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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

平成日本紀行;石見銀山遺跡(7) 「銀山の街・大森地区」

2017年05月17日 21時31分56秒 | 島根、鳥取県
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 平成日本紀行;石見銀山遺跡(7) 「銀山の街・大森地区」 平成





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代官所跡の建物7は、現在は「石見銀山資料館」




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1a/Omori_town_street.JPG/800px-Omori_town_street.JPG
大森の町並み


仁摩の町へ入って間もなく大きな石見銀山への案内が目に付く、その案内に従って内陸山地へと向かった。 
暫く、潮川に沿って進むが、やがて、大森トンネルを抜けると間もなく「石見銀山史跡」のセンターとも思しき施設へ到着した。 

大きめな駐車場の正面には重々しい門構えの御屋敷(長屋門)がドーンと控えていて、門脇の石碑に「史跡石見銀山遺跡代官所跡」」とある、現在は銀山資料館になっているようである。 


元々、石見銀山の行政を取り仕切る代官所(大森代官所)の在ったところで、江戸幕府の初代長官は、あの「大久保石見守長安」であった。  

あれから数えて59代目となる幕末、代官は鍋田氏の時代であったが、慶応2年(1865)の幕長戦争で浜田藩が落ちると同時に早々と逃げ出し、長州藩は労せずして石見国を掌中に治めることになる。
その後、短期間ではあるが、長州藩による石見支配が明治4年の廃藩置県まで続いた。


現在の代官所跡の建物は、石見銀山資料館として、鉱山で使った道具や生活道具のほか、鉱石の資料や石見銀山地方支配に関する歴史資料などを展示している。

案内書を戴いてざっと拝見すると、この先は武家屋敷、町屋、寺社などが混在する町並みで、その山あいの奥のほうが間歩(まぶ)といって鉱山や坑道の遺構が見学できるようである。


町並みの裏手には自動車用の新道が走っているが、こちら街中は歩行者専用ともいえる歴史の町並みが静かに息づいている。
この町並みが、周囲の山に埋もれるように佇んでいるのが大森町である。 
町並み一帯は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

町並みの最初に町内でも最も異彩を放っているのが、白の漆喰が光る巨大な「熊谷家住宅」であろう。 広大な敷地に、木造2階建ての主屋、付属屋と共に多数の蔵が建ち並び、部屋数も30以上あるという大規模な豪商の邸宅である。 

町の代表的な商家で、酒造、金融など大森代官のご用達でもあったようであり、代々町役人(年寄職)を勤め、銀山経営、代官所御用達を勤めた有力商家であった。 総漆喰塗りの建物は国の重要文化財に指定されている。


次に「旧河島家」がある。
建物は地役人まで昇進した上級武士の屋敷の構えを良く伝えているという。
切り妻造りの平屋建て、平入様式(長辺側の玄関、あるいは屋根の棟・むねと平行な面を平(ひら)という。直角な面を妻入・つまいりという)で、赤味の少ない石州の桟瓦葺きで、道路に面して土塀の小さな門がある。

1800年代初め、代官所銀山方役所に勤務した附地役人・河島氏の居宅として 建てられた武家屋敷で、復元された母屋には当時の生活用品などを展示し、一般公開している。 
地役人というのは、現地役人のことで上級から下級までの役割があるとか。


細い路地には、他にも風格ある大型の町人住宅や旅籠が並ぶ。 
町人といっても公用人を相手にする商人で、泊まる宿は「郷宿」とも言われ、家屋は大きくて重厚である。 

家並みの中ほど、路地の角に位置する格子戸に縁側付の古風な家に、自販機が設置してあり、これが木造りの小屋の中に納まっていて何とも風雅なのである。


右側の山裾の道よりチョットヘこんだ所に「栄泉寺」がある。
このお寺は石段の上に中華風の一風変わった山門が特徴であろう。 

1596年(慶長元年)創建の寺院で、石見銀山における禅の修業道場であったという。 
別称「お芋発祥の寺」ともいわれる・・?。(このことは後程)


町並み一帯は、300年前の面影を残す穏やかで、心が休まる地域であるが、難が一つだけある。 
街中に露骨に電柱が立ち、その電線が縦横に張り巡らせてあり、折角の美的景観が台無しになっているのである。 
通常の都市空間においても無計画に張られた電線は美観を損ね、視界、視野を狭くしている。 

小生は別にカメラマンではないが、野外で写真を撮影する時、電線の張り具合には気を使い、一枚の写真に電線が一本通っているだけで、どんなにいい構図でもその価値はゼロに成ってしまうのである。 
普通、数多くある「建造物群保存地区」の指定群には、これらの醜い造作物は大抵の場合、地下に埋設されるか、見えないように適当に工夫処置しているはずである。
世界遺産になった今日、改善は観られるであろうか・・??。


町外れの左手の山際には、山と一体になった「五百羅漢」がある。
苔むした岩肌に石柵や石段が施してあり、岩屋にはが彫り物が多数造ってあり、歴史の風雪の中にも威厳と風格と美観を備えていて、特に境内に通じる石造の「反り橋」は実に見事である。 

1766(明和3)年に創建された、その名も「羅漢寺」で、石見銀山の坑夫の霊を供養するために造られたという。 
江戸城大奥の女中などにも寄進を受けたという変わり寺で、25年の歳月をかけて刻まれた五百羅漢を守護するために堂宇も建てられたとか。



石見銀山では、江戸期の全盛期には20万人もの労働者が働いていたといわれるが、その平均寿命は30歳くらいだったと推定されている。 
又、4年ほどで塵肺を患う人が多かったという。 

境内の石窟には温泉津の石工、坪内平七(江戸中期の大阪の石工)とその弟子達に よって彫られた五百羅漢像500体は、まったく損傷無く当時の石工のノミ跡も鮮やかな石像として残っている。


17世紀初めの『銀山日記』によれば、人口20万人、家屋数約2万6,000軒を数え、石見銀山が日本有数の都市として栄えていたことが記されている。 
町は、生活の場であった「大森地区」と、銀を採掘していた「銀山地区」とに大きく区分されていたという。


次回は、 「大久保石見守



平成日本紀行;石見銀山遺跡(6) 「沖泊・鞆ヶ浦」

2017年05月16日 21時34分03秒 | 島根、鳥取県
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 平成日本紀行;石見銀山遺跡(6) 「沖泊・鞆ヶ浦」  、




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深い入り江の「沖泊湾」



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穏やかな「鞆ヶ浦」



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入江で船を係留する岩・「鼻ぐり岩」 (以上、Wikから出典)






温泉津の北方先端、湯里から馬路の間のリアス形海岸入江に、石見銀山の銀の積出港であった「沖泊」(なかどまり)そして「鞆ヶ浦」(ともがうら)がある。  
この二集落は、平成17年に国指定史跡になったというが、何れも今では地図にも表示されない戸数10数件の小集落で、深い入り江が数層連なった鄙びた小さな港である。


温泉津からトンネルをくぐり北に一山越えると「沖泊」の港がある。
ここは、16世紀後半、約40年間にわたり石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 

海辺に浜の井戸、集落奥に上の井戸と二つの共同井戸がつくられ、この辺り、山間の港ということで、水が不足していたことも伺える。 
沖泊港を取り巻く岩場には、自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」と呼ぶ船を係留する岩が多数残されている。

又、南に鵜丸城跡、北に櫛山城跡という二つの砦跡があり、大内氏や尼子氏それに毛利氏の戦国時代の拠点であり、港を確保し、銀を防衛するための要衝であったことも伺える。


因みに、その鵜丸(うのまる)城跡であるが・・、
温泉津の町並みの入り口から波止場沿いに進むと日村の港に着く。
その対岸から急な坂道を登ると、毛利元就ゆかりの鵜丸城跡である。

1562(永禄5)年、石見を手中にした元就は、勢いに乗じ宿敵・尼子氏の本拠地・月山富田城(安来市)に兵を進め、1566年、ついに出雲をも制覇した。
ところが、三年後、尼子再興を図る山中鹿介らが尼子勝久を擁して出雲に攻め込み、翌年に再び毛利と尼子が激突する。 

事態に驚いた元就が「石見を堅守すべし」と伊藤蔵之丞(温泉津町中の伊藤家の先祖)らに命じ、わずか一カ月で完成させたのが鵜丸城であった。 

標高59mの丘にある小さな城だが、鉄砲戦を想定した三段の帯郭(おびくるわ)が今もよく認められるといい、頂上に立つと、日本海がはるか遠くまで見渡せ、眼下に温泉津港や沖泊に入る船がよく見える。

又、標高38mに位置する櫛山城は更に古い築城で、1281(弘安4)年、元寇(げんこう)に備えて築かれた石見十八砦(とりで)の一つであったとされる。 
戦国時代は毛利氏に対抗した尼子氏の居城だった。


琴が浜に近い「鞆ヶ浦」(ともがうら)はもっと古く、沖泊が銀の積出港として使われる以前の16世紀前半、銀鉱石を博多に積み出した港町として発達したところである。
戦国時代の大内氏が石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 

大内氏の次に銀山を支配した毛利氏の時代になると、銀の積み出し港は温泉津に移ることになる。
その最大の理由は、鞆ヶ浦が非常に水の乏しい地区であったという。 このことは沖泊と共通している。 

港は、やはり、深い入り江となっていて、ここ鞆ヶ浦にも自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」が多数残されている。
両港とも、東に延びる一筋の峻険な道が石見銀山へ通じている。  

昔の「銀山街道」で、山地を介して銀鉱山へ達する全長約7kmの街道(山道)であり、沖泊道、鞆ヶ浦道と称している。

その名残かどうか不明であるが、近くの地域に「馬路」という地名があり、山陰線駅に「馬路」駅もある。


次回は、 銀山の町・「大森町





平成日本紀行;石見銀山遺跡(5) 「温泉津温泉」

2017年05月15日 22時10分32秒 | 島根、鳥取県
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 平成日本紀行;石見銀山遺跡(5) 「温泉津温泉」  .





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温泉津温泉




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温泉津温泉・「薬師の湯」




江津を出ると、すぐに山陰本線の山あいの「温泉津駅」に至った。 
やはり赤い屋根のチョット豪華な民家風の駅であった。

「温泉津」は、普通に読めば「おんせんつ」であるが、確かにさっと見て読み難い、実は温泉(ゆ)の津で「ゆのつ」と読むが、「温泉津温泉」とくると更に厄介なようであるが。 
昔の人は面倒臭いことは言わず、「湯の出る港」だから湯の津なのだ・・!、と言いたげである。 
駅より些か離れた旧銀山街道沿いの温泉街は、賑やかな歓楽街などが見られず、鄙びた和風旅館が両側にポツポツと並ぶする静かな街並みである。


世界遺産に登録された石見銀山の「温泉津」。
この温泉津は、かっては世界の銀の1/3を産出し、海外にも輸出していた津(湊)である。
発掘された銀は、周辺の数箇所の港から出荷されていたが、その内の一つが現在の温泉津港の先端にある「沖泊」であった。


中世末期(400年前位)、この地から石見銀山の銀が世界へと積み出され、戦国時代は毛利の水軍基地として、また江戸時代の初期は石見銀山の物資の陸揚げ港、そして江戸中期から明治時代までは北前船の寄港地として栄えてきた。 

17世紀初頭には銀山の支配体制を確立するため、柵を巡らして柵内と柵外を区分していたというが、温泉津はその柵内に位置していた。
銀山とこれらの港の間は道が良く整備され、鉱山があった町の大森から鉱石を牛馬に積んで険しい山道や街道を運んだ。この街道は、「銀山街道」(歴史遺産)とも呼ばれ、西部山地を経る全長約12kmの主要街道であった。


温泉津温泉は、銀山を背景とする温泉津港の繁栄と共に、港を利用する多くの湯治客で賑わった。 銀山採掘に関わった人夫や鉱夫、役人まで、この温泉湯に浸かり疲れを癒しながら、一時の風情を楽しんだものと思われる。 

街道に沿って小さな旅籠や問屋、商家の町並みが形成され今も、明治・大正の風情を多く漂わせている。主要な温泉津温泉街は、国の重要伝統的建築物群(町並み保存)にも指定されてもいる。


ひなびた温泉津温泉の中でも、ひときわ目を引くレトロ調で洋風建築物である震湯(しんゆ)、薬師湯(湯元)は、古くから石見銀山の玄関口として栄えた温泉津の町並みの中心地に位置し、日本温泉協会の認定で、中国・四国地域で唯一の最高評価を取得した薬効豊かな湯と共に建築学的にも重要な建物として、専門家の間でも高く評価されている。

ある温泉ライタ―が・・、
『 湯治場の風情を色濃く残す温泉街が、旧銀山街道沿いに500~600m続く。 大正か明治時代にでもタイムスリップしたような、渋いモノトーンの街並みであり、狭い通りに赤い屋根・石洲瓦の小さな温泉宿が並ぶ 』と書いている。

ここ温泉津の温泉は、小さい頃に童話として聞かされた「いなばの白兎」でお馴染みで、大国主命が病気の兎を温泉に漬けて救ったことから始まったともいわれている。 
確かに古き良き時代の雰囲気を醸し出しており、「フーテンの寅さん」シリーズのロケ地の映画の舞台にもなっているという。  

昔は岩間から湧き出してはいたが、明治5年(1872年)の浜田大地震の時に地殻変動で湯水の如く、大量に噴出し始めたという。 


「源泉掛流し」は無論だが、自然の力で地底より湧き上がってくる温泉で加熱も、冷却も、無論循環もしない正真正銘の純温泉、これぞ本物といった感じであると。
泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物泉で源泉は49度と熱い。 
薬効として特殊なのが、ある大学の研究所で「原爆症」に対する効能が有るとも報告されている。


次回は、 「沖泊・鞆ヶ浦






平成日本紀行;石見銀山遺跡(4) 「佐比売山神社」

2017年05月14日 17時44分18秒 | 島根、鳥取県
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平成日本紀行;石見銀山遺跡(4) 「佐比売山神社」 ,





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/%E4%BD%90%E6%AF%98%E5%A3%B2%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE.JPG/800px-%E4%BD%90%E6%AF%98%E5%A3%B2%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE.JPG
石見銀山の守神・「佐比売山神社」



さて石見三田・世界遺産大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜や四季を通じて楽しめる国立公園・「三瓶山」(大山隠岐国立公園)など自然が豊富に揃っている。

大田市街の南に聳え立つ三瓶山は、室の内(むろのうち)と呼ばれる低地より、主峰の「男三瓶」(1126m)に寄り添うように並ぶ「女三瓶」、「子三瓶」、「孫三瓶」などを主として、計六つの峰が環状に連なっている山である。

元より、石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引き神話」に登場する。
国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。

佐比売山として出雲国風土記に出てくる民話「国引き神話」では、八束水臣津野命という神さまが出雲の国を見て
『 ずいぶん小さいな国じゃから、土地を引き寄せてきて大きくしよう 』
そして、『 くにこくにこ(国来国来)と引き縫える 』と言いいながら新羅の国から引っ張ってきた土地を杭につなぎ止められたという。
その引っ張ってきた国が今の島根半島で、其の時の一つの杭が佐比売山・三瓶山だそうだ。


『 出雲の国を造ったとされる「八束水臣津命」(やつかみずおみつぬのみこと;大国主命と同一とされる)は、その国が細く狭かったため、海の彼方にあった国のあまりに綱をかけて引き寄せ、つなぎ止めたというもので、引き寄せた国は日御碕から美保関へ続く島根半島(支豆支の御埼、狭田の国、闇見の国、三穂埼)、綱は大社湾岸の「園の長浜」と美保湾岸の「夜見島」。そして、「堅め立てし加志は、石見國と出雲國との堺なる、名は佐比賣山、是なり」。すなわち、三瓶山(佐毘売山)を杭としてくにびきの綱を止めた。(一方の夜見島の綱を留めたのは火神岳(鳥取県大山)ともされます。) 』  出雲風土記より


「出雲国風土記」では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。
また、「佐比売」の名は、1954年(昭和29年)に大田市に合併するまでの地名が「佐比売村」として残っていた。

神亀3年(726年)ときの朝廷は、全国の山の名や土地の名を「三字名なら2字名」に、凶音をもつ名は好文字の名に変えるように命令した。
佐比売山(さひめやま)という古名をもっていた三瓶山は、このときに改まったと言われている。
(古代の三瓶山は、実は佐比売と三瓶の2つの名を一緒に使っていた。恐らく三瓶は愛称であり、その愛称が正式な名前になった)


三瓶山の山頂には佐比売山神社山頂祠、そして山麓には佐比売山神社の山麓社鎮座している。 御祭神は大己貴命 少彦名命 須勢理姫命など、配祀として「金山彦命」が祀られている。
ただ、三瓶町の「佐毘賣山神社」は、直接、鉱山を祀る神社ではないらしい。


三瓶地区に伝わる物語では、朝鮮・新羅から渡った狭姫「さひめ」が赤雁(益田市に赤雁町というところがある。地名は佐毘売命の神話にある、古代朝鮮から五穀の神を背に飛来した赤雁の伝承によるという)に乗ってきて三瓶へ移り住み、やがて、狭姫(さひめ)を祀ったことから佐毘賣山神社となったといわれる。

更に、朝鮮から狭姫が渡ってきた際、併せて製鉄やタタラ(古代より鋼の製法)の技術を持ってきたとされ、これを契機に、山伏などが製鉄を営んでいたので「さび山」といわれ、サビが転化して「サヒメ」になったともいわれる。

元より、「出雲国風土記」にもあるように、古代出雲ではすでに鉄が生産されていた。 
この鉄の原料は砂鉄で、奥出雲での生産が有名である。 
原料の砂鉄は出雲の海岸では容易に目にすることができ、それも、白い海岸を真っ黒に覆うように砂鉄があるといわれる。
「ヤマタノオロチ伝説」は、最先端の技術であった製鉄、鉄剣の逸話ともいわれる。


古代の製鉄技術や鉱山技術は出雲地方と古代朝鮮の関わりから始まったといっても過言ではなく、その象徴たる神が「佐毘賣山神社」であった。 
ただ、先にも記したが三瓶山の佐毘賣山神社は、大国主命が国土経営の時、佐比売山(三瓶山)山麓に池を築き、稲種を蒔き、田畑を開いて農事を起こし、民に鋤鍬の道を教えたという伝承から祭祀されているらしい。
しかし、稲作技術には鋤や鍬が必要なように、製鉄技術と同時に始まったとされ、これが弥生文化の創年の事象ともされている。

三瓶山の佐毘賣山神社には配神として「金山彦神」が祭られているように、製鉄、鉄鉱(砂鉄)そして鉱山の神の一面が明らかに見得ているのである。


佐毘賣山神社の創祀年代は不詳とされている。 
社伝によると天武天皇の頃、また、寛平三年(891)という説もある。 
何れにしても祖神は有史前後にも遡る、古い古い神であることが創造できる。


ところで、益田の鉱山神である佐毘賣山神社の創建も不詳とされている。
社伝によると寛平5年(893年)、美濃国南宮大社より鉱山の神・「金山彦命」を勧請して創建されたらしい。

序ながら、美濃国一ノ宮の南宮大社は別名・仲山金山彦神社ともいわれ、美濃国(岐阜県)でも有数の壮大な社殿を誇る。 全国の鉱山、金属業の総本宮として古くから信仰を集めているという。
南宮大社は、金気一切を司る神として公権力より認知され、金山彦神は金属精錬の神々として、関連した多くの神々の集積したもので、強いて言えば新しい製鉄の神と言える。
元より、銅鐸とのつながりをもったより古い祭神で、鉄山を管理しながら製鉄神となって、各地に分遷されていったとされている。


歴史と伝承の三瓶山の佐毘賣山神社、鉱山開発の祖神である益田の佐毘賣山神社、更には石見銀山の主神・佐毘賣山神社と出雲地方には共通した社名が付く。
何れも、今では忘れられたように鬱蒼とした叢林の中に苔生している。

尚、三瓶山の佐毘賣山神社は定かでないが、神社としては珍しいことに益田の佐毘賣山神社、石見銀山の佐毘賣山神社の両社殿とも西北風(あなじ)が吹いてくる北西に向かって鎮座しているという。
このことは渡来発祥の地・新羅(朝鮮半島)に向いているもので、渡来の民の祖国を想ってのことと推察できるのである。


次回から実際の「石見銀山遺跡」を巡ります。




平成日本紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」

2017年05月13日 22時05分46秒 | 島根、鳥取県
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 平成日本紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」  ,




引続き「石見地方」のことである。

石見国(いわみのくに;石州:せきしゅう)は、東西に長いため東から大田市を中心とする東部を「石東」、江津市や浜田市を中心とする中部を「石央」、益田市を中心とする西部を「石西」と呼び三分されていて益田市、浜田市、大田市と共に石見三田(いわみさんだ)とも呼ばれているようである。

また、浜田の西には「江津」の港があり「江の川の港」を意味する地名で、江の川は中国山地を唯一越える一級大河で、瀬戸内の安芸国との結びつきも強い。

江の川は基本的には浜田藩領と石見銀山領の境界とされたが、川の左岸でありながら江津町のみが江戸時代のほとんどを石見銀山領に属していた。
そのため、石見銀山の幕府代官所の出先の口番所が置けれている。



その石見地方の中心都市「浜田

新道9号線沿いの港が一望できる高台に道の駅・「夕日パーク浜田」があった。
港周辺の展望が抜群であり、港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋がいい風景となって見下ろせる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」という。
すぐ左には同様ぐらいの大きさの島々が美観を添えてる。


奈良時代、天平年間の聖武天皇の御世、国分寺・国分尼寺建立の詔により、各国の国府に国分寺・国分尼寺が造られた。
浜田は古代・石見国の国府があったところとされ、律令時代の石見国の中心地でもあった。

日本海の砂浜近くの潮騒が届く場所に「金蔵寺」という古刹があり、近年、この境内に国分寺跡が発見され塔跡が一部発掘調査された。 
ただ、古跡は塔の跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていないという。
国分寺跡の周辺には現在も「国分」の地名が残っている。

鎌倉時代に守護制度が置かれると、源氏・佐々木氏がこの浜田を支配し、室町時代には「大内氏」が領主となって、石見銀山をも支配するように成る。



銀山史跡より些か遠い「益田」と石見銀山の意外な関係



『 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 
        ながながし夜を ひとりかも寝む
 』  柿本人麻呂(百人一首)

( 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう )


西部地域の石西地方の中心とするに益田市は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっている。 
その中心に益田の市街地が開けている。
その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っている。 


冒頭は、皆さんご存知の有名な歌である。
この歌は、小生たちが高校生頃、学業でも習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
この歌は、飛鳥時代という古い時代に詠まれた歌であった。

柿本人麻呂」といえば、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。
因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで集歌は天皇、貴族から名もない防人(さきもり・兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。

柿本人麻呂は、「石見国」へ国府の役人として下向し赴任している。
人麻呂は地元の女性と結ばれ、子々孫をもうけている(妻・依羅娘子の他に側女もいたとされる)。
そして、その終焉の地が、現在の島根県益田市であるという。

人麻呂自身はこの地で没したが、その子孫も石見国の郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を名乗り石見国人となったともいわれる。

以後、益田氏は石見地方の権勢を束ねながら、石見一国を束ねるようになる。
近世の益田氏は長州藩の家老として毛利氏に仕え、幕末に禁門の変で長州軍の指揮を執ったともされる。 
無論、現在の「益田」の名の起こりでもある。


さて、益田市の市街地の東側にある比礼振山(権現山:標高358メートル)の麓に「佐毘売山神社」ざ鎮座している。
この神社は、鉱山の護り神であり、別名を「山神社」とも言い、鉱夫たちや里人からは「山神さん」と呼ばれていた。

益田市美都の都茂地区に近年まで開鉱していた「都茂鉱山」があり、この鉱山は驚くことに世界で最初に発見された鉱山としても知られ、「都茂鉱」(主に銅と亜鉛、金、銀ほか)といわれる鉱脈の産出地で、既に平安時代の836年には採掘が始まっていたとされる。
そして更に驚くべきことに・・!、一時の休山を含めても1987年( 昭和62年 )まで採掘していたという。 実に1200年近い鉱歴を有するのである。

佐毘売山神社は、この都茂鉱山の守り神だったのである。


そして、「石見銀山」の中枢である大田市大森町銀山地区に、「佐毘売山神社」が山深く大鎮座している。 
一帯は銀山で最初に開発された場所とされ、地元・大森地域をはじめ石見地方の人々の信仰を熱く集めてきた。

この社は14世紀と15世紀に、益田市の同神社から分霊されたもので、祭神の移動は祭っていた技術者や鉱山物資の動きを示すものとされている。 
これは石見銀山開発の前史として、西石見の都茂銅山に関連した人と技術が大森にもたらされ、石見銀山の銀の開拓、採掘に寄与されたものとして重要視されてるという。


そして、この勧請を奉った人物こそ益田氏であり、当時の彼は室町将軍に会えるなど国人領主の中でも破格の扱いを受け、鎌倉時代から安土・桃山時代にかけて益田を拠点に権勢を振るった中世益田氏であった。

益田氏は戦国後期には博多にも領地を所有し、銀を貿易に活用したとされ、更にはは技術が逆に都茂銅山もたらされ(現在でいえば逆輸入)、銀の生産をももたらしたという。


益田と大森を結ぶ奇縁はもう一つあった。
益田に進出した益田兼見(南北朝;益田宗家の惣領)が1368年ごろに築いた館は、関ケ原の戦の後、解体されて船などで大森に運ばれ、銀山奉行・竹村丹後の屋敷となり、後の大森代官所(現、石見銀山資料館)として利用された。

戦乱の時代、貿易と軍事に手腕を発揮して動乱を駆け抜け、中世の世に存在感を示した益田氏(兼見)は、石見国最大の武士集団と財力と権力を源に、石見の地に点在していた豊かな銅と銀の資源を掘り起こそうとしていたのである。



さて石見三田大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、四季を通じて楽しめる国立公園・三瓶山、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜など自然が豊富に揃っている。 
そして何より歴史・文化遺産の街(世界遺産石見銀山遺跡)である、

市域西部の大森は戦国時代から江戸時代にかけて日本最大の銀山とされた石見銀山の地で、1526年大内氏の支援によって博多の神谷寿貞が開発に成功したとされる。

その後、大内氏やその後継である毛利氏と出雲の尼子氏の間で銀山争奪戦が繰り返された。
江戸時代には幕府直轄領(天領)となり、石見銀山領が置かれた。
江戸期にほぼ掘り尽し、1920年代には完全に閉山した。
2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録された。


さて、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。


次回は、世界遺産・「鉱山の神