忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

洛北大原-古知谷阿弥陀寺(2)

2013年03月25日 | 洛北大原

    古 知 谷 阿 弥 陀 寺 ( 2 )

阿弥陀寺は弾誓上人が慶長14年(1609年)に開いた寺である。

宋朝様式の山門をぬけると、


  
 

その先に長い参道が延びる。

 
  


焼杉山の山肌を切り開いて造られた参道は、谿を右に左に幾重に
も折れ、勾配も次第に険しくなる。
歩き疲れて息が上がりそうになる頃、やっと前方に苔むした石垣と
伽藍らしきものが姿を見せる。


  

 
ここで一息つけ、
と言わんばかりに実相の滝が迎えてくれる。


  


その向こうに広がるのはまさに仙境、ともいうべき世界である。


  


上がった息をとり鎮め石段を登る。


  

階段脇に樹齢800年を越えるといわれる古知谷カエデ。
京都市指定の天然記念物の老樹である。
古知谷はタカオカエデの名所である。


  


苔の石垣の上に本堂がある。
堂内の正面には弾誓上人自ら刻み、自らの髪を植毛した弾誓仏
ともいうべき像が安置され、奥の石廟には上人のミイラ像が祀ら
れている。
上人は開基4年後の慶長18年に食を断って自ら石窟に入り、即身
仏としとなって入定したと伝えられる。


  
 

浄土宗の寺であるが、


   


念仏道場というよりは、
仏凡一如の神秘の聖域といった感をいだかせる寺である。


  
 


洛北大原-古知谷阿弥陀寺(1)

2013年03月07日 | 洛北大原

  古 知 谷 阿 弥 陀 寺 (1)


阿弥陀寺は大原の北のはずれ、左京区大原古知平町にある。
大原のバス停から北へかなりの道のりである。
その良さは歩いてみれば自ずと分かる。
和田橋から旧若狭街道を北へ、


   


途中越と呼ばれたその街道は、別名鯖街道。
両側から山が迫る、谷あいの道である。


  


ここには山里の自然がほとんど手つかずに残されている。


  


右折地区と古知平地区を結ぶあたり、かつては火打石が採れた
ことから、火打石と呼ばれていた。


  


道が古知平に入ると民家がかなり多くなる。
かつて鯖街道を行き交った商人たちの息つぎの里として賑わった
往時の名残を留めている。


  
 

その集落を過ぎたあたり、阿弥陀寺の山門がやっとその姿を現す。


  


浄土宗(知恩院)の寺院である。


   


洛北大原-寂光院(2)

2013年02月26日 | 洛北大原

   寂 光 院 (2)

   祇園精舎の鐘の声
   諸行無常の響きあり
   沙羅双樹の花の色
   盛者必衰の理をあらわす
   奢れる者久しからず
   たゞ春の夜の夢の如し
                         (平家物語)

落飾した建禮門院徳子が、寂光院へ入ったのは文治元年(1185
年)9月のことである。


  
 

徳子は院の境内の片隅に方丈の草庵を結び、そこで壇ノ浦に散
った一門の将士の菩提を弔うための念仏の日々で残りの生涯を
終えたと伝えられる。


  


寂光院の境内の傍らにその草庵の跡が遺る。

 
  


徳子に会うため後白河法皇が寂光院へ行幸したのは翌文治2年
のことである。
法皇の輿は大原への近道である若狭路を避け、法住寺殿を出る
と、まず鞍馬へと向かった。
そして山越えで薬王坂を下り、静原から江文峠を越えて大原へ入
った。


  


法皇の輿が若狭路を避けたのは、当時、頼朝が大原の喉首で
ある川尻橋の袂、花尻の森のあたりに建礼門院を監視するため
の兵を常駐させていたからである。


  


奇しくもその場所は、平治元年、平家に破れた源義朝ら一行が
落ち延びる途中、馬睡りした13歳の頼朝が落馬し、父義朝とは
ぐれ、捕らえられた因縁の場所であった。

草庵で墨染の衣を纏う徳子と再会した法皇は、自らが猶子として
入内させ、高倉天皇の中宮として安徳天皇を産んで国母とあがめ
られ、七殿五舎のあまたの黒髪にかしづかれていた、かつての徳
子の、あまりにも変り果てた墨染めの姿に、濡れ止まぬ袖の涙を
絞ったと伝えられる。


壇ノ浦で入水して果てた平資盛のかつての恋人、建礼門院右京
大夫も旧主である建礼門院に逢うため、寂光院を尋ねている。


  

 
見違えるばかりのその姿を見て、右京大夫は、
 「むせぶ涙におぼほれて、すべて言も続けられず…」
と涙し、和歌を詠んだ。

 今や昔 昔や夢とまよはれて
       いかに思へどうつつとぞなき
              (建礼門院右京大夫集)
 

平家物語にある徳子の和歌

 いざさらば涙くらべんほととぎす
        われも憂き世に音をのみぞ鳴く

徳子が寂光院の草庵でその生涯を閉じたのは、建久2年(1191
年)2月中旬であると平家物語は伝える。
しかし、その没年を健保元年(1213年)とする書もある。

その遺骨は建礼門院徳子大原西稜に眠る。


  


稜は寂光院の伽藍を見下ろす焼杉山の麓である。


  


建礼門院と行を共にした阿波内侍、大納言佐局ら5名の侍女の五輪塔は、


   

 
渓流一つを隔てた翠黛山の山懐に、


  


建礼門院徳子稜と谿一つを隔て、向かい合うようにして
祀られている。


洛北大原-寂光院(1)

2013年02月21日 | 洛北大原

         寂光院(1)


高野川の西、翠黛山の麓に広がる草生の里は、雪深い大原の中
でも、とりわけ雪深い。
寂光院へと向かう草生川ぞいの道は寂光院道と呼ばれる。


  


道筋の家々は屋根も、その構えも如何にも雪の里にふさわしい風
情がある。


  


建礼門院(平徳子)が出家した寺として知られる寂光院は、草生の
里の西の奥、翠黛山と焼杉山の山懐に抱かれるようにして建つ。


  


山号は精香山、寺号は玉泉寺、天台宗に属する尼寺である。
寺伝によると、創建は推古天皇2年(594年)聖、徳太子が父で
ある用明天皇の菩提弔うために開いたとされる。

歴史を感じさせる石段を登りつめた先に山門がある。


  


石段の左手は松智鳳殿(宝物殿)、左手には孤雲(茶室)


  


 山門を抜けると正面に本堂がある。
 旧本堂は平成12年に放火により消失し、本尊の木造地蔵菩薩
立像も同時に罹災した。
現在の本堂は平成17に再建された。
中に祀られる本尊の地蔵菩薩も旧本尊と同じ姿に復元模刻され
たものである。


  


境内の「汀の池」は、平家物語の潅頂の巻の後白河法皇が出家
し尼となった建礼門院を訪ねる下りで、
 「…池の水草、浪に漂ひ、錦を曝すかとあやまたる…」
と描写された池で、中嶋の松(姫小松)も火災により枯死したが、
その一部がそのまま保存されている。

 
  


鐘楼の鐘は名づけて「諸行無常の鐘」


  


松智鳳殿から見上げる雪の境内


  


洛北大原-三 千 院 (3)

2013年02月06日 | 洛北大原

      三 千 院 (3)~往生極楽院阿弥陀堂

往生極楽院は、梶井門跡が洛内から大原の現在の地に移ってくる
前からこの地にあった常行三昧堂で、久安2年(1148)の創建と
考えられている(寺伝では寛和2年(986)創建)。
梶井門跡が、現在の地に移り、三千院と呼ばれるようになって、
その境内に取り込まれ、三千院の一坊として往生極楽院阿弥陀
堂と呼ばれるようになった。

  

静かな苔の庭に建つ阿弥陀堂は、舟底天井と呼ばれる独特の造
作が施された阿弥陀堂で、本尊は阿弥陀三尊(座像)である。
金色に輝く阿弥陀仏座像の両脇に小ぶりの観音菩薩と勢至菩薩
が大和座りし、訪れる人をやさしく迎えてくれる。

恋の悩みか、縁切りか、この阿弥陀堂の座り仏の前に佇んで手を
合わせる若い女性の姿が絶えない。

  
  

       心しる
          僧と語らん
                冬木立

                                 (卜千)


洛北大原-三 千 院 (2)

2013年02月04日 | 洛北大原

   
   三 千 院 (2)

寺の開基は天台宗の開祖、最澄である。
延暦寺は最澄が比叡山に一乗止観院を建てたのが起こりだとさ
れるが、三千院も最澄が比叡山に建てた円融坊が起こりで、天台
宗の門跡寺院の中で最も古い歴史をもつ。
堀河天皇の子、最雲法親王が入って門跡寺院となった。

御殿門
正門は勅使門となる朱雀門だが、通常はこの門が使われる。

   

門を入り左手の階段を上ると、拝観受付の庫裏がある。 

    

書院、客殿、寝殿と縁続きに巡る。
縁先から眺める苔庭

   

門跡寺院なので本堂は寝殿と呼ばれる。
法会が行われる本堂であるが、参拝者の写経もここで行われる。
境内から眺めた寝殿

   

苔の庭に建つ往生極楽院
この時期、境内は静かで、冬木立の中、苔の緑が目に鮮やかで
ある。

   

境内の一段高い所に金色不動堂

    

さらに一段高く観音堂

   

 


洛北大原-三 千 院 (1)

2013年01月27日 | 洛北大原

    三 千 院 (1)

  京都 大原 三千院
    恋に疲れた 女がひとり
      結城に塩瀬の 素描の帯が
        池の水面に 揺れていた
     京都 大原 三千院
           恋に疲れた 女がひとり

永六輔の詩にいずみたくが曲をつけ、「女ひとり」の曲名で、
デューク・エイセスが歌い、大ヒットしたのは昭和41年のこと
である。
以来、大原の三千院は世間の脚光をあびるようになった。

もともと大原は、京洛を北へ遠く外れ、わずかばかりの土地の
農家、山賤らのほかは、世捨人らが、ひっそりと隠れ住む、鄙
の里であった。

   

いつの頃からか比叡山を下った天台僧侶が、高野川の東、
呂川と律川が流れる魚山の裾に草庵を結び、律川の瀧で
天台声明の技を磨くようになった。

   

来迎院、勝林院、実光院など、今も幾つかの天台寺院が声明を
伝え、大原は「声明の里」と呼ばれている。

三千院は、それら諸寺の要のような役割を担った門跡寺院(梶
井門跡)であるが、坂本、洛中などを転々とし、ここ大原の地に
移ったのは明治になってからである。

参道には残り雪で造った雪だるまが立ち、その後には
「女ひとり」の歌碑が建つ。

   

呂川ぞいには土産物、工芸品などを並べる店が並び、思わず足を
止めたくなる。

   

大原は冬枯れのこの時期、年中で最も人の姿が少ない。

   

石段を登ると、その先に三千院の御殿門が姿を現す。

   

城郭のように厳めしい石積は一面苔が張り付き、その上を蔦がはう。

   

門前には飲食店、土産物店が軒を並べる。

   

その先の未明橋の下は、

   

律川が流れる。

   

呂と律とは、あいまって声明の旋法。

律川の流れを遡ると一の瀧(音無の瀧)がある。

   

かつてある上人が、この瀧で声明の修行をしていたところ、
声明と瀧音とが相和し、瀧の音が消えたという。
以来、一の瀧を「音無の瀧」と呼ぶようになったという。