小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

三月の出来事 3

2005年02月02日 | FILM 一二三月
雪【三の三】→→→  手に汗握り、固唾を呑んで見守る。声を出せば、自分のせいに成りかねない。二つのお好み焼き返しが、生地とプレートの隙間に入れられ、その部分だけ緩やかな丘のように盛り上がっている。そして、その丘の下には、平野が広がっている。果たして、この平野までも浮き上がり、香ばしく焼けた面を裏返すことは出来るのだろうか。
 膝立ちで、一点を見つめている優希は、勇み立っている。キックは、腹が据わっているようで、平気な顔で行く末を見守っている。
 優希の体が、タイミングを計ろうと二度揺れ、三度目に、両手に力が加わり、お好み焼きが返しから浮く。ピザ生地が宙を舞うように、お好み焼きがプレートの上を舞う。

「いけっ」

 力んだ体から言葉が漏れた。崩れる事無く浮いたお好み焼き、このまま反転すれば成功だ。

「ぴたっ」

 宙に浮いたお好み焼きが、降下しプレートに狂いなく収まり寂しい音を上げた。数秒前と変わらぬ状況に目が点になる。

「く~。ひっくり返す勇気がなかったぁ」

 勇み立っていた優希は、返しを握り締めたまま、右腕を額に押し付け、歯を食いしばり、体をよじり悔しがっている。もどかしい気持ちがこみ上げる。私は、優希の手から返しを取り上げる。そして、以前状態の変わらない、宙を浮いてきただけのお好み焼きを容赦なく三等分に切り刻み、まだ焼けていない部分から生地がどろりと漏れても見て見ぬ不利をし、パタパタとひっくり返す。黙々と作業を終えると、返しをプレートに立掛け、首をくるっと回し、凝った肩を揉み解した。

 小さな丸が三つプレートの上で湯気と共に香ばしい匂いを放ち続けていた。生地が入っていたボールは、すっかり空になり生地に入り込めなかった千切りのキャベツがべたりとくっついるだけだ。今焼かれている以外はすべて三人の腹の中に納まっていた。
 頃合いを見計らって、お好み焼きを数回ひっくり返しそれぞれの皿に載せる。時間をかけて三枚のお好み焼きを平らげていたけれど、一枚食べるたびに話の流れが変わっていた。
 一枚目を食べているときは、優希の同僚が予想を覆す大仏を観光している最中に、窓ガラスを割られ車場荒しにあってしまい、腹立たしい旅行になってしまった事。それを聞いたキックは、愛車がルーフである場合はどうすればよいのかと悩んでいた。私は、ルーフだろうがなんだろうが、窓ガラスを割られたのだから関係がないのではないかと言った。優希は、話の腰を圧し折るように、その同僚は、飲みかけのコーラまで盗まれたと話した。コーラの行方を想像しようとしたとき、二枚目のお好み焼きを皿に移した。

 キックは、手の平をコブシでポンと打って話し始めた。
 配達をしていたとき、道端でよれた画用紙を掲げ、上半身程のリュックを背負う、背の高い男性アメリカ人を乗せたらしい。ヒッチハイクというやつだ。その時、アメリカ人がコーラをくれた。そんなことを、ふと思い出したらしい。英語が滅法苦手なキックは、不自然な片言の日本語でハンドルから時折手を離し大げさなジェスチャーで会話を楽しんだ。そして、アメリカ人を道の駅で降ろした際、リュックの中から取り出したコーラを手渡られたらしい。その思いはとても心地よかったけれど、帰り際車中で口に含んだ生暖かいコーラは、ただ甘く酷く不味いものだった。しかし、捨ててしまうのも気がひけ、家に帰りラップをし冷蔵庫で冷やし、夜、風呂上りに冷たくなったコーラをごくりと飲み干したが、すっかり炭酸は抜けていて、やはりただ甘いだけのドリンクになっていた。

 こうやって、お好み焼きが焼けるたびに、なにかしらのキーワードで、がらりと変わっては、空に浮かぶ雲のように知らぬうちに通り過ぎ、他愛もない話で、笑っては、瞬く間に忘れ去り、お好み焼きがすっかり消化しても話は、尽きる事がなかった。
 ビールやカクテルを一通り飲み終わったとき、一番ペースが速かったキックは、案の定目が虚ろになり、引き締まった顔までが、だらりと筋肉が緩みっぱなしになっていた。

「まずい、今日は眠れないかもしれない」

 何を心配したのか、そんな事を口走り、右手でグラスを握り、裂きイカに左手を伸ばし、どれを取ろうか迷っていたかと思うと、ぴたりと動きが止まり、小さないびきを響かせた。数秒の出来事だった。

「催眠術?」

 優希と顔を見合わせると、こみ上げる笑いを部屋中に撒き散らした。驚いて飛び起きたキックはきょろきょろとしている。

「え?寝てた?」

 カーテンの向こうにある世界が、どうなっているかなんて考えることもなく、この小さな部屋での出来事しか興味がなかった。
 いつのまにか、私の瞼も重くなり重力に勝てずにそのまま、倒れこんだ。どこまで、私が起きていたのかも思い出せない。ただ、意識が薄れる中、瞼の向こうでちかちかと光を出していたテレビがプチリと音をたてその光が、何かに吸い込まれるように薄れていった。



 夢なんて見る暇もないほど気持ちよく眠りについていた。誰かに体を揺すられた。心地よい世界がバラバラとヒビが入り剥がれ落ちていく。
 眠い目をこすりやっとの思いで片方の目を開けると分身したキックが話しかけている。何を話しているのか理解できず右の耳から左の耳へ急行列車並に通りすぎていき、折り返してきても、同じように過ぎていく。腕を引っ張られ、座りの悪いぬいぐるみのように壁に立掛けられてしまった。意識を呼び起こそうとしても、幾度となく暗い穴に落ち込み、頭が傾く。瞼の隙間から見える霞んだ時計の針は四時半をさしていた。

「なに・・・」

搾り出した嗄れた声。

「雪が積もってる」

 この早朝とは思えないほどの活き込んだ言葉。

「雪?昨日の?」

 目の前を歩き回るキック。のそのそと、這って窓へと向かい、カーテンの隙間を覗きみる優希。その姿を、上がり始めた瞼の下からぼんやりと眺めていた。背中にカーテンの隙間から伸びた白い光があたる。
 突然立ち上がり動きだしたかと思うと、視野が失われた。真っ暗。顔に被さるダウンジャンパーがずるりと落ち、見慣れた部屋が現れる。その中で二人は、黙々と身支度を整えていく。いち早く動き出したキックは、準備を終え、優希は、ロングコートを羽織るところだった。キックが、私の目の前に立つと、また視野が半分隠れる。マフラーが、頭からだらりと垂れ下がる。この二人は、いったい何をしようというのだろうと、ぼんやりと思う。

「ダラダラしないっ、早く着る」

 四時半という時間帯には不似合いで不謹慎とも取れる自分勝手な言葉は、躊躇いなく向けられる。なんだろう。いったいどうしろというのだ。ジャンパーとマフラー、追加で飛んできた手袋を不貞腐れながらも、意思とは反し動きを拒否している体にジャンパーをつけ、マフラーを巻き、手袋をした。

 二人の仁王立ちした両足が、両脇にある。突然屈んだかと思うと、脇から手がニョキっと現れ、体が強張る。無理やり立たされ、膝がバネのように上下する。極度の低血圧でふらつく私を、気にする事無くズルズルと引きずっていく。
 これが、居心地の悪い夢ではないと気づいたのは、部屋を出たときだった。
 氷でもかぶったかと錯覚するほどの凍てついた空気が、露出した肌を通じ全身を強張らせる。息が止まりそうになっても、二人は足を動かし続け、私の足も、組み込まれた歯車のように、意識とは別に動いていく。
 まったく、こんな早朝から叩き起こされ外へ出ているという事実を理解し始めた頃には、腹立たしい気持ちがじわじわと沸き起こっていた。出来ることなら、部屋に戻ってコタツの中で眠りこみたい。

 階段で幾度か足がもつれ、やっとの思いで下りると突然、白い光りが目の奥にまで突き刺さり、咄嗟に閉じた。瞼の先は、白く輝いている。恐る恐る目を開ける。目の前に広がったのは、静寂な真っ白い光の中の世界だった。

「すごい!!」

 一瞬仰け反り、目を見張り、快活な声が飛び出た。自発的に体に血が通い思考が活発に動き始める。

 夜が明け、朝を迎えたばかりの白々とした街の中。目に映るすべてのものに雪が覆いかぶさっている。
 雪は七センチほどしか積もっていなかったけれどまだ誰にも触れられてなく、闇から舞い降りたままだった。
 足を踏み出すと、僅かな抵抗が靴を伝わり、ざくっと音が漏れる。県道は、さすがに車は行き交っていたけれど、多くの車のボンネットには、同じ荷物が載っていて、ブレーキをかけると、スルスルとフロントガラスの方へ滑り落ちていく。何台かは、タイヤとアスファルトが擦れ、ガタガタと音をあげ走っていた。タイヤが通る道筋は、ただ染みているだけだった。
 信号機の点滅した黄色い明かりが雪の中で灯り、太陽が海の向こうから顔を出す前の光が、ブロック塀に積もる雪も、置き去りにされた自転車のサドルやハンドルに積もる雪も、看板の上に積もる雪も、すべての屋根に広げられた雪も、何もかもを、キラキラと輝かせている。それはまるで、水彩画で描かれた絵葉書のような景色だった。

 キックがおしたボタンで、信号が点滅から青へと変わる。三人は歩道で広がる景色に見惚れながら、踏み出した。

「きゃあ」

 白線を踏みしめた優希は、悲鳴をあげ、仰け反り隣にいたキックの腕にしがみつく。一瞬踏み込みが遅かった私は、優希の体勢が崩れるのを横目で感じながらも、上がった足を止めることが出来ずに、白線の上に落ち、カキ氷でも削るようにジャリッと左足の裏が、氷上を削りそのまま勢いよく流れ、反対右足でバランスを取ることを試みても、左足同様、ズルリと滑り尻餅をついた。この感覚、どこかでみたような。

「コチコチだよ」

 嬉しそうに、笑みを浮かべながら優希の体勢を立て直し手を離すと、スルスルと横断歩道の上を、野球で塁に出たとき、リードする選手のように、横を向きながら滑りだし、あっというまに渡りきったキックが、二人を急かしている。
 二人は、生まれたての小鹿のように尻を突き出しなんとか渡り切ると、百メートルでも全力疾走したかのように息が切れていた。

 雪に包まれた公園の木は風に揺れる度に、ぱさぱさと細かな雪を振りまいている。
 見渡す限り真っ白で、ブランコも、滑り台も、ベンチも、細い鉄棒にすら器用に、飾られている。空を小躍りでもするかのように、声をあげ飛び交う鳥たち以外は、誰も踏み入れていなかった。

「きつねでも呼んで見るか?」

 キックが嬉しそうに言う。

「るるるるるるる・・・」

 優希が屈み手を前に出している。三人が一斉に笑いを零す。

「真ん中行っちゃう?」

 沸き起こる好奇心に、キックへ視線を送り優希へと移す。白い息が何度も漏れている。真っ白な頬の真ん中が少し赤らんでいた。服装を見ると薄着であることに気づいた。それもそのはずで、私がジャケットとマフラーと手袋をしているのだから。心の中で舌打ちをし、寝ぼけていたとはいえ不甲斐ない。後悔が津波のように押し寄せる。
 咄嗟にジャケットを脱いだ。そんな突拍子もない行動を真横で見ていた優希とキックは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
 私は、そうは言っていられず、優希の首にマフラーを巻きつける。

「やっぱりジャンパー車から取ってくる。コート脱ぎなよ、それ汚れてもいいコートじゃないじゃん」
「えっ大丈夫だよ。面倒でしょ」

 優希は一度だけ断ったが私の強引さに負けてコートを脱ぎジャケットに腕を通した。

「これも邪魔」

 手袋を外し押し付けた。

「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」

 二人は、ほとんど言葉を発せず、私は息を入れる暇もないほど捲し立て、公園を後にした。優希のコートを抱えアパートへ、なんどかずるりと滑りながら走った。そして車の鍵を手にしてまた外へと飛び出す。

 駐車場には、雪を載せた車が三台停めてあり、うち二台は、私達のもので、一番手前の自分の車へと近づく。車は、氷のように冷え切っていた。それは車内も変わらず、一晩置き去りにされていたジャンパーに腕を通すと、どういうわけか、体の芯まで冷やされていくように感じ、何度も身震いした。もしかすると、使うべきときに使って上げなかった逆恨みだろうかとふと考える。
 息を切らしながら走っていくと、まだ二人は公園の入口に足踏みをしながら立っていた。

「ごめん、ごめん、お待たせ」

 そして、足踏み揃えず、中へ踏み入れた。

 悲しい事に、ジャンパーに冷やされた体は一向に温まることなく、それが私の中の隠れたスイッチをポチっと押した。

「うわあ」

 雄たけびを上げ、ざっくざっくと新雪を踏み鳴らし、つるつると滑る滑り台によじ登り、滑り台から転がり落ちた。立ち上がると雪まみれの体から、べたついた雪が剥がれ落ちる。

「気持ちいい」

 大きく腕を広げ肺いっぱいに息を吸い込むと、少し湿った冷たい空気が染渡る。ジャングルジムに登り仁王立ちしているキックが言った。

「雪ダルマを作ろう」

 時々響く新聞屋のバイクの音が聞こえてくる。こんな日でも休むことはできないのだろう。私達は、ひたすらたった七センチ程の雪をかき集めている。


 ひと掬いすれば地肌が見えてしまう。たちまち積み上げられる白い雪は茶色の塊になっていく。手当たりしだいに雪や土をかき集めやっとのおもいでひとつのまるい塊ができる。
 雪ダルマと胸を張りたいところだけど白い部分よりも明らかに茶色い部分が多く占めていた。それでも五十センチほどになっただるまを、赤くかじかむ手を何度も吐く息で温めながら、作り上げる。
 念入りに木の葉で目をいれ、雪ダルマが出来上がった。
 三人は、遠めに出来栄えを観察し、チャーミングな雪ダルマを笑った。無理やり満足したところで、ふと寒さに突然襲われアパートに駆け戻る。
 公園を後にするとき、真ん中で佇む茶色い雪ダルマはじっとこっちを見ていた。私たちは合掌し、駆け出した。

 優希の部屋に戻り軽い朝食を取り、三人とも仕事があったのでおのおのアパートを出た。
 駐車場で鍵をあけて乗り込もうとしたとき寒そうに歩く犬の散歩をする老夫婦が歩道を通る。

「雪ダルマか~縁起がよい」
「誰が作ったのでしょうね」
「トンチがきいてるなぁ」

 厚く着込んだ老夫婦が、嬉しそうに話しながら歩いていく。
 私は、車に乗りこまず、公園の方をみた。そして、一人思い出し笑いをする。あれはベターで寒いギャグだけれど年齢は関係ないのだと確信する。
 キックが雪ダルマを作ろうと言い、雪をかき集めてみたけれど、二つの玉を作るとなると小さな雪ダルマしか出来ない。キックは、そんな小さな雪ダルマなんて意味がないと豪語し、あっちのダルマにすればよいと言張った。あの赤に塗られためでたいダルマだ。
 雪の中に、あのダルマは不似合いだと二人は説得を試みたものの、頑として譲らないキックに押し切られる形になり、あれが完成した。
 でも、今思えばあれで良かった。それは、あの老夫婦にうけたというわけではなく、今、周りを見渡すと、アスファルトの上にあった雪は水溜りに変わり、あれほど覆いつくしていた屋根の雪は、雫になり流れ落ちている。太陽が昇り、照らされた雪はあっというまに跡形もなく消えていく。だから、少しでもあの公園の真ん中で、あのダルマが座り続けてくれればいいと願っていた。
 並ぶ桜木の枝に僅かに残る雪の中から、小さな芽が顔を出している。こんなにも寒いのに、春はすぐそこまでやってきているのだろうか。この冬も、この雪のように消えてしまうのだろうか。キラキラと滴る雪の雫を見ながら、少し戸惑っていた。



thank you
おわり・・・

三月の出来事 2

2005年01月29日 | FILM 一二三月
雪【三の二】→→→  空を見上げると、引き千切った紙くずのような雪が、真っ黒な空から、ふらふらと舞い降りてくる。近づいた雪が顔に降れ、ひんやりとした感触を残し、消えていく。目の前を、トラックが通り抜け、のんびり落ちてきた雪は、突然の風の流れに吹き飛ばされる。
 身震いし、首をジャンパーに竦め、歩き出した。
 県道に出て、信号待ちをする。赤い光りは、降りしきる雪の中で、ぼんやりと輝いている。道路や歩道は、滲みているだけであるが、住宅の庭にある木には、薄っすらと雪化粧され始めていた。余所見をしている間に、信号は青に変わっていた。両車線、車がヘッドライトを点けたまま、停車し、横断歩道を照らし続けている。
 あまりの眩しさに目を細め、俯きながら歩きだす。
 信号を渡ると、コンビニが煌々と光を放っていた。

 マットを踏み自動ドアが開くと、冬独特のおでん混じりの匂いが鼻につく。
 あまり好きな匂いでもなかったのでかごを取り一直線に酒のコーナーへ向かった。
 二度手間にならないよう、多めに酒やジュースをカゴに入れる。

 陳列されている商品をみながらレジへと向かう。カウンターに片腕をつけて暇を持余していた店員が、足音に気づき、レジの前で待ち構えた。カウンターへとカゴをあげるとき、カゴを持っていた右手が、ピキリと小さな悲鳴をあげ、咄嗟に左手を添えて持ち上げる。瓶や缶が、ぶつかりあい音を上げる。店員は、次々にバーコードを読み取っては、ビニール袋へ入れていく。会計を済ませ、お釣りをもらい、ポケットにいれ袋を手にし、引き寄せる。
 カウンターから離れた袋は急降下し、肩が不自然に傾くほど、ずしりと重く、指へ食い込んだ。

 コンビニを出ると、横断歩道の信号が、点滅しているのが見えた。間に合わないのを見越し、足取りを緩めたものの、変わったばかりとあっては、青に変わることはなく、結局立ち止まる。一旦、ビニール袋を置こうかと思ったけれど、アスファルトの上は、水溜りが出来ている、仕方なく右手から左手に持ち替える。右手は、ビニール袋の痕がくっきりと残っていて、袋を二つにしてもらうべきだったと後悔した。

 雪が徐々に大粒になっている。もしかしたら、積もるかもしれないとぼんやり考えていた。

 信号を渡りきったとき、アパートの階段から一人の男性が背中を丸め、出てくるのが見えた。見覚えがあるシルエット、高くも低くもない背丈で、痩せ型、丸い頭に、丸眼鏡でやや猫背の三十代後半。男性は、寒空の下にでると、一度立ち止まりブルッと振るえ首を竦める。
 私は、アパートへと歩き、男性は、信号の方へ歩き始め、私の姿に気づくと、ポケットに入れられていた手を出し、軽く上げ、立ち止まった。

「こんばんわ」

 声をかけながら、部屋を出るときの電話のベルを思い出していた。その主は、降谷だったのかも知れない。
 優希の学生時代、保護者代わりをしていた降谷は、四年前まで、この町に住んでいた。度々優希の元へと訪れていたが、仕事で転勤になり、今はどこか寒い所にいると優希は言っていた。

「こんばんわ、のりこさんだよね?」

 降谷とは、数回しか会った事がなく、そのうちほとんどが、こんな形ですれ違うものだった。頷き、降谷を見る。降谷は、優希と話す際でも、どこか他人行儀で、畏まった話し方をする。そして、名前にさんを付ける。キックにですら、菊乃さんと呼ぶのだ。何度あっても、さんづけで呼ばれると、自然と背筋が伸び、今までの気が抜けただらしない顔が引き締まる。おそらく、七ミリは、身長が伸びたかも知れない。

「どうされたんですか?」
「いや、出張で近くまで出てきてね。久しぶりに優希さんの顔をみていこうと思い立って電話をかけたら、いるということだったので、新幹線に乗る前に寄らせてもらいました」

 やはり、あの電話は、降谷だったのだ。

「そうですか」

 何を話してよいのか思いつかず、言葉が途切れる。降谷は、時計に目を落としてから話を続けた。

「さてと、いかなければ。優希さんも相変わらず元気のようですし、安心しました」

 降谷は、人懐っこい笑みを浮かべ、社交辞令の言葉を残し歩き始める。優希さんの事をお願いします。この言葉が、私の心に止めを刺さんばかりに押し潰そうとしていた。

「降谷さんっ!!」

 歩き進める背中を見送るうちに、持っていたビニール袋を、痺れ始めていた掌で、握り絞め、無意識に呼び止めていた。不安が押し寄せ、信号を渡ろうとした降谷に叫んだのだ。
 降谷は、驚き振り返り立ち止まった。眼鏡の奥にある眼差しは、先ほどの笑顔で見せたものとは違い、真剣な視線が私を捉え、待ち構えていた。二人の距離を、降り続く雪が切れることなく割って入る。その距離が、私の心を急速に落ち着かせていた。

「急がないと、雪で新幹線止まっちゃうかも」

 空いた手で空を指すと、降谷の顔は緩み、信号が点滅していることに気づき、駆け出した。シャーベットが載った、白線の上は、酷く滑り、それを踏みしめた革靴の降谷は、見事に体を浮き上がらせたかと思うと、尻を白線に打ち付けた。信号は、点滅から赤へと変わり、腰を摩りながら、慌てて立ち上がり、信号待ちをしていた車は、クラクションを鳴らすことなく、降谷が渡りきるのをじっと待っている。

 呆然と立ち尽くす私を、照れ笑いをしながら、向い歩道から手を振り、足早に駅方向へと消えていく。
 呼び止めたとき、降谷の目は、私の言葉を待っていた。あの時、私自身何かを言いたかったのは事実であって、けれど、何をどう話せばよいのか、判らなかった。優希の事を頼まれたものの、優希は、私よりもずっと強くてしっかりしている。そんな私が、優希のためにして上げられることなんてあるのだろうか。
 痺れていた手元一点に力が食い込む。片方のビニールの取っ手が、重さに耐え切れず、プツリと切れ、詰め込まれた飲み物が、バランスを崩し音をあげると同時に、ビニールは、重力の通りに、傾き左足の脛にぶつかり、鈍い衝撃が駆け抜け、鳴り止むことなく痛みが響く。
 くの字に折り曲げた体。冷たい手で、ぶつけた脛を摩る。痛みが白い息になり吐き出される。突然の降谷の出現で、心が騒いだ自分が気になって仕方なく、苛立っていた。
 雪は、止まる事無く降り続く。その下で脛を摩る私は、酷く惨めだった。

 痛みを引きずりながら、袋を抱えこみアパートの階段を上がり部屋へと向かう。
 ドアのチャイムを鳴らすとキックがでてきた。

「何?腐った顔しちゃって」

 輪をかけて腐った息を吐き出し、袋をキックに押し付けた。
キックはあんなにも重かった袋をひょいとうけとり台所にすたすたと向かっていく。
部屋に入ると、テーブルの上にはホットプレートが出ていてその横にお好み焼きの準備がされていた。

「あ~重かった」

 腐りきった声をだし、二人がご苦労さんと声をかける。ジャンパーを脱ぎ、座り込み、ジーンズを膝下まで捲りあげると、すでに、青痣が薄っすらと浮き出ていた。

「どうしたの、それ?」

 横目で見ていた優希が、覗き込む。
 紐が切れ、飲み物でぶつけたと話すと、鼻で笑う。

「何しているんだか」

 ぺしっと青痣を叩き、戻っていく。痛みに歯をかみ締め、心の中で、同じ言葉を呟いた。


 働く二人の姿を気にしながら、コタツの中へ入った。テーブルの中央に置かれているホットプレートを見つめる。コタツの中のヒーターで温めていた右手を出し、プレートにかざす。熱を感じ取れない。指を伸ばし触れて見る。プレートには電源が入っていないようだ、スイッチへと目を移すと、赤いランプは点いていなかった。

「電源入れていいの?」

 台所に、聞く。

「いいよ」

 飲み物を運んできたキックが、電気コードがコンセントに刺さっているか、確かめる。
 私は、手を伸ばし、ダイヤルを捻りランプが赤く点るのを確認し、プレートへと指を伸ばした。人差し指を伝い、僅かな振動が伝わる。

 数分後、プレートの上に手をかざす。熱が、十分感じ取れる。

「もう、いいよ」

 私が告げると、キックは、どこからともなく現れコタツに入らず正座をして、プレートを見つめ、手をかざし、頷いた。

「うん、いいよ」

 優希が、言葉を聞きつけ、お盆の上に、浅漬けのきゅうりと箸を載せ、テーブルに目一杯置かれた隙間を見つけて、置いていく。

「うん、焼こう」

 優希はダイヤルの赤ランプが、適温を知らせる青ランプに変わっている事を確認し、お好み焼きの生地が入る黄色いボールへと手を伸ばした。

 ひざ立ちをし、プレートの上でボールを傾け、どろりとした生地が、ジュジュと音を上げながら円を作り上げていく。丸いホットプレート一杯に広がり続けるお好み焼き。

「よし」

 満足げに納得する優希。よし?何が良しなのだろう。あまりにも突飛な行動に、唖然とししばらく見守っていたけれど、キックの一言で我に返ることが出来た。

「デカッ!!」
「だよね、だよね、コレ、大き過ぎるよね、普通、丸三つでしょ」
「なんか不満でもあるわけ?別に、高さを三倍にしているわけじゃないし、三つに切ればいいだけのことでしょ?」

 そうなのかな、なんて危うく、納得仕掛けそうになったが、頭を振った。

「そっか」

 キックが、腕を組んで頷いている。この単純さに呆れる。

「三つの丸の方が絶対食べやすいって、切る手間だってないんだよ」

 言葉に力が入る。優希は、左手をあごへもっていき、視線を天井へ向け、唸っている。

「のり、考えてもみなよ。このけして大きくないプレートの上に、小さな丸を三つ作ったとして、その一つの丸って、ちょっと量が少なくない?それにスリルもないし」

 とっくに陥落したキックは、この話題には興味がないらしく、テレビをみては笑い、優希の言葉は聞こえていないようだ。私は、プレートを見つめ、デカデカと広がり、プツプツと音を立て始めたお好み焼きの上に、三つの丸を思い描く。

「確かに、小さいね」

 私も、数分の差で、陥落した。けれど、語尾についたスリルという言葉は聞き逃していた。優希は、鼻歌交じりに、まったく焼けていないお好み焼きとプレートの間を、お好み焼き返しを使って覗きこんでいる。その度に、プスプス音をたてるお好み焼きに、皺が寄る。ひとつの疑問が湧き上がる。この馬鹿でかいお好み焼きは、どんな方法でひっくり返されるのだろう。今までの経験上、優希はそこまで考えているようには到底思えず、まさか、スリルなんてものを求めていることも思いもよらずに、香ばしい匂いを出し始めたお好み焼きを見つめていた。



thank you
つづく・・・

三月の出来事 1

2005年01月26日 | FILM 一二三月
雪【三の一】→→→  そういえば今シーズンの冬は、積もる雪が降っていなかった。
 それなりには寒かったけれど耐えられないような気温の下がり方はほとんどない。
 最近はそんな冬が多くて、寒波が押し寄せてくるなんて天気予報でやっていても、私が住む町には、これといって変化なく、なんだか拍子抜けしてしまう程で、いつのまにか春になっていることに気づく。

 幼かった頃は、布団の中で丸まっては、時折寒さで目覚め夜を過ごした次の朝は決まって窓の外はキーンとした空気がそこら中を包み辺り一面キラキラと白く飾られていた。
 学校に行くのにも15分で到着するはずが3倍程の時間をかけて積もった雪と戯れたものだ。
 そんな日は決まって母がいつもより早く起こしてくれて早朝から雪遊びをしたり、父の車がガレージから出れるように雪かきをした。大人も子供以上に、はしゃいでいて、となりのおじさんはまだ車が通らないことをいいことにスキーの板をちゃっかりとつけ、タイヤ跡がない道路を一番に滑っているのを見たことがある。これには子供心に少し違うぞ、おじさんと冷ややかな視線をブロックの間から覗き見ていたのを憶えている。いや、鮮明にやきついている。
 登校中には、雪合戦の標的になり顔などに強烈な一発が入り、泣き崩れている子が多々いたりする。ジャンパーのフードの中にはぎっしり雪が入っていることにも気づかず、夢中になって、踏み荒らされていない新雪をみつけては、狙って踏み込んだり、学校前の坂は一面凍りつき、滑り台状態に変貌し先生がどれだけ叱っても、わざと転ぶ者が続出し、ごろごろと下り落ちていく生徒を横目でみなながら、雪山登山隊のように、前傾姿勢で登ったものだ。

 雪に不向きな靴や手袋は学校に着くと、ぐちょぐょに濡れていて、どういうわけか、ランドセルの中に雪を詰めてしまった生徒がいたり、教科書は洗濯バサミで干され、その日ばかりはストーブの周りをたくさんの濡れ物が干され、白い湯気がほんのり立ち上り教室中、なんともいえぬ匂いが漂っていた。けれど、誰もがその雰囲気に酔いしれ興奮していた。
 一時間目はどんな授業が入っていようが大抵外での雪遊びの時間に変更され、存分に満喫することができた。運動場一杯にある真っ白な雪をおもいっきり駆け回っても土が出ることもなく、雪は固められた片栗粉のようにきゅっきゅっと音をたてた。
 屋根のおかげで、積もらなかったところは、中指くらい背の高い霜がそこらじゅうにたっていて、よく見ると氷の神殿が築かれている。そんな立派な霜をざくざくと惜しみなく押しつぶして楽しんでいく。
プール一面が分厚い氷に覆われ、なるべく高いところから、その辺で探した石を思いっきり投げつけ氷を割る努力を惜しみなくした。子供の力では割ることが出来ず、凍りはゴツっと音をあげ、石は、スルスルと滑っていく。冬の創造の中で私たちは全力で遊んでいた。


 いつからだろう。朝、雪のために起きなくなったは、白い雪があっという間に汚され茶色になってしまうようになったのは、あんな立派な霜を見かけなくなったのは、鏡のような分厚い氷が張らなくなったのは、いつからだろう。
 そのうち雪もあまり積もらなくなり、小石を投げればパリンと割れてしまう薄い氷を見かけるくらいだった。締まらない冬を毎回迎え、気にすることもなくなっていた。


 3月の上旬、仕事は差ほど忙しくなく定時で上がる日が続いていた。仕事場を出る瞬間まではまっすぐ自宅に帰る予定でいたけれど、外を吹き抜ける空っ風に当たるとその気持ちが吹き飛ばされ、勝手な欲求が頭の中で組み立てられ、足早に駐車場へ向かった。かじかんだ手でキーを取り出し、車に乗り込み冷えた車内でエンジンが温まるのを待つ。
 今日は、いつもよりも寒さが厳しかった。時折、エンジン音の、ぷるぷると不規則な振動が響き、おいおい大丈夫かい?なんて心配しながら次第にエンジンは落ち着き、血を通わせた様子で、ようやく暖房のスイッチに手を伸ばす。ちいさな排気口からぼわっと、じんわり暖かい空気が噴出し、指先まで冷え切った手をかざし温める。

「それにしても今日は寒いなあ」

 ハンドルにもたれながら外を見上げ呟いた言葉は窓を白く曇らせた。冷たい指先で白いキャンパスに○を書き、真ん中にちょんちょんちょんと点を打つ。

「たこ焼き食べたいなあ」

 暖まりつつある車内で、ぼんやりと湯気が立ち上るたこ焼きをイメージしていた。

 車も人も暖まり、私は狭苦しいジャンパーを脱ぎ後部座席に投げ捨てた。
 携帯を持ち、メールをひとつ送信し返信が来る前にサイドブレーキを下ろし、ドライブにいれアクセルを踏み込む。
 窓に描かれた、たこ焼きの絵からは水滴がだらりとタレのようになり、崩れていく。

 優希のアパートの近くの公園パーキングへ向う。
 携帯への返信はまだ来ていなかったが着信もこなかったのでおそらくオッケーということなのだろう。もし都合が悪ければ直接電話をかけてくるはずだ。
 街頭を行き交う人たちも突然の寒さに、参っている様子で、大きな体をしたサラリーマンは少し体をちじこませ足早に歩いている。 どの人たちも白い息が吐き出されていた。
 乗車中、フロントガラスに固形物が当たり始める。フロントガラスに、張り付いては、形を崩し溶け、水滴になり落ちていく。雪が風に混じりだしたようだ。
 これだけ冷え込んでいるのだから雪が降ってもおかしくないだろう。けれど、いつものように、すぐに雨に変わるかやんでしまうに違いない。

 交差点を左折すると左側に公園が見えてくる。春には桜が咲く木々達が今は寒々と立ち並んでいる。この駐車場は、特に時間制限もなく夜間でも閉められ事もないので、優希のアパートに行くときには必ず、使わせていただいている。
 いつものように車を滑り込ませ、エンジンを切ると途端にフロントは白く曇り、外気温との差がかなりあることを感じたにも関わらず、アパートまでは2分程だったので上着を着るのも面倒で長袖のシャツのまま、財布と携帯だけを持ち、ドアを開けた。吹き込む外気に震え上がった。それでも、ロックし足早に歩き出す。歩くたびに後悔をしたが戻ることの方がつらい事の気がしてそのまま足を進める。
 踏みしめるアスファルトがいつもよりも硬く感じ、少し凍っているのではと思った。  空気がきつく引き締まっている。目を凝らせば小さな氷の結晶が見えてきそうだ。空は低くどんよりグレーの雲が町を覆いかぶしている。
 その中を風に紛れた雪がぱらぱらと散らばっていく。
 息を吐くたびに真っ白な空気の結晶が現れ、あまりの寒さにアパートの階段を一段抜かしで駆け上がりチャイムを鳴らし鍵が開いたのを確認し、急かすように冷たいノブを回し中へ飛び込んだ。
 優希の部屋は暖房が入っていて、ため息が出るくらい暖かい。

「うっひゃあ寒いよ~」

 靴を脱いで腕を摩りながら小走りで奥に向かう。

「そんな薄着だからじゃないの?」

 現実的な正しい答えだ。

「だって面倒なんだもん。上、着るの」

 自分の判断が間違っているのは、たった今身に染みてわかっている事だったが、適当な言い訳をする。

「じゃぁ、いつ着るのさ?」

 視線を外そうとせずに、無表情で問われる。

「えっ?」

 返す言葉も見つからず、視線を逸らし聞こえなかった振りをする。

「外出るたびに面倒なら上着はいつ着るの!」

 無表情から、怪訝な顔へと変化する。
 何か、機嫌を悪くするような事でもあったのだろうか。きてそうそう怒らなくてもいいだろうに。私は、何も返さず、顔を見ることもせず、背中を向け、暖房の下で暖かい空気をしばらく浴びた。そしてチャンネルでも変えるように話を変える。

「今日、めちゃくちゃ外寒いよ。雪、飛び交ってるもん」

 珈琲をいれる準備をしている優希は知らなかったらしく顔をあげ窓際まで駆け寄り、カーテンを半分ほど開け曇ったガラスをきゅっきゅっと手でふいて覗き込んでいる。

「おっホントだ。降っているね。でも積もらなそう」

 実際積もると、通勤も大変で良い事はなく、不便なことばかりなのだけれど、なぜか、積もれば良いなと思ってしまうのはどうしてだろうか。優希もそう思ったのだろう。

「うん無理だね。こりゃあ」

 肩をくっとあげ、掌を天井に向け、大げさなジェスチャーをとった。
 優希は、ひとつため息を残して、私を一瞥し、カーテンを閉め台所に向かう。

「雪が降っていたら、普通、上に羽織るでしょ。健康優良児じゃあるまいし」

 ため息は、こんなに雪が降っているにも関わらず、薄着で着た私に呆れ果てたものだったのだろうか。優希はどんなことも意外にしつこいところがある。私は、まごついてコタツに入りテレビをつけた。

「ごはん、どうする?」

 さすがひとり暮らし気配りが利いている。
 この寒さの中で今から外へ出るのも億劫だったので、たこ焼きとリクエストをしたかったが、なんでもよいと返す。
 優希はテキパキと夕飯の準備を始める。私は、でんと構え六時のニュースをみているだけだった。これも いつものことなので特に気にすることもない。
 そんな姿をみていると、優希は間違いなく口やかましい、いい奥さんになるだろうな、なんていつも感じていた。
 ここ一年ほど彼氏がいないのは珍しいことで、その分この部屋に入り浸れるのは私には都合が良いことだった。もし、私が男だったら、なんて考えることもある。きっと付き合わないだろう。人には向き不向きがあるし、間違いなく尻にひかれてしまうだろう。それに優希は私よりずっと頼りになり、心のダムが大きい人間である。そんな二人がうまくいくはずがなく、友達でよかったと安堵してしまう今日この頃だ。

「今日、キック来るって?」

 キッチンに呼びかける。

「うん。配達終わったらくるってさぁ」

 慣れた手つきでキャベツを切っている。私が優希にメールを送信してから優希は即座に物事を判断しキックへ送信したのだろう。それにしても、あのキャベツが何に変貌するのかと考えるとお腹の虫が騒ぎたてる。

「ご飯は食べてくるのかなぁ?」

 本能に任せた素朴な疑問。

「なに?先に食べるきでいるんじゃないでしょうね」

 自分の発言に気づいたときは、後の祭りである。そうだよ、待たなきゃ、無理やり天使を引きずりだし、悪魔を押し戻す。

「わかってるよ」

 心なしか、落ち込んだ小さな声で答える。
 いつもこんなときは優希のしっかりさが前面に出て、まるで私は年下状態に陥る。優希は冷蔵庫を覗き込んでいる。突然、何かを思い出したらしく、立ち上がり振り向くと、歯が見えるほど、さっぱりとした笑いを投げつけた。

「悪い、飲み物ないよ。買ってきて」

 この場合、悪いとはおまけの言葉だろう。また外に出なければならないのかと考えると、憂鬱になり、キックに電話をすればいいのにと、ひょっこり現れた悪魔が囁き、口から飛び立とうとする。そこをぐっと噛み砕き、財布を持ち、背中を丸め、しぶしぶ玄関へ向かい靴を履く。後ろから、ドタドタと優希が駆け寄ってくる。

「何?追加?」
「ほら寒いよ、外。車にきよつけてね。信号は青になったらね」

 優希は、紺のダウンジャンパーを手渡しながら、くつくつと笑った。

「はぁ~?」

 完全に馬鹿にされているようだ。そのとき部屋から電話のベルが鳴り響く。私は、呆れ顔で、電話の方を指差し、優希にぽーんと背中を押され、ノブに手をかけた。優希は、まだ、くつくつ笑いながら電話へと走っていく。

「いってきます」

 誰にいうわけでもなく、言葉を置き部屋に出る。眉間にしわを寄せ、体は固まり一度目の寒波を耐え抜き暖かかった部屋の青いドアを振り返った。

「さむっ」

 ぶるっと体が震えた。


thank you
つづく・・・

二月の出来事 3

2005年01月22日 | FILM 一二三月
スノーボード【二の三】→→→  食堂は、昼時を過ぎたせいか、だだっ広く感じ、椅子の上で仰け反り寛いでいる人や、会話を楽しむ人などがぽつぽつといて、食器を洗う音が響いている。特に期待することもなくメニューを選び食券を買いカウンターに、差し出す。
 片付けに入っていた食堂のおばさんが気づき、そばとオムライスとカレーに取り掛かる。食堂を見渡す。

「テラスに行く?」

 熱の篭り過ぎている食堂は、快適とはいえず、自然と二人はテラスの方へ視線を向け、同意する。三人は、オレンジ色のトレーの上に昼食を載せ、テラスへと続く通路を歩く。

 先頭を歩く私は、目の前にある僅かに開けられているガラスの引き戸の隙間に、つま先をねじ込め人が通れるくらい引く。五つほど、並んでいる丸いプラスチックのテーブルには、先客は誰もいなかった。
 どこにしようか立ち止まっていると、後ろを歩いていた優希が、一番近くのテーブルにトレーを置き、キックがテラスへ出ると、ガラスの引き戸を閉めた。私も、トレーを置き座り心地の悪い椅子に腰を下ろした。

 湯気が立ち上るそばを、ズルズルと食べ始める。キックは、真っ赤なケチャップがかけられたオムライスへスプーンを突き刺すと、食欲をそそる匂いが、鼻をかすめる。優希は、カレーライスを口へ運び続ける。

 ひたすら、無口に美味くも不味くもないそばを補給し続け、あっという間に食べ尽くした。二人は、半分以上残っている。私は、箸を置き、ため息をつき、椅子に深く腰掛け、背もたれに頭を乗せ、手を組んで腹の上に乗せる。目の前で、そばで温められた口内から、真っ白な息が吐き出されては消え、その先に見えるのは雲ひとつない空。つまらない、雲が一つも無い空を見上げていても、非常につまらん。
 視線を、多少の面白みがありそうなゲレンデへと変える。一際目立つ男がいた。斜面を、自由自在に、スピードを落とすことなく、細かなターンを繰り返し、突然ボードが雪面から離れ、体を捻りトリックを入れる。誰が見ても上級者に違いない。そして、気づく。

「く・・・黒尽くめ男」

 仰け反っていた体を起こし、口から漏れた声が裏返る。キックは、何事かと視線をオムライスからあげ、優希は、口に運ぼうとしていたカレーが、スプーンから皿へ、ボトッと落ち、トレーの上に撥ねる。落ちたことに気づく素振りもみせず、ゲレンデの方へ顔を向け、鶏のように首を動かしていた。

「何それ?」

 訳が判らないのはキックで、二人の顔を交互に見ている。優希は、黒尽くめ男を探すことを諦めると、キックの質問を、すっ呆けて、カレーをぱくついた。

「あたしがさ、雪まみれになってるときに、こやつは、あの黒尽くめ男とよろしくやっていたわけよ」

 優希を指差しながら、嫌味たらしく言い放つと、キックは、話が飲み込め、目じりを下げた。

「なに、もうひっかけたの?」

 驚いた振りをするキックの省略的暴言。

「引っ掛けたんじゃないよ!!」

 すかさず優希は否定的発言。されど、言葉は詰まる。

「違うよキック。釣ったんだよ。ねっ」

 反撃するすべを見つけることが出来ずに、我関せずな態度の優希は、カレーライスを掬う度に、スプーンとプラスチックの皿が、音を上げ次第に大きくなり始め、皿が割れるのでないか、いや、スプーンが圧し折れるのではないかと心配になっていると、ぴたりと止め顔を上げた。

「私は八戸の漁師か!!」 

 低い声でつぶやいた。八戸??なぜに、漁師の前に八戸がついたのか気になり、思考を巡らせる。

「マグロの一本釣りかっ!!」

 気づいた瞬間笑いがこみ上げ、今にも噴出しそうだった。けれど、優希の眉間の溝は激しく深まるばかりで、笑いを無理やり喉の奥へ押し込み、顔の筋肉がピクピクと開放を呼びかけていたけれど、話題を変える。
 キックは、笑いを耐えているはずなのに、表情ひとつ変えることなく、オムライスをパクついている。

「雪は気持ちがいいね」

食後、三つのトレーを重ね一つにまとめ、何をすることもなくいると優希が呟いた。

「うん、最近じゃ雪降らないもんね。降っても積もることもないし」

 私は自分の住む町が雪に包まれる姿を思い出してみたけどピンとこなかった。

「朝起きると真っ白で屋根からぱらぱら粉雪が降ってくるんだよね」

 キックも言葉と共に遠い世界に行っている。

「そうだよ。なんか普段聞こえない音が聞こえて、ぱきっとか、ばさっとかあれいいよね」

 優希はすでにその遠い世界の中で、何かの記憶をみているようだ。それぞれ違う窓の世界を浮かべていて、優希の目は、とても綺麗に光があたっていたけれど、どこか寂しくおもわせた。優希の見る窓に映った影はひとつではなく、事故で失った両親がいたのかもしれない。


 林を駆け抜けてきた風が、大きめの肩掛けゼッケンをはためかす。お土産にはしたくないブルーのマスコットが印刷され、真ん中にでかでかと強力油性マジック極太で書かれた「23」。三の横の空白の部分にはなぜか湯気が三本立ち上るソフトクリームが、遠慮がちに描かれ、二の横上の空白には、目がやたらに大きいミノムシが油性マジック中太で描かれている。風は、ますます強くなり雪を巻き上げていく。肩に掛けられていたゼッケンの紐が、煽られ右肩からずれ落ち、よりゼッケンをバタバタと揺らし、湯気の上がるソフトクリームの書かれた部分がコーンとクリームのところで運悪く折れ曲がる。けれど、センスのない恥ずかしいゼッケンに気を使う余裕は無かった。

 胸の中を、心臓が激しく打ち鳴らす。下から見上げる多くの視線の先に、コースの上から見下ろす私が手の汗を、グローブに染み込ませ立っている。となりにいる係員の右手が、空に向かって上がれば、動き出さなければならない。胸の中で、心臓が今にも、食道を通り抜けてくるのではないかと口をきつく閉める。

 風待ちのこの時間が、いてもたってもいられず、全身が緊張感に包まれていた。私は、なぜ、こんなところでこんな思いをして立っているのだろうと、ほんの三十分前の出来事を思い起こさずにはいられなかった。なぜなら、身震いするほど、後悔をしていたからだ。

 風が止むと、係員の手が、まっすぐと上がった。

「頑張れっ!!のり」

 三者三様が思い描いた世界を、薄い氷でも割るように、砕いたのは、場内に響くどこから出しているのだろうと疑いたくなるような拍子抜けするアニメ声。十人程のボーダーたちは、逆エッジを取られ、転げ落ちたに違いない。
 その内容は、午後から恒例のイベントを行うらしく、タイムトライアルの受付を知らせるアナウスだった。トライアル中の光景は何度か見かけたことがあり、コース中腹に、棒を二本突き刺し、その間をよれよれの垂れ幕が掛けられその下をスタート地点とし、何本かのポールが左右に刺さり、そこの外側をすべて通過し、コース下のゴールを潜り、タイムを競うのだ。
 一度はエントリーしてみたいと考えてはいたけれど、実際出場するとなると多くの人たちの前で滑らなければならないわけで、いくらイベントとはいえ、気が引けてしまう。

「ねえ、行って見ようよ」

 この日に限って、優希の心弾む声。そして、破顔一笑。行くだけですむようには到底思えず、急かす優希に背中を押され受付の前にやってくる。

 優希が勝手に受付を済ませ、ゼッケン三枚を持ってやってくるなり、キックと二人でゼッケン番号を書き込んでいて、恥ずかしくて町も歩けないようなゼッケン番号二十三を、私は、不満極まりなく、真っ平御免だとつき返してみたものの、抵抗虚しく、結局、ゼッケンを潜り、両脇からでる紐を蝶々結びにされるのであった。


 先ほどの緊張は嘘の様に消え、気持ちよくターンをこなしていた。周りの視線も気にならない。ひたすら次の棒を目指し滑り続けると、あっという間に、ゴール地点を潜りぬける。タイムを見たけれど、それが早いのか遅いのかも判らない。観客も同じ思いらしく、気のないぱらぱらとした拍手が起きる。ボードを外し、二人のもとへ緊張感から解き放たれ、得意げな顔で駆け寄る。
 歓声が上がった。三人はコースへと視線を移す。無駄のない動きで、スピードを殺すことなく滑走する男。それは、あの黒尽くめ男だった。
 ゴール地点まで、一瞬たりともスピードを緩める事無く通過した瞬間沈み込み、雪煙を豪快に巻き上げぴたりと止まり、片方の足をはずし、タイム表示をみつめながら、黒ゴーグルを黒ニット帽のおでこにあげた。
 優希に気づかれないように、キックの横腹を肘でつつき、囁いた。

「マグロ」

 キックは、マグロ男の滑りに関心しているようだ。
 自身に満ち溢れたマグロ男のもとへ、淡いピンク色のウェアーを着た女性が駆け寄っていく。

「彼女じゃない?」

 キックの反応も、なければ優希の反応もない。ふと気づく、私のとなりに立っていたはずの優希は消え、ボードと足跡が残され、そこからはまっすぐに、足跡が、伸びていて、その先には、マグロ男がいた。

「優希かよっ!!」

 足を踏み鳴らして、わが身に突っ込みを入れた。そんな真っ直ぐに伸びる足跡をみたキックは、突然腹を抱えて笑い出し、体をくねくねしている。

「すごい、あれこそ一本釣りだ」

 ひっひっと呼吸しながら、腹を押さえたまま、キックは一人笑い続ける。一瞬、顔をあげると、そこには、私が立っていてゼッケンに、目を留め、どういうわけか、また笑いが再燃し、何もこんなに笑い転げなくてもいいのにと、思った。


 コース上、スタート地点にいるゼッケン三十五番。キックは凛々しく立ち、大きく肩をあげ深呼吸し、係員の手が高く上がるとトンとジャンプし飛び出した。
最後のターン、スピードの出すぎで、体勢が崩れた、観客から声が漏れる。誰もが転倒を予感させた。けれど、キックの体はフワリと浮き、なんなくピンチを乗り越える。今度は、歓声が巻き起こった。そして、ゴール。

 入賞するかもしれないと予感した。キックに駆け寄り弾き飛ばした。よろめいて、雪に手を突いたキックは笑っている。

「すごかったよ、入るよ絶対」

 キックを絶賛した。優希もいつの間にか駆け駆け戻ってきている。

「さすがキックだよ」

 絶賛の嵐の中、キックは何かに気づく。
 キックは、優希の雪ダルマが書かれたゼッケンを指差す。優希のゼッケンは、三十三。

「あああっ」

キックと私が同時に、動揺した声が漏れる。当の本人は、気にしていない。

「あっ、出るの忘れちゃった」

 キックが、三十五、優希が、三十三。当然の事ながら、キックの前に優希が滑るはずなのである。ところが、優希は、船出をしているあいだに、自分の番を見過ごしていたのだ。確信犯かもしれないとふと、思いながら、二人は、なで肩になるほど、ため息をついた。


 男女、上位三位までが、副賞をもらえる表彰式が始まった。
 二人で動向を見守っている。優希は、数分前に、間違いなく入賞するマグロ男に寄り添っている。
 女子の発表が始まる。もちろん、私の番号は呼ばれるはずもなく、期待するのは、キックの三十五番のみ。
 けれど、三十五番は、呼ばれることが無かった。キックよりも私の方が肩を落としていいた。そして、男性部門に入る。

「三十五番の方三十五番の方いませんか!!」

 スピーカーからかなりのボリュームで告げられる。三十五?キックの顔をみると、きょとんとし、私へと視線を移し、二人見つめ合う。

「三十五?」

 キックは、その言葉に、コクッと首を振る。

「キックだ!!間違えられたんだ」

 キックは、ため息を吐き、一歩踏み出ようとしたときだった。


「ちょっと~!!」

 腹のそこから押し出す声。人ごみを掻き分け、前へと突き進む、淡いピンクのウエアー。日本酒を二、三杯食らったようなガラの悪いオッサンのように司会へと立ち向かって吼えた。無論、司会者は、後ずさりし、きょろきょろとスタッフへ助けを求める。すかさず、スタッフが慌てて駆け寄る。優希はお構いなしにずかずかと司会に歩み寄り、あっといまに取り囲まれてしまった。
 優希を中心にスタッフが議論を始める。 一人が輪から外れ、キックの元へ駆け寄り、二言ほど確認し、 連れ去りと何度かスタッフは優希とキックに頭を下げその輪は散らばった。 
 ゴーグル、紺のニット帽、寒色のウエアー、長身、俊敏な動きのキックにスタッフは見事に騙されてしまったのだ。少しだけ、スタッフに同情する。
 何事かと観客がざわめいた中、アナウスが流れる。

「申し訳ありません。本部の手違いで両部門の順位の変更があります」


 ウエアーから服に着替え、ソフトドリンクフロアに向かった。
 フロアには家族ずれが二組とカップルが一組とその他の人が数人いた。
 丸いテーブルに座っていた家族の子供が飲んでいたジュースがテーブルから転げ落ちる。ぐしゃりと紙カップが潰れる音が液体と共に弾け飛んだ。
 同時に、家族のとなりに座っていた人が俊敏に反応し、酷く驚き十センチ程飛び上がりそのまま椅子の上で、二回宙を掻き、滑り落ちた。咄嗟に母親が、勝手に驚いた男に頭を下げる。転がっている人は、起き上がり、くっきりとゴーグルやけした真っ赤な顔、恥を掻いてしまったことに激昂している。コップを落とした小さな子供は、まん丸な目をきょとんとさせ、見上げ、何かに気づいたらしくその人物の頭を指差す。

「ママ、間違ってる」

 屈託のない大きな声だった。
 この子供は、けしてこの大人気ない行動と言動を、指摘したわけでないことは、誰でも理解できた。
 その人物は、俯き握られたコブシを震わせ、顔を上げ、何度も小鼻を膨らませ、周りのギャラリーを見渡し、増幅し続ける羞恥心の固まりの閃光が、優希を捉えると、その表情が一変した。

 優希は、本能的に目線を外し、お土産売り場へ顔を向ける。

「お土産買っていこうかな」

 優希の願いを込めた呟き、腕をきつく握られ、百八十度踵を返す優希に引き寄せられた。視線がずれると、テーブルに自慢げに置かれたトロフィーが、きらっと輝いた。ふと、よぎる。優希は、何を釣り上げようとしていたのだろう。
 優希に向けられていた視線は、まだ、顔だけ残す私へと移り、口に泡をため、顔半分が引きつった笑顔を浴びせかけられる。鳥肌が、つま先から、頭のてっぺんまで走りぬけた。

「ねえ、ママ、間違ってるよね」

 また、無邪気な子供の指摘。いや、悪魔の囁きだ。暖かいはずが瞬時に凍りついたフロアから、誰もが動きが取れずにいた。
 家族も、その言葉をどうしてよいのかと面を喰らっているとき、たった一人健気に見上げる子供に優しく返す人物がいた。

「そうだね~。間違っているね~」

 一瞬の目眩と共に、タイムトライアルよりも、心臓が激しく飛び上がる。聞き慣れた声。優希に引き寄せられる中、咄嗟にキックへと手を伸ばし、がっちりと掴み引き寄せる。
 スローモーションの中を、三人の体だけが、スピードをあげ、真っ黒な私服姿のマグロ男の右手が垂れ下がったバーコード髪を持ち上げ、元の位置に戻される前に、全速力で駆け出していた。

 逃げるように車に乗り込み、スキー場を後にし、ようやく落ち着きを取り戻したとき、外へ漏れるほどの、激論が繰り広げられたのは言うまでもない。
シートの上に、投げ出されている二十センチほどのトロフィーと副賞のペアー温泉旅行が、振動であっちにいったり、こっちにいったりとしきりに動いていた。



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おわり・・・
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二月の出来事 2

2005年01月19日 | FILM 一二三月
スノーボード【二の二】→→→  上から見上げるコースは、まだほとんど傷が付けられてなく、小麦粉を撫でたような真っ白な輝くゲレンデがあった。ぽつぽつと、それを楽しむように、上級者が弧を描くたびに雪煙を上げて滑走している。実に、爽やかで優雅だった。きっと、この感触を求め朝一番で来ているに違いない。

 吹き付けていた風は降車口に入ると和らぎ、降りることだけに集中する。私としてはあまり心配することもなかったのだけど今年一番初めとあって少し緊張していた。
 ボードが下につき流れに任せ、すくっと立ち上がりまっすぐ滑っていく。キックは円の内側にいて難しいはずであったが椅子を離すとき勢いをつけたらしく私よりボードひとつ前を進んでいる。リフトから離れ外へと向かう傾斜を滑っていると、振動と共にガツッというボードが重なる音が響いた。まるで、後ろからスリッパを踏まれ、知らずに踏み出そうとした心境に近い。振り向く暇も無く、突き飛ばされるようにバランスを崩し倒れ、なぜか優希の体が、私の上に重なり、次々運ばれてくる人たちは玉突き事故のように転んでいく。それに気づいた係員は危険ボタンを押し、ブーという馬鹿でかい音が響き渡った。駆け寄って来る男性係員は、一人一人起こし状況整理していき、巻き込まれた人たちは、顔を歪め立ち上がっては、私の顔を迷惑そうに見下ろしいく。係員は私の顔をやさしく覗き込込んだ。

「大丈夫ですよ」

 何が大丈夫なのだろう。私は、間違いなく同情の眼差しで、慰められている。それでも、一刻も早くこの場から去りたくて、すいませんでしたと、謝罪の言葉を発し、キョロキョロと見渡し離れた場所にいる二人の元へ向かった。

 優希はあっというまに体制を立て直したらしくいつの間に、キックの横で何もなかったかのように澄ました顔で待っている。

「慰められたよ。大丈夫だよだって!なんで、あたしが悪いのか?なんで?納得できない。転んだわけがわかんない」

 抑えていた怒りがこみ上げていた。

「まぁまぁ、そんなときもあるって」
 優希は私の肩をポンと叩いた。

「さぁ滑ろう。ぱ~っと」

 キックは聴く耳を持たず、頭は滑ることで一杯の様子で、私は一人ぶつぶつと言いながら片方のブーツをボードつけた。こんなことは、よくある事で、気にする必要もないのだけれど、なんとなく気分が晴れない。けれど、そうも言っていられず、頭を切り替える。

「バラバラになったら、とりあえず1時に 食堂ね」

 優希が言った。
 二人は、オッケーマークをだした。
 一年ぶりの滑走はイライラを吹き飛ばすだけの魅力的なことでもあった。
 三人でキラキラと光るゲレンデを見下ろし、キックが上体を屈めポンと跳ね上がりボードの向きをゲレンデと平行にし、ためらう事無く、雪の上を滑り、巧みに軸を移動させシュールな弧を描く。残された二人は、キックの力みのない滑走に見惚れていた。

 ゲレンデの端で転がっているボーダーの何人かはキックが横を軽快に滑り降りる音に顔をあげ、その行く末を見守っていた。

「恐れをしらない滑りだな」

 独り言が口から声になって漏れ、優希が唸った。ふと我に帰り、まだ雪の中にお尻が埋まっている優希に目を向ける。

「優希、先に行く?見てようか?」

 こんなときの優希は通常では考えられないくらいひ弱で小鹿のような瞳になる。
「そうしようかな、じゃぁ半分まで行って見るね」

 聞き分けも良く、無駄口も無い。
 九十度ボードの向きを変えるにも、簡単にはいかず、雪の上で、一先ずもがいてみてから、しばらくしてやっと滑れる体勢へとなる。
 斜度がないところで、ボードを平行にしても進むはずもなく、力みきった基本の滑降体勢を取っている。けれど、それは、進まなければ意味のない話で、どんなに真剣な眼差しを送っても前へは進まないのだ。
笑いを堪えながら、見かねて近寄り膝を落とし、優希が乗る動く兆しのないボードの後ろの部分をゆっくりと押した。そりに乗っている子供の背中を押すように。

 多くの人たちが横をすり抜けていく、優希だけが風を肌で感じられない程のスローモーションで進みだした。私は、そっと手を離し立ち上がり、そのスローモーションまま下りへ差し掛かる固まった背中に、小さく手を振った。

 日光いろは坂のようなカーブの連続で、相変わらず、スピードに乗ることもなく、緊張感に包まれながら、半分まで到着し、端で座り込んで後ろを振り向こうと、また、雪に埋もれながらもがいている。
 優希が、雪の上を泳いでいる間に、ゲレンデの斜面を滑り始めた。適度な振動、雪の感触、肌に触れる風、すべてが爽快だった。優希の基本姿勢を見ていたおかげかどうかは定かではないが、予想以上に気持ちよく滑れる。

「こわっ!!分けがわかんないよ」

 怖気づいた眼差しで、冴えない声を出し、バタッと倒れ、雪の中にぐりぐりと指で穴をいくつも開けている。
「力入り過ぎで腰を引きすぎ。ここで軽くジャンプしてみな」

 優希は不貞腐れながら、その辺の雪をかき集めて斜面をなるべく平らにし、膝をプルプルさせながら立ち上がり、二センチ程ジャンプした、と思う。

「その着地の態勢が基本姿勢だよ。後はあまり力まずに曲がるとき沈んで戻ったときに浮かす」

 簡単なアドバイスだったけれど、優希は真剣に耳を傾け、爪楊枝が二本は挟めそうな溝を作り、イメージトレーニングをしている。

「なるほど」

 優希の顔に少し笑顔が戻る。

「よし 行くぞ!!」

 優希は、基本姿勢を取ったまま、動かない、私は屈み、ボードを少し押す。ノロノロと動き出した優希を見送り、これまた細かく折り込んだ短冊のようにノロノロと優希の後をついて滑る。

 リフト脇まで到着すると、キックは、脇に積まれている雪の山で一人分の椅子を作りそこに腰掛けていた。この出来具合をみると、かなりの時間を費やしたに違いない。二人に気づき立ち上がり、片足を振り上げ、その椅子を崩し塊がゴロンと転がり、それを踏み潰した。

「どうよ?」

 優希の事を言っているのだろう。キックは他の人と比べて言葉数が極端に少ない。しかも何度も同じことは言わないために、聞き逃し答えが返らなくとも、聞き返す事無く会話を終わらせてしまう事が多い。

「始めはぜんぜん駄目だったけど、大丈夫曲がれていたし」
「そっか」

 キックの心配事は、拭えただろう。優希は片方の足をボードから外すことに時間をかけ、一歩遅れて、何かを成し遂げたのごとくやってきた。

「はぁ~疲れた」 

 一杯行こうよ、なんて続きそうな言い様だ。キックの肩に持たれながら呟き三人はまた、列に並んだ。
 リフトに乗る順番が近づいてくると、今度は内側をキープした。キックは真ん中で優希は外側。すんなりとリフトに乗ると、優希がキックを飛ばして、ぐいと私の顔を覗き込み、逃げたなと囁いた。笑ってごまかしたものの、二度と、あんな災難はごめんだった。

 優希は下車が近づくたびに言葉数は減って直前は無口になる。見ていた係員が、なぜか停車ボタンの方へ小走りに向かう。この直前、私は、この係員と目が合い、俯いた。
 三人が同時に立ち上がり、私は勢いをつけ一番に滑り降りる。振り向くと、キックに押さえつけられた優希が転ばずにやってくる。

「お~さすが」

 キックへ拍手を送り、重なるグローブがパサパサと音をたてる。キックはまた転ぶ可能性が高い優希をしっかりと抱えバランスを取らし、まるでレスキュー隊のように思うがままに運んできたのだ。


 スノーボードを始めた時期は同じだった。行った回数もほぼ同じ。けれど、運動能力は三人とも違っていて、キックはとりあえず何をやらしても一つ飛び抜け、弱男が敵わない程、身体能力は高かった。私は身体能力が低い方でもなく、どちらかと言うと高い方だと思う。しかし、中の上では、キックに敵うわけもない。
 尽く普通の粋になってしまい、私は普通よりちょっと出来るだけの器なのだと認識し、キックは申し分ない、特上の器を持ち備えているのだと確信するようになっていた。優希は、ボーリングや卓球やビリヤードなどインドアでやるものは得意としていたがアウトドアなスポーツは苦手としていた。
 したがって、今回のような場合は、三人が一緒に遠慮しながら滑ることは必然的に無理で個人で楽しむ事が定番になっている。少し変わってはいるが、それが普通だった。


 平日のゲレンデは人が少なく、神経を尖らせなくとも、気持ちよく滑れる。流れる景色の中を滑走する音を聞きながら、自己陶酔し、一度も停まることなく滑り降り、爽快感に満たされていた。優希は今どの辺りを滑っているだろうかと頭をよぎる。

「あっちのコース行ってくる」

 キックの指は、明らかに斜度がきつくなっているリフトを差している。

「うっわ~」

 壁の様なコースを、登っていくリフトに愕然とし、絶対楽しそうには見えないこのコースをうれしそうに滑りたいというキックが、やや心配になり、変な奴とも思ったけれど、止める義務もないので、そのまま送り出すことにする。

「では昼に。怪我しないでね」

 手を振って見送り、後ろ髪が惹かれる思いで、一人リフトの列に並んだ。乗り込む瞬間だけは、なぜか寂しい。ひとつ席を空けカップルと一緒になってしまったのもある。
隣のカップルにはなるべく気を取られないように、コースを眺めながら優希を探してみたけれど見つけることは容易ではなかった。

 寒風は、太陽のおかげで和らぎ、すっきりとした空気になっていた。何度か深く息を吸い込んだ。体の隅々に行渡っていく。空は雲ひとつなく凛と晴れている。下界と遠く離れたこの世界は真っ白な雪に覆い尽くされ、生活の音は一切聞こえず、ただ楽しく滑ることだけを考えればいい。今は、まだ直していないゴルフのへこみの事も忘れていられる。久しぶりに訪れた至福の時だった。時々、止まって揺れるリフトも自分が被害者でなければ楽しかった。
 風で巻き上がる粉雪が、太陽の光に反射してきらきらと光り、舞い、風に乗せられリフトに座る私の顔までやってくる。かすかに肌にあたる光が一瞬の冷たさを感じさせる。

 スムーズにリフトを降り、一望できるゲレンデを観察し、気がむけばボードに乗った。

 四本目か五本目を、例のごとく気持ちよく滑っていたのが、ほんの一瞬視線がある一点に釘付けになった。
 黒尽くめの男が、立膝で優希の前で、黒グローブを頻繁に動かし、なにやら熱弁していた。
 果たして優希は、私達と別れてから何本滑り降りたのだろうかと不安になる。優希にしてみれば、何本滑るよりも、何人話すかの方が重要なのだろう。その時、雪にボードが取られた。舌打ちをする前に体は浮き上がり、見事に雪面に叩きつけられ、そのまま雪面を削り取るようにスライドしていく。視界は、空が見えた瞬間、真っ白になり停まるのを待つしかなかった。体は、酷く痛み、すぐには立ち上がれない。優希の方へ手を伸ばしてみても、気づく素振りもなく、黒尽くめ男に夢中で、私は、優希の眼に届く範囲で、痛みと戦っていた。

「ううう・・・なんだかなあ」

 仰向けで、頭を斜面側に向け、雪まみれの間抜け面で呼吸を整えた。痛みが和らぎ、目を開けると、真っ青な空も、そこにあった。



thank you
つづく・・・

二月の出来事 1

2005年01月15日 | FILM 一二三月
スノーボード【二の一】→→→  二月の平日のとある日の前日の夕方。仕事の棚ぼたで突然の有給を取る事になった。課長に告げられたとき、なるべく無表情で取り繕うとしたものの、若干口の端が上がっていたかもしれない。それからの業務は上の空で明日の予定ばかりに思いを巡らせていた。

 六時を過ぎ、窓の外は太陽が傾き僅かに残る光を残し山肌の奥へと隠れてしまっている。平然を装い早々に仕事を切り上げ、いくつもの星が瞬く空の下の駐車場へと足取り軽やかに向かった。車に乗り込むと、携帯を取り出し、時折冷たくなった指先を温めながら、ボタンを押し続ける。送信を押し、液晶の中でメールが飛んでいくの見送り、差し込まれていた鍵を捻り、エンジンをかける。

 帰宅する前に、二通のメールが携帯を震動させた。信号で停まるたびに、アタフタと要領悪くメールを見る。内容は、予想通りで、優希は、元々明日有給を取っていたし、キックは、定休日だった。したがって、 即決で明日の予定は決まる。


「こら、静かにしなさい」

 階段の下から、母の声が響き渡る。こんな様に叫ぶ方のがよほどうるさいのではないだろうか。
「うん」

 適当に流す。寝る前に、部屋の押入れからガタガタと物探しをしていた。その音は、予想以上に家中に響いているらしい。出来るだけ、音を響かせないように、慎重に、重いダンボール箱や、昔読んだ漫画の山などを取り除いていく。取り出したいものは、押入れを開けた瞬間に見えていたけれど、手に取るとなると、前に積み重なる捨ててもよい部類の荷物を退かさなければならず、そんな作業がしばらく続けていた。ようやく、自分の背丈程の白い板に手が届き手前に引き寄せる。四分の三が出た時、僅かな抵抗を感じたが、すでに横腹の筋肉が悲鳴を上げていて、勢い任せに引き続けた。

「ガシャ~ン、バキッ」

 けたたましく響く無数のプラスチック音。あまりに大きな音に肩を竦め、咄嗟にスノーボードを置こうと一歩下がったとき、転がったCDが、右足の下にあった。感触に気づいたときには時既に遅く、プラスチックを砕く嫌な音が伝わる。もちろん、この音の後に、どれだけ早く足をあげても、元に戻るわけもなく、ただ、その惨状だけが、よく見えたというだけだった。もちろん、また、階下から母の怒声が響いたのも言うまでもない。されど負けることなく高鳴る胸を押さえつつ、明日の準備を着々と進めていく。
 囁き声で鼻歌を口ずさんでいると、外で野良猫がにゃ~と鳴き、共鳴するように犬が吼え、やがて遠鳴りしていく。



 早朝にも関わらず、偶に発揮するノー目覚ましで瞼を開ける事に成功し、これまた驚異的な意識の回復で、ワックスがけまでをこなしていた。仕事ではあり得ない行動力である。

「ぽわ~ん」

 聞きなれた頼りない空気漏れでもしているようなクラクション。自分よりも大きな荷物を抱え外へ出る。

 薄暗く、東の空が赤みを広げ、冷たく澄んだ眠っている大気。眠った空気の中をエンジン音が振動し、白い排気が出されている。
 トランクを開けるとすでに荷物が収まっておりボードだけを無理やり押し込み、今にも跳ね上がりそうなトランクを気にせず力強く閉めた。側面に回り後部ドアを開ける。遠慮がちな音量の音楽が流れ、暖房の効いた空気が顔を撫でた。

「おはようございます」

 ゴルフにでも行くオヤジのように畏まった声を出す。

「おはようございます」

 振り返った二人は、晴れ渡った顔を見せ、声を揃える。残りの荷物を後部座席に積み込むとやや窮屈になった。
 エンジン音が、いつもよりも調子よさそうに響き渡り、左側のキックはアクセルを踏んだ。

「さあ、眠気を吹っ飛ばすぞ」

 こんな早朝に起きる事などまずない私達は、偶に襲い掛かる睡魔に打ち勝つべく、キックは、買ったばかりのステレオのボリュームを大きくさせた。
 天気がよければ全開に天井を開けて走れるこのおんぼろ中古のゴルフ。けれど、冬は、そんなこともなくただ暖かい空気を急速に冷やしていくだけ、そして、その天井は弾力性があり、ロックの低音に、スピーカーのように、ボコボコリズムを刻み続けている。

 三人のテンションは果てしなく上り続け、左の席の人は、スノボー・スノボー・スノボーと復唱してみたり、右の席の人は、男・男・男とこれから昇ろうとする太陽に念じていたり、後ろの私は腹減った・腹減ったと早朝から張り切り過ぎてしまった結果を、腹が鳴らすリズムと共に、そっと伝えてみたり、とにかく到着までの一時間半は、ずっとこのような感じだった。
 県境を一瞬で踏み越し、催眠術にかかりそうな馬鹿長いトンネルを抜けると、そこは、今まで見過ごしてきた景色とは一変していた。
 目の前に、ドンと構える富士山は、強い朝日を浴び積もる雪が光り輝いている。周りを囲むすべてが、雪で飾られていた。騒がしかった車内の三人は、その広がる景色に見惚れていた。でも、それも一瞬でふと思い出したように元へと戻る。

 スキー場へと続く一本道へ左折する、後を続く車が次々に連なり左折し目的地へと目指す。

 見渡す限りの駐車場には朝一で来た無人の車がミニカーのように並んでいる。防寒服を着た顔が見えない目だけの警備員が、赤い棒で指示を出していく。指されるままに、キックは車を停車しエンジンを切った。

 一言二言交わし、各々準備に取り掛かる。
 ドアを開けると、室内のヌクヌクとは一変し、いきなり鼻の痛みに穴の奥が凍りつくのではないかと危険を察し穴を押さえた。
 三人は、口々に悲鳴に近い声を漏らす。


 一年ぶりに、靴からブーツに履き替える。久しぶりとあって、なかなかうまくいかず軽く息を切らしながらやっとのおもいで整える。かじかんだ手は、靴紐の後が赤く浮かんでいた。一仕事終え、毛糸の帽子を被り、ゴーグルをつけ、ボードを抱えた。

「忘れ物は無い?」

 優希が自分なりにチェックをしながら、問い掛け、私は、ナイナイありえないと答えた。
 凍った駐車場を歩くとごつごつと音をたて、スノボーを抱え出陣した。

「しゃ~滑りまくるぞ~」 

 前を歩いている家族ずれが、咄嗟に振り向き、キックは、恥ずかしがることもなく、笑いかけ、凛々しい横顔でボードをお手軽に持ちすたすたと歩いている。優希は瞬時に歩調をずらした。

「これだけ車が止まっていれば一人ぐらい、いい男いるでしょう」

 優希は独り言を言っているのか区別がつかず適当に空返事をして見せた。

「リフト楽しみだなぁ~」

 私はリフトが好きだった。乗り降りもスリリングがあり乗車中の揺れ具合もスキだし、高い所から滑っている人たちを観察するのも楽しかった。

「違うとこ楽しもうよ~」

 二重奏だった。
 目的は三者三様だったけれど、楽しいという事実はそこにあった。

「あっ!!」

 キックの手元を見た瞬間声が漏れた。そして優希の顔をチラッとだけ盗み見た。

「なに?」

 低音の二重奏。後ろめたそうな表情を浮かべている私を見た二人は、いつもの忘れ物かと思っているに違いない。

「車にグローブ忘れた」

 グローブをしていない素手を見せながら報告した。

「はぁ?忘れ物ないよねって確認したじゃん」

 眉間に溝が出来ている優希から不満が漏れる。この溝になら、爪楊枝一本は挟めるに違いないと日頃からキックと話していた。先を歩いていたキックはウェアーから鍵を出しぽんと投げる。私はそれをキャッチしボードをその場に置き来た道を一目散に引き返した。

 幼少の頃から出かけるとき忘れ物の確認をするにも関わらず、必ずと言っていいほど何かを忘れてしまっている。しかも必ず必要なものをだ。たとえば、コンサートに行くのにチケットを忘れてしまったりする。このときは最悪で二時間かけチケットを取りに帰り会場に着いたときはもう始まっていて、当然だけど二人からの凍りつきそうな視線を浴び続けた。

 息を切らしながら、車の鍵穴に差し、ドアを開け中を捜すがどこにも見当たらない。落としたのかもしれない。外を見渡すと、その距離三十センチ程のところにグローブはあった。ゴルフのボコボコ天井の上に置かれていた。おいおい誰か気付こうよと内心思ってみたけれど、すぐにドアをしめ、グローブを鷲づかみし駆け戻る。

「ゴメンあったよ」

 激しい息切れに、肩を上下させ、置かれたボードへ手を伸ばす。
 キックが手を出した。握られたグローブを持ってくれようとしているのだろうか、こんな心遣いがうれしく申し訳なく、はにかみグローブを手のひらに乗せた。
 駆け寄ってくるとき、相変わらず冷たい視線が向けられていたけれど、二人は駐車場でぽつんと立ち尽くし待っていた。これが雪の上ならつらくもないのだけど氷上の上となるとふくらはぎが張ってきて相当つらいかっただろう。しかし、この二秒後には、再び私は車へと戻り、この二人を待たすことになる。

「違う鍵だって」
「はっ!!」 

 私のグローブがキックの掌の上に乗ったまま、二回ツルリと体勢を崩しながら来た道をダッシュした。
 後ろの方で二人の真っ白で大きな深いため息が幾度となく増産されているに違いない。


 多少二人のテンションは下がっていたけれど、チケットを買いコースにでると、娯楽溢れる銀世界が広がっていた。最新のヒット曲がスピーカーから流れ、何台ものリフトがぐるぐると回り続け、朝からカップルはイチャツキ、刺々しいものなんて何一つなく日常とは違う世界がそこにあった。
 ややテンションを下げたまま三人で丸くなってというのも変だがトライアングルになって手首をぽきぽき、足首をぽきぽき、首をぐるぐる、あらゆるところの筋を伸ばしす。コマメに楽しく遊ぶために準備運動をする。そして、盛り上がる事もなく、今年の初滑りに向かった。
 
 平日早朝、行列はまだ出来ていない。次々にリフトへ乗り込んでいき、すぐに自分達の順番は回ってきた。優希は前に進むたびに何度か私の腕をつかんで転ぶことを避けて、口数も減っていた。実は、スノーボードは苦手だった。

 太陽が顔を見せ、眩しい光が射しているが、風は凍るほど冷たかった。所々で細かな雪を巻き上げている。亀みたいに首をウエアーに竦め、突き刺さる風を防いだ。
 四人乗りのリフトに三人で腰掛けようと、指定されたラインで待つ、わずかな衝撃が、膝の裏に走ると共に、ブランコのようにリフトが揺れ、乗車の建物から、寒風の世界へ突き出された。




thank you
つづく・・・

一月の出来事 2

2005年01月12日 | FILM 一二三月
年賀状【一の二】→→→  なぜに、キックはスクラッチくじの単価など聞くのだろう。みかんを食べ終え、まるでやることがなくなったから、時間つぶしにやろうって素振りだ。
 胸騒ぎがした。冷たく落ちつきはらった目で私を見据え、悪気もなく財布をあけ二百円を取り出し私へと差し出す。

「え・・・」

 私は、手を止めたままキックから優希へ視線を移す。優希は、その動向を見守っている。

「一枚、売って。バラで、一枚、削ってみたくなった」

 聞きたくなかった単語が、次々に襲いかかる。突き出された腕、握られた掌。五十枚のうちのたった一枚。いや、半分は削ってしまっているのだから、万が一にも、当たりが含まれているならば、二十五分の一の確率。近いようで遠い数字。出来るものなら、聞かなかった振りをして、このまま、削り進めてしまいたかったけれど、そんな事をしても、キックは握られた二百円をパラッとテーブルに落とし、積まれたスクラッチに手を伸ばすに違いなく、仕方なくその掌の下に、自らの掌を差し出し、キックの掌が開き、百円玉二枚が、落とされた。
 キックは、躊躇することもなく、束になっている一番上のスクラッチを一枚とり自分の前におくと、親指の爪で銀の部分を擦り始める。
 私と優希は、その突然の動向に目を見張る。小さな枠を削り終えたキックが呟いた。

「えっと、何が当たりだって?」
「絵柄が、三つでたら当たりだよ」

 唾を飲み込む、答えた。

「ってことは・・・」

 無表情なキックを優希が手元を覗き込む。

「か・・・門松ぅ」

 驚きに掠れた音痴な声が、優希の口から漏れる。キックは、突然目を見開き低く轟くような声が部屋を揺るがす。
 私は、正面に座っている体をテーブルに乗り出し、そのスクラッチを見る。小さな枠の中に門松が三つ描かれている。紛れもなく、二等の五十万だった。
 言葉が喉を詰まらせ、脱力感が襲いコタツの上に崩れ落ち、寝そべったまましばらく身動きが取れずにいた。
 ショックの竜巻にクルクルと揉まれている私に目を向けることもなく、二人は歓喜の声をあげ、手と手を取り合い万歳までしている。
 一通りの喜びを楽しんだとき、いつ間にか立ち上がっていたキックが、二等のスクラッチを握り締め、高く上げた。

「よし、これは皆のために使おう」

 いまだうな垂れた頭をやっとの思いで持ち上げ、キックへ温かい眼差しを向ける。キックは、大げさなほど大きく頷く。
 そうなのだ、元はといえば、このスクラッチは私が買ってきたもので、本当だったら私が当てるはずだったのだ。あのまま行けば、間違いなく私が、二等を当てていた。もし、そうであったら、私も二人の手前、多少なりとも、おそそ分けをしたに違いないのだ。悔しい気持ちは消える兆しはないけれど、キックがこうやって言ってくれている以上、諦める他なかった。
 ようやくコタツから起き上がり、パーカーについた無数の銀のカスがパラパラと落ちていた。

「あぁ、そのままそのまま」

 上体を起こした瞬間、背中を押さえつけられ、無理な体勢のまま固まり、顔を横へ捻る。

「動かないでね」

 優希の手が背中から離れると、ばたばたと廊下へ走っていき、またかけ戻ってくる。コンセントにプラグをいれ、スイッチを上げる。ウィーンと掃除機の音が鳴り響く。そして、優希が私の肩をゆっくりと起こして、なるべく銀のカスが落ちないように、座らせ、忽ち私を凄まじい吸引力が襲った。しつこくこびり付くカスは、簡単には取れず、優希は、まるで絨毯でも擦るように力強くブラシをかける。掃除機が止まった頃には、私のパーカーは所々が奇妙に盛り上がり、明らかに変形をしていた。

「よし、気を取り直して、あと24枚頑張るぞ!!」
 私は気合をいれ、元の席につき、五円を握り締め、小さな銀枠を削ろうと指を動かしたとき、キックが言った。

「もう、ないんじゃないの?」

 手に持つ五円を、あのくりっとした目に埋め込んであげようかという衝動が、私の中でふつふつと沸きあがっていた。キックの言葉を聞き流し、優希の気休めの声援をうけ、祈りを込めながら削り進める。
 最後の一枚を削り終えたとき、優希は、雑誌に目を落としていて、キックは、三個目のミカンの白い皮を取っていた。誰も、最後の一枚に気づいていないようだった。私は、百円ばかり当たりのスクラッチを袋の中にいれ、それを財布に仕舞い、ゴミを丸めゴミ箱に詰め込んだ。二人は、いまだ、顔を上げない。終わったよと言葉を発しようかと思ったけれど、どうにもそんな気分にはなれず、知らん振りして、寝転がってコタツに埋もれるように体を丸めた。
 わずかに震えるコタツ。わずかに漏れる吐息。捲られることのない雑誌。皮むきされ続けた食べられることのないミカン。ペシっと、何かを叩く音が聞こえた。
 コタツの中で、への字に曲げた口元に力を入れた。


 一月二十七日。キックから集合のメールが届けられた。内容は、短く用件だけが書かれていた。五十万円の使い道を決めました。そんなメールだった。夜仕事を終え、優希のアパートへと向かう。キックはまだ到着しおらず、優希と五十万円談義で盛り上がっていた。

「やっぱりさ、懐石料理とか食べちゃうのかな?」

 いまだ、立ち直りきれない私も、これから訪れる幸せな時間を思い描いていた。

「いや、クルージングとかかも、知れない」
「うっひゃ~」

 私は、期待に満ちた叫びを上げ、優希のいつもより気合の入った化粧と服装をみれば、尚更、期待は膨らむばかりで、うろうろと小さな部屋を歩き回る。ふと、壁に貼られた二枚のハガキに目を留める。何処にでもある、何の変哲もない常識的なハガキ。私が書いてだした年賀状であって、飾られていることが申し訳なく思える。それに比べ、隣にある、へんなケモノが描かれたハガキは、飾られてみると、愛嬌があり、飾るに相応しいものに思えた。私には、到底こんなへんなケモノを書いて誰かに出すなんて、恥ずかしくて出来ない。それを、平然とやり遂げてしまうキックが、羨ましく思えた。

 アパートの外から、聞きなれたクラクションが響いく。カーテンを開け外を覗くと、ヘッドライトがついたゴルフがエンジンを響かせながら停車している。

「きたっ」

 崩れまくった表情で、優希を呼び、ばたばたと玄関を後にした。
 二人で駆け寄り、ドアを開けると、キックのうれしそうな声が響く。

「おまたせ」

 優希は、助手席に乗り込み、私は後部座席に座った。さあ行きますかというキックの一言で、私たちは、夢の世界へ走り出した。

「優希、今日は随分とお洒落だね」

 優希は、はにかむ。

「さあ、どこへ行く?」

 いつもより弾む優希の溢れんばかりの喜びが、言葉の端々で伝わる。キックは、考える素振りもみせず、あらかじめ決めていたように、頷く。

「ちょっと、遠くに行こう」

 私と優希は、喜びを声に表し、キックの言葉の続きを待ち焦がれる。

「首都高抜けて、ベイブリッジとか走っちゃうか」

 また、喜びの唸りが上がる。キックが、ハンドルから手を離し、カーステレオのスイッチを押し、ボリュームを上げる。二人は、肩を揺らし、笑顔を撒き散らし歌い盛り上がる。

「どうよ?最高の音でしょ?この走りも最高でしょ?」
「うんうん、いいよ、最高!!」

 私は、語尾が不自然に上がるほど、ステレオに負けることなく叫んだ。優希は、表情を一変させていたことに、まだ、私は気づかずに盛り上がっていた。キックは続ける。

「やっぱり、これにして良かった、この響きが違うもん、タイヤも思い切って変えて正解だったな、もう、ハンドルにビシビシ伝わってくる、うっほ~い」

 キックは、珍しく、声を荒げ、はしゃいでいた。優希の手が、ステレオのボリュームを落とす。萎んだ風船のように私のテンションも落ちていく。

「これと、タイヤを買ったの?皆のために?」

 指差されたステレオ、何かを問いただすときの、怒りを押し込め、今にも爆発しそうな優希の低い声。そのとき、私は、ようやく状況を飲み込み始めていた。
 キックは、うんうんと悪びれる素振りもなく自慢げに答える。優希の溜息が漏れ、座席に寄りかかり頭をヘッドレスに乗せた。
 私は、開いた口が塞がらずにいて、頭の中で受け入れたくない現実を少しずつ整理していた。キックは、あの五十万を、このオンボロゴルフのカーステレオとタイヤに使ってしまったのだ。あの二等を。

「えええええええええええええ!!」

 理解して随分と時間が経ったとき、どういわけか腹の底から、声があふれ出た。キックの肩が、びくっと動き、流れる電灯が歪み、前方を走る車のブレーキランプがついては消え、後方を走る車は見る見るうちに離れていき、ゴルフが中央分離帯に乗り上げそうになるとまた方向を変え、蛇行し、中身をひどく揺さぶり、必死でハンドルで立て直している。優希は、声を上げることもなく、両手で耳を塞ぎ、ずるずると背もたれから崩れ落ちていく。

 それから快適になっただろうゴルフは、散りばめられた光の中、赤く灯る東京タワーを横目に、このロマンチックな街中とは裏腹に、車内では、しばらくの間、重い空気の中で揉め事が続いた。
 私は、深く感じた。

「そうだよ、思考が違うんだもん・・・なあ」

 年賀状に描かれたケモノが、私の頭の中を、楽しそうに羽ばたいていた。
 美しい景色は、無常にも流れ続け、私は、後部座席マットの上に崩れ落ちた。
 無数の光が、差し込んでは消えていく。


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おわり・・・
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一月の出来事 1

2005年01月09日 | FILM 一二三月
年賀状【一の一】→→→  新年早々去年の暮れの事など思い出すなんて、後ろ向きの人間だなんて言われかねないけれど、とにかく暮れは史上最悪で今思い出しても鳥肌がたつ程だ。
 そんなわけで最悪な気持ちを引きずりながら二十四回目の新たな年は頼んでもいないのに、勝手にやってきた。例年通り家族で初詣にでかけ三が日を適当に過ごし、会社の新年会に出た。その間、高校時代からの知り合いの優希とキックにはクリスマス以来会っていなかった。これは考えようによっては毎年の事で気にすることもないはずなのだけれど、あの出来事があってから、ふと思い起こしてしまい、新年を向かえ新たな気持ちでなんて事にはほど遠い話だった。

 優希は中学の時に両親を交通事故で失ったらしく、学生時代は両親が残してくれた遺産で生計をたて高校をでて大学で図書館司書の資格をとり、今は市の図書館に勤めている。風貌は小柄で殻をかぶった優等生タイプだと私はにらんでいる。
 キックは菊乃という日本風のりっぱな名前を祖父につけてもらったにも関わらず、とても活発な人間に覚醒してしまった。いつも、間違った方向に進んでしまったと文房具屋を営む両親は嘆いている。ぱっとみは、長身美形のかっこいい文房具屋の兄ちゃん・・・なのだ。

 一月四日の朝、意外と早くに目が覚め、のそのそとベットから這い出て、相変わらずお雑煮が胃にどっしりともたれる中、郵便屋のバイクの音を聞くと、年賀状を取りにいった。
 寝癖混じりの弛んだ上下のスウェット姿で、茶の間のコタツに入り、年賀状を家族別に振り分けた。多くの年賀状は父宛でその中に、ちらほらと私宛のものが混じっている。母は親しいパート仲間から3枚だけだった。のんびり屋の友人たちから、ポツポツと届き始めた年賀状を一通り弾き進め、一枚だけ、それとは別にテーブルの上に弾き、まず、纏めてある束から、ざっと目を通し、最後に、優希からのハガキを手に取り眺める。

 気づくと、後ろから母が覗き込んでいた。

「わぁ、さすが優希ちゃんだね。私より達筆だよ」

 例年、同じ賛美が口から漏れる。

「あんたにもこんな字が書けたらいいのに、優希ちゃんの爪を煎じて飲ませたい」

 これも例年通りの無駄口である。

「なにこれ?」

 母は、後ろから手を伸ばし、優希のハガキの一部へと指を差す。

「ちょっと昇子(ノリコ)。あんた、菊乃くんの車に何をしたの?」

 母がキックを呼ぶときは、必ず、君とつける。

「はぁ」 

 物を乾びさせるような落胆のため息が口から漏れる。私は、持っていたハガキをピシャッとテーブルの上で引っ繰り返し、隠すように他の束を上に乗せた。母は、今一度そのハガキへ手を伸ばそうとしたけれど、ハガキ一式を掌で押さえこみ、そのまま腰を浮かし立ち上がる。

「なんでもないよ」

 家族の会話なんてこんなものだと思う。何かあっても、なんでもない。何処の家族もそうに決まっている。母は、私の背中にガミガミと言葉を当て続けていたけれど、今更、説明する元気も、勇気もなく、強引に部屋へと続く階段を上った。

 部屋へ戻ると、小さなコタツのスイッチをいれ、中へ潜り込み、急いで暖めようとしているコタツのヒーター音が震動する中、優希からのハガキを読み返した。江戸時代の人間に負けないくらい達筆に綴られた文字の数々。けれど、内容は、新年の挨拶に相応しいとは思えず。

「新年あけましておめでとう。
キックのゴルフの穴をちゃんと弁償しましたか?
今年もたくさん笑って過ごしましょう!!
また遊びに来てね。手ぶら厳禁」

 私は心の中で、優希にちょっと、毒ついた。
 おめでとうの後にこれはないだろう。たしかに、去年の暮れに、キックの愛車ゴルフの側面に、すっぽりつま先が納まる程の、へこみを作ったのは私自身であるし、それをまだ弁償していないのも確かである。キックからのその件に関して連絡もしてきていないし、第一まだ今年は会っていない。話はそれからでも良いだろうと、キックも思っているに違いないだろう。
 それを、こんな風に書かなくてもよいのに。嫌なことをまた、思い出しては、心が寒くどんよりと重くなっていた。

「わかってるよ、馬鹿」

 温まり始めた正方形のコタツの中で、呟いた。


 生活が平常に戻り始めたというのに、体に染み付いた正月ムードはなかなか抜けずに毎日疲れ果て帰宅し、ぐっすりと眠る日々が続いた。
 一月の終わり、二十日、夜残業で帰宅し遅い夕食を食べていると母が一枚のハガキを持って私の向かいの席へと腰を下ろす。

「奇妙なハガキが来てるよ」

 目の前でひらひらとしている。無視でもしてやろうかと、考えたけれど、とりあえず受け取り目を通す。
 一面青くマジックで乱雑で塗られていて、その上に黒のマジックでおめでとう今年もよろしくと書かれている。そして、元旦なんて随分前に過ぎたことであるのに、堂々と、元旦と赤文字で書かれ、乱雑なブルーの下地の上中央に、おそらく馬であろう四本の足がある生物らしき絵が描かれ、その生物の胴回りからは、羽が生えていて、差出人は書かれていなかった。理解をはるかに超えたグロテスクな一枚だった。
 嫌がらせにも取れるそんなハガキではあったが、嫌がらせではないだろう。それどころか、書いて出しただけでも、上出来と思わざる終えなかった。

「菊乃だよ」

「やっぱりね。あいかわらずマイペースだなあ」

 母はたった一言で納得し席を立ち去った。


 朝、降った雨が、夕方には上がりはしたが、残らせた雨たちが所々で凍り付いている。
 公園の駐車場に車を停め、肩を窄めて神経質に歩道を歩き、アパートの玄関ホールまで辿り付くと、肩の力を抜き息を漏らした。階段を上り、二○三号室の前に立ち、チャイムを鳴らす。スリッパが近づく音が聞こえ、カタッと鍵が開けられノブが回る。

「いらっしゃい」

 中から、優希がにやりと笑みを浮かべ顔を出す。私は、何も言わずに玄関へと踏み入れ靴を脱ぐ。

「寒い~、道路氷始めてる」
「えっまじで?」

 答えたのは、先を歩く優希ではなく、コタツに入りミカンの皮むきに勤しむキックだった。私は、ダウンジャンパーを脱がずに、コタツの前で仁王立ちし、ポケットに入れておいた小さな袋を取り出し、コタツの上に放り投げた。

「何これ?」

 気のないキックの声。自信満々に投げ放った小さな袋にまったくの興味を示していないようだ。優希が、白い湯気があがるマグカップを持ち、コタツの上へと置くと、その袋を覗き込む。

「ああ、スクラッチだ」

 私は、満面の笑みを浮かべ、いまだ仁王立ちで頷く。

「一国千金を狙ってみようかとおもってね、当たったら、車のヘコミも直せる」

 キックは、宝くじのスクラッチを、ちらっとだけ見やり、へーと頷くだけで、皮むきをしていたミカンの白い部分を丁寧に取り始めた。私は、そのままコタツの前にちょこんと座り込み、封を開ける。優希は、どこから持ってきたB4程の紙をこたつの上に広げ私の方へと寄せる。

「一等いくら?」
「百万!!」

 キックが、呆れた表情を浮かべた。ミカンの白い部分をせっせと取り除くキックの眼差しの奥には、なんだ、百万かよっ、とあざ笑っているように思えた。

「百万かあ、そんなに遠く無さそうな額だよね」

 優希の言いたいことは良く分った。ジャンボのような宝くじは、額は大きいけれど、自分自身が当たるようには到底思えず、それならば、もっと手短に当たる確率が高い気がするスクラッチで勝負を挑もうという私の心情を理解しての事だろう。
 財布の中から五円玉を取り出し、一万円分、五十枚のスクラッチをまず束にし目の前に置く。ダウンジャンパーを脱ぎ捨て、背筋を伸ばし、息を呑み気持ちを引き締め戦いに挑んだ。
 紙の上には、銀色のスクラッチのカスが、次々に散らばっては纏わりついていく。見る見るうちに、二十五枚を擦り終え、当たるのは、百円ばかり。溜息をうち、肩を大きく上下させた。

「一枚いくら?」

 突然のキックの声だった。スクラッチから目を離し顔を上げると、みかんを食べ終え、カスをティッシュでくるみゴミ箱へ、ポンと投げながら私の顔を見つめている。二回手を払い、寝転がって自分のコートへと手を伸ばし引き寄せ、上体を起こしポケットの中から財布を取り出した。

「二百円だけど・・・」

 貧弱で、か細い声が、口から漏れた。


thank you
つづく・・・