アンテナ微弱【十の三】→→→ 鉄板の前でしゃがみ込んだ優希は、豚のロゴが印刷されたスーパーの袋を左腕に提げていたが、袋は地面に付きその役目は、船を停泊させるブイのようなものだった。そんな左腕を気にしながら、箸は勢いよく進む。
ポケットに入れられた肉袋の口部分がひらひらと風に煽れていることに、何も感じていないキックの箸も止まる事無く動き続ける。
私は、低い姿勢を保ったままアヒルのように体を揺らしながら荷物へ向かい手探りでフランスパンを探していた。
一瞬だけでも、キックの光が欲しかったが、箸を口に銜えたままだったので声がだせずに、片っ端から手を入れていく。包装紙が当たり、それを掴み、硬くて軽い、しっかり握っていなければ吹き飛ばされてしまうだろうフランラスパンを引き抜いた。
たしか、このフランスパンを買うとき、バーベキューの素材の話を三人でしていてそれを聞いた店員が、バーベキューでフランスパンなんて、とてもおしゃれで羨ましい言っていた。しかもそれを夜の海でやると聞くと、細い目を尚も細めながら、一人空想の世界に入り頷いていた。あの店員は、今頃、空想のような世界に三人が浸っていると思っているだろう。まさか、こんなおぞましい状況に陥っているなんて考えもしないに違いない。そう思うと、可笑しくいつの間にか頬が緩んでいた。
フランスパンを持ちながら、アヒル歩きで戻る。
「何笑ってるの?」
優希が、何も起きていないのに笑っている私を不思議に思ったのだろう。
「なんか、おもしろいなあと思ってね、この状況がさあ」
店員の話はやめて、そう返す。持っていた皿を、優希に差出すと受け取った。
フランスパンを長い袋から出し、袋を丸めてジーンズのポケットへ詰め込み、パンを適当に三等分に引き千切った。
「端と真ん中どっちがよい?」
考える事もせずに、二人は同時に答え、同じ言葉でなかったので、そのままキックに真ん中を、優希に端を差し出す。
三人は、片方の手にパンと箸を持ち、もう片方に皿を持ち、鉄板へ箸を伸ばしては、握ったパンを噛み切った。
バッサーン!!バッサーン!!と、波が岩を叩きつけている。その度に、風に乗った潮が頭を掠める。
ウインナーを誰よりも多く食べたキックが、喉の渇きに気づいたようで、振り返り自分が岩に挟んだペットボトルを探す。すぐに照らされたペットボトルへ、キックが体を捻り手を伸ばす。キャップ部分を摘み上へ力強く引き上げる。手元にもってくるとキャップを取り、一リットルのペットボトルの口を唇につけようとしているとき、キックの握った側面が不自然に思えた。そして、徐々に傾けられていくペットボトルから、雨の道筋のような線がキックのライトに反射したように見えた気がした。
「あ」
誰も聞き取れない声が漏れ、ペットボトルの口がキックの唇に触れ傾けられたとき、側面にキックの指がブスリと刺さり歪んだ。
「ぼこぼこぼこ」
風呂の栓が抜けたときの音が聞こえ、あっというまに流れのよくなったペットボトルの中身はすべて零れ出る。
飛び散った中身が、鉄板の上にも届きバチバチと音を上げる。
風呂栓が抜けたときの音に混じり、蛙が潰れたような声が漏れ、手元から皿が落ち箸とフランスパンが転がり、一旦水圧でエビゾリになった体は、強力な腹筋でくの字曲がった。ペットボトルが飛び、石に当たりプラスチックが割れる音がしてバウンドしながら風に飛ばされる。へんな音をだしながら咽返るキック。
フランスパンを齧ったまま目の前で起きていることを、眺めていた。
むせ返る回数が減ると、全身で喘息のようにヒューヒューと何度も息をする。
「溺れ死ぬところだった・・・」
ヘッドライトが鼻の頭まで斜めにズレ落ち呼吸をするたびに揺れ、搾り出した声は、長い間プールに潜っていて耐え切れず水面に向かい顔を出した瞬間のようだった。
「大丈夫?」
鉄片に並べられた肉をひっくり返しながら、優希が言い、キックは依然苦しそうで息を切らし、私は優希につられ同じセリフを言ってみる。
キックはヘッドライトを外し手で持つと表情が照らされる。本当にプールから浮かび上がったときのように、前髪は、真ん中でぴっちり分かれ額に張り付き、髪を伝う雫が、顎へと流れポツポツと落ちる。
「馬鹿力で引き抜くから、ボトルが割れて、それを知らずに握るから、そんな事態に巻き込まれるんだよ」
滴るお茶を拭うこともせずに、キックの手は、鼻の下の爪楊枝程のニキビに突付いている。私は、そんなキックを見ながら、なぜこんな事になったのか、自ら言葉に出しながら理解していく。
「いちいち説明すんな!!」
突付く指先が、イライラと動いている。
「初めてみた、お茶で溺れている人」
キックが優希に、わざとライトを向け被ったタオルの水玉が妙に浮き上がり優希が眩しそうに背けながら片目を閉じる。
「でも、牛乳とかドロドロトマトジュースとかでなくてよかったじゃん」
鼻と下唇にマッチ棒をつけたら一芸出来てしまいそうな優希に向けられていたライトが私へ向けられる。持っていた皿で光を遮り肩が震え笑いが零れ始めていた。優希は、私の言葉に同意し、口の端が何度もくいっと上がる。
交互に照らされたライトがチカチカと細かく明滅し、キックがライトを叩くと再び光を放つ。
「もう、人事だと思ってさあ、冷たい奴らめ」
「さあ、そろそろ焼きそばにいきましょ」
潮の匂いが滲みこんだタオルを頭から剥ぎ取りキックの頭に押し当てると優希は焼きそば作りに取り掛かる。アヒル歩きで、荷物置場まで向かいそばの準備をし、私は、まだ鉄板の上で置き去りにされている水分が飛びきり炭化している野菜や肉の破片を隅の方へ寄せ、ゴミ用ビニール袋を作りそれに入れる。
お茶でまみれた髪を乱雑に拭き、そのタオルを美容院のように肩にかけているキックが鉄板の上へ新たに油をひき、ポケットの中から肉袋を取り出し鉄板へ落とし始め、じわっじわっと細かな音を上げている。優希から野菜袋を受け取った私は、肉のとなりで袋から野菜を落とし、少量になった野菜袋をパーカーのボケットに入れる。甘い匂いと香ばしい匂いがたちこめ、鼻をくすぐる。
野菜をかき混ぜ、肉をひっくり返すと、鉄板は更に賑わい、二玉のそばがドサリと落とされた。
若干一名、ハプニングがあったにせよ、なんだかんだかバーベキューがうまく進んでいることに安堵し、カップめんの焼きそばは、どこのメーカーが好きかなんて話に花を咲かせながら、手元だけは動いていて、ふとあることに気づき手を止める。
「あれ、さっきひっくり返した肉、片面全然焼けてないような?」
キックのライトが、私の箸を中心に照らす。随分前にひっくり返したにも関わらず表面は明らかに生である。
「なんで?」
疑問と共に優希の手元が止まる。たとえば、この状況がテレビで流れ、それを見ているオヤジがいたら、優希のなんで?なんていう質問に、おいおいそれは火力が弱まっているだけだろ、つまり、ガスが終わったんだろよ。なんて突っ込みながら、茶の間で寝ころがって、鼻でもほじりながら、おまえら、前兆があっただろう、コンロの火が弱まって焼きが甘くなっていた事に、話に夢中で気づかなかったんだよ、なんて言っているに違いない。
けれど、現実はそんなに冷静でなく混乱が判断を鈍らせる。
音がまったくしなくなった余熱だけの鉄板の下のコンロを、キックが覗きこむ。
「火がついてない、風かな?」
キックは、点火ダイヤルを何度もカチャカチャと捻ってみたものの、虚しく音がするだけで炎が灯されることはなかった。
鉄板は、急速に冷えていき、波と風の音が突然大きな音をあげたように、耳へ届く。
荷物がバタバタと揺らされ、上に乗せた石がぐらぐらと動いている。
「ボンベ替えはないよね?」
優希が問い、キックのライトが上下に動く。
「やきそば、そろそろ、食べれないかな」
突然の打ち切りに、こんな事を言ってみたけれど、食べれるはずはない。肉も焼きそばも生そのものだ。
肉をもう一度ひっくり返してみても、すでに鉄板から音が上がることもなく、変化のないオセロだ。
「どうする?」
鉄板を照らし続けるライトが深刻さを伺わせる。不自然な明滅。チカチカと冷めた鉄板へ送られていた光が、不安定な光になり始め、次々に明るさを変えていく。
「うそっ」
嫌な予感が、脳天に突き刺さる。
優希も同様だったのか、キックのライトを前から掌で叩くと、バチンと音がし、キックの頭がぐらりと前後に揺れる。
それでも、ライトは絶頂時の明るさに戻ることがなく、それどころか、徐々にフェイドアウトするように光が薄れていく。
うろたえている間に、光はすべて消えた。
最後に映したのは、一番慌てふためいたキックの眉毛と真ん丸の目だった。
「うっわああああ、暗いいいいいい」
キックが叫んだところで何も変わらず、叫びは瞬く間に強風に掻き消されていく。
「きゃああああああ!!」
ドアが開いたことに気づいたウエイトレスがメニューへ手を伸ばし、それを取り客へ体を向けた瞬間、笑顔がべたりと顔に張り付きメニューを手から落とし、フロアにひらりと落ち、貼り付けた表情の口元が僅かに開くと、ヒクヒクと頬が動き目を剥き一歩後ずさりをしながらレジカウンターにぶつかり体勢を崩しフロアに倒れると、全身に力をいれ、鼓膜が切れそうな声を張り上げた。
夜中のファミレスは昼間と客層が変わるだけで同じように賑わいざわついていたけれど、この悲鳴でぴたりと静まり返る。
男性従業員が、厨房から血相を変え駆けつける。
入口を見つめたまま、緊張感が体を固まらせ後を追いかけてきたブラシを持つ従業員に少しだけ顔を向け、小さく口元が動いた。警察、そう言った。キックが、慌てて一歩踏み出すと、駆けつけた従業員が身構え叫ぶ。
「動くな!!」
キックの足元がぴたりと止まったが、右手が発作的に鼻の下へ伸びていく。
「動くなあああ!!」
声が裏返る。
ファミレスが緊張に包まれ、三人が強盗扱いされている中、こんな切羽詰った空気を打ち破ったのは、優希だった。
クツクツと肩を震わせて笑い始めた。従業員は、呆気にとられ何が起こったのか飲み込めないようだ。目を動かし答えを求めている。
キックの後ろから前へすり抜ける。キックの指は、アンテナを鈍らせているらしいニキビを触れたままだった。笑いが喉に詰まって音をあげそうだったのを、ぐっとこらえ比較的真面目な顔を装う。
「すいません、強盗ではないです。海でバーベキューをしていて、ライトが消えてしまって、辺りが真っ暗で、それで・・・色々ありまして・・・とにかく、ここで休ませて頂けますか?」
パーカーのポケットから野菜袋が顔を出していて、身振り手ぶり説明している拍子に、千切られたピーマンや、キャベツが、パラパラとフロアに落ちる。優希は、無理やり笑いを押し込めている。従業員が、私達三人の体を下から上に食い入るように見上げていき、ため息をつく。
「申し訳ありませんが、お客様の迷惑になりかねませんので今回はお引取り頂きたいのですが」
明らかに平静を装う従業員が、頭を下げる。私達は、そうですよねと従業員に同情するように後にした。
外へでて、車へ向かいながらふつふつと湧き出す笑いが外へ漏れ、腹を抱えガハガハと体を捩らせ、バッティングドームでホームランを打ったときのファンファーレのように駐車場に響き渡り反響する。
駐車場の蛍光灯の下、優希の髪はどこが分け目なのか分からないほど乱れ絡まり上着には、べたりと模様のようにおたふくソースがしみこみ、キックの右のポケットからはナイフの柄が出ていて、左のポケットからは血に染まった肉袋が顔を出している。髪はお茶まみれでぐっしょりと濡れ、上着の肩から胸元に掛けては黄緑色の染みが出来ていた。そして、三人からは、強烈な潮とバーベキューの臭いがムンムンと放たれている。
車の中を覗けば、車を二、三回転がした後のように、散乱している。座席の上には、ビニール袋に詰められた生ゴミ、いや違うあれは、後で作り直そうとした焼きそばで、臨時に入れられたものだった。道理からいえば、あのまま、フライパンの上にいれ、そのまま火を通せば焼きそばが完成するはずなのだが、間違いなくこれから先作られる事がない気がする。これから、この車に乗る込むわけだけれど、我を取り戻した今、きっとこの車内は、とんでもない臭いが漂っているだろう。
三人の様もそうだが、それは嵐が残した爪痕のようだった。
「まったく、今日一日、その爪楊枝の先っちょ程度のニキビのおかげで酷いめにあった」
優希が、ニキビの悪影響をふいに認めてしまい、私も認めざるおえなかった。キックが、鼻の下をつつきながら、悠長に言い放った。
「でしょ?」
私の尻のポケットからしっぽのようにフランスパンの袋がダラリと垂れ下がっていることに気づかず、絶句するような車内に乗り込みドアを閉めると、尻尾が挟まり十センチほど車外に袋が出ていて走るたびにバタバタと揺れていたことに気づいたのは、信号を十五個ぐらい過ぎた頃だった。
thank you
終わり・・・
十一月の出来事 1は、一週二回休みのため、五月四日更新です。
ポケットに入れられた肉袋の口部分がひらひらと風に煽れていることに、何も感じていないキックの箸も止まる事無く動き続ける。
私は、低い姿勢を保ったままアヒルのように体を揺らしながら荷物へ向かい手探りでフランスパンを探していた。
一瞬だけでも、キックの光が欲しかったが、箸を口に銜えたままだったので声がだせずに、片っ端から手を入れていく。包装紙が当たり、それを掴み、硬くて軽い、しっかり握っていなければ吹き飛ばされてしまうだろうフランラスパンを引き抜いた。
たしか、このフランスパンを買うとき、バーベキューの素材の話を三人でしていてそれを聞いた店員が、バーベキューでフランスパンなんて、とてもおしゃれで羨ましい言っていた。しかもそれを夜の海でやると聞くと、細い目を尚も細めながら、一人空想の世界に入り頷いていた。あの店員は、今頃、空想のような世界に三人が浸っていると思っているだろう。まさか、こんなおぞましい状況に陥っているなんて考えもしないに違いない。そう思うと、可笑しくいつの間にか頬が緩んでいた。
フランスパンを持ちながら、アヒル歩きで戻る。
「何笑ってるの?」
優希が、何も起きていないのに笑っている私を不思議に思ったのだろう。
「なんか、おもしろいなあと思ってね、この状況がさあ」
店員の話はやめて、そう返す。持っていた皿を、優希に差出すと受け取った。
フランスパンを長い袋から出し、袋を丸めてジーンズのポケットへ詰め込み、パンを適当に三等分に引き千切った。
「端と真ん中どっちがよい?」
考える事もせずに、二人は同時に答え、同じ言葉でなかったので、そのままキックに真ん中を、優希に端を差し出す。
三人は、片方の手にパンと箸を持ち、もう片方に皿を持ち、鉄板へ箸を伸ばしては、握ったパンを噛み切った。
バッサーン!!バッサーン!!と、波が岩を叩きつけている。その度に、風に乗った潮が頭を掠める。
ウインナーを誰よりも多く食べたキックが、喉の渇きに気づいたようで、振り返り自分が岩に挟んだペットボトルを探す。すぐに照らされたペットボトルへ、キックが体を捻り手を伸ばす。キャップ部分を摘み上へ力強く引き上げる。手元にもってくるとキャップを取り、一リットルのペットボトルの口を唇につけようとしているとき、キックの握った側面が不自然に思えた。そして、徐々に傾けられていくペットボトルから、雨の道筋のような線がキックのライトに反射したように見えた気がした。
「あ」
誰も聞き取れない声が漏れ、ペットボトルの口がキックの唇に触れ傾けられたとき、側面にキックの指がブスリと刺さり歪んだ。
「ぼこぼこぼこ」
風呂の栓が抜けたときの音が聞こえ、あっというまに流れのよくなったペットボトルの中身はすべて零れ出る。
飛び散った中身が、鉄板の上にも届きバチバチと音を上げる。
風呂栓が抜けたときの音に混じり、蛙が潰れたような声が漏れ、手元から皿が落ち箸とフランスパンが転がり、一旦水圧でエビゾリになった体は、強力な腹筋でくの字曲がった。ペットボトルが飛び、石に当たりプラスチックが割れる音がしてバウンドしながら風に飛ばされる。へんな音をだしながら咽返るキック。
フランスパンを齧ったまま目の前で起きていることを、眺めていた。
むせ返る回数が減ると、全身で喘息のようにヒューヒューと何度も息をする。
「溺れ死ぬところだった・・・」
ヘッドライトが鼻の頭まで斜めにズレ落ち呼吸をするたびに揺れ、搾り出した声は、長い間プールに潜っていて耐え切れず水面に向かい顔を出した瞬間のようだった。
「大丈夫?」
鉄片に並べられた肉をひっくり返しながら、優希が言い、キックは依然苦しそうで息を切らし、私は優希につられ同じセリフを言ってみる。
キックはヘッドライトを外し手で持つと表情が照らされる。本当にプールから浮かび上がったときのように、前髪は、真ん中でぴっちり分かれ額に張り付き、髪を伝う雫が、顎へと流れポツポツと落ちる。
「馬鹿力で引き抜くから、ボトルが割れて、それを知らずに握るから、そんな事態に巻き込まれるんだよ」
滴るお茶を拭うこともせずに、キックの手は、鼻の下の爪楊枝程のニキビに突付いている。私は、そんなキックを見ながら、なぜこんな事になったのか、自ら言葉に出しながら理解していく。
「いちいち説明すんな!!」
突付く指先が、イライラと動いている。
「初めてみた、お茶で溺れている人」
キックが優希に、わざとライトを向け被ったタオルの水玉が妙に浮き上がり優希が眩しそうに背けながら片目を閉じる。
「でも、牛乳とかドロドロトマトジュースとかでなくてよかったじゃん」
鼻と下唇にマッチ棒をつけたら一芸出来てしまいそうな優希に向けられていたライトが私へ向けられる。持っていた皿で光を遮り肩が震え笑いが零れ始めていた。優希は、私の言葉に同意し、口の端が何度もくいっと上がる。
交互に照らされたライトがチカチカと細かく明滅し、キックがライトを叩くと再び光を放つ。
「もう、人事だと思ってさあ、冷たい奴らめ」
「さあ、そろそろ焼きそばにいきましょ」
潮の匂いが滲みこんだタオルを頭から剥ぎ取りキックの頭に押し当てると優希は焼きそば作りに取り掛かる。アヒル歩きで、荷物置場まで向かいそばの準備をし、私は、まだ鉄板の上で置き去りにされている水分が飛びきり炭化している野菜や肉の破片を隅の方へ寄せ、ゴミ用ビニール袋を作りそれに入れる。
お茶でまみれた髪を乱雑に拭き、そのタオルを美容院のように肩にかけているキックが鉄板の上へ新たに油をひき、ポケットの中から肉袋を取り出し鉄板へ落とし始め、じわっじわっと細かな音を上げている。優希から野菜袋を受け取った私は、肉のとなりで袋から野菜を落とし、少量になった野菜袋をパーカーのボケットに入れる。甘い匂いと香ばしい匂いがたちこめ、鼻をくすぐる。
野菜をかき混ぜ、肉をひっくり返すと、鉄板は更に賑わい、二玉のそばがドサリと落とされた。
若干一名、ハプニングがあったにせよ、なんだかんだかバーベキューがうまく進んでいることに安堵し、カップめんの焼きそばは、どこのメーカーが好きかなんて話に花を咲かせながら、手元だけは動いていて、ふとあることに気づき手を止める。
「あれ、さっきひっくり返した肉、片面全然焼けてないような?」
キックのライトが、私の箸を中心に照らす。随分前にひっくり返したにも関わらず表面は明らかに生である。
「なんで?」
疑問と共に優希の手元が止まる。たとえば、この状況がテレビで流れ、それを見ているオヤジがいたら、優希のなんで?なんていう質問に、おいおいそれは火力が弱まっているだけだろ、つまり、ガスが終わったんだろよ。なんて突っ込みながら、茶の間で寝ころがって、鼻でもほじりながら、おまえら、前兆があっただろう、コンロの火が弱まって焼きが甘くなっていた事に、話に夢中で気づかなかったんだよ、なんて言っているに違いない。
けれど、現実はそんなに冷静でなく混乱が判断を鈍らせる。
音がまったくしなくなった余熱だけの鉄板の下のコンロを、キックが覗きこむ。
「火がついてない、風かな?」
キックは、点火ダイヤルを何度もカチャカチャと捻ってみたものの、虚しく音がするだけで炎が灯されることはなかった。
鉄板は、急速に冷えていき、波と風の音が突然大きな音をあげたように、耳へ届く。
荷物がバタバタと揺らされ、上に乗せた石がぐらぐらと動いている。
「ボンベ替えはないよね?」
優希が問い、キックのライトが上下に動く。
「やきそば、そろそろ、食べれないかな」
突然の打ち切りに、こんな事を言ってみたけれど、食べれるはずはない。肉も焼きそばも生そのものだ。
肉をもう一度ひっくり返してみても、すでに鉄板から音が上がることもなく、変化のないオセロだ。
「どうする?」
鉄板を照らし続けるライトが深刻さを伺わせる。不自然な明滅。チカチカと冷めた鉄板へ送られていた光が、不安定な光になり始め、次々に明るさを変えていく。
「うそっ」
嫌な予感が、脳天に突き刺さる。
優希も同様だったのか、キックのライトを前から掌で叩くと、バチンと音がし、キックの頭がぐらりと前後に揺れる。
それでも、ライトは絶頂時の明るさに戻ることがなく、それどころか、徐々にフェイドアウトするように光が薄れていく。
うろたえている間に、光はすべて消えた。
最後に映したのは、一番慌てふためいたキックの眉毛と真ん丸の目だった。
「うっわああああ、暗いいいいいい」
キックが叫んだところで何も変わらず、叫びは瞬く間に強風に掻き消されていく。
「きゃああああああ!!」
ドアが開いたことに気づいたウエイトレスがメニューへ手を伸ばし、それを取り客へ体を向けた瞬間、笑顔がべたりと顔に張り付きメニューを手から落とし、フロアにひらりと落ち、貼り付けた表情の口元が僅かに開くと、ヒクヒクと頬が動き目を剥き一歩後ずさりをしながらレジカウンターにぶつかり体勢を崩しフロアに倒れると、全身に力をいれ、鼓膜が切れそうな声を張り上げた。
夜中のファミレスは昼間と客層が変わるだけで同じように賑わいざわついていたけれど、この悲鳴でぴたりと静まり返る。
男性従業員が、厨房から血相を変え駆けつける。
入口を見つめたまま、緊張感が体を固まらせ後を追いかけてきたブラシを持つ従業員に少しだけ顔を向け、小さく口元が動いた。警察、そう言った。キックが、慌てて一歩踏み出すと、駆けつけた従業員が身構え叫ぶ。
「動くな!!」
キックの足元がぴたりと止まったが、右手が発作的に鼻の下へ伸びていく。
「動くなあああ!!」
声が裏返る。
ファミレスが緊張に包まれ、三人が強盗扱いされている中、こんな切羽詰った空気を打ち破ったのは、優希だった。
クツクツと肩を震わせて笑い始めた。従業員は、呆気にとられ何が起こったのか飲み込めないようだ。目を動かし答えを求めている。
キックの後ろから前へすり抜ける。キックの指は、アンテナを鈍らせているらしいニキビを触れたままだった。笑いが喉に詰まって音をあげそうだったのを、ぐっとこらえ比較的真面目な顔を装う。
「すいません、強盗ではないです。海でバーベキューをしていて、ライトが消えてしまって、辺りが真っ暗で、それで・・・色々ありまして・・・とにかく、ここで休ませて頂けますか?」
パーカーのポケットから野菜袋が顔を出していて、身振り手ぶり説明している拍子に、千切られたピーマンや、キャベツが、パラパラとフロアに落ちる。優希は、無理やり笑いを押し込めている。従業員が、私達三人の体を下から上に食い入るように見上げていき、ため息をつく。
「申し訳ありませんが、お客様の迷惑になりかねませんので今回はお引取り頂きたいのですが」
明らかに平静を装う従業員が、頭を下げる。私達は、そうですよねと従業員に同情するように後にした。
外へでて、車へ向かいながらふつふつと湧き出す笑いが外へ漏れ、腹を抱えガハガハと体を捩らせ、バッティングドームでホームランを打ったときのファンファーレのように駐車場に響き渡り反響する。
駐車場の蛍光灯の下、優希の髪はどこが分け目なのか分からないほど乱れ絡まり上着には、べたりと模様のようにおたふくソースがしみこみ、キックの右のポケットからはナイフの柄が出ていて、左のポケットからは血に染まった肉袋が顔を出している。髪はお茶まみれでぐっしょりと濡れ、上着の肩から胸元に掛けては黄緑色の染みが出来ていた。そして、三人からは、強烈な潮とバーベキューの臭いがムンムンと放たれている。
車の中を覗けば、車を二、三回転がした後のように、散乱している。座席の上には、ビニール袋に詰められた生ゴミ、いや違うあれは、後で作り直そうとした焼きそばで、臨時に入れられたものだった。道理からいえば、あのまま、フライパンの上にいれ、そのまま火を通せば焼きそばが完成するはずなのだが、間違いなくこれから先作られる事がない気がする。これから、この車に乗る込むわけだけれど、我を取り戻した今、きっとこの車内は、とんでもない臭いが漂っているだろう。
三人の様もそうだが、それは嵐が残した爪痕のようだった。
「まったく、今日一日、その爪楊枝の先っちょ程度のニキビのおかげで酷いめにあった」
優希が、ニキビの悪影響をふいに認めてしまい、私も認めざるおえなかった。キックが、鼻の下をつつきながら、悠長に言い放った。
「でしょ?」
私の尻のポケットからしっぽのようにフランスパンの袋がダラリと垂れ下がっていることに気づかず、絶句するような車内に乗り込みドアを閉めると、尻尾が挟まり十センチほど車外に袋が出ていて走るたびにバタバタと揺れていたことに気づいたのは、信号を十五個ぐらい過ぎた頃だった。
thank you
終わり・・・
十一月の出来事 1は、一週二回休みのため、五月四日更新です。