忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

今も活躍する大阪の渡船(4)-甚平衛渡船場

2018年05月07日 | 旅ぶらり
甚兵衛渡船は尻無川を渡す渡船である。
尻無川は大川が大正橋手前で尻無川と木津川の二つに分岐して出来た流れの一つであり、木津川より西をながれ下って大阪湾に注いでいる。





甚兵衛渡船はその尻無川の大正区泉尾七丁目13-32と対岸の港区福崎一丁目3-50とを渡している。





周囲の環境は、集合住宅や工場、砂利置場などの商業施設が密集する商業地域である。





通勤や買い物など、日常的に渡船を利用する客がほとんどで、観光客はほとんど見かけない。
そのためかダイヤも日中はほぼ15分おきに出航している。



今も活躍する大阪の渡船(1)~天保山渡船

2018年02月20日 | 旅ぶらり
安治川の河口の港区三丁目の天保山と対岸の此花区桜島三丁目とを結ぶ阪市営の渡船である。






安治川は旧淀川の分流の一つ。
天保山は河村瑞賢 (ずいけん) が貞享4 (1687) 年に安治川の河口近くにあった九条島を開削してできたものである。






対岸の此花区桜島はUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)が2001年に開業し、新たな観光エリアとなっている。






観光地の間を結ぶ渡船であるため、外国人観光客の乗り合わせも少なくない。
 




そのため、ダイヤもかなり充実し、朝は6時代から夕方は7時代まで、30分毎に出ている。





この渡船は大阪市の繁栄を企図して大阪市が明治38年に開いたもので、昭和15年に経営は土木部(現建設局)に移されて現在に至っている。



長岡天満宮

2017年05月17日 | 旅ぶらり
乙訓地方という呼び方は最近あまり耳にしない。
ほぼ現在の長岡京市、向日市、大山崎町の2市1町を含む地域のかつての呼び名である。
その「オトクニ」という呼び名の由来は日本書紀や古事記に記されている。





そこは桓武天皇の延暦3年(784年)に平城京から遷都し、長岡京が開かれた地である。





この地に都が置かれたのはわずか10年間で、延暦13年(794年)に都はさらに平安京へと遷され、ここは廃都の地となった。





その乙訓の西南、天王山の西裾に鎮座するのが長岡天満宮である。
土地では「天神さん」と呼ばれ親しまれている。





そこはかつて菅原道真の所領だった土地だと言われ、道真が藤原時平の讒言で筑紫の太宰府へと左遷され、同地で没した後、道真に付き従った中小路宗則が道真自作の像と念持仏とを持ち帰り、ここに祠を建てて祀ったのが起こりだと伝えられている。
全国で10441社あるといわれる天満宮の一つで、太宰府天満宮、北野天満宮ほどの知名度はないが、かつての所領の地に鎮座するというその由縁からか、お参りする人は日々絶えることがない。                                 
  



かつは10万余坪あったといわれる社地は現在2万坪余となっているが、境内は竹林、梅林、アジサイ園などがあり、桜、蓮、アヤメ、カキツバタなど季節、季節の花が咲き、四季折々に散策を楽しむことができる。





八条ヶ池の池塘に建てられた一の鳥居をくぐり、霧島ツツジの植え込みの中堤をぬけ、二の鳥居の奥の階段を昇ると正面に拝殿そして本殿がある。
本殿は昭和16年(1941年)に京都の平安神宮の社殿を移築したものといわれる。
その境内には7社の末社と笠松地蔵が祀られている。





乙訓他方は昔から良質の筍の産地として知られており、八条ヶ池池畔の料亭では季節の筍料理をいただくことができる。

須磨の山辺に菜の花の丘

2017年03月25日 | 旅ぶらり
ここは神戸市須磨区の山の辺、緑台の神戸総合運動公園の一画、コスモスの丘である。





春のこの時期、斜面一面に菜の花が咲き、コスモスの丘は菜の花の丘へと様変わりする。





辺りに菜の花のやさしい香りがただよう。





花に群れるのは「蝶」ではなく無数の「野鳥」である。
蝶にはまだ少し季節が早すぎるようだ。





季節は旧暦二月中気の春分を過ぎ、七十二候でいえば春分の初候「雀始めて巣くう」の時季である。
野鳥が野に群れ始める季節である。





この辺りは標高が100メートルを超え、高みから見下ろすと遙か遠くに須磨の海や明石海峡大橋を望むことができる。





瀬戸の汐待ち港-鞆の浦

2017年03月14日 | 旅ぶらり
広島県福山市の沼隈半島の南端に位置する鞆地区は今は静かな漁港であるが、かつては「鞆の津」と呼ばれ、瀬戸内を行き来する船の潮待ちの港として栄えた歴史がある。





この鞆の浦の沖は満潮時に紀伊水道や豊後水道から瀬戸内海に流がれ込んだ潮流がぶつかり合い、複雑な潮目をなす地点で、引き潮と共に潮流が逆転する。
そのため、瀬戸を行き来する船は、すべてここで停泊して潮待ちをするのが常であった。





このため瀬戸内航路が盛んになり始めた平安時代からここには港町が形成された。
沖には仙酔島を始め躑躅島、大可島、皇后島、弁天島、玉津島、津軽島など多くの島々があってそれらが美しい景観を織りなしている。





景観の美しさは萬葉の和歌にも詠まれ、今も残る古い街並みと合わせ観光の名所として今も訪れる人が絶えない。





江戸時代に整備された常夜燈、雁木、波止場、焚場、船番所などの港湾施設の全てが今もそのまま残るのは全国でもここだけといわれ、江戸時代の絵地図がそのまま使えるといわれるほど街並みは昔と変わっていない。





鞆の浦周辺の自然は1925年に「鞆公園」に、そして1934年3月に日本最初の国立公園「瀬戸内海国立公園」に指定された。
しかし、古い街並みだけに道路は狭く、行き交う車のすれ違いにも難渋するほどで、車の渋滞は日常化している。





この交通渋滞解消のため鞆港の沖を約2ヘクタール埋め立て、港内を横断する約180メートルの橋の建設計画が持ち上がり、広島県知事から国へ埋め立て工事に必要な港湾埋め立ての認可申請がなされたのは2008年6月のことであった。





しかし、歴史的な景観を破戒するとして地元から強い反対が湧き起こり、問題は訴訟に持ち込まれた。
2009年10月一審の広島地裁は「鞆の浦の景観は住民の利益だけではなく瀬戸内海の美観を構成する文化的、歴史的価値をもつ国民の財産」だとして住民勝訴、知事側敗訴の判決を下した。
訴訟は二審に持ち込まれて争いが継続したが、広島高裁は2015年に双方へ訴訟終結の最終案を示し、2016年、それに従い知事が工事を断念するとともに住民が訴訟を取り下げて訴訟は終結した。
しかし、交通渋滞緩和の課題は今後に残されたままである。






 鞆の浦の磯のむろ木を見むごとに
         相見し妹は忘らえめやも
  (大伴旅人 万葉集巻3 0447)


天平2年(730年)に大伴旅人が船で太宰府から都に帰還する途中に立ち寄った鞆の浦で、亡くなった妻のことを思って詠んだ和歌である。

ここにも春-大阪豊中服部緑地

2017年02月27日 | 旅ぶらり
ここは世捨て人の隠れ里か、はたまた仙人郷か。
とても静かな里である。


 


茅葺きに土壁の古い民家は初春の日だまりに静かに踞り、物音ひとつしない。
耳に届くのはメジロか雀か、花にむれる小鳥の囀りばかり。
暮れれば砧の音でも聞こえてきそうである。





陶淵明がいう桃源郷とはこんな郷里であろうか。





ここは大坂豊中にある服部緑地の一画にある日本民族集落博物館である。
北は岩手南部の曲家から南は奄美大島の高倉まで、その地、その地の特色ある古民家12棟を移築して展示している。





集落の中の梅林は紅梅、白梅がほぼ満開し梅の春を告げている。
梅の香の中を歩けば正に桃源郷を行く心地がする。





服部緑地は戦時中に防火緑地として開かれ、戦後に特別都市計画法で緑地公園に指定された大阪府内の緑地公園の一つである。





起伏に富む地形がが自然の里山となり、豊かな田園の景観を産みだし、いつ歩いても飽きることを知らない。



旅ぶらり-忉利天上寺

2017年01月09日 | 旅ぶらり
六甲山地のほぼ中央に位置する標高702メートルの摩耶山、その山上に建つ忉利天上寺(とうりてんじょうじ)は一般には摩耶山天上寺の名で知られている。





孝徳天皇の勅願により大化2年(646年)インドの高僧法道仙人が開創したと伝わる古い歴史をもつ真言宗の古刹である。





空海が入唐した際、梁の武帝が刻んだいわれる十一面観音菩薩像(摩耶夫人像)をこの寺に納めたといわれ、これがこの寺の本尊となっている。
この本尊は一寸八分の黄金の秘仏で、開帳は三十三年に一度といわれ、普段は見ることが出来ない。





摩耶夫人は釈迦の母、つまり仏母で、この仏母摩耶を本尊とするのは日本で唯一この寺のみである。





女人高野とも呼ばれ、安産、子授けの寺として広く女性の信仰を得てきた。
安産の腹帯はこの寺がその起こりだとされている。





花山天皇、正親町天皇の護願寺としても盛え、江戸期には三代将軍家光の帰依を得て摂津国の鎮護寺(護国寺)とされ、最盛期には僧房300、3000の寺僧をかかえる摂津一の大寺であったといわれる。





昭和51年(1976年)に放火のため総ての伽藍を失ったが、伽藍が再建され現在に至っている。





「天空の大舞台」と呼ばれる境内の一画から見おろす景観は見事である。




木津川の流れ橋-上津屋橋

2016年12月26日 | 旅ぶらり
淀川との合流点より数キロ上流の木津川にかけられた木橋がある。
「木津川の流れ橋」として知られている上津屋橋(こうづやばし)である。





全長365.5メートルの長い長い木橋で、幅員は3.3(但し有効幅員は3メートル)、車は渡れず、人と自転車だけが通行可能な橋である。
八幡市の上津屋と京都府相楽郡久御山町とを結ぶ橋で府道八幡城陽線の一部となっている。

少し離れた上流と下流に別の道路用の永久橋が懸かかっているが、ここはかつての「上津屋の渡し」があった場所で、周辺の住民の生活道路の一部であることから昭和28年(1953年)に渡し船に変わる橋として木橋が懸けられた。
木橋になったのは戦後の資材不足からとのことである。





以来、設置直後の昭和28年8月を初めとし現在までに合計21回の流出を経験してきており、その度に復旧がなされて現在に至っている。





橋板部分が橋脚部分に置かれるだけで増水時には橋が浮いて流れ出し、それによって橋の損壊を免れる「流れ橋」の構造がとられており、現在のものはかつてのものに較べ、橋脚部分も橋板部分も構造的にかなり補強され、かつ橋板部分は複数のユニットに分割され、ワイヤーによって橋脚にしっかりと繋がれていて、流出に伴う復旧がより早く確実に行えるよう工夫が加えられている。





渡るとコツコツと木橋独特の音がし、鉄橋やコンクリート橋にはない独特の風情がある。





木津川の河川敷は高品質のてん茶(抹茶用の茶葉)の栽培が盛んで、特に上津屋橋の周辺の浜茶畑(山間部で栽培される山茶に対し浜辺や河川敷きで栽培される茶は浜茶と呼ばれる)の景観は京都府の景観資産として登録されている。





上津屋橋は、高度成長期に次々と永久橋へと架け替えられて日本の河川からその姿を消していった木橋の貴重な生き残りである。
永久橋への掛け替えを求める声もあるようだが、出来ればこのまま残して欲しい気がする。

淀川背割堤の桜並木は今…

2016年12月11日 | 旅ぶらり
淀川の背割堤は、春、満開の桜並木を見ようと集まる花見客で足の踏み場もないほど賑わったが、





紅葉もあらかた散った初冬の今…





堤に人の姿はない。





歩けば耳に聞えるのはカラカラと風に舞う落ち葉と、梢を鳴らす風の音ばかり…





北に天王山、南に男山を見わたすこの辺りはかつて淀川、桂川、木津川がの3河川が合流し、度々、洪水の被害に見舞われた。





そのため、大正の大洪水の被害の後に河川の大改修が行われ、淀川と木津川の合流点をずらすため背割堤が設けられた。





約1.4キロ続く桜並木の長堤が一般開放されたのは昭和63年(1988年)4月である。





堤の周囲も遊歩道が整備され、散歩には最適であるが花の季節と紅葉の季節のほかは人の姿がほとんどない。




一人で歩けばもったいないほどの天国である。

石清水(いわしみず)八幡宮

2016年11月20日 | 旅ぶらり
淀川をはさんで天保山と南北に対峙する京都府八幡市の男山の山上に鎮座するのが石清水八幡宮である。
八幡宮の総本社宇佐神宮から勧請された神社である。





貞観元年(859年)南都大安寺の僧行教が豊前国(大分県)の宇佐神宮に参詣し「吾れ都近き男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との宣託を受け翌貞観2年(860年)に清和天皇の勅を受けて創建された。
僧侶が創建にかかわるという珍しい由緒をもった神社で、江戸時代までは神仏習合の宮寺として石清水八幡宮護国寺と称してきたが、明治維新によって神仏が分離され石清水八幡宮として官幣大社に列した。





祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、比咩大神(ひめおおかみ)と息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)の三柱である。





誉田別命(第15代応神天皇)が祭神とされていることから朝廷から太祖を祀る神社として厚い尊宗を受け、平安期の創建ながら松尾、春日などの古社と同等の扱いを受け、宇佐神宮の遷宮のようにみなされ、伊勢、賀茂、松尾大社と並ぶ扱いを受けてきた。
とりわけ、白河天皇の尊崇が厚く、伊勢神宮と並ぶ二所の宗廟とも称された。
国家の重大事にあたり朝廷から格別の扱いを受ける二十二社の一つである。





平安京の裏鬼門を守る国家鎮護の神とされ、清和源氏はこの神社を氏神とすることでも知られ、源頼朝が建てた鶴岡八幡宮はこの石清水八幡宮を鎌倉に勧請したものである。
また伊勢平氏からも篤い尊崇を受けた。

山上に鎮座する社殿は典型的な八幡造りで、楼門から奥へ舞殿、幣殿、本殿が続き、建物はいずれも国宝指定を受けている。





山麓の京阪八幡駅近くに頓宮があり、ここで一の鳥居をくぐり参拝をすますと続いて二の鳥居がある。
その先は表参道、裏参道の二手に分かれ山上に向かって長い九十九折りの石段が続く。





その途中に「石清水」の由来となった石清水井を祀る石清水社がある。
かつては夏にも涸れない石清水がこの井にこんこんと湧き出でていたといわれる。


三の鳥居を抜けると楼門に向かって長い参道が延びる。





現在は山麓から山上へとケーブルが通じており階段に頼らずに参拝できるようになっている。