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日本の旅の記録です・・!!

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日本周遊紀行(16)鶴岡 「出羽三山」

2009年11月09日 17時18分56秒 | 山形、秋田県

樹林帯の中にひっそりと、だが豪快に建つ「出羽三山・五重塔」


出羽三山神社:「三神合祭殿」



日本周遊紀行(16)鶴岡 「出羽三山」



羽越線・鶴岡駅前の中心街より真東に向かうと、羽黒町の田園地帯が広がる。 
この田園のど真ん中、羽黒山域(神域)の入口には東北第一の大きさを誇る大鳥居が天を指す。羽黒山は月山、湯殿山とともに出羽三山の一つであることは周知だが、今日でも山伏の修験の山としても広く知られている。 

その歴史は蘇我馬子(推古天皇期・西暦626年:飛鳥時代の政治家、「馬子」であるが男性である)に暗殺された崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三子(第一子ともいわれる)とされる蜂子皇子(はちこおうじ:聖徳太子の従兄弟)に始まるという。 

皇子は蘇我馬子の更なる魔手を逃れるため宮中を脱出して「弘海」と改名し、日本海側の由良(京都府宮津由良海岸)から船で北上し、由良の浦(鶴岡市由良海岸:どちらも「由良」と同じ名称であるが偶然か、はたまた丹後の地域名を継いだのか、などは不明)に上陸したと伝承されている。 
そして推古元年(593年)、羽黒山にたどり着きに開山したとされている、さらに月山、湯殿山を併せて開山したという。

後に、役行者が羽黒山に来て蜂子皇子の法を継いだといい、この蜂子皇子の苦行が発展し、転化したのが羽黒山の古修験道になったといわれる。 
平安期以降は神仏習合で真言宗となり、江戸時代には天台宗に改め、明治に入り神仏分離が実施された神社でもある。



大鳥居をくぐって神域に到ると「神路坂」と称される坂道があり、正面に「羽黒山正善院黄金堂」という古刹がある。

1193年、源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討つ際に戦勝祈願のため土肥実平(といさねひら:相模の国・湯河原、桓武平氏の流れをくむ、鎌倉創生期の源頼朝の重臣・御家人)に建てさせたという。 
総門からは大杉林に沿って長い石段の先、朱塗りの太鼓橋を渡ると、有名な「羽黒山五重塔」へと至る。
五重塔は、「羽黒年代記」によれば創建は、平将門が寄進したという伝説もある。関東以北では最も美しい塔と言われ、第一級の国宝に当たる名建築であるとされる。

克っては周囲に多くの堂舎が建っていたが、明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により破壊され、この五重塔だけが破壊を免れたといわれる、あまりの美事さに破壊を免れたのかもしれない。

ただ、周囲が太古の杉林に囲まれ、湿り気が多いはずである、しかも当地は豪雪地帯でもある。長年の風雪に耐え、悪条件の中の地形に屹立していて腐食しないものかと心配もし、はたまた感嘆するのみである、国宝に指定。


この先、「出羽三山神社」までは、荘厳なまでの古老の杉並木の石段を延々と登ってゆく・・。思えば紀州・熊野、那智大社の熊野古道の「大門坂」を彷彿させるが、尤も、此方(こちら)のほうが自然の中で森閑としているようでもある。 
「出羽三山神社」の大社殿の前に額ずいた。 
社殿正面の上部には大額縁が飾ってあり、月山神社を中心に出羽神社、湯殿山神社と記してある。 こちら羽黒山の社殿は、三社の神を併せて祀る三神合祭殿なのである。

普通、出羽三山といえば羽黒山、湯殿山、月山を言う。 湯殿山神社は湯殿山中腹、標高1500mのところに社殿をもち、月山神社は月山山頂(1984m)に風雪に耐えながら鎮座している。
湯殿山は山自体がご神体であるし、月山も山頂に社殿があるだけで神社社殿としては羽黒山だけなのである。通常は、羽黒山の出羽神社合祭殿で三山祭祀が行われ、従って、合祭殿をお参りすれば出羽三山を参拝したことになるという。
羽黒神社は、全国に200社ほどある支社の本社でもある。


出羽三山はもともと修験道の行場の山であって、修験道とは、山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とする神仏が融合した宗教である。 修験道の実践者を修験者または山伏といい、開祖は役行者(役小角)とされている。 

因みに全国の修験道場は、江戸期・徳川幕府により京都聖護院「本山派」と京都醍醐寺三宝院「当山派」の二派に統括されるといわれるが、古来よりの出羽国羽黒山と九州英彦山(ひこさん)は特別に別派として公認されていたらしい。


神仏融合とは・・?、
古来、日本では自然の山や川を神として敬う山岳的信仰の「神道」と、仏教、道教、陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教体がある。 
所謂、神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、土着の神的信仰と仏教的信仰を折衷して、一つの信仰体系を再構成することで、神仏混淆(しんぶつこんこう)とも、本地垂迹(ほんじ‐すいじゃく)ともいう。

この思行によると、日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変え、実体を表したもの、即ち、迹(アト)を垂(タ)れたものだとする神仏同体説で、平安時代頃から盛んに信仰されるようになった。

平安初期に中国より伝来した密教(真言、天台など)との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令により集合体は禁止され、神と仏とは分離された。 
又、その後に定められた廃仏毀釈により、仏閣、寺院など関係する物などが破壊された。だが、著名な神社寺院においては、この神仏混淆の強い思想に影響され、一部はそのままの形で残った地域もある。


出羽三山の神仏習合について・・、
出羽三山に現在祭られている神々は、それぞれ出羽神社が伊氏波神[いではのかみ]、月山神社が月読神[つきよみのかみ]、湯殿山神社が大山祗神[おおやまづみのかみ]、大己貴神[おおなむちのかみ]、少彦名神[すくなひこなのかみ]などで、日本古来から崇拝してきた神々である。

奈良時代に入ると仏教流布と共に仏教者達が修行の地を求めて山岳に入ったことから有り様を変え、神仏が渾然一体となって定着するようになった。

出羽三山においては、羽黒山神の本地体を観世音菩薩とし、月山神は阿弥陀如来、湯殿山神は大日如来が各々定められた。
神仏習合の宗教形態として、はじめは神社の境内に神宮寺、別当寺を建てて神々を補佐するような立場であったが、次第に神々と統合し、後には祭事は全て仏式で行はれるようになった。
これらが明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されるまで続いたのである。 

平たく言えば、全ての祭事事項が神式から仏式に変わった、つまり、仏が神に成り代わり、仏が神を乗っ取ってしまったのである。 
明治期の神仏分離により出羽三山は一応は神社ということになっているが、紀州・熊野三山などの比べると、多分に寺院としての性質が未だ色濃く残っているとも言える。

出羽三山では、現在も修験者や山伏が闊歩して法螺貝を吹き、社域には宿坊が並び、参拝される人々の拝礼の仕方も神式、仏式どちらでも良い感じである・・?。 
どだい、出羽三山の「山」という表現の山号(さんごう)は、仏教の寺院名に付与される修飾語の一つとされる。これは中国伝来の仏教用語で、禅宗系に所在するの寺院に「山」の名称を付けている場合が多い事でも理解できるのである。


次回、「出羽三山と芭蕉」




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日本周遊紀行(15)鶴岡 「庄内と西郷どん」

2009年11月09日 17時05分58秒 | 山形、秋田県

鹿児島市内;城山下に立つ「西郷銅像」


日本周遊紀行(15)鶴岡 「庄内と西郷どん」



庄内地方では西郷隆盛(薩摩藩)が人気があるという、それは何故か・・?。

幕末において酒井・庄内藩は徳川の譜代であったため、幕臣として会津藩と同様江戸、京都などで攘夷方に対する締め付けを行い、鳥羽・伏見の戦いの契機となった。

庄内藩士は江戸薩摩藩邸焼き討ちや戊辰戦争で薩長・新政府軍に執拗に抵抗した藩で有名である。そのため会津藩と同様に徹底した征討の対象となったが、新政府軍に対して庄内藩の防備は固く領内には一歩も入れなかったとも云う。

戊辰戦争は新政府軍が圧倒的に優位の中・・、庄内藩がもし会津、仙台などを中心とする旧幕府側として戦い、長引けば会津と同様に玉砕の道を選ばざるを得なかったはずである。この時、時の東征大総督府下参謀・「西郷隆盛」との直接折衝を隠密理に行っていたという。その結果、「無条件降服」という形で平和的に解決し、事なきを得たという。

戊辰戦争後、藩内では厳重な処罰が下るものと覚悟していた。早速、新政府から会津若松への転封、賠償金等を命ぜられたが、藩内は一致団結し藩主自から先祖代々の宝物等を売却し、藩士は家財などを売却し、更に商人や領民なども新政府への積極的に献金に応じたという。 

又、裏交渉にての平身低頭の交渉の結果、領地替は撤回され、賠償金は決定金額の半分であったという。これにも陰で「西郷」が指示し、温情ある態度で極めて寛大ものであったという。西郷は折衝に臨んで、敗戦者といえども新しい時代の同胞である・・と納得したという。
そのことを知った旧庄内藩の人々は西郷の考え方に感激、感謝し、後日明治3年(1870年)に、旧庄内藩士76人を引き連れ、鹿児島の西郷を訪ね教えを請うたという。 
薩摩の人材教育に学び、旧藩主「酒井忠篤」も釈放後、東京より鹿児島へ留学し学んでいる。 また西郷卒いる「西南戦争」の際には、一部の庄内藩士は薩摩・西郷方に味方して戦っている。 
西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたためたのが「南洲翁遺訓」である。平和裏に戊辰戦争を終結させてもらった大恩人・西郷隆盛に対する庄内人の律儀さを示す逸話として今も語り継がれているという。 


命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり
。』

人を相手にせず、天を相手にせよ。
天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし
。』


「南洲翁遺訓」の中の一節であり、明治23年発刊された。
尤も、西郷の寛大な処分については若干の異論も有るという、それは豊富な財力で庄内藩を支えた酒田の豪商・本間家の存在を指摘している。 
この本間家でも学才のあった本間郡兵衛は幕末薩摩を訪れて、藩の御用向きを「株式組織」にするよう提案しているのである。 
西郷は郡兵衛を通じて本間家を知り、その財力に目を付けたのではないか、とも言われているが・・?。


鹿児島市城山の北東約1キロメートルの所、錦江湾と桜島を望む丘に、西郷南州をはじめ、桐野利秋・村田新八ら西南戦争で戦死した2023名の志士が葬られている。南洲とは、勿論西郷の号名で、墓地中央にある彼の墓は一際大きい。 

この中には熊本、宮崎、大分といった九州出身者が多いが、目を引くのが東北の山形・庄内藩出身の二名の墓誌であると。 
西郷が私学校を開くと伴兼之(20歳)、榊原政治(18歳)の2人が遠路庄内から鹿児島に学び、西南戦争が勃発するとそのまま従軍を願い出て、善戦の末、戦死しているのである。 


一方、山形県酒田市の飯森山に「南洲神社」が鎮座している。 
戊辰戦争降伏により、厳しい処分を覚悟した庄内藩であったが、意に反して極めて寛大な処置を誘導した西郷南洲公を心から敬慕することとなり、昭和51年、鹿児島の南洲神社から霊を分祀し祀っているという。
現在、「西郷隆盛」が縁で、鶴岡市と鹿児島市は姉妹都市を結んでいる。


次回は、「出羽三山」


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日本周遊紀行(14)鶴岡 「庄内・鶴岡」

2009年11月09日 17時00分32秒 | 山形、秋田県
日本周遊紀行(14)鶴岡 「庄内・鶴岡」


山形県の日本海に面した地域を、近世以降主に「庄内地方」と呼んでいる。

東に出羽三山、西に日本海、北に鳥海山、南に朝日連峰に囲まれ、所謂、庄内平野といわれる豊かな自然、環境に恵まれた土地である。その中心が鶴岡であり、酒田

である。

鶴岡といえば・・、
同じ庄内でも最上川の河口に位置し、日本海に玄関を持ち水運で栄えた商業都市「酒田」(後述・・)とは異なり、少し内陸に入った平野の真ん中といった地にあり、どちらかと云うと農業地、特に農産、穀類(特に庄内米)の生産地としての性格がある。
現在の鶴岡は、平安末期には「大泉の荘」として歴史上、古誌に登場してくる。 「義経記」の中にも、義経が京より落のびる途中「鼠ヶ関に上陸し大泉の庄、大梵字(だいぼんじ)を通った」と書いてある事から、現在の鶴岡が大梵字もしくは大宝寺等とも呼ばれていたらしい。 
鎌倉初期には武藤資頼が大泉荘の地頭となり、その後土地の名を取り、羽黒山別当として「大宝寺氏」を名乗るようになったという。

武藤資頼(むとう すけより)は平安末期から鎌倉期の平家の武将で、初め平家隆盛期においては平知盛の属将であったが「一の谷」の敗戦後投降し、後に赦免されて源頼朝の家人となっている。
後の奥州藤原の合戦に出陣して功を治め、出羽国大泉庄の地頭に任ぜられてる。

「大宝寺」は、鶴岡市の古い地名で、平安時代には大泉庄に属し、中心地が大宝寺であった。
大宝寺は往時、衆徒五千といわれた大寺であり、羽黒山を望む内川の東側に居城を築きここに本拠を構えていた。この地に武藤氏が着任し、仏徒集を治めて根拠を持ち、勢力を拡大して「大宝寺氏」と名乗った。 この跡が、今も鶴岡市大宝寺町としてその名が残っている。 


下って、江戸開府期の慶長6(1601)年、「関ヶ原の戦い」で徳川方について功をおさめた最上義光が、この地方を与えられ治めることとなり酒田に城を築く。 

酒田の港に巨大な海亀が這い上がった事を吉事とし、酒田の城を「亀ヶ崎城」と名付けた。実際にこの辺り、湯野浜温泉の故事にも見られるように、古来より白砂海岸には大亀が産卵のため上陸したとされてる。 
最上義光は、更に大宝寺城を改め落とし、「鶴ヶ岡城」と命名している。
今の「鶴岡」は、このように亀と鶴の吉事に因んで名付けられた縁起の良い地名なのであり、最上氏も粋なことをするもんである。

1622年、今度は最上氏がお家騒動が発端で改易しなり、徳川四天王の一人酒井忠次の孫酒井忠勝が信州松代10万石から転封となり、庄内を統治する事になった。

以後庄内藩14万石は、250年に渡り庄内を治め事となったのである。同時に城を改修し一の丸、二の丸、三の丸からなる立派な城が完成した。あわせて城下町の整備を行い、今の鶴岡の町の外殻が出来上がった。


庄内・鶴岡地方の温泉郷の1つに「湯田川温泉」が古くから知られている。

鶴岡南部・金峰山の麓にある湯治場として栄えた鄙びた温泉郷で、開湯1300年という伝統がある。鶴岡の奥座敷として地元民に親しまれ、庄内藩政の時代には藩主や美人の湯としてお姫様がお忍びで温泉を楽しんだという。 

温泉街は、黒塀の宿や白壁の宿が並び、多くの文人にも愛され、中でも地元が生んだ歴史小説作家「藤沢周平」を始め、種田山頭火、竹久夢二、柳田国男、横光利一など、鄙びた情緒ある宿に逗留して構想を練り、執筆を重ねた足跡が今でも残されているという。

その、藤沢周平(小菅留治)は現在の鶴岡市高坂に生れている。山形師範学校(山形大学)卒業し、湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は廃校)へ赴任し、国語と社会を担当している。 
教え子達は「遅咲きの作家といわれながら精力的に名作を次々と発表し数々の賞を授けられながら、決して驕る事もなく私達教え子と会えばいつも変わらぬ小菅先生でした。」と言っている。

そして病気療養で苦労しながら、あの時代小説を書き上げるのである。
藤沢周平作品の舞台として度々登場する架空の藩名・「海坂藩」(うなさかはん)が登場する。 江戸から北へ百二十里(480km)、東南西の三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある酒井家庄内藩、現在の山形県鶴岡市を基にしていると言われている。


「腕におぼえあり」、「清左衛門残日録」、「人情しぐれ町」、「蝉しぐれ」等NHKで放送されたが、小生も夢中になって見たものである。

又、映画として「たそがれ清兵衛」、「 隠し剣 鬼の爪」、「武士の一分」が上映されている。 寅さんシリーズでお馴染みの山田洋次監督の「時代劇三部作」ともいわれ、特に、第3作目(完結・・?)の「武士の一分」は(木村拓哉、檀れい主演)興行収入が40億円を超え、松竹配給映画としての歴代最高記録を樹立したという。 

山田監督らしい綿密な人間描写やコミカルな要素が取り入れられ、重層なドラマが展開され、「山田組」と言われる時代劇の新境地を拓いたとも言われている。  
海坂藩の地図を山形県米沢市出身の井上ひさし氏が「蝉しぐれ」に基づいて「海坂藩・城下図」を作成したのは有名であり、井上ひさしも藤沢文学に陶酔したひとりである。

藤沢作品での山形庄内・海坂藩は城下町として栄え、家老の邸宅や藩の重職の屋敷を中心にその周囲を住居が立ち並んでいる。 

幕藩時代に布かれた武家制度は、身分や家柄が自由な恋愛を束縛し、派閥抗争など悲劇的な結末を迎えるストーリーが多い。上司の命令は絶対であり、生まれながらにして下級武士や貧農家庭で育った者のやるせなさは、現代・サラリーマン時代と同質のものであろう。

藤沢周平は我々に本当の豊かさ、人を愛することを優しく諭しているようである。

次回は、更に「鶴岡」



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日本周遊紀行(13)温海 「義経と鼠ヶ関」

2009年11月09日 16時56分02秒 | 山形、秋田県

義経一行が通ったとされる「史蹟・念珠関址」


日本周遊紀行(13)温海 「義経と鼠ヶ関」



道程は「山形県」に入りました・・、
国道7号線が新潟県から山形県への境を過ぎたところ、羽越本線が交差するあたりに「史蹟・念珠関址」(鼠ヶ関・ねずがせき))が在る。  実は、この地・鼠ヶ関(鶴岡市鼠ヶ関・旧念珠関村)には関所跡が二ヶ所あるという。 江戸開府から明治初期まで設置されていた「近世念珠ヶ関」と、ここから南方至近の県境にある古代の関所址である「古代鼠ヶ関」とである。
鼠ヶ関は古代より陸奥国(東北)への入国に際しての関所であり、勿来関(太平洋岸の陸前浜海道・国道6号)に、白河関(中通り・陸羽海道・奥州街道・国道4号)のとともに「奥羽の三関」の一つであった。 国道沿いにある「念珠関址」は近世の関所址ということで、江戸期には「念珠関御番所」と呼ばれていた。 最上氏の時代に地元鼠ヶ関の領主が関守として国境を警護し、酒井氏の時代には藩士も上番として国境警護にあたったとされてる。
一方古代の「鼠ヶ関」は鼠ヶ関駅の南、現在の山形県・新潟県県境付近にあったという。 古跡は現在は石碑のみの形で残されている。 

古代「鼠ヶ関」について・・、
源義経が奥州に逃れる際「勧進帳」の様な姿形で、この地へ上陸して、この関を通過したとされる。古書には文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐軍が越後から出羽「念種関(ねずがせき)」を通って合戦に及んだことが記されている。この戦は奥州の覇者・藤原一門と義経を滅ぼす為だったのだが。
義経の下りであるが・・、
平安後期の1185~1186年、兄頼朝から追われた源義経は、武蔵坊弁慶などのわずかな家来を従えて、北国路を北に進み、温海町鼠ヶ関から鶴岡市に入り、羽黒山に立ち寄り、立川町清川に出て舟で最上川をさかのぼり、戸沢村を経由し新庄市の本合海に至り、ここから亀割峠を越して最上町に入り、宮城県との県境の境田を経て岩手県平泉に逃れたという。
義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来るが、ここからは船で海路を辿り鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過した。そして、関所の役人の世話する五十嵐治兵衛に宿を求め、長旅の疲れを癒し、再び旅たって行ったという。
この鼠ヶ関の通過の条は、歌舞伎の「勧進帳」の劇的場面として描かれているが・・??。
一方、加賀の小松(石川県)の「安宅関」の項でも・・、山伏姿で「安宅の関」にさしかかり、関を越えようとしたその時に、関守・富樫左衛門丈泰家に見とめがられ、詮議の問答が始まる。「勧進帳」とは、寺院建立(東大寺)などの資金集めの趣意をしたためたものである。弁慶は白紙の勧進帳を読み上げて、強力に身をやつした義経をかばう。 なお顔が似ているという関守の前で、 “義経に似た貴様が憎し” と主人を打ちすえする。その忠義の心に感じた富樫は、義経と知りながらも一行を解放したとある・・??。
因みに、安宅という土地は海岸線にあって、大昔から異国の襲来に悩んでいたようであるが、国内の関所としての役目を果たしていたかどうかは疑問で、まして、平安期、鎌倉期に、この安宅関が実際に在ったかどうかは疑わしいともいわれる。 元より、謡曲や歌舞伎でおなじみの安宅関であるが、実は「義経記」などには「安宅の渡し」(現安宅関跡は海岸近くの悌川の畔にある)とあり、「安宅関」とは出ていない。
また、義経を敬愛していたとされる松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅で、加賀にやってくるが、「安宅関」に立ち寄ったことは記載されておらず、芭蕉の時代には、「安宅関」はなかったか、意味をなしてなかったとされる。江戸後期の加賀の地誌などにようやく「安宅関」の記載が見られるというが・・。
この頃の天保11年(1840)3月、河原崎座でた謡曲『勧進帳』が初演され、更に歌舞伎でも上演され、「安宅関」の名は全国的に広まったようで、その後一般的な小説やドラマになったとされる。
尚、2005年、NHK放送の大河ドラマ「義経」放映において、基本的に「安宅関」に関わる場面は当然登場し、出演者の熱演に見入ったが(富樫泰家:石橋蓮司、 武蔵坊弁慶:松平健、 源義経:滝沢秀明)、義経一行が「安宅」を通ったのか、通らなかったのかというのは「史実」の世界ではなく、物語の世界であるようだ。
ただ義経が、「判官びいき」と言う言葉を生んだ大きな要素の一つに「安宅の関」の出来事が発端といわれる。 「歴史の史実」は大切で重要ではある・・が、「言い伝えられてきた」ことも尊重すべきではあると思う。

尚、余計なお世話だが小生が想像(創造・・?)するに、「安宅の関」と「鼠ヶ関」を両方登場させ、物語として構成すると、更に面白くなるのでは・・?。 
それは、加賀・「安宅の関」は都(京都)からもまだ近く、当然、頼朝臣下の目が届きやすく手配も充分であったろう。 関守・富樫左衛門丈泰家が義経一行を咎め、捕らえようと待ち構え、厳しい詮議も当然行はれたと観るべきである。
一方の出羽・「鼠ヶ関」の方は、頼朝の目から最も遠く、陸奥の国の入り口でもあるので、ここは藤原秀衡の息がかかっていたことも想像される。関所の役人・五十嵐治兵衛は秀衡の意向に添って義経らを丁重に歓迎し、懇ろ(ねんごろ)にもてなして世話をする。
という両関所の対比、対極が面白いと思われるが・。


次回は、「鶴岡」
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