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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

世界遺産・石見銀山(5)・・「沖泊・鞆ヶ浦」

2008年03月07日 10時46分17秒 | 世界遺産・石見銀山
代官所跡の建物は、現在は「石見銀山資料館」

世界遺産・石見銀山(5)・・「沖泊・鞆ヶ浦」

温泉津の北方先端、湯里から馬路の間のリアス形海岸入江に石見銀山の銀の積出港であった「沖泊(なかどまり)・鞆ヶ浦(ともがうら)」がある。
この二集落は、平成17年に国指定史跡になったというが、何れも今では地図にも表示されない戸数10数件の小集落で、深い入り江の鄙びた小さな港である。


温泉津からトンネルをくぐり北に一山越えると「沖泊」の港がある。
ここは、16世紀後半、約40年間にわたり石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 
海辺に浜の井戸、集落奥に上の井戸と二つの共同井戸がつくられ、この辺り、山間の港ということで、水が不足していたことも伺える・・。
沖泊港を取り巻く断崖には、自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」と呼ぶ船を係留する岩が多数残されている。
又、北に櫛山城跡、南に鵜丸城跡とという二つの砦跡があり、大内氏や毛利氏の戦国時代の拠点、銀を防衛するための懸命さが伺える・・。

琴が浜に近い「鞆ヶ浦」はもっと古く、沖泊が銀の積出港として使われる以前の16世紀前半、銀鉱石を博多に積み出した港町として発達したところである。
戦国時代の大内氏が石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港であり、大内氏の次に銀山を支配した毛利氏の時代になると、銀の積み出し港は温泉津に移ることになる、その最大の理由は、鞆ヶ浦が非常に水の乏しい地区であったという、このことは沖泊と共通している。 
港は、やはり、深い入り江となっていて、ここ鞆ヶ浦にも自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」が多数残されている。


両港とも、東に延びる一筋の峻険な道が石見銀山へ通じている。
昔の「銀山街道」で、山地を介して銀鉱山へ達する全長約7kmの街道(山道)であり、沖泊道、鞆ヶ浦道と称している。
その名残の名残かどうか不明であるが近くの地域に「馬路」という地名があり、山陰線駅に「馬路」駅もある。


仁摩の町へ入って間もなく大きな石見銀山への案内が目に付く、その案内に従って内陸山地へと向かった。 
暫く、潮川に沿って進むが、やがて、大森トンネルを抜けると間もなく「石見銀山史跡」のセンターとも思しき施設へ到着した。 
大きめな駐車場の正面には重々しい門構えの御屋敷(長屋門)がドーンと控えていて、門脇の石碑に「史跡石見銀山遺跡代官所跡」」とある、現在は銀山資料館である。  

元々、石見銀山の行政を取り仕切る代官所(大森代官所)の在ったところで、江戸幕府の初代長官は、あの「大久保石見守長安」であった。
あれから数えて59代目となる幕末、代官は鍋田氏の時代であったが、慶応2年(1865)の幕長戦争で浜田藩が落ちると同時に早々と逃げ出し、長州藩は労せずして石見国を掌中に治めることになる。

その後、短期間ではあるが、長州藩による石見支配が明治4年の廃藩置県まで続く。
現在の代官所跡の建物は、石見銀山資料館として、鉱山で使った道具や生活道具のほか、鉱石の資料や石見銀山地方支配に関する歴史資料などを展示している。


次回は、 銀山の町・「大森町」


世界遺産・石見銀山(4)・・「温泉津温泉」

2008年03月06日 23時11分26秒 | 世界遺産・石見銀山
世界遺産・石見銀山(4)・・「温泉津温泉」

江津を出ると、すぐに山陰本線の山あいの「温泉津駅」に至った。 やはり赤い屋根のチョット豪華な民家風の駅であった。

「温泉津」は、普通に読めば「おんせんつ」であるが、確かにさっと見て読み難い、実は温泉(ゆ)の津で「ゆのつ」と読むが、「温泉津温泉」とくると更に厄介なようですが・・。 

山陰地方は「江津・ごうつ」など妙な絡み文字が多い・・?が、文字通り山陰西部の温泉町として名高い温泉津温泉である。 昔の人は面倒臭いことは言わず、「湯の出る港」だから湯の津なのだ・・!、と言いたげである。

駅より些か離れた旧銀山街道沿いの温泉街は、賑やかな歓楽街などが見られず、鄙びた和風旅館が両側にポツポツと並ぶする静かな街並みである。


世界遺産に登録された石見銀山の「温泉津」・・、
この温泉津は、かっては世界の銀の1/3を産出し、海外にも輸出していたという。
発掘された銀は、周辺の数箇所の港から出荷されていたが、その内の一つが現在の温泉津港の先端にある「沖泊」であった。
中世末期(400年前位)、この地から石見銀山の銀が世界へと積み出され、戦国時代は毛利の水軍基地として、また江戸時代の初期は石見銀山の物資の陸揚げ港、そして江戸中期から明治時代までは北前船の寄港地として栄えてきた。

17世紀初頭には銀山の支配体制を確立するため、柵を巡らして柵内と柵外を区分していたというが・・、温泉津はその柵内に位置していた。
銀山とこれらの港の間は道が良く整備され、鉱山があった町の大森から鉱石を牛馬に積んで険しい山道や街道を運んだ。
この街道は、「銀山街道」(歴史遺産)とも呼ばれ、西部山地を経る全長約12kmの主要街道であった。

温泉津温泉は、銀山を背景とする温泉津港の繁栄と共に、港を利用する多くの湯治客で賑わった。 銀山採掘に関わった人夫や鉱夫、役人まで、この温泉湯に浸かり疲れを癒しながら、一時の風情を楽しんだものと思われる。 街道に沿って小さな旅籠や問屋、商家の町並みが形成され今も、明治・大正の風情を多く漂わせている。
主要な温泉津温泉街は、国の重要伝統的建築物群(町並み保存)にも指定されてもいる。


ある温泉ライタ―が、『 湯治場の風情を色濃く残す温泉街が旧銀山街道沿いに500~600m続く。大正か明治時代にでもタイムスリップしたような、渋いモノトーンの街並みであり、狭い通りに赤い屋根・石洲瓦の小さな温泉宿が並ぶ・・・』と書いている。
ここ温泉津の温泉は、小さい頃に童話として聞かされた『いなばの白兎』でお馴染みで、大国主命が病気の兎を温泉に漬けて救ったことから始まったともいわれている。
確かに古き良き時代の雰囲気を醸し出しており、「フーテンの寅さん」シリーズのロケ地の映画の舞台にもなっているという。  


昔から岩間から湯水の如く湧き出してはいたが、明治5年(1872年)の浜田大地震の時に地殻変動で大量に噴出し始めたという温泉で、その名も「震湯」とも呼ばれる源泉主の「藤乃湯」がある。
「源泉かけ流し」は無論だが、自然の力で地底より湧き上がってきて、加熱も、冷却も、無論循環もしない正真正銘の純温泉だそうで、これぞ本物といった感じであるという。
泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物泉で源泉は49度と熱い。 
薬効として特殊なのが、ある大学の研究所で「原爆症」に対する効能が有るとも報告されているとか・・。


次回は、 「沖泊・鞆ヶ浦」

世界遺産・石見銀山(3)・・石見地方・「柿本人麿」

2008年03月05日 11時05分00秒 | 世界遺産・石見銀山
       浜田港

世界遺産・石見銀山(3)・・石見地方・「柿本人麿」

話を元に戻そう・・、「石見地方」のことである。
或る著名な歴史家に言わせても・・、「出雲には、日本唯一の風土記完本(出雲風土記)が残っているが、石見に関しては『柿本人麿』の赴任の記事がたった一つだけで、風土記や他の記事すらまったく現存しない。 出雲大社、荒神谷神遺跡(古墳時代:島根県斐川町)、加茂岩倉遺跡(古墳時代:島根県雲南市)など、いずれも出雲地方で発見されている。 しかし、石見は石見神楽に見られるように、郷土の文化に関心がない土地柄とは思えない。」・・と。


ここで「柿本人麿」について・・、

西部地域の石西地方の中心とするに益田市は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっている。 その中心に益田の市街地が開けている。 
その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っている。 

どっしりとした風格の入母屋造の本殿を持つ神社で、地元の人は「人丸」と呼んでいるようで、読み方によって「ひとまる」、「火止まる」で火災除けの神様、 「ひとうまる」、「人産まる」で安産の神様と開運・・、つまり火難除け、商売繁盛、安産の神様として人々の信仰を集めているとか・・。
元来が歌聖であることから、学業成就を願う学生も多く、人麻呂を偲ぶ参拝客が後を絶たないという。

皆さんご存知の有名な歌に・・、

元歌・・『 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 』――万葉集歌
読み・・『 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 』―百人一首
現代訳・・( 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう )

この歌は、小生たちが高校生頃、学業でも習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
柿本人麿呂(かきのもとのひとまろ)は万葉集のみならず和歌史を代表し、強いては日本文学史をも代表する人物で、奈良朝以前の飛鳥時代の歌人である。 
生涯で300首以上の歌を詠み、「万葉集」に、人麻呂作歌75首、および柿本朝臣人麻呂歌集で歌25首、計100首を載せてる。
又、百人一首・百人秀歌共に三番目に置かれている。

「柿本人麻呂」といえば、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。
上記、韓文字歌(万葉集歌)は一見したところ何のことやら判らぬが、飛鳥時代には未だ平文字は無く、韓文字で書かれた原文、原歌なのである。
因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで、集歌は天皇、貴族から名もない防人(さきもり・兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。

人麻呂についての人物史書や記録記載はあまり無く、その生涯については謎とされているが、宮廷での皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌(ばんか・死者を哀悼する詩歌、悼歌、哀傷歌)を歌うという仕事の内容や重要性からみても、政府筋の高官であったことは伺える・・。

人麻呂は、「石見国」へ国府の役人として下向したのであろうと言われているが、その痕跡、足跡は分からないし、当時の国府がどこにあったのかも諸説あるようで、現在のところ浜田市と想定されている。
その終焉の地も定かではないとされるが、有力な説として現在の島根県益田市であるという。

柿本人麻呂は、石見地方のことも歌に残している。
元歌・・『 石見のや 高角山の 木の際より 我が振る袖を 妹見つらむか 』

現訳・・( 石見の高角山(たかつのやま)の木の間から、私が振る袖(そで)を、妻は見てくれたでしょうか。 )

これは、柿本人麻呂が、石見の国司として赴任し、妻である依羅娘子(よさみのおとめ)をこの地に残して都を旅立つとき、妻との別れを惜しんで詠んだものと言われている。
この歌に詠まれた「江津」の高角山に、柿本人麻呂像と並んで依羅娘子像が完成し、設置されているという。
生誕の地とされる戸田柿本神社、鴨島で死没した人麻呂の霊を祀る高津柿本神社、そして隣接する万葉公園・・・等、石見地方は万葉ロマンに思いを馳せる地でもある。


その石見地方の中心都市「浜田」について・・、
新道9号線沿いの港が一望できる高台に道の駅・「夕日パーク浜田」があった。
港周辺の展望が抜群であり、港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋がいい風景となって見下ろせる。 橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」という。 すぐ左には同様ぐらいの大きさの島々が美観を添えてる。

ところで、こちらは鳶(トンビ)の駅・・?でも有るのかな・・、未だ夕焼けには早い時間帯だが、三橋美智也の「夕焼け空が マッカッカ とんびがくるりと 輪を描いた ホーイのホイ・・」ではないがトンビが1羽どころではなく、無数に飛び回っているのである。 それが低空飛行、滑空しながら人間に近付いてくるのである・・。
気がつくと見晴らし用の階段の一角で、一人の男が盛んに餌を与えていた。


浜田市は、益田市、大田市と共に石見三田(いわみさんだ)とも呼ばれているようである。
浜田は、古代・石見国の国府があったところとされてい。 ただ、国分寺跡らしいものが発見されているが、未だ確証はされていないという。 
鎌倉時代に守護制度が置かれると、源氏・佐々木氏がこの三国を支配し、室町時代には「大内氏」が領主となって、石見銀山をも支配するように成る。

浜田に本格的な城郭と城下町が築かれたのは江戸時代初期のことである。 
元和5年(1619)に伊勢松坂から転封されてきたのが「古田重治」(ふるたしげはる:羽柴秀吉の家臣だった古田重則の三男)だった。
浜田藩5万5千石の本拠地として浜田城を整備し、このとき、築城ならびに城下町整備のために重治が大坂から連れてきた瓦職人の伝えた技術が、昨今の石州瓦発展の基礎になったそうである。

その後、浜田藩は古田家以降五家十八代続き、長州(山口県)の毛利氏に対する最前線の抑えとしての役割を果たしてきた。
しかし、慶応2年(1866)、第2次長州征伐の際には山陰方面の幕府軍の拠点となったため村田蔵六(後の大村益次郎)率いる長州軍の猛攻を受け落城する。 藩主の松平武聡は城に火を放って鳥取へ逃亡し、250年近くに及んだ浜田藩の歴史に幕を閉じている。

江戸期における浜田港は、北前船の寄港と物資の集散地として栄え、又、一方、密貿易も行っていて浜田藩は多いに潤ったと言う。
江戸時代は鎖国時代であって、海外との貿易は幕府直轄の長崎港だけで、鎖国を破り海外との貿易を行うことは幕府への反逆行為として大罪であった。 しかし、鎖国は幕府が海外貿易の利益を独占するために行ったという説もあったようである。
実のところ幕藩時代は、どの藩も財政が窮乏しており、内密で江戸後期には薩摩藩をはじめ危険を冒してでもその密貿易に手を付けた藩や人物は結構いたようである。

浜田港は北前船の交易も盛んであったが、当節の浜田藩の財政難を見かねた藩の商人「会津屋八右衛門」は密かに朝鮮のウルルン島(当時は竹島)に船を出し交易を行い、数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したとのことであった。

しかし、それも幕府の隠密とされた「間宮林蔵」に摘発され発覚し、天保7年(1836年)に八右衛門は死罪となり、家老、年寄などの重職は切腹、藩主の松平家も福島に国替えとなっている。
浜田の庶民の安定した暮らしの中には、このような犠牲も有ったのである・・。

浜田港の右方、一路越えたところに広大な緑の丘が見渡せる・・、浜田城址(城址公園)である。 
小生お好みの作家・司馬遼太郎氏は、大村益次郎の伝記小説「花神」の執筆にあたり、浜田城攻防の歴史を調査している。
この際の記念に、本丸跡の上り口近くに、司馬氏の浜田藩追懐の碑文を記している。

『 いま、城跡は苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい 』
と締めくくっている。

松原浦を見下ろす岬の先端に、「会津屋八右衛門」の像が浦を見下ろしている。


次回は、世界遺産・・「温泉津」


世界遺産・石見銀山(2)・・「石見地方」

2008年03月05日 09時45分17秒 | 世界遺産・石見銀山
世界遺産・石見銀山(2)・・「石見地方」

「石見銀山」のことに触れる前に、「石見地方」について少々述べたい・・。
日本海に面した山陰の島根・石見地方に足跡を残したのは平成17年6月であった。
「石見銀山史跡」が世界遺産に正式に登録されたのが、2007年(平成19年)6月であるから丁度2年前のことになる。

特に、島根県に入って目に入ったものは、海の青、山の緑に相まって、人家の屋根の色彩が赤茶色が主体となって独特のコントラストを描き、風情をなしていることである。 
石見地方での代表的な色は、「赤と白」とよく言われるそうである。赤は、「石州瓦」のことで、白は「石見銀」のことのようです。
本編は、この石見銀のことが主題であるが、これは当然この後詳しく述べるとして、その派手色の「瓦」についてチョット触れておこう・・。

大阪の瓦職人の伝えたという「石州瓦」である。
日本に瓦が誕生したのは、仏教とともに百済国より伝来したのに始まるといわれ、奈良・「飛鳥寺」建設の時、日本初の瓦葺き屋根の建物が誕生したという。 
山陰地方での石州瓦は、飛鳥時代の石見国分寺(現、浜田市国分町、金蔵寺)の建立に始まり、江戸時代初期、浜田城築城や城下町建設に造られたのが基となったという。

石州瓦は島根県中西部、石見地方で生産されている瓦で、高い温度で焼き上げているため、硬くて耐寒性に優れた瓦といわれる。 
日本の代表的な瓦は、三州瓦(愛知・三河地方)と淡路瓦)兵庫県の淡路島)とされるが、 石州瓦と他産地の瓦との大きな違いは、原料となる粘土にあるという。
石州の粘土は、鉄分の少ない粘土(白土)を使用しているので、高温(1200度)で焼く事ができるため焼き締まって、硬く、水を吸いにくく、寒さに強い瓦ができ、海岸付近に多い塩害にも強く、風化しにくいという。 
山陰地方では赤瓦の町並みが連なり、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出しているのである。 現在は、凡そ25社のメーカーからなり、生産量は年間約2億枚で、陶器瓦部門全国シェア第2位を占めている。


「石見地方」とは島根県の西部地域を指しているようで、東部地域は無論、出雲地方のことであるが・・、
日本海に面した東西に長い県であるが故、何かにつけて石見地方と出雲地方は比較、対象されるという。 東部の出雲地方とでは、気候はもちろん人の気質までも大きく異なっていると・・。
人を指す時も、石見人とか出雲人といわれるそうで・・、真面目で勤勉といわれる出雲人気質と対象的に、石見の人々は何につけ豪快で開放的なのであるという。 

古代・飛鳥期の頃までは、石見は出雲地域の一部にすぎなかったが、奈良期の律令制度における地方行政区分として「石見国」が発足している。 その後、石州とも呼ばれることもある。
尚、石見地方を更に細分して、大田市を中心とする東部地域を「石東地方」、江津市や浜田市を中心とする中部地域を「石央地方」、益田市を中心とする西部地域を「石西地方」と呼ぶこともある。

地元、石見観光振興協議会では、「石見という言葉から何を連想しますか・・?」と問うと、 石見神楽、石見銀山、石見弁、豊かな自然や文化などと答えが返ってくるとい、全国的な知名度は決して高くはないと・・。

ここでチョット「石見弁」についても述べてみよう・・。
石見弁(若干異なると言うが出雲弁と共通)は、島根県地方特有の俗にズーズー弁といわれる。
これは東北地方に共通する方言でもあり、東北の田舎出身の(福島県いわき市)の小生は、当時は普通に使っていた言葉で懐かしく、今でも何かにつけて発する瞬間(とき)がある・・。

日本映画不朽の名作といわれる松本清張の「砂の器」(1961年)がある。
この映画の謎解きの重要なヒントの一つに「犯人と被害者がズーズー弁で喋っていた」という証言がある。 その結果、犯人像は東北出身者と考えられるのだが、捜査の進展の中で、実は東北弁とよく似た出雲の或る地方だけに今も残っていることが判明する。
この際、東北の捜査では秋田県・「岩城亀田」に出向いている。 
余分だが、この岩城亀田藩は、これまた小生の田舎に縁のある名称で、江戸期の岩城藩(小生の実家、福島県いわき地方)が出羽の亀田に転封になり、初代の岩城亀田藩が創設されることになるのです。
捜査は、秋田県・「岩城亀田」では手掛かりが得られず・・、後に、実際は出雲地方の亀嵩(かめだけ:奥出雲地方で木次線・亀嵩駅)であったことが判明する・・・。
両者の方言が共通していることから起きた混乱が、捜査を困難にしてしまうという、物語の重要なポイントでもあった。

東北特有のズーズー弁は「縄文語」である・・、という説が一般化している。
ご存知「出雲地方」は、神話の世界では大国主の「国譲り」で知られる。大国主は旧来の縄文人とも喩えられのであるが・・。
大陸や半島からの渡来人である弥生人が出雲地方にやって来て出雲を平定し、出雲の民である縄文人の一部の彼らが東北地方へ落ち延びたこととされている。
弥生人に駆逐された出雲の縄文人は、その中心を今の東北に移したとも考察され、従って、ズーズー弁である縄文語と呼ばれる言葉は、東北地方に残っていても何の不思議もないのである。
ズーズー弁の元祖は、出雲地方(石見地方)の縄文人で、その親玉が「大国主命」だった・・??。

又、同質の説も可能である・・。
縄文太古の時代の東西の文化、物資の交流、は日本海を中心に行われていた。
例えば、青森の「三内丸山遺跡」から北陸越後の装飾用の「翡翠」(ヒスイ)が大量に発見されているという歴史的事実がある。
又、大国主が「翡翠」を求めて、能登地方を巡りながら越後へ達している。
この時、越後の女王・奴奈河姫と結婚して、かの建御名方(タケミナカタ:諏訪大社の大神)という一子をもうけている。同時に、大国主は越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたといわれる。
この事は、あくまで考古学的裏づけがない神話、伝承に過ぎないが、古代出雲王朝の広がりが想像できる。
出雲王朝は東北の縄文以来連綿と続いてきた文化と同じ・・、端的に言えば古代出雲王朝は東北地方まで広がる巨大な王朝であったと考えられ、つまり、同質の文化圏を有していた。
縄文語であるズーズー弁は、出雲から東北に至るまで標準語だったのである・

ところで、ズーズー弁の出雲弁は出雲地方でも山間の一部の地域に残っているとも云われる・・。
何故孤立しているのか・・?、
ズーズー弁が縄文人たちの言葉とすれば、関西弁は弥生人の言葉かもしれない。 
大和王朝の勢力拡大に伴って、日本海沿岸を中心に栄えていた出雲王朝、出雲文化圏の人々の勢力圏を圧迫した。 そしてついには王朝の首都であった出雲を囲むように分断し出雲弁が孤立するようになったと・・?! 
歴史の面白さであろう・・!!。

(小生の日本一周記より・・)
出雲大社  http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-24-1.htm
奴奈川姫と翡翠  http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-27.htm  


次回も引続き「石見地方」について・・、


世界遺産・石見銀山・・「はじめに」

2008年03月03日 11時24分40秒 | 世界遺産・石見銀山
今回より昨年世界遺産に登録された「石見銀山」を特集いたします。
お楽しみに・・!!。



世界遺産・石見銀山・・「はじめに」

資料提供者に感謝


2007年(平成19年)6月末、「石見銀山史跡」は世界遺産に正式に登録された。
本年当初、一旦は綿密な調査が必要などとして「登録延期」の勧告を受けたが、6月末のニュージーランド(クライストチャーチ)で開催されている第31回世界遺産委員会において、更に審議の結果、階級特進の「世界文化遺産」(産業遺産)として正式に登録のはこびとなった。 
石見銀山は16世紀以降のもので産業遺産としては世界の遺産の中で最も古く、勿論日本では始めての登録となる。 

世界遺産についてのエリアは一般にコアゾーンといわれる核心(中心)部分とそれらを取り巻くバッファゾーンの緩衝地帯に別れている。

「石見銀山遺跡」の核心部分は、
一つ目に、「銀山柵内」(江戸時代初め柵で厳重に囲まれていたことからこの名がある)といわれる主に大森地区で、16世紀前半から本格的に開発され20世紀まで操業された銀鉱山遺跡の本体、銀の生産活動における生活、流通、信仰、支配に関わる遺構、遺物などなど・・名称として代官所跡、宮ノ前地区銀精錬工房跡、文化遺産的建造物、羅漢寺五百羅漢、それに石見銀山を防御するための山城遺構として石見城跡、矢筈城跡、矢滝城跡などがある。

二つ目に、石見銀山街道といわれる二つの港湾に向けてつながる、銀・銀鉱石と諸物資の輸送路で「温泉津・沖泊道」や「鞆ヶ浦道」、何れも16世紀前半から銀、銀鉱石を博多への積み出しや銀山への物資補給、軍事基地として機能した街道である。

三つにそれらの港と港町・・、銀山で産出した銀・銀鉱石の積み出しに利用された二つの港湾とこれに隣接して発達した港町および港湾集落で、「鞆ヶ浦」や「沖泊」、両港は船を留める「鼻ぐり岩」などが往時を偲ばせる。
それに温泉のある港町・「温泉津」は、江戸時代以来の町割りをよく残し、町屋、廻船問屋、温泉旅館、社寺等の伝統的建造物である。
平成16年、温泉町としては日本で唯一の「国選定」を受けている。

それに、これら中心部分を取り巻くバッファゾーンといわれる緩衝地帯で、約3600haの周辺地域、山域である・・。


因みに、現在まで日本にあるユネスコ世界遺産は、知床、白神山地、屋久島の自然遺産が3物件。
日光の社寺、白川郷・五箇山の合掌造り集落、古都京都の文化財、古都奈良の文化財、法隆寺地域の仏教建築物、紀伊山地の霊場と参詣道、姫路城、原爆ドーム、厳島神社、琉球王国の城(沖縄では城をグスクという)及び関連遺産群の10物件の合計13物件である。


ユネスコについては次のように記されている。
「ユネスコ」とは国際連合の一専門機関で、国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)正式には、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationという。
頭文字をとって「UNESCO」、通称ユネスコと称している・・。


次回は、 「石見地方」について