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http://mainichi.jp/opinion/news/20130909ddg041070015000c.html 以下全文
憂楽帳:復興五輪
毎日新聞 2013年09月09日 西部夕刊
56年ぶり2度目の東京五輪決定の余熱は当面冷めそうにない。
20年以上前の入社時、上司に年齢を問われて答えると
「すると君は何か。東京オリンピックの後に生まれたのか」と絶句されたが、時代の指標になるほど、1964年の五輪は日本人にとって国民的体験だったのだろう。
その大会。ギリシャでともされた聖火が「国内」に第一歩を記した地は沖縄だった。かぎかっこがつくのは、沖縄がまだ米国統治下だったからだ。
その日、64年9月7日夕刊の毎日新聞1面は「日の丸で埋まる 歓迎の人波十五万」の見出しに、こんな記事が続く。
「施政権を切り離されて十九年、母国のふところへ抱かれたいと念願し続けてきた沖縄の住民にとって、スポーツの面では一足先に日本復帰したのだという感激と喜び」
7年後の東京五輪も聖火は各地を巡るだろう。
その時、移設に揺れ続けてきた普天間飛行場はどこにあるのか。
沖縄の人たちは64年と変わらぬ熱狂で聖火を迎えるだろうか。
そして何より被災地、なかんずく福島の人たちの視線は。
「復興五輪」と胸を張れるか。【三森輝久】
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つぶやき
56年前の沖縄は米軍の占領下にあり沖縄では日本の祝祭日には米軍に隠れて家の前に目立たぬように日章旗を飾って日本の祭日を祝ったという。
戦争で国旗の持ち合わせがない家には学校の教師がそれとなく配って歩いたと言われている。日本帰属が夢だったようだ。
沖縄が日本に帰って社会党・共産党・日教組の精鋭が沖縄に乗り込んできて戦争反対。基地反対の運動を始めた。いつしか国旗も飾れなくなったという。
日本帰属を願って各家に国旗を配った先生も声を上げることが出来なくなり・・・これらの先生のその後はどうなったのか?分からない。
いまや沖縄は社会党や日教組の基地となっている。
先日もオスプレイ反対のデモがあったが取材陣の方が「何処からきましたか?」と聞くと「大阪だ」とデモの一員は答えていたが彼等は団体で来て僅かな賃金を貰って旅行気分で来たようだった。正式な党員か?ホームレスか?は分からないが・・・?
真の沖縄人の主張とは思えないが・・・中には日本 復帰後の教育で立派な反米の戦士に成長した方も居られるという。
現在は沖縄の方々の控えめな性格が裏目にでたのかも? 現状では やがて中国に漁場を奪われてしまう。社会党などは米軍排除のみで これには見向きもしないだろう?
オリンピック開催まで尖閣列島を初め沖縄で何事もなければいいのですがね~
中国の今は富国強兵・領土拡張・資源確保(強奪?)にヤッキになっています。
おまけに中国は尖閣列島に 「無人機」 まで飛ばしています。無人機が「空対空」のミサイルを搭載していたら・・・怖いですね。
無人機が誤操作を起こしたと言って日本のプロペラ哨戒機が落とされかねません。
今朝 パソコンを起動して直後パソコンの下段のメニューバーや上のツールバーが消えて困っていたら 何故か?今 見ればメニュウ・バーが表示されていた。・・ほんとに 「ほッ」とする。
これで正しくパソコンを落とせます。パソコンは難しい?
きょうは「手話の会」 の日です。先週 休んだので きょうは参加します。長い夏休みでスッカリ忘れていますが・・・。皆さんの親切をあてにして・・・。
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