小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

短*君(後編)

2005年07月16日 | 短編
 君は、私の事を憶えているだろうか。
 この季節になると、私はいつも、彼が桜の傘を持つ姿を思い出す。今でも、彼はあの桜の傘を持ち歩いているのだろうか。共に過ごした梅雨の後に、過ごせなかった夏も彼は、桜の傘と共に過ごしたのだろうか。私は今でも彼は、桜の傘を持ち歩いているのではないかと考える。だから、信号待ちをしているときも、駅のホームで待っているときも、バス停でバスを待っているときも人が持つ傘をみては、手元が桜のポリエステル100パーセントの深緑の傘を探してしまう。
 似たような傘があると、見惚れてしまったり、違うと判るとひとつふたつ溜息をついたりする。つまり、あれほど腹立たしかった出来事でも、今となっては懐かしく思い、再び会えるものなら会いたいとも思っている。

*蟹股トリオ*
 中々梅雨が明けずに、あるものすべてがじっとり湿り始めた頃、世間の人たちが夏を待ち望んでいたけれど、私は出来ることならもうしばらく梅雨が続いてくれればよいと願っていた。彼は私と会うときにたった一度も桜の傘を忘れた事はなかったから、万が一梅雨が明け夏がやってきたとしても、彼は桜の傘を手放さないだろう。彼と会った数だけ桜の傘が付き纏い、嫌な思いも何度かさせられたけれど、彼が持っていて良かったと思った瞬間があった。そう、それは、本当に瞬間的な思いだった。
 晴れたと思えば湿気一杯の雨が降り、そのつかの間の晴れ日、どこまでも真っ青な空が果てしなく続きどんよりとした雲はどこかに姿を隠しているにも関わらず、彼は疑う事もなく桜の傘を持っていた。
 それを見かけた人は、彼が持つ雨傘をみて僅かに嫌な顔が表情に表れる。せっかくの晴れに見飽きた傘を持ち歩くなとも思っているのかもしれない。多くの人は、夏服でこの晴れを存分に楽しんでいた。
雨の日よりも人出が多い。私と彼は時々すれ違う人や立ち止まった人を避けながら歩いていると前方をつま先から頭の天辺まで不良一色のトリオが半径一メートルをテリトリーとしながら見事な蟹股でのっしのっしと肩を揺らしやって来た。向かって右側の男はサングラスにアロハシャツに短いチノパン、真ん中の男は、派手な帽子を斜めに被り大きすぎるTシャツに大きすぎるジーンズ、左の男はスキンヘッドにピアスだらけの顔に所々にジャラジャラと重そうなアクセサリーを付け捲くり一歩歩くたびにゆらゆらと揺れる。蟹股トリオを異色なオーラがドームのように取り囲んでいる。近づく蟹股トリオから、視線をはずし、言葉数も少なく、透明な雰囲気を装い通り過ぎようとしたとき、どういうわけかスキンヘッドの男から、ジャラジャラと金属が擦れ合う音が聞こえた。何かにぶつかったような音だ。
「おう」
 高い声。合唱団に入っていたなら間違いなく高音を歌わせられるだろう。この声は私に掛けられたものなのだろうか。彼の足がぴたりと止まり踵を返す。絶望的な気分が押し寄せていた。あんな素っ頓狂な高い変な声がもしスキンヘッドの男の声でなかったなら、頬は、にやけ噴出し、あんたどこから声出してるのさ、腹からだしな、なんて言っているかもしれない。けれど、今は、頬が引き攣るばかりで私は、恐る恐る振り向くと、スキンヘッドの男の口元が動き、眉間に皺がより、手で肩を摩りながら、当たってんだよとあの高い声を出した。
 おそらく、避けたはずの彼の肩にわざとスキンヘッドの男が当たってきたのだろう。彼は、咄嗟に適切に謝ったけれど、この男のぴかぴかした頭は、どうやらトリオのスイッチだったらしく、それは運が悪い事にピンポーンと押されてしまったようだ。彼の前に止まった蟹股を広げ罵声を上げ始めた。私は、彼の背中に隠れた。歯向かったところで勝ち目は九割方無いに違いなく、とりあえず、何かが武器があればそれで防御して・・・そう考えたとき彼の手元がピクリと動いた。このときほど、傘があってよかったと思ったことは後先ない。もしかすると、彼は傘の武道の達人かもしれない。だからこそ、いつでも肌身離さずに持ち歩いていたのかもしれない。淡い期待が、ボコボコと湧き上がってくる。あのスキンヘッドに一本なんてこともありえるのだから。彼は、私を背にしたまま持っていた傘を手元で持ち帰えた。蟹股トリオは、自然とその傘へ視線を動かし体を僅かに強張らせ、太陽の光に反射したスキンヘッドがキラッと輝いた。戦闘態勢に突入したのかもしれない。三対一。一発でも攻撃が効けば、その隙に逃げればよい。通りすがりの人は、誰も立ち止まらずに文字通り足早に通り過ぎていく。彼が傘を持つ腕が上がり構えるように一歩後ずさりすると、びゅんと風が巻き起こる勢いで私へ振り向いた。そして振り上げられた傘は私の胸に押し付けられた。
 反射的に傘を受け取り呆気に取られていると彼から送られてくる視線は、何かを決意し、桜柄の傘を頼んだぞと言われているような決意がひしひしと感じ取れた。やはりこの傘は、雨を防ぐものでしかなく、晴れた日には不必要なもので、忽ちがっかりと肩を落とし、深いため息まで漏れてしまった。今までの緊張感はあっという間に蒸発し、息を呑むこの状況がどうでもよくなり、それどころかこの渡された傘で自ら前にでてスキンヘッドの男の光る頭をベシベシと叩いてやろうかと言い知れぬ怒りが湧き上がっていた。
 彼が再び歩み寄り私が、彼を押しのけて前へ出ようと右足を踏み出したと、反対車線の歩道から声が上がった。振り向くと警察官だった。蟹股トリオは、誰よりも早く一瞬開かれた蟹股に力が入りやや内股ぎみに、くるっと踵を返し、ビデオ再生を早送りしているように蟹股でつかつかと歩き細い路地へ逃げ込んだ。
 振り向いた彼の顔は、固まってしまっているのか今だ強張り、額に玉の汗がポツポツと付き、心臓がバクバクと激しく動いているのか呼吸も荒い。彼は、私が抱えていた傘へ手を伸ばし、自らの手で桜の柄を握り締めると風船が一つ膨らませる程、息を吐き出した。
 彼は私を守るために体を張ろうとしてくれたとは思えず、いつもより過剰に握り締めている桜の傘を守るために体を張ろうとしたのではないかと疑わずにいられなくなっていた。
 私は、そんな彼に労いの言葉をひとつもかける事無く、何事もなかったかのように歩き出した。

*紫陽花*
 突然電話をかけてきて、遅咲きの紫陽花を見に行こうと言ったのは彼だった。結局これが彼に会った最後の日になるのだけれど、まだその時は最後になるとは思っていなかった。
梅雨明けが西から徐々に迫り数日のうちに関東も開けるだろうと予報され梅雨最後の雨を降らしていた日だった。朝、家を出たとき空を見上げると、見るからに雨模様で傘を持ったほうがよいと分かっていながら、彼が傘を持っているから待ち合わせの場所まで持てば後は彼の桜の傘に入れてもらえば良いと考えていた。案の定、彼は傘を持っていたし二人で歩き出すとポツポツと雨が降り出し私は桜の傘の下に入った。
 紫陽花は、寺の参道沿いにまっすぐと並び、すべて青紫一色に咲き揃っている。雨が少しだけ強くなり、金色の露先からポツポツと大きな雫が落ちる。二人の会話と共に雨が傘を叩き傘が音を上げる。立ち止まって雨を浴びる紫陽花を眺め参道を歩こうとしたとき、彼の足元は動かず私だけが一歩踏み出し露先から落ちる雫が私の腕を濡らした。声をかけると彼は、そわそわと左右を見て何かを探している。そして、寺の裏へ続く道を示す看板に書かれたトイレのマークを見つけると私に傘を頼むといい、私が手元をしっかりと握るのを確認すると駆け出していった。私は、その場に残される。男物の長傘は、本当に大きいなと雨がポツポツと打ち付ける傘の裏を見上げ、立てていた傘を倒し中棒を肩に付けくるっと手元を回すと傘に弾かれた雨がパラパラと吹き飛んだ。深緑の傘は、雨を吸うともう少しだけ濃くなる。傘の骨を伝い雨が弾かれる音が掌に感じる。桜の手元は、今迄で使っていた傘のすべてが敵わない程しっくりと手に馴染む。なんだか不思議な心地よさがじわじわと体に入り込んでくる。傘を差してうれしくなるなんて子供の頃以来かもしれない。再び、肩に掛けていた中骨をまっすぐとすると、一層、掌に雨の振動が心地よく伝わり、それはアコギが軽快にリズムを刻んでいくような感覚だ。
そんなことも作用したのか、私は桜の傘を差しながら誰より目の前に続く紫陽花に見惚れ、この傘を差しながら参道を歩きたくなり、彼を待たずに歩き出していた。

 紫陽花に雨の雫が乗っている。紫陽花が揺れるたびに、ポツポツと音を立て落ちていく。そんな雫に潤された紫陽花は、花びら一枚一枚が活き活きとしている。雨に打たれる、この傘のようだった。この傘には、やっぱり雨が似合う。雨を遮ってくれるおかげで、私は、紫陽花を眺めることが出来る。この傘は、自らの仕事をしっかりとこなしながら紫陽花のように活き活きとしているように感じられる。
 丁度半分程参道を歩いたとき、後ろから敷き詰められた石畳を誰かが駆けて来る音が聞こえ、振り向くと彼が水飛沫をぴちゃりと飛ばしながら近づいてくる。
 少し雨に打たれ肩や髪が濡れている彼は、私に近づくと、ゴメンねと謝り傘の手元へ腕を伸ばした。そのゴメンネは、私にだったのか桜の傘にだったのかは、今はもう分からない。私は、素直に彼に傘を譲り再び、桜の傘の下へ納まった。
 わざわざ彼に、私とこの傘どちらが大事なのなんて言葉すらかける気も起こらない。なぜなら、答えは聞かずとも分かっていた。嘘のような本当な話であるのだけれど、間違いなく彼は傘を選ぶだろうし、もうそれでも構わないと心が受け止めていた。けれど、それは覚悟とかではなく諦めで終わりを意味していたのかもしれない。だから、紫陽花を見終わり参道から寺の中庭へ足を踏み入れたとき、私は、彼に別れを告げてしまったのだろう。

*逃走*
 歯医者の予約を入れていた。時間はすでに過ぎていて急いで入口に駆け込み横に置かれている傘立てに濡れた傘を差し込む。乱雑に差し込んだ傘の手元が、隣にあった傘の手元にコツンと当たる。自動ドアが開き私が通り過ぎるの待っていたが、私はその音に足を止めてしまいを見てしまい、痺れを切らした自動ドアが音をあげ閉まり、再び開いた。傘立てに納まる傘に視線は釘付けになり、ドクンと心臓が波打った。傘の前へ駆け寄り、刺さった桜の手元を引き抜く、紛れも無くポリエステル百パーセントの深緑の傘だった。束ねられた露先は、六本すべて色が違い、ひっくり返して付けられている。

 彼の桜の傘だ。

 もう、会えないかもしれないと心のどこかで諦めていた。別れてしまった事を後悔していた。けれど、こんな形で再び出会えるとは思ってもいなかった。桜の手元にそっと触れると、懐かしい気持ちがじわじわと広がり胸がドキドキと高鳴る。ドラマチックな出会いに、衝撃を受けつま先から頭の天辺までドクドクと血が流れる。その時、閉じられた自動ドアが突然開く。男性の足が一番に目に映り、徐々に視線を動かしていくと、それは彼だった。彼が、自動ドアの真ん中で呆然と私の顔を見てゆっくりと手元へ視線を移動していく。私は、無意識に、桜の手元をきつく握り締める。掌に汗を掻き持つ手がぬるっとし緊張の為か痺れている。お互い言葉が一言も出ない。あまりにも、出会いが唐突に訪れたためだろうか。まるで、三角関係の男女が鉢合わせてしまったようだ。私は、握っていた桜の傘を胸に押し当て抱え、重なり合う彼の視線を外し、くるっと踵を返し床を蹴った。濡れた床は、きゅっと音を上げる。
 一目散に建物から飛び出し駆け出す。胸に抱えていた桜の傘を左手に持ち替えバトンを運ぶように、腕を振り足を高く上げ全速力で走り続ける。街中を、無我夢中で全速力で駆け抜けるなんてドラマのロケか、追われている人ぐらいだろう。そうだ、私は追われているだろうか、彼は、私を追ってきているかもしれない。もしくは、呆気に取られて呆然と立ち尽くしている間に私は、彼を撒いたかもしれない。けれど、どれだけの人が私の全力疾走に振り向こうとも止まるわけにはいかないのだ。

 全力で左の歩道へ曲がろうとしたとき、雨で濡れた歩道の上を靴がずるりと滑った。私は、バナナの皮を踏んだ体当たりな芸人のように一瞬宙で足をバタつかせそのまま歩道に転がった。握っていた傘は、手元から離れスルスルと歩道沿いの店先に滑っていく。私は、歩道の上に仰向けに雨に打たれ荒い呼吸で胸を上下させている。雨が全身を濡らし服はべっちょりと体に張り付き、前髪が目に入りチクチクと痛い、見るからに近づきずらい無残な姿になっているのは察しがついた。周りに人の気配はするけれど誰一人近づいてこない。痛む上半身を起こし目を擦り桜の傘を探し見つけると、ふらふらと店先に転がる桜の傘に近づきそっと手に取りその場にへたり込む。
 ショウウインドウに映される自らの姿は、想像しているよりも酷い姿だった。通り過ぎる人々は見て見ぬ振りで歩いていく。私は、桜の傘が今の衝撃で壊れなかっただろうかと心配になり広げて見ることにする。
 再び、この傘に触れるときが来たのだ。こんな惨劇的な状況でありながら心の炎は灯されたまま消えるどころか火は大きく膨らんでいく。
 懐かしい桜の手元を確かめるように掌で感じ、頬に当て感触を確かめ、下ハジキを外し押し上げようとしたとき、近づいた足音がパタリと止まった。目の前のショウウインドウに移る彼の姿。肩が上下に激しく揺れているけれど、穏やかな気持ちとは掛け離れていることは直ぐに分かる。
「なんなんだよ、嫌がらせか?」
 久しぶりに聞いた彼の声は、私が知っている声よりもずっと低かった。彼は、言葉切れ切れに私を見下ろして苛立ちを表す。そんな彼を見るのは始めてで私には考えられないほどの怒りが弾けそうなほど湧き上がっている。けれど、引くわけにはいかない。
「ち・・・違うわよお!!」
 ずぶ濡れの私は、雨を滴らしながら声が裏返る。半径三メートルには、彼しかいない。彼は私の激しい声に仰け反る。
「じゃじゃじゃ・・・あ、ななななんだよお!!」
 仰け反った体を再び戻し、怒り顔が動揺顔へと変わり表情がひっちゃかめっちゃかになり眉毛まで太くなっている。私は、へたり込んだ体に力をいれ中途半端に開いたままの桜の傘を持ったまま、ぐったりと立ち上がり傘を彼の前に突き出した。彼は、咄嗟に手を出しその傘を掴もうとしたけれど、私はひょいっとその手を透かした。
「桜の傘に会いたくて仕方なかったのよお!!」
 今まで募り募った告白だった。傘の中に震える手をいれ、半開きの傘を豪快に下ロクロを押し上げ開く。傘に付いた水滴が彼のズボン目掛けて飛び散る。私は、彼の細長くなった目を見つめ彼も私の目を見つめ沈黙の渦にぐるんぐるんと巻き込まれていき、歩道の横の道路を走る車が飛沫をあげ走りぬけていく。
 彼の目を見つめふと気になることがある。彼って目の横にホクロがあったっけ?それに彼、背が縮んだ?

 *再会*
 君に再び出会えるとは思ってもいなかった。私は、君を忘れていなかったし、手に触れた感触も懐かしく思えて、いつになく幸せだった。
 君との再会に嬉しくて喜びの渦にゆらゆらと巻き込まれ浮かれていたけれど、ひとつだけとても驚いたことがあった。
 それは、君の持ち主がいつのまにか入れ替わっていたことだ。私は、歯医者で自動ドアから出てきたのは、てっきり彼だと思い込んでいたけれど、落ち着いてみれば、かみ合わない会話や多くの不一致でようやく別人だと気づいた。
 けれど、私が見つけた桜の傘は、間違いなく君で、それがなぜ、ホクロの彼が持っていたのか気になり、お互い話をすることになった。
 ホクロの彼と君の出会いは、ホクロの彼の部屋だった。二日酔いの朝、気づくと君が枕元にしっかりと布団が掛けられ横たわっていたらしい。ホクロの彼が言うには、前の日、酔って電車に乗りうっかり君を持ってきた可能性が高い、らしい、そう、実際は、酔い過ぎてどこで君と会い持ってきてしまったのか分からない。
 盗まれた彼の気持ちを考えると、気の毒の何者でもないけれど、責める気にはならず、むしろ少し嬉しくなった。ホクロの彼の桜の傘への思い入れは、かなりの愛着を抱いていたけれど、使い方は人並みで君を雨模様もしくは、雨の時しか持ち歩かない。君もその方が嬉しいんじゃないかな。休みたい時だってあるだろし。
 私としては、そんなホクロの彼に君が出会えて本当に心の底から良かったと思える。

 それと、もうひとつ嬉しいことが。
 ホクロの彼は、以外に良い奴のようで、始めは、雨の日限定のデートだったけれど、いつしか晴れの日も、君なしで会うようになり君に抱いていた恋心は、どうやら紫陽花の花のようにホクロの彼へと移り変わっていった。
 けれど、雨の日は、いつも君が私達を雨から守ってくれている。


おわり・・・

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