雪【三の三】→→→ 手に汗握り、固唾を呑んで見守る。声を出せば、自分のせいに成りかねない。二つのお好み焼き返しが、生地とプレートの隙間に入れられ、その部分だけ緩やかな丘のように盛り上がっている。そして、その丘の下には、平野が広がっている。果たして、この平野までも浮き上がり、香ばしく焼けた面を裏返すことは出来るのだろうか。
膝立ちで、一点を見つめている優希は、勇み立っている。キックは、腹が据わっているようで、平気な顔で行く末を見守っている。
優希の体が、タイミングを計ろうと二度揺れ、三度目に、両手に力が加わり、お好み焼きが返しから浮く。ピザ生地が宙を舞うように、お好み焼きがプレートの上を舞う。
「いけっ」
力んだ体から言葉が漏れた。崩れる事無く浮いたお好み焼き、このまま反転すれば成功だ。
「ぴたっ」
宙に浮いたお好み焼きが、降下しプレートに狂いなく収まり寂しい音を上げた。数秒前と変わらぬ状況に目が点になる。
「く~。ひっくり返す勇気がなかったぁ」
勇み立っていた優希は、返しを握り締めたまま、右腕を額に押し付け、歯を食いしばり、体をよじり悔しがっている。もどかしい気持ちがこみ上げる。私は、優希の手から返しを取り上げる。そして、以前状態の変わらない、宙を浮いてきただけのお好み焼きを容赦なく三等分に切り刻み、まだ焼けていない部分から生地がどろりと漏れても見て見ぬ不利をし、パタパタとひっくり返す。黙々と作業を終えると、返しをプレートに立掛け、首をくるっと回し、凝った肩を揉み解した。
小さな丸が三つプレートの上で湯気と共に香ばしい匂いを放ち続けていた。生地が入っていたボールは、すっかり空になり生地に入り込めなかった千切りのキャベツがべたりとくっついるだけだ。今焼かれている以外はすべて三人の腹の中に納まっていた。
頃合いを見計らって、お好み焼きを数回ひっくり返しそれぞれの皿に載せる。時間をかけて三枚のお好み焼きを平らげていたけれど、一枚食べるたびに話の流れが変わっていた。
一枚目を食べているときは、優希の同僚が予想を覆す大仏を観光している最中に、窓ガラスを割られ車場荒しにあってしまい、腹立たしい旅行になってしまった事。それを聞いたキックは、愛車がルーフである場合はどうすればよいのかと悩んでいた。私は、ルーフだろうがなんだろうが、窓ガラスを割られたのだから関係がないのではないかと言った。優希は、話の腰を圧し折るように、その同僚は、飲みかけのコーラまで盗まれたと話した。コーラの行方を想像しようとしたとき、二枚目のお好み焼きを皿に移した。
キックは、手の平をコブシでポンと打って話し始めた。
配達をしていたとき、道端でよれた画用紙を掲げ、上半身程のリュックを背負う、背の高い男性アメリカ人を乗せたらしい。ヒッチハイクというやつだ。その時、アメリカ人がコーラをくれた。そんなことを、ふと思い出したらしい。英語が滅法苦手なキックは、不自然な片言の日本語でハンドルから時折手を離し大げさなジェスチャーで会話を楽しんだ。そして、アメリカ人を道の駅で降ろした際、リュックの中から取り出したコーラを手渡られたらしい。その思いはとても心地よかったけれど、帰り際車中で口に含んだ生暖かいコーラは、ただ甘く酷く不味いものだった。しかし、捨ててしまうのも気がひけ、家に帰りラップをし冷蔵庫で冷やし、夜、風呂上りに冷たくなったコーラをごくりと飲み干したが、すっかり炭酸は抜けていて、やはりただ甘いだけのドリンクになっていた。
こうやって、お好み焼きが焼けるたびに、なにかしらのキーワードで、がらりと変わっては、空に浮かぶ雲のように知らぬうちに通り過ぎ、他愛もない話で、笑っては、瞬く間に忘れ去り、お好み焼きがすっかり消化しても話は、尽きる事がなかった。
ビールやカクテルを一通り飲み終わったとき、一番ペースが速かったキックは、案の定目が虚ろになり、引き締まった顔までが、だらりと筋肉が緩みっぱなしになっていた。
「まずい、今日は眠れないかもしれない」
何を心配したのか、そんな事を口走り、右手でグラスを握り、裂きイカに左手を伸ばし、どれを取ろうか迷っていたかと思うと、ぴたりと動きが止まり、小さないびきを響かせた。数秒の出来事だった。
「催眠術?」
優希と顔を見合わせると、こみ上げる笑いを部屋中に撒き散らした。驚いて飛び起きたキックはきょろきょろとしている。
「え?寝てた?」
カーテンの向こうにある世界が、どうなっているかなんて考えることもなく、この小さな部屋での出来事しか興味がなかった。
いつのまにか、私の瞼も重くなり重力に勝てずにそのまま、倒れこんだ。どこまで、私が起きていたのかも思い出せない。ただ、意識が薄れる中、瞼の向こうでちかちかと光を出していたテレビがプチリと音をたてその光が、何かに吸い込まれるように薄れていった。
夢なんて見る暇もないほど気持ちよく眠りについていた。誰かに体を揺すられた。心地よい世界がバラバラとヒビが入り剥がれ落ちていく。
眠い目をこすりやっとの思いで片方の目を開けると分身したキックが話しかけている。何を話しているのか理解できず右の耳から左の耳へ急行列車並に通りすぎていき、折り返してきても、同じように過ぎていく。腕を引っ張られ、座りの悪いぬいぐるみのように壁に立掛けられてしまった。意識を呼び起こそうとしても、幾度となく暗い穴に落ち込み、頭が傾く。瞼の隙間から見える霞んだ時計の針は四時半をさしていた。
「なに・・・」
搾り出した嗄れた声。
「雪が積もってる」
この早朝とは思えないほどの活き込んだ言葉。
「雪?昨日の?」
目の前を歩き回るキック。のそのそと、這って窓へと向かい、カーテンの隙間を覗きみる優希。その姿を、上がり始めた瞼の下からぼんやりと眺めていた。背中にカーテンの隙間から伸びた白い光があたる。
突然立ち上がり動きだしたかと思うと、視野が失われた。真っ暗。顔に被さるダウンジャンパーがずるりと落ち、見慣れた部屋が現れる。その中で二人は、黙々と身支度を整えていく。いち早く動き出したキックは、準備を終え、優希は、ロングコートを羽織るところだった。キックが、私の目の前に立つと、また視野が半分隠れる。マフラーが、頭からだらりと垂れ下がる。この二人は、いったい何をしようというのだろうと、ぼんやりと思う。
「ダラダラしないっ、早く着る」
四時半という時間帯には不似合いで不謹慎とも取れる自分勝手な言葉は、躊躇いなく向けられる。なんだろう。いったいどうしろというのだ。ジャンパーとマフラー、追加で飛んできた手袋を不貞腐れながらも、意思とは反し動きを拒否している体にジャンパーをつけ、マフラーを巻き、手袋をした。
二人の仁王立ちした両足が、両脇にある。突然屈んだかと思うと、脇から手がニョキっと現れ、体が強張る。無理やり立たされ、膝がバネのように上下する。極度の低血圧でふらつく私を、気にする事無くズルズルと引きずっていく。
これが、居心地の悪い夢ではないと気づいたのは、部屋を出たときだった。
氷でもかぶったかと錯覚するほどの凍てついた空気が、露出した肌を通じ全身を強張らせる。息が止まりそうになっても、二人は足を動かし続け、私の足も、組み込まれた歯車のように、意識とは別に動いていく。
まったく、こんな早朝から叩き起こされ外へ出ているという事実を理解し始めた頃には、腹立たしい気持ちがじわじわと沸き起こっていた。出来ることなら、部屋に戻ってコタツの中で眠りこみたい。
階段で幾度か足がもつれ、やっとの思いで下りると突然、白い光りが目の奥にまで突き刺さり、咄嗟に閉じた。瞼の先は、白く輝いている。恐る恐る目を開ける。目の前に広がったのは、静寂な真っ白い光の中の世界だった。
「すごい!!」
一瞬仰け反り、目を見張り、快活な声が飛び出た。自発的に体に血が通い思考が活発に動き始める。
夜が明け、朝を迎えたばかりの白々とした街の中。目に映るすべてのものに雪が覆いかぶさっている。
雪は七センチほどしか積もっていなかったけれどまだ誰にも触れられてなく、闇から舞い降りたままだった。
足を踏み出すと、僅かな抵抗が靴を伝わり、ざくっと音が漏れる。県道は、さすがに車は行き交っていたけれど、多くの車のボンネットには、同じ荷物が載っていて、ブレーキをかけると、スルスルとフロントガラスの方へ滑り落ちていく。何台かは、タイヤとアスファルトが擦れ、ガタガタと音をあげ走っていた。タイヤが通る道筋は、ただ染みているだけだった。
信号機の点滅した黄色い明かりが雪の中で灯り、太陽が海の向こうから顔を出す前の光が、ブロック塀に積もる雪も、置き去りにされた自転車のサドルやハンドルに積もる雪も、看板の上に積もる雪も、すべての屋根に広げられた雪も、何もかもを、キラキラと輝かせている。それはまるで、水彩画で描かれた絵葉書のような景色だった。
キックがおしたボタンで、信号が点滅から青へと変わる。三人は歩道で広がる景色に見惚れながら、踏み出した。
「きゃあ」
白線を踏みしめた優希は、悲鳴をあげ、仰け反り隣にいたキックの腕にしがみつく。一瞬踏み込みが遅かった私は、優希の体勢が崩れるのを横目で感じながらも、上がった足を止めることが出来ずに、白線の上に落ち、カキ氷でも削るようにジャリッと左足の裏が、氷上を削りそのまま勢いよく流れ、反対右足でバランスを取ることを試みても、左足同様、ズルリと滑り尻餅をついた。この感覚、どこかでみたような。
「コチコチだよ」
嬉しそうに、笑みを浮かべながら優希の体勢を立て直し手を離すと、スルスルと横断歩道の上を、野球で塁に出たとき、リードする選手のように、横を向きながら滑りだし、あっというまに渡りきったキックが、二人を急かしている。
二人は、生まれたての小鹿のように尻を突き出しなんとか渡り切ると、百メートルでも全力疾走したかのように息が切れていた。
雪に包まれた公園の木は風に揺れる度に、ぱさぱさと細かな雪を振りまいている。
見渡す限り真っ白で、ブランコも、滑り台も、ベンチも、細い鉄棒にすら器用に、飾られている。空を小躍りでもするかのように、声をあげ飛び交う鳥たち以外は、誰も踏み入れていなかった。
「きつねでも呼んで見るか?」
キックが嬉しそうに言う。
「るるるるるるる・・・」
優希が屈み手を前に出している。三人が一斉に笑いを零す。
「真ん中行っちゃう?」
沸き起こる好奇心に、キックへ視線を送り優希へと移す。白い息が何度も漏れている。真っ白な頬の真ん中が少し赤らんでいた。服装を見ると薄着であることに気づいた。それもそのはずで、私がジャケットとマフラーと手袋をしているのだから。心の中で舌打ちをし、寝ぼけていたとはいえ不甲斐ない。後悔が津波のように押し寄せる。
咄嗟にジャケットを脱いだ。そんな突拍子もない行動を真横で見ていた優希とキックは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
私は、そうは言っていられず、優希の首にマフラーを巻きつける。
「やっぱりジャンパー車から取ってくる。コート脱ぎなよ、それ汚れてもいいコートじゃないじゃん」
「えっ大丈夫だよ。面倒でしょ」
優希は一度だけ断ったが私の強引さに負けてコートを脱ぎジャケットに腕を通した。
「これも邪魔」
手袋を外し押し付けた。
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
二人は、ほとんど言葉を発せず、私は息を入れる暇もないほど捲し立て、公園を後にした。優希のコートを抱えアパートへ、なんどかずるりと滑りながら走った。そして車の鍵を手にしてまた外へと飛び出す。
駐車場には、雪を載せた車が三台停めてあり、うち二台は、私達のもので、一番手前の自分の車へと近づく。車は、氷のように冷え切っていた。それは車内も変わらず、一晩置き去りにされていたジャンパーに腕を通すと、どういうわけか、体の芯まで冷やされていくように感じ、何度も身震いした。もしかすると、使うべきときに使って上げなかった逆恨みだろうかとふと考える。
息を切らしながら走っていくと、まだ二人は公園の入口に足踏みをしながら立っていた。
「ごめん、ごめん、お待たせ」
そして、足踏み揃えず、中へ踏み入れた。
悲しい事に、ジャンパーに冷やされた体は一向に温まることなく、それが私の中の隠れたスイッチをポチっと押した。
「うわあ」
雄たけびを上げ、ざっくざっくと新雪を踏み鳴らし、つるつると滑る滑り台によじ登り、滑り台から転がり落ちた。立ち上がると雪まみれの体から、べたついた雪が剥がれ落ちる。
「気持ちいい」
大きく腕を広げ肺いっぱいに息を吸い込むと、少し湿った冷たい空気が染渡る。ジャングルジムに登り仁王立ちしているキックが言った。
「雪ダルマを作ろう」
時々響く新聞屋のバイクの音が聞こえてくる。こんな日でも休むことはできないのだろう。私達は、ひたすらたった七センチ程の雪をかき集めている。
ひと掬いすれば地肌が見えてしまう。たちまち積み上げられる白い雪は茶色の塊になっていく。手当たりしだいに雪や土をかき集めやっとのおもいでひとつのまるい塊ができる。
雪ダルマと胸を張りたいところだけど白い部分よりも明らかに茶色い部分が多く占めていた。それでも五十センチほどになっただるまを、赤くかじかむ手を何度も吐く息で温めながら、作り上げる。
念入りに木の葉で目をいれ、雪ダルマが出来上がった。
三人は、遠めに出来栄えを観察し、チャーミングな雪ダルマを笑った。無理やり満足したところで、ふと寒さに突然襲われアパートに駆け戻る。
公園を後にするとき、真ん中で佇む茶色い雪ダルマはじっとこっちを見ていた。私たちは合掌し、駆け出した。
優希の部屋に戻り軽い朝食を取り、三人とも仕事があったのでおのおのアパートを出た。
駐車場で鍵をあけて乗り込もうとしたとき寒そうに歩く犬の散歩をする老夫婦が歩道を通る。
「雪ダルマか~縁起がよい」
「誰が作ったのでしょうね」
「トンチがきいてるなぁ」
厚く着込んだ老夫婦が、嬉しそうに話しながら歩いていく。
私は、車に乗りこまず、公園の方をみた。そして、一人思い出し笑いをする。あれはベターで寒いギャグだけれど年齢は関係ないのだと確信する。
キックが雪ダルマを作ろうと言い、雪をかき集めてみたけれど、二つの玉を作るとなると小さな雪ダルマしか出来ない。キックは、そんな小さな雪ダルマなんて意味がないと豪語し、あっちのダルマにすればよいと言張った。あの赤に塗られためでたいダルマだ。
雪の中に、あのダルマは不似合いだと二人は説得を試みたものの、頑として譲らないキックに押し切られる形になり、あれが完成した。
でも、今思えばあれで良かった。それは、あの老夫婦にうけたというわけではなく、今、周りを見渡すと、アスファルトの上にあった雪は水溜りに変わり、あれほど覆いつくしていた屋根の雪は、雫になり流れ落ちている。太陽が昇り、照らされた雪はあっというまに跡形もなく消えていく。だから、少しでもあの公園の真ん中で、あのダルマが座り続けてくれればいいと願っていた。
並ぶ桜木の枝に僅かに残る雪の中から、小さな芽が顔を出している。こんなにも寒いのに、春はすぐそこまでやってきているのだろうか。この冬も、この雪のように消えてしまうのだろうか。キラキラと滴る雪の雫を見ながら、少し戸惑っていた。
thank you
おわり・・・
膝立ちで、一点を見つめている優希は、勇み立っている。キックは、腹が据わっているようで、平気な顔で行く末を見守っている。
優希の体が、タイミングを計ろうと二度揺れ、三度目に、両手に力が加わり、お好み焼きが返しから浮く。ピザ生地が宙を舞うように、お好み焼きがプレートの上を舞う。
「いけっ」
力んだ体から言葉が漏れた。崩れる事無く浮いたお好み焼き、このまま反転すれば成功だ。
「ぴたっ」
宙に浮いたお好み焼きが、降下しプレートに狂いなく収まり寂しい音を上げた。数秒前と変わらぬ状況に目が点になる。
「く~。ひっくり返す勇気がなかったぁ」
勇み立っていた優希は、返しを握り締めたまま、右腕を額に押し付け、歯を食いしばり、体をよじり悔しがっている。もどかしい気持ちがこみ上げる。私は、優希の手から返しを取り上げる。そして、以前状態の変わらない、宙を浮いてきただけのお好み焼きを容赦なく三等分に切り刻み、まだ焼けていない部分から生地がどろりと漏れても見て見ぬ不利をし、パタパタとひっくり返す。黙々と作業を終えると、返しをプレートに立掛け、首をくるっと回し、凝った肩を揉み解した。
小さな丸が三つプレートの上で湯気と共に香ばしい匂いを放ち続けていた。生地が入っていたボールは、すっかり空になり生地に入り込めなかった千切りのキャベツがべたりとくっついるだけだ。今焼かれている以外はすべて三人の腹の中に納まっていた。
頃合いを見計らって、お好み焼きを数回ひっくり返しそれぞれの皿に載せる。時間をかけて三枚のお好み焼きを平らげていたけれど、一枚食べるたびに話の流れが変わっていた。
一枚目を食べているときは、優希の同僚が予想を覆す大仏を観光している最中に、窓ガラスを割られ車場荒しにあってしまい、腹立たしい旅行になってしまった事。それを聞いたキックは、愛車がルーフである場合はどうすればよいのかと悩んでいた。私は、ルーフだろうがなんだろうが、窓ガラスを割られたのだから関係がないのではないかと言った。優希は、話の腰を圧し折るように、その同僚は、飲みかけのコーラまで盗まれたと話した。コーラの行方を想像しようとしたとき、二枚目のお好み焼きを皿に移した。
キックは、手の平をコブシでポンと打って話し始めた。
配達をしていたとき、道端でよれた画用紙を掲げ、上半身程のリュックを背負う、背の高い男性アメリカ人を乗せたらしい。ヒッチハイクというやつだ。その時、アメリカ人がコーラをくれた。そんなことを、ふと思い出したらしい。英語が滅法苦手なキックは、不自然な片言の日本語でハンドルから時折手を離し大げさなジェスチャーで会話を楽しんだ。そして、アメリカ人を道の駅で降ろした際、リュックの中から取り出したコーラを手渡られたらしい。その思いはとても心地よかったけれど、帰り際車中で口に含んだ生暖かいコーラは、ただ甘く酷く不味いものだった。しかし、捨ててしまうのも気がひけ、家に帰りラップをし冷蔵庫で冷やし、夜、風呂上りに冷たくなったコーラをごくりと飲み干したが、すっかり炭酸は抜けていて、やはりただ甘いだけのドリンクになっていた。
こうやって、お好み焼きが焼けるたびに、なにかしらのキーワードで、がらりと変わっては、空に浮かぶ雲のように知らぬうちに通り過ぎ、他愛もない話で、笑っては、瞬く間に忘れ去り、お好み焼きがすっかり消化しても話は、尽きる事がなかった。
ビールやカクテルを一通り飲み終わったとき、一番ペースが速かったキックは、案の定目が虚ろになり、引き締まった顔までが、だらりと筋肉が緩みっぱなしになっていた。
「まずい、今日は眠れないかもしれない」
何を心配したのか、そんな事を口走り、右手でグラスを握り、裂きイカに左手を伸ばし、どれを取ろうか迷っていたかと思うと、ぴたりと動きが止まり、小さないびきを響かせた。数秒の出来事だった。
「催眠術?」
優希と顔を見合わせると、こみ上げる笑いを部屋中に撒き散らした。驚いて飛び起きたキックはきょろきょろとしている。
「え?寝てた?」
カーテンの向こうにある世界が、どうなっているかなんて考えることもなく、この小さな部屋での出来事しか興味がなかった。
いつのまにか、私の瞼も重くなり重力に勝てずにそのまま、倒れこんだ。どこまで、私が起きていたのかも思い出せない。ただ、意識が薄れる中、瞼の向こうでちかちかと光を出していたテレビがプチリと音をたてその光が、何かに吸い込まれるように薄れていった。
夢なんて見る暇もないほど気持ちよく眠りについていた。誰かに体を揺すられた。心地よい世界がバラバラとヒビが入り剥がれ落ちていく。
眠い目をこすりやっとの思いで片方の目を開けると分身したキックが話しかけている。何を話しているのか理解できず右の耳から左の耳へ急行列車並に通りすぎていき、折り返してきても、同じように過ぎていく。腕を引っ張られ、座りの悪いぬいぐるみのように壁に立掛けられてしまった。意識を呼び起こそうとしても、幾度となく暗い穴に落ち込み、頭が傾く。瞼の隙間から見える霞んだ時計の針は四時半をさしていた。
「なに・・・」
搾り出した嗄れた声。
「雪が積もってる」
この早朝とは思えないほどの活き込んだ言葉。
「雪?昨日の?」
目の前を歩き回るキック。のそのそと、這って窓へと向かい、カーテンの隙間を覗きみる優希。その姿を、上がり始めた瞼の下からぼんやりと眺めていた。背中にカーテンの隙間から伸びた白い光があたる。
突然立ち上がり動きだしたかと思うと、視野が失われた。真っ暗。顔に被さるダウンジャンパーがずるりと落ち、見慣れた部屋が現れる。その中で二人は、黙々と身支度を整えていく。いち早く動き出したキックは、準備を終え、優希は、ロングコートを羽織るところだった。キックが、私の目の前に立つと、また視野が半分隠れる。マフラーが、頭からだらりと垂れ下がる。この二人は、いったい何をしようというのだろうと、ぼんやりと思う。
「ダラダラしないっ、早く着る」
四時半という時間帯には不似合いで不謹慎とも取れる自分勝手な言葉は、躊躇いなく向けられる。なんだろう。いったいどうしろというのだ。ジャンパーとマフラー、追加で飛んできた手袋を不貞腐れながらも、意思とは反し動きを拒否している体にジャンパーをつけ、マフラーを巻き、手袋をした。
二人の仁王立ちした両足が、両脇にある。突然屈んだかと思うと、脇から手がニョキっと現れ、体が強張る。無理やり立たされ、膝がバネのように上下する。極度の低血圧でふらつく私を、気にする事無くズルズルと引きずっていく。
これが、居心地の悪い夢ではないと気づいたのは、部屋を出たときだった。
氷でもかぶったかと錯覚するほどの凍てついた空気が、露出した肌を通じ全身を強張らせる。息が止まりそうになっても、二人は足を動かし続け、私の足も、組み込まれた歯車のように、意識とは別に動いていく。
まったく、こんな早朝から叩き起こされ外へ出ているという事実を理解し始めた頃には、腹立たしい気持ちがじわじわと沸き起こっていた。出来ることなら、部屋に戻ってコタツの中で眠りこみたい。
階段で幾度か足がもつれ、やっとの思いで下りると突然、白い光りが目の奥にまで突き刺さり、咄嗟に閉じた。瞼の先は、白く輝いている。恐る恐る目を開ける。目の前に広がったのは、静寂な真っ白い光の中の世界だった。
「すごい!!」
一瞬仰け反り、目を見張り、快活な声が飛び出た。自発的に体に血が通い思考が活発に動き始める。
夜が明け、朝を迎えたばかりの白々とした街の中。目に映るすべてのものに雪が覆いかぶさっている。
雪は七センチほどしか積もっていなかったけれどまだ誰にも触れられてなく、闇から舞い降りたままだった。
足を踏み出すと、僅かな抵抗が靴を伝わり、ざくっと音が漏れる。県道は、さすがに車は行き交っていたけれど、多くの車のボンネットには、同じ荷物が載っていて、ブレーキをかけると、スルスルとフロントガラスの方へ滑り落ちていく。何台かは、タイヤとアスファルトが擦れ、ガタガタと音をあげ走っていた。タイヤが通る道筋は、ただ染みているだけだった。
信号機の点滅した黄色い明かりが雪の中で灯り、太陽が海の向こうから顔を出す前の光が、ブロック塀に積もる雪も、置き去りにされた自転車のサドルやハンドルに積もる雪も、看板の上に積もる雪も、すべての屋根に広げられた雪も、何もかもを、キラキラと輝かせている。それはまるで、水彩画で描かれた絵葉書のような景色だった。
キックがおしたボタンで、信号が点滅から青へと変わる。三人は歩道で広がる景色に見惚れながら、踏み出した。
「きゃあ」
白線を踏みしめた優希は、悲鳴をあげ、仰け反り隣にいたキックの腕にしがみつく。一瞬踏み込みが遅かった私は、優希の体勢が崩れるのを横目で感じながらも、上がった足を止めることが出来ずに、白線の上に落ち、カキ氷でも削るようにジャリッと左足の裏が、氷上を削りそのまま勢いよく流れ、反対右足でバランスを取ることを試みても、左足同様、ズルリと滑り尻餅をついた。この感覚、どこかでみたような。
「コチコチだよ」
嬉しそうに、笑みを浮かべながら優希の体勢を立て直し手を離すと、スルスルと横断歩道の上を、野球で塁に出たとき、リードする選手のように、横を向きながら滑りだし、あっというまに渡りきったキックが、二人を急かしている。
二人は、生まれたての小鹿のように尻を突き出しなんとか渡り切ると、百メートルでも全力疾走したかのように息が切れていた。
雪に包まれた公園の木は風に揺れる度に、ぱさぱさと細かな雪を振りまいている。
見渡す限り真っ白で、ブランコも、滑り台も、ベンチも、細い鉄棒にすら器用に、飾られている。空を小躍りでもするかのように、声をあげ飛び交う鳥たち以外は、誰も踏み入れていなかった。
「きつねでも呼んで見るか?」
キックが嬉しそうに言う。
「るるるるるるる・・・」
優希が屈み手を前に出している。三人が一斉に笑いを零す。
「真ん中行っちゃう?」
沸き起こる好奇心に、キックへ視線を送り優希へと移す。白い息が何度も漏れている。真っ白な頬の真ん中が少し赤らんでいた。服装を見ると薄着であることに気づいた。それもそのはずで、私がジャケットとマフラーと手袋をしているのだから。心の中で舌打ちをし、寝ぼけていたとはいえ不甲斐ない。後悔が津波のように押し寄せる。
咄嗟にジャケットを脱いだ。そんな突拍子もない行動を真横で見ていた優希とキックは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
私は、そうは言っていられず、優希の首にマフラーを巻きつける。
「やっぱりジャンパー車から取ってくる。コート脱ぎなよ、それ汚れてもいいコートじゃないじゃん」
「えっ大丈夫だよ。面倒でしょ」
優希は一度だけ断ったが私の強引さに負けてコートを脱ぎジャケットに腕を通した。
「これも邪魔」
手袋を外し押し付けた。
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
二人は、ほとんど言葉を発せず、私は息を入れる暇もないほど捲し立て、公園を後にした。優希のコートを抱えアパートへ、なんどかずるりと滑りながら走った。そして車の鍵を手にしてまた外へと飛び出す。
駐車場には、雪を載せた車が三台停めてあり、うち二台は、私達のもので、一番手前の自分の車へと近づく。車は、氷のように冷え切っていた。それは車内も変わらず、一晩置き去りにされていたジャンパーに腕を通すと、どういうわけか、体の芯まで冷やされていくように感じ、何度も身震いした。もしかすると、使うべきときに使って上げなかった逆恨みだろうかとふと考える。
息を切らしながら走っていくと、まだ二人は公園の入口に足踏みをしながら立っていた。
「ごめん、ごめん、お待たせ」
そして、足踏み揃えず、中へ踏み入れた。
悲しい事に、ジャンパーに冷やされた体は一向に温まることなく、それが私の中の隠れたスイッチをポチっと押した。
「うわあ」
雄たけびを上げ、ざっくざっくと新雪を踏み鳴らし、つるつると滑る滑り台によじ登り、滑り台から転がり落ちた。立ち上がると雪まみれの体から、べたついた雪が剥がれ落ちる。
「気持ちいい」
大きく腕を広げ肺いっぱいに息を吸い込むと、少し湿った冷たい空気が染渡る。ジャングルジムに登り仁王立ちしているキックが言った。
「雪ダルマを作ろう」
時々響く新聞屋のバイクの音が聞こえてくる。こんな日でも休むことはできないのだろう。私達は、ひたすらたった七センチ程の雪をかき集めている。
ひと掬いすれば地肌が見えてしまう。たちまち積み上げられる白い雪は茶色の塊になっていく。手当たりしだいに雪や土をかき集めやっとのおもいでひとつのまるい塊ができる。
雪ダルマと胸を張りたいところだけど白い部分よりも明らかに茶色い部分が多く占めていた。それでも五十センチほどになっただるまを、赤くかじかむ手を何度も吐く息で温めながら、作り上げる。
念入りに木の葉で目をいれ、雪ダルマが出来上がった。
三人は、遠めに出来栄えを観察し、チャーミングな雪ダルマを笑った。無理やり満足したところで、ふと寒さに突然襲われアパートに駆け戻る。
公園を後にするとき、真ん中で佇む茶色い雪ダルマはじっとこっちを見ていた。私たちは合掌し、駆け出した。
優希の部屋に戻り軽い朝食を取り、三人とも仕事があったのでおのおのアパートを出た。
駐車場で鍵をあけて乗り込もうとしたとき寒そうに歩く犬の散歩をする老夫婦が歩道を通る。
「雪ダルマか~縁起がよい」
「誰が作ったのでしょうね」
「トンチがきいてるなぁ」
厚く着込んだ老夫婦が、嬉しそうに話しながら歩いていく。
私は、車に乗りこまず、公園の方をみた。そして、一人思い出し笑いをする。あれはベターで寒いギャグだけれど年齢は関係ないのだと確信する。
キックが雪ダルマを作ろうと言い、雪をかき集めてみたけれど、二つの玉を作るとなると小さな雪ダルマしか出来ない。キックは、そんな小さな雪ダルマなんて意味がないと豪語し、あっちのダルマにすればよいと言張った。あの赤に塗られためでたいダルマだ。
雪の中に、あのダルマは不似合いだと二人は説得を試みたものの、頑として譲らないキックに押し切られる形になり、あれが完成した。
でも、今思えばあれで良かった。それは、あの老夫婦にうけたというわけではなく、今、周りを見渡すと、アスファルトの上にあった雪は水溜りに変わり、あれほど覆いつくしていた屋根の雪は、雫になり流れ落ちている。太陽が昇り、照らされた雪はあっというまに跡形もなく消えていく。だから、少しでもあの公園の真ん中で、あのダルマが座り続けてくれればいいと願っていた。
並ぶ桜木の枝に僅かに残る雪の中から、小さな芽が顔を出している。こんなにも寒いのに、春はすぐそこまでやってきているのだろうか。この冬も、この雪のように消えてしまうのだろうか。キラキラと滴る雪の雫を見ながら、少し戸惑っていた。
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おわり・・・