小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

窓枠の月

2006年12月31日 | Weblog
 ブラインドの向こうにあるのは、影になった電信柱とその上に濃紺の空に浮かぶ白く灯る月。その月は、ペイントブラシで擦ったようにぼんやりと下の部分が隠れている。今年も後数時間を残すのみ、零時を回れば、年が明ける。いつものように明日が今に変わるだけなのに、なぜか違う雰囲気が溢れている。仕事も休みでいつもと違う日常の中に自分が置かれているからだろうか。一年が、長いのか短いのか、どちらを選ぶことも出来ないけれど、きっと人にとっては、これがちょうど良い時間のくぎりなのかもしれない。
 食べ過ぎても飽きる、少なすぎても不満が残る。そんな感じだろうか。
 月も、この雰囲気の違いを感じ取った上で、今私を照らしているのかもしれない。

 最近、思うことがある。何を思うか。それは、すこしだけ前置きをしてから話すことする。十年も前の話であるが、ある日の夜、夢を見た。知り合いの夢だ。その人が、夢に現れこう言った。
「おまえは、よくやっ・・・。」
 この「や」の後の言葉が何度、何十回、何百回思い返してもはっきりしない。よくやった。なのか、よくやっている。なのか、ひっくり返ろうが、泣き叫ぼうが、何をしようが分からない。十年経った今でも、ふいに思い出し、その答えを探している。
 この二つの言葉の差は、私にとっては、実に大きくて、答えによっては自分の進退すら変わってしまうはず、けれど、未だに答えはもやもやと隠れたままなのだ。
 もし、やっているだったら、これからも、続けなければならない、だろうし、やっただったら、もう、ゆっくりしなさいと言っているように思え、まるっきり違う言葉なってしまうんだ。だからこそ、そこは実に重要で、なぜ私はそんな重大な事を忘れてしまったのだろうかと、悔やんでも悔やみきれなかった。

 結局、十年前に出した結論といえば、続けながらも、その場からは逃げるというなんとも、情けないものだった。あれから、十年経ち、今、またこの問題がここ最近、やけに顔を出してくる。けれど、十年前と変わったことといえば、その答えを考えて答えが見つからなくても、悔やんだり、悩んだりしなくなり、一つの問題として解けない知恵の輪を解くみたいに仕事のお供に持っていく感覚と実に似ていたりする。

 実は、今日も、また高くなった月を見上げながら、年の瀬のいつもと違う雰囲気の中でふと思ったりする。この世の中に、答えがあるものなんて、きっと、ほんの一握り程度だろうと、ならば、こんな難問そうそうに解けるはずがないと、そんなことを思いながら、また、思う。
「どちらだったのかな。」と。
 窓枠から、月が外れていく。

終わり。

お久しぶりです。
ここへ来ていただいてる方はいないかもしれませんが、久しぶりに他愛もないこの文章で更新させて頂きました。最近は、私はといいますと、仕事が方が混乱(笑。極めていまして文章を書くということがなくなってしまいました。
けれど、ここは、まだ残しておきたいと思っています。書きたいものが見つかったらゆっくりとのんびりと更新をしようと考えております。
それでは、良いお年を。