忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

春の備中国分寺

2017年04月28日 | 心のアルバム
野中の道を歩くうち、前方のなだらかな丘陵の上に突如として姿を現すこの塔は岡山県総社市上林の備中国分寺の五重塔である。





二年前にここを訪れた時は丘陵を巡る木々には朱くうれた柿の実がたくさんついていた。
その柿の木々に今は若葉がみずみずしい。





街中の寺院の境内に建つ五重塔の姿は時々見てきているが、こうして野中の丘陵に建つ塔は初めてで、なぜか心の中の原風景を見るかのようになつかしく感じるのは私だけだろうか。





この備中国分寺、もともとは奈良時代に聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により、諸国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つである。
創建時のものは七重塔であったといわれれる。





現在は真言宗御室派の寺院で、この五重塔は江戸期に再建された高さ34.32メートルのものである。
岡山県内で唯一の五重塔だと聞いている。





この上林は総社市の中心部から約6キロ離れ、現在は田園地帯であるが、奈良時代にここに国分寺が建てられたというからには、かつてこの辺りが国衙に近い地域であったのだろう。
この辺り一帯は大和朝廷に匹敵する勢力を有したといわれる古代吉備王国が存在した地だといわれ、近くには仁徳・応神・履中天皇陵に次ぐ大きさの前方後円墳の「造山古墳」や、これに近い前方後円墳が他にも存在する。






現在この辺り一帯は国の史跡に指定されており、近くには備中国分尼寺跡もあり、他にも諸々の史蹟が多い地域である。





この五重塔は吉備路を代表する景観ともいえる。





吉備路の季節はこれから初夏へと向かう。




満開の桜とカワナ君の思い出

2017年04月18日 | 心のアルバム
春、桜の満開する頃、私はいつもかつての同僚カワナ君の事を思い出す。





司法研修所での前期の研修を終え、実務修習に入るに当たって津地方裁判所を修習地として希望した。
カワナ君は同じ津の修習を希望した6人の中の1人だった。
カワナ君は大学3年の時に司法試験を現役合格したという秀才で年令も6人の中で最も若く、やる気満々の自信家だった。





桜の満開の時季がやってきて、カワナ君は何処で聞きつけたか、大阪天満の造幣局の桜の通り抜けに行かないかと誘った。
「行こう」と言ったのは私ともう1人の同僚。
津の町でレンタカーを借り、3人は不慣れの道を地図を便りに大阪造幣局を目指した。





昼過ぎに目的地に着いた。
桜之宮公園の桜は満開で、日曜日でもあったため造幣局の通りぬけの桜は押すな押すなの人出だった。
カワナ君は新品のカメラで満開の桜を夢中で撮り続けた。
帰路はカワナ君がハンドルを握り、夕刻、津の町に帰った。





レンタカーを返却し、3人は喫茶店で一休みした。
カワナ君はやおらカメラを取り出し撮った写真を現像に廻すためフイルムの巻き戻しにかかった。
途端、
「しまった!」
カワナ君が素っ頓狂な大声を上げた。
フイルムがしっかりカメラに装填出来ていないまま、それに気づかずカラ取りを続けていたのである。
フイルムカメラの時代である。
その時のカワナ君の失望とも、悲しみとも、怒りとも、喩えようない顔を、私は今も忘れることが出来ない。

年も若く、それまで総てが順風満帆で、まだ挫折の経験もなかったはずの彼にとって、それは小さいながら、初めての失敗と挫折の経験ではなかったかろうか…





研修を終えると同期はそれぞれの道へと進んだ。
カワナ君は東京で弁護士への道を選んだ。
大きな法律事務所に入り、カワナ君が大活躍している噂が私の耳にとどいていた。





私が東京地裁へと転勤になったのはそれから約7年の後のことである。
また、カワナ君に会える、と喜んでいた私に、間もなく届いたのはカワナ君の訃報であった。
新婚の妻から届いたその訃報によると、彼は急性肝炎に罹りうまく快復しないまま劇症肝炎へと進み、施す術もなくなく亡くなった旨の、死にいたるまでの病状経過が切々と認められていた。
30歳を前にしての早世であった。

適わぬ事ではあるが、
「もう一度会ったみたい」
桜の時季を迎えると、毎年そう思う。


夏の須磨浦

2016年07月19日 | 心のアルバム
須磨浦は景勝の地として古くから和歌に詠まれ、多くの物語の舞台ともなった。





一の谷の闘いに敗れ、沖に浮かぶ平家の船に助けを求めようと海に入った敦盛を源氏の武将熊谷直実が追い詰め首を打ったのもこの浦である。
寿永3年2月7日(今の暦の3月中頃)のことである。





時に敦盛はまだ14歳の公達、その首なき骸は須磨浦公園内の敦盛塚に葬られ、首はその後源氏方から平家方へと渡され須磨寺にその首塚がある。





片や首を打った熊谷直実は、後に手にかけた首が我が子の小次郎と同い年の敦盛であったことを知り、世の無常を悟って法然の門をたたいて仏門に入り、京都乙訓の粟生(あお)の地に光明寺を建てた。
寺は西山浄土宗の本山として日々多くの参拝客が訪れる。





一の谷の敦盛の悲劇は明治になって「青葉の笛」と題する文部省唱となり、今に伝えられている。
青葉の笛は敦盛愛用の笛で、直実に首を打たれたとき腰に差していたと伝えられ、須磨寺に納められている。





この季節、須磨浦はたくさんの老若が海水浴を楽しんでいる。


外はもう春

2016年03月23日 | 心のアルバム
今日は彼岸の明け、
寒さ暑さも彼岸まで、
とはよく言ったものだ。
野も山もすっかり春めいてきた。
一時に較べ太陽の陽ざしも高く明るく感じる。



                               
(写真は春の奈良山の辺)


都会で生活していると判らないが、季節には寒暖の差だけでなく、その季節独特の自然の彩りと香りがある。
生き物は寒暖ばかりでなく、こうした季節、季節の変化を感知してその生体の生理を調節するのである。
人もまた同じで、寒さで殻にこもっていた心も身体も、大気の緩みで解き放たれ、自然を求めて足も自ずと外へと向かおうとする。
自然が甦る春は人にとっても甦りの季節なのだ。



                               
(写真は春の大津御陵町)


残念なことに、最近は大気の汚染が進み、春は晴れていてもどんよりと花曇りの空になることが多く、黄砂が飛来したりもする。
でも、何日かに一度、神が恵みを垂れたかのように大気がすっきりと澄み、澄んだ青空が広がる日が巡ってくる。



                                 
(写真は春の余呉湖)


そんな日は、忙中閑で、思い切って外に飛び出して未だ見ぬ風土を訪ね歩き、その土地の歴史や人情にも触れて心のアルバムをもう一枚、二枚と増やしてみては如何だろうか。

桶屋のヨシミくん

2016年02月29日 | 心のアルバム
太平洋戦争が終わってしばらくは食糧難の時代が続いた。
そんな最中に私は小学校へ入学した。
母親に手をひかれ2キロほど先にある小学校の校門をくぐった。
校舎の入口の横に二宮尊徳の大きな銅像が立っていた。
村の小学校は教室が足りず新しい一年生には近くの製茶工場の一部が仮の教室に宛てられていた。
隣の席にはクリクリ頭の小柄な男の子が座っていた。
先生は、

「大阪の町から来たヨシミくんです」
と、彼のことをみんなに紹介した。

彼は戦災を逃れて町から家族ぐるみで疎開してきた桶屋の息子だった。
そのクリクリ頭から石鹸の香がぷんぷん匂ってきた。





ヨシミくんは絵が好きだった。
休みの時間も席を離れず絵を描いていた。
ちびた鉛筆の芯を舐め舐めしながら電車の絵を描いて見せてくれた。
それは絵本の絵のように見事だった。





間もなく朝鮮戦争が始まった。
教室の窓からもうもうと砂煙を巻きあげながら部隊移動する駐留米軍の車両の隊列が見えた。
みんなは初めて目にする大きな水陸両用車両に度肝を抜かれていた。
みんなが固唾を呑んで見とれる中でヨシミくんはそれを見事な絵に書きあげていた。

やがて製茶工場組はそろって遠い隣町の中学校へ進学した。
サンフランシスコ講和条約が発効し日本は占領から解放された。
全校生徒は日の丸が高く掲げられた校庭で校長の祝辞を聞いた。
しかし、その列の中にヨシミくんの姿はなかった。
ヨシミくん家族は疎開先から故郷の町へと帰ったいったのである。






今も時々ヨシミくんを思い出す。

彼は今どこで、どんな暮らしをしているだろうか、
今でも絵を描いているだろうか、
それとも父の桶職を嗣いで毎日桶を作っているのだろうか、
と…

そんな時、私の瞼に浮かぶのは製茶工場の教室でちびた鉛筆の芯を舐めながら絵を描く姿ばかりで、
私と同じだけ年を取って老いている筈の今の姿がどうしても浮んでこないのである。

心のアルバム-港町神戸

2016年01月03日 | 心のアルバム
修学旅行の最終日は別府から大阪天保山へ向かう瀬戸内航路の船の中であった。
何処の港への寄港だったのか夢の中で銅鑼の音を何度か聞いたような気がする。
五日間の観光バスの旅で綿のように疲れた身体は瀬戸内の海の景色も何処へやら船が別府港の岸壁を離れるとすぐ眠りに吸い込まれていった。





空腹を感じて目が醒めたときはもう夜が明け染めてきていた。
船は最後の寄港地である神戸の港に接岸しようとしていた。
慌ててデッキに駆け上がると目の前に神戸港の岸壁と六甲のパノラマが広がっていた。
眠りから覚めきれない目に、それはまるで夢の中の景色のように映った。





初めて目にする港町神戸であった。
三重の田舎の鈴鹿山脈の麓で育った私にはそれまで海とは縁が薄かった。
その時見た神戸の港と町が強く私の心に残った。

昭和28年の秋であった。





どうしたご縁か、大学を終えて就職したのはその神戸の会社であった。
卒業式を待たずに入社式を終え、仮の宿泊所にあてられた西灘の旅館に案内された。
明日からは寮で缶詰になる身が受ける最初で最後の会社からのおもてなしだった。





六甲摩耶の山裾が港を包み込むように広がる神戸の町は、故郷にも東京にもない独特の文化の香りがし、関西の町でありながら関西の他のどの町にもない異国情緒が至る所に漂っていた。
同時入社の同僚と夜な夜な神戸の町を彷徨い歩いた。
何もかもが珍しかった。

そんな神戸の町にも東京オリンピックで加速をつけた景気が一挙にはじけ、高度成長に入って初めてという不況が見舞っていた。





そのあおりを受け、まだ入社して半年も経たないというのに、会社は呆気なく倒産した。
何人かの同僚と共に近くに六畳一間のアパートを借り、就職探の日々が続いた。
夜になるとメリケン波止場へ行った。
そうでもしないと鬱した気分が晴れなかった。
別府へ向かう最終便が蛍の光に送られて岸壁を離れていった。
淋しくてポートタワーの灯りが虚ろに見えた。

昭和41年の初夏であった。





神戸を離れていつしか時は流れた。

平成7年1月17日早朝、阪神淡路大震災が神戸の町を襲った。
激震と火災により神戸の町は壊滅的ともいうべき被害を受けた。
神戸の町を包む炎とたち上る煙は私が住む町の磯辺からも遠望できた。





そして今、神戸の町に立つと、昔見たなつかしい神戸の町の姿はどこにもなく、冷たいコンクリートのビル群が天に天にと高さを競っている。

夜な夜な通ったメリケン波止場も震災で岸壁が崩れて今はなく、震災記念パークの一隅に崩れ落ちた岸壁の一部が崩れたままの姿で展示されている。
あのポトタワーも公園の中にまるで借り物の飾りのように淋しくたたずんでいる。

形ある物はすべて遷ろう…

そんな教えをあらためて言い聞かされている思いである。

お台場の大変貌にびっくり

2015年12月12日 | 心のアルバム
東京のベイエリアの開発が進み、新しい観光名所が幾つも誕生していることはかねて聞き及んでいた。
そのベイエリアに7番目の副都心が生まれ、お台場もその一部となって生まれ変わり、お台場と都心とを「ゆりかもめ」なる新交通システムが結んでいる。
そう聞いて興味が湧いた。





久しぶりに東京へ出た機会に新橋駅からその「ゆりかもめ」なる乗り物に乗って見た。
新交通システムと言うから、どんなに珍しいのものかと期待していたら、何のことはない、モノレールを海の上に走らせただけではないか。
でもこのモノレール、海の上でクルリと一回りしてみせる。
なるほど、それが新しいのか、などと思っているうちにお台場の駅に着いた。

降りてみてアッと驚いた。





これがあのお台場か…、
そう思ったきり、その先の言葉が浮かんでこなかった。
目の前に広がっているのは都心と同じ高層ビル街なのである。





徳川幕府が黒船に備えて築いた砲台島を私が初めて見たのは上京して間もなくの昭和36年のことある。
砲台としての本来の役割を果たすこともないまま時代に置き去りにされたその島は、私が訪れた浜離宮庭園の沖に、雑草の生い繁るまま虚しく浮かんいた。

その時のお台場の寂れた姿と目の前の高層ビルが建ち並ぶ景色とがどうしても重ならなかった。





南太平洋では地球温暖化で海水位が上昇し、海に沈んでなくなってしまうと真剣に案じられている島がある。
その温暖化対策もままならないこんな時代に海の中に、それも俄造り砲台跡にこんな高層ビルを建てて大丈夫なのか、東京がもし大震災や大津波に見舞われた時、この新しい街は持ち堪えられるのか、海の中でクルリと一回りしてみせる新交通システムはそうした緊急事態で被災者を能率的にかつ安全に避難させる役割を果せるのか。
そんな心配がつい先だってしまうのは私が昔人間だからであろうか。





この新しい夢の島は先端の土木建築技術の粋を尽くして造られたものであろうから、安全面での手抜かりはないはずである。
そう思いつつも、
人間の造り出す物に100%の安全はない。
どんな文明の所産もその便利さ有用さの裏にそれと同じだけの危険やマイナス効果が隠されている。
それが我々昔人間が過去に経験した悲しい現実の数々から学んだ知恵なのである。

目の前に予想もしなかった夢の景色を見せられながら、何か見てはならない悪夢を見てしまったかのような寝覚めの悪い思いをいだきながらお台場を後にした。

入江泰吉記念奈良写真美術館

2015年10月10日 | 心のアルバム
私が奈良写真美術館を知ったのは平成になって間もなくである。
休日毎に奈良歩きをしていたある日、新薬師寺の隣に写真美術館なる新しい施設が出来ているのを知り入ってみた。
そこには入江泰吉という写真家の遺作の写真が展示されていた。

それから間もなくしてその施設は「入江泰吉記念奈良写真美術館」と名前が改められたことでも分かるように、彼が残した8万点もの遺作の写真を展示するために奈良市が創設した写真美術館である。





そこで私は初めて入江泰吉という写真家を知ったのである。
恥ずかしいことに、それまで明治生まれのこの高名な写真家を私は知らなかったのである。

カメラは若い頃から持ち歩いている。
出歩くときは大抵カバンやリュックの中にカメラを潜ませた。
地図や磁石と同じようにそれは歩くときの必需品の一つであった。
だから写真を撮るといっても、私のそれは展示したり人に見せるためのものではなく、その日の「旅の証し」を残すためのショットでしかなかった。





展示されていた写真の風景や被写体のほとんどは私がかつて目で見たり写真に撮ったりしたなつかしいものだった。
でも、それは私が肉眼が捉えたり、写真で撮ったそれとは別世界の影像のように思えた。
「写真はこのようにして撮るのだ」
ということをそれらの作品は教えてくれているように思えた。

それから、妻の介護に疲れたり、仕事で心を痛めたりすると、休みの日に高畑へと足を運びハイビジョンコーナーで入江泰吉作品を見て心を癒やすようになった。





機材やテクニックに頼っていては思う写真は撮れない。
写真は心で撮るものだ。
そんなことを入江泰吉は教えくれているような気がする。
もうカメラの重さが身に応える年になってきたが、今も出歩くときはカメラが私の必需品である。


心のアルバム-勝鬨橋(かちどきばし)

2015年06月05日 | 心のアルバム
勝鬨橋は東京の築地と月島を結ぶ橋である。
その勝鬨橋を海から眺めてみたい。
ずっとそう思ってきた。
そこで、この際、と思い切って吾妻橋から船に乗った。




三重県の田舎で生まれ育った私が初めて上京したのは昭和35年の春である。
東京という街の何もかもが珍しかった。
まだ田舎にいる頃のこと、何処で耳にしたものか、
「東京には勝鬨橋という珍しい橋がある」
という耳知識を、この目で確かめたい、と上京して間もなくの頃、有楽町駅から今の晴海通りを歩いて勝鬨橋を見に行った。
橋の上をチンチン電車が行き来していた。
橋を渡る時の都電の独特の反響音と橋のかすかな揺れとを今も身体が忘えている。




都電が通るそんな大きな橋の中央部が、一日に何回も八の字に開き、その下を船が行き来する。
東京というのはなんと途方もない街だろう。
世間知らずの田舎者はそれにすっかり感心してしまった。
その時以来、勝鬨橋を
「東京のシンボル」
と一人決めして今日まで生きてきた。




その勝鬨橋が完成をみたのは昭和15年6月と知ったのはごく最近のことである。
だとすると私の歳とさほど違いがないではないか。
しかもこの橋、昭和45年11月29日の開閉を最後に現在は開かずの橋になっているそうだ。




海から眺めてみたいと思うようになったのは橋の架け替えを求める声もあると耳にしたからである。
もしかすると見納めになるかも知れない橋の姿を海から見届けておきたかったから、というと少しオーバーになるだろうか。
老いの我が身と重ねあわせたくなるような愛しさを覚えてしまうのだ。



それに、ずっと隣人のようにして橋に寄り添ってきた築地市場も近々移転するそうだ。

心のアルバム-夜都伎神社

2015年05月13日 | 心のアルバム
奈良の山の辺の道を歩くようになってもう40年近くたつ。
その頃と較べると、案内の標識なども増え、随分と歩きやすくなた。




季節、季節で趣が変わる大和青垣の自然とまほろばの風土はいつ歩いても心を豊かにしてくれる。

でも歩きながら不思議に思うことがある。
それは他の場所より、一層心の安らぎを覚える場所が何カ所かある、ということである。
そこが近づいてくると歩きつかれた足が軽くなり、そこで休憩しているとつい時間を忘れてしまう。




夜都伎神社もそんな場所の一つである。



天理市の乙木町にある古い神社で、甘南備の杜も決して大きくない。
どうしてそんなに親しみを感じるのか、自分でもよく分からない。
そこには自分の意識や記憶を超えた何かがあるのかも知れない。
そう思ったりもする。



この神社、歴史的に春日神社との縁が深かったようで、明治維新までは杜の池に生ずる蓮を神饌として春日大社にお供えし、春日大社から60年毎に若宮の社殿と鳥居とを下賜されるならいになっていたといわれる。



拝殿の奥にある春日造檜皮葺の四殿並びの本殿は神社建築としてもめずらしいものなのだそうだ。



かくして私の山の辺の道歩きは、いつも、何カ所かに点在するそんな癒やしの場所を線としてつないで歩く心旅となるのである。