名所でもある。
さて、印空寺を過ぎるとやがて視界一杯に大きな池が広がる。
 
広沢池(ひろさわのいけ)である。大覚寺の大沢池(おおさわのいけ)より数段大きい。
背後に見えるのは愛宕山である。前の回に嵯峨野を歩いたとき冠っていた雪の帽子はもう脱いだようだ。
この池、普段は養魚池となっていて、年末には池水を抜いての「池ざらえ」をし、成長した魚を捕獲する。
今も池は干されたままで、船が岡に上がったような不思議な光景である。
池床の一部に水槽が設けられていて、これから池に水を満たし幼魚を放つ準備をしているもののようだ。
広沢池の池端をさらに西へ西へと歩き、足が「あ~あ、くたびれた」と言い出す頃、道路の右手に立つ「嵯峨御所大覚寺門跡」の碑にたどり着く。
 
ここから北に長い参道を歩いた末にやっと迎え入れてくれるのが大覚寺(写真右が大門)である。
真言宗大覚寺派大本山、正しくは旧嵯峨御所大覚寺門跡である。
玄関門を入ると左手の供待が花棚になっており見事な生花が飾られている。
大覚寺は華道「嵯峨御流」の発祥の寺で、今も嵯峨御流華道総司所である。
 
写真右はその中の一つで、木瓜、小手毬、アイリスを生けたもの。
華道に疎いこの私でも思わず足が止まる。
気負いも、てらいもなく、さらりと気品を生けてのける。分かりやすい。
 
 
玄関を入り宸殿へ。蔀戸のある寝殿風で広縁はウグイス張りで歩くとキョツ、キョツと鳴く。
この寺で院政を執った後宇多上皇の皇統が大覚寺統(南朝)で、後深草上皇の持明院統(北朝)と皇統を争った。南北朝時代のことである。
写真右は宸殿の南庭で、「右近の橘、左近の桜」ならぬ「右近の橘、左近の梅」である。門は唐門。
写真左は東の広縁から五大堂、御霊殿、御影堂を写したもの。
宸殿から歩廊と広縁伝いに幾つもの伽藍を渡り歩くだけで、この老いぼれのヨボ足はヨタヨタしてくる。それほど広い。
そこで外に出て大沢池端に出て一休みする。
 
写真左は嵯峨の梅林、つぼみがまだ堅い。写真右は池の東畔から西に寺の伽藍群を撮った。
大覚寺を出てさらに西へ。
                   
この写真は何を撮したかお分かりだろうか。
五山の送り火の一つ、嵯峨鳥居本曼荼羅山の鳥居形大文字の火床である。
8月16日の夜には京都の街の見通しの良いところに立てば五山の送り火が見られる。
東山の如意ヶ嶽に「大文字」が、松ヶ崎の西山、東山に「妙」と「法」が、西賀茂の舟山に「舟形」が、鹿苑寺金閣のすぐ北にある大北山に「左大文字」が、少しずつ時間をずらしながら次々と点灯されていく。
京都の街の風物詩である。
ところが、五山の送り火の一つだけ、京都の市街では見えない火がある。
それがこの奥嵯峨鳥居本の鳥居形の大文字の火である。
「春を待つ嵯峨野」の旅の最後はこの鳥居形の火床まで登って終わりにしたい。
そう思っていたのだが、すでに私のヨボ足が「もうこれ以上歩かない」とストライキを決め込んでいる。
実は他にも見残した嵯峨野がかなりある。
別の機会に譲りたい。


春を待つ嵯峨野(2)

2012年02月06日 | 京都嵯峨野

春を待つ嵯峨野(2)
(嵐電で行く嵯峨野)

強い寒波で日本列島はさながら冷蔵庫の中である。そこへ厳しい節分寒波が追いうちをかけ、各地で記録的な大雪をもたらした。京都北部にも大雪の警報が出た。
もしかすると雪の嵯峨野を見ることが出来るかも知れない。
そう思って節分の朝、私は京都へと向かった。
前回は渡月橋を渡って南から北へと嵯峨野に入ったが、今回は京都市の中心部から西に向かい嵐電に乗って嵯峨へ入る。
嵐電、正しくは京福電気鉄道嵐山本線は四条大宮から出る。
この電車、市電が廃止された京都では路面を走る唯一の電車となった。四条大宮駅を出て電車が三条通へと入ったあたりから路面を走り出す。やがてまた専用軌道に戻るのだが暫くの間は路面電車の風情が楽しめる。
 
太秦駅を出ると電車は大きなお寺の門の前を通過する。太秦広隆寺である。推古天皇11年(603)に秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊に建立した蜂岡寺が起源とされ、京都最古の寺である。数々の国宝を有する古寺であるが、中でも宝冠弥勒菩薩半伽思惟蔵像(国宝)は有名で、広隆寺の名を知らなくても右手を頬にかすかな微笑みを浮かべながら半伽趺座で思惟する魅惑的な弥勒菩薩像を知らない人はないであろう。
太秦の映画村は広隆寺のすぐ近くである。
ところで、枕草子162段に「野は嵯峨野、さらなり…」とあるが、嵯峨野とはどこからどこまでを指すのか。
日本歴史地名体系第27巻「京都市の地名」(平凡社)によると、嵯峨野とは「東は太秦、西は小倉山、北は上嵯峨の山麓、南は大堰川(桂川)を境とする平坦な野」とあり、他の書物も概ね御室川を境にその西の小倉山に至るまでの広い地域を嵯峨野としているようである。
これによると太秦はもう嵯峨野の中と言うことになる。
しかし、一般には太秦や次回に歩く予定の鳴滝あたりをあえて嵯峨野と認識する人は少ないようだ。
嵐電の終点は嵐山駅。渡月橋を渡って北に延びる嵯峨街道を挟んで天竜寺と斜向かいの辺りに着く。
嵐山駅の一つ手前の駅が嵐電嵯峨で、この駅の北方約250メール程のところにJR山陰本線の嵯峨嵐山駅がある。
 
この嵯峨嵐山駅のすぐ手前にトロッコ電車の嵯峨駅がある。厳冬期の1月、2月は営業運転を止めており、駅は閉鎖されている。
この嵯峨嵐山駅から北西へ約20分ほど歩くと五台山清涼寺(嵯峨釈迦堂)へ着く。
 
左が仁王門、右が本堂であるが、本堂の左の木立の背後に雪をいただいた愛宕山の姿が確認できるであろうか。愛宕山は京都では比叡山と並び立つ信仰の山で、その標高は大比叡峰り約76メートル高い。
この清涼寺のあった辺りは、かつて源融(みなもとのとおる)の山荘「棲霞観」のあった所と伝えられる。
愛宕山の山麓のこの地に寛和2年(986年)に宋から帰朝した東大寺の僧、奝然(ちょうねん)が、中国の五台山をなぞらえて日本の五大山の建立を思い立ったが果たすことができないまま没し、その弟子の盛算がその遺志を継いで釈迦堂を建立し、ここに奝然が宋から持ち帰った釈迦如来像を安置し、五大山清涼寺とした。嵯峨野の中心部に壮大な伽藍を構える大寺である。本堂奥の庭園は雪が残り中々の趣がある。
庫裡の西半分は写経堂になっており、そこから見渡す庭は枯山水で庭の隅に据えられた手水石の水は氷が張っていた。
 
清涼寺を出て、宝筐院へと足を運んだが、残念ながら閉門されていて中へは入れなかった。
宝筐院は白河天皇が建立した寺といわれ、美しい枯山水の庭園がある。
 
平日で気象条件が悪いため門を閉ざしている寺は他にもあり、写真の右は壇林寺で、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(壇林皇后)が建立したという有名な尼寺(門跡寺院)であるが、やはり門が閉ざされていて入れなかった。
そこで、前回は時間の都合で寄れなかった滝口寺へ寄ることにした。妓王寺の脇の石段をさらに登るとその奥にひっそりとあるのがその寺である。
 
 
この地は、かつて往生院のあった所で、今は前回立ち寄った妓王寺と、この滝口寺だけがその跡地に残る。
滝口入道は小松大納言平重盛に仕えていた斉藤時頼という滝口の侍で、ある時、建礼門院の雑司女をしていた横笛を見染め、二人は愛し合ったが、これを知った父の茂頼から「…由なき者を思いそめて…」と強く叱責され、時頼は「…浮き世をいとい、眞の道に入りなん…」と19歳で髪を切って嵯峨の往生院で出家した。それを知った横笛は「…我をこそ捨てめ、様をこそ変えけん事の恨めしさよ…」と、出家した時頼に一目会って恨み事の一つも言いたいと尋ねて行ったが時頼は会わなかったという。
横笛もその後髪を下ろし、それを知った時頼こと、滝口入道は、
   そるまでは恨みしかども梓弓まことの道に入るぞうれしき
と詠んで送り、横笛は、 
      そるとても何か恨みん梓弓ひきとどむべき心ならねば
と返歌したという。
平家物語巻十「横笛の事」に出てくる物語である。高山樗牛の作品で名を知る人も多いだろう。
雪を踏みしめてお堂の周りを巡ってみたが、明治に入ってからの再建という割にはもう朽ち始めてきている。堂内の正面には滝口入道と横笛の木造が安置されている。
滝口寺を出てさらに北に歩く。道路の筋交いにある八体の地蔵に出会う。
         
これより西に歩くと、そこはもう鳥居本である。
先ずは化野(あだしの)念仏寺へ寄る。
 
  
徒然草の第七段に「あだしのの露消ゆる時なく、鳥辺野の煙たち去らでみ住みはつるならひならでは…」とあるように、化野(あだしの)は東の鳥辺野、さらに北の蓮台野と併せて平安京の三大風葬の地、つまり死体捨て場であった土地である。
鳥辺野、蓮台野がそうであるように、どの範囲の土地が化野と呼ばれた地であったのかは定かではない。
境内にはこの地で眠っていた無数の石塔や石仏類がが集められ供養されているが、石塔もなければ石仏に加護されることもなく、牛馬六畜と同じようにただ野ざらしとされ、鳥や獣の餌に供された無縁の骸の数はそれこそ浜の砂の数にも喩えられるであろう。
化野念仏寺を出てさらに西へと歩く。
このあたりは「嵯峨鳥居本伝統的建造物保存地区」に指定されていて、古い町並みが良く保存されている。昔ながらの構えの料理茶屋があるかと思うと、色鮮やかな趣味の小物を並べた店などがあり、昔と現在が不思議な調和で解け合う、そこはかとなくゆかしさを覚える町並である。
 
軒並が途切れたところに愛宕神社の一の鳥居がある。
         
愛宕神社への参道の入り口である。愛宕神社は愛宕山の頂にあり、また清滝から高雄まで歩くにしても、かなりの道のりで、ぶらりの旅のついでにちょいと、という訳にはいかない。
そこで今日の旅はここまでとした。


春を待つ嵯峨野(1)

2012年01月29日 | 京都嵯峨野


春を待つ嵯峨野(1)
〈阪急嵐山駅から渡月橋を渡って歩く嵯峨野〉

最近の嵯峨野は若者らにとつて京都観光の人気ポイントの一つであるらしく、春秋の観光シーズンともなれば人また人の渦で身動きさえままならぬ。風景も風情もあったものではない。
そんな訳で嵯峨野を歩くなら冬枯れの今と心に決め、この時期の嵯峨野を3回に分け、3つのルートから入って歩いてみようと考えた。今回はその初回である。
今年一番の寒波が居座り、曇り時々雪、おあいにく様といった悪条件を押して歩き始めた。
やがて渡月橋にさしかかる。
今や嵯峨野と言えば渡月橋、テレビなどで全国にあまねく知れ渡っている。そんな訳で渡月橋はコメントするまでもないのだが、でも、この渡月橋が渡る川、大堰川(おおいがわ)、については余り知らない人が多いではないか。
       
京都の北部美山町あたりに源を発し、大堰川の名で亀岡盆地まで流れ下ってきた川は、ここで保津川と名を変え、保津峡を急流となって流れ下る。保津川下りの名所である。急流がゆったりとした流れに変わる小倉山の麓まで来ると、やがてまた元の大堰川の名に戻り渡月橋の下を流れ下る。その辺りから大堰川はその名を桂川(葛野川)と改め、京都盆地をゆるやかに流れ下り、下鳥羽を過ぎるあたりで鴨川と、さらに下流で宇治川、木津川と合流して淀川となる。
ところで、渡月橋をテレビなどの映像でだけご覧になっている人は橋の下を流れる大堰川が「一の井堰」で中之島を挟んで二つの流れに分かれているため、この川を嵯峨野へと渡るためには渡月小橋と渡月橋の二橋を渡ることは余り知られてないのではないか。
写真の写りが良くないのは、私の腕の精もあろうが、あいにくの天候の悪さも原因の一つなのでご容赦いただきたい。以下のすべての影像について同文。
 
ところで、この大堰川の水は上流の何カ所かで水力発電に利用されているが、渡月橋のすぐ目の前にある「一の井堰」で京都嵐山保勝会が小型の水力発電機を設置して水力発電を行っていることも余り知られていないのではなかろうか。
 
白い色した長方形の箱方のものが発電設備あるが、ご覧の通りの小さな設備なのに、これでも5キロワット程度の電力を供給してくれているのだそうである。
日本が戦後復興期のもっと早くから再生可能な自然エネルギーの重要性に着目し、これまで原発建設に投じられてきた気の遠くなる程のお金や電源三法により原発設置、維持のためにばまいてきた巨費をすべて自然エネルギーの利用に向けた技術や施設に投じようと考える先見の明をもった政治家や官僚が一人でもいれば、福島の原発事故もなかっただろうし、事故で苦しむ人もなかったに違いない。
日本は戦後の荒廃から立ち直る道筋の選択を誤ったという趣旨のことを私は「泥洹の炎」という作品の中で書いた(忍山諦ホームページhttp://www9.plala.or.jp/ka1610zu/)。
ところが、日本は未曾有の大災害を経験した今もまだなおその誤った道を改めようとせず、そのまま歩んで行こうとしているように思える。そうしないと世界との競争に勝てないから、などど一見殊勝なりと勘違いしていまいそうな理由を掲げて。
しかし、問題は、負けるか勝つか、などではない。人類のこれからがどうなるか、ということなのだ…。
そうした視点を持てず、今日、明日、明後日の事ばかりに振り回されて右往左往するばかりで、百年先の社会を見越しての経世を考えようともしないし、百年先を見越してのあるべき方向へと社会の重い舵を切る信念も、どんな逆風にも耐える胆力も、持ち合わさない指導者ばかりが世の中に跋扈している。
そんなことを考えながら渡月橋を渡り終え少し川上へと歩く、
 
その川端から少し北に入ったところにある小さな塚の前で足を止めた。
何の塚かお分かりだろうか?。
小督塚である。小督は平家物語巻六、「小督の事」の下りに出てくる高倉天皇に愛された琴の上手な女性である。建礼門院徳子に使えた女官で、その当時は宮中一の美人であったとか。建礼門院徳子は高倉帝の皇后で清盛の娘である。そのため小督が帝の寵愛を受けるようになったのを清盛が怒り、それを恐れてた小督が帝の許を辞し、人目を忍んでこの塚のあたりに庵を結んで隠れ住んだと言われる。
…峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覚束なくは思えども、駒を早めて行くほどに…、
と、平家物語にある情景、つまり帝の命で小督を捜し廻っていた弾正大弼仲國が小督の弾く想夫恋の琴の音を聞きつけたと伝えられる場所に「琴きゝ橋跡」の碑が建てられている。
仲國が2丁程も離れた庵で小督が奏でる想夫恋の琴の音を、この橋のたもとで聞きつけたとすれば、その頃の嵯峨野は、それこそ峰の嵐か松風の音しかしない静寂幽邃の地であったのだろう。
それにしても御所から駒で嵯峨野へ行くとなれば、御室、宇多野、山越をへて嵯峨野の中心部へと足を踏み入れた筈のものと思われ、広い嵯峨野を当てもなく小督の隠れ家を探してかけずり廻ったあげくに、大堰川の川端まで下ってきて、運良くも小督の琴の音が耳に届いたものよと感心する。
余談になるが、その後、小督は仲國の取りなしで一旦は帝の許に戻るが、やがて清盛にその事が知れ、結局は宮中を追われ剃髪させられて京都東山の清閑寺で尼となった。小督を失った悲しみから帝は病に伏し、やがて亡くなってしまうが、その遺骨は遺言により清閑寺に葬られた。小督は尼として帝の菩提を弔いつつその生涯を閉じたという。清閑寺のことについてはまた別の機会に譲りたい。
小督塚から少し北に歩くと、
 
そこにあるのは臨済宗天龍寺派の本山天龍寺である。
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため夢窓疎石を開山に迎えて創建したこの大刹は誰もがご存じで、いまさら紹介するまでもないであろう。
有名な回遊式庭園の曹源池を経て北門から出れば、そこからは嵯峨の巡りのコースである。
 
これまたテレビなどでお馴染みの竹林である。その竹林を抜けると野宮(ののみや)神社である。伊勢神宮の斎宮に選ばれた皇女が籠もって潔斎する野の宮で、新しい斎宮が選ばれるごとに野の宮が造られる。ここもその一つ。黒木の鳥居が珍しい。
ここまで来れば落柿舎と去来の墓にも立ち寄らない訳にはいかない。
落柿舎は芭蕉十哲の一人である向井去来が隠棲した住まいの跡である。
去来の墓は廻りの立派な墓石と異なり小さな自然石に「去来墓」とだけある。彼が詠んだどの句よりわび、さびがある。去来の人物が偲ばれる。
 
次に足を止めたのは、常寂光寺と二尊院。この二つの名刹は紅葉の名勝である。
  
ここを訪れるのはやはり紅葉の季節である。
そんな訳で先を急ぎ、嵯峨野をさらに奥へ奥へと歩くと、
 
辿りついたのは祇王寺である。
祇王は平家物語の巻一、「妓王の事」の下りに出てくる清盛が寵愛したとされる白拍子である。妓王は清盛にいたく寵愛されていたが、やがて仏御前という白拍子へと清盛の愛が移ったことに無情を感じ、妹の祇女、母の刀自と共に尼となって嵯峨野の奥にあるこの祇王寺に住んだとされる。時に祇王21歳、祇女19歳とか。その後、仏御前を慰めるためと召し出された祇王は、清盛と仏御前の前で、
     仏も昔は凡夫なり われらも遂には仏なり
    いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
と歌い、舞ったといわれる。
やがて、仏御前も感ずるところあって出家し、祇王らと共にここで余生を過ごしたという。17歳であったとか。
建物はその後の再建ではあるが、現在の佇まいからもその当時の侘びた風情は十分に察することが出来る。
           
庵は至って小さく粗末と言える程のものであるが、仏壇には大日如来を本尊として、その両脇に清盛公、祇王、祇女、刀自、仏御前の木像が安置されている。
控えの間の吉野窓は風情がある。
 
 
広くはないが風情のある苔庭の中にひっそりとたたずむこの庵は、尼寺ならではの細やかな心配りが随所にみられ、なじかは知らねどそこはかと心ゆかしさを覚え、去りがたい思いにさせられる寺の一つである。
さて、祇王寺を出て、さらに嵯峨野を奥へ奥へと足を運ぶべきところ、時間がそろそろぬる燗でぐいっと一杯の頃合いになってきた。
故に今日の旅はここで打ち切り、後は次回に…、
という次第に相成った。
頓首敬白。