小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

雪が解けるまで 15

2006年03月27日 | 雪が解けるまで
 めまいがした。月が揺れる。一方的だった約束にたぶん頷かなかったはずだ。けれど、約束を告げる声が私に問いかける。どうしてこなかったんだ、見せたいものがあったのに。
 もし、約束を守っていたら何か変わっただろうか。いや、きっと何も変わらない。七年前の私では何も変わらなかったに違いない。
 伊達が私を呼んでいた。めまいは伊達に焦点を合わせると消えていた。伊達が、ポケットから一枚の乗車券を出し私に見せる。店先から漏れる灯りにチケットに書かれた時間が浮かぶ。
「六時二十八分発、そろそろ向かうか」
 伊達が腕時計で確認したのみてから、私は頷き、再び駅へと歩き始めた。陽は暮れ星がちらつき始める。観光客はまばらになり店屋の店主は片付け始めていた。店に灯る明かりが歩道にこぼれている。古い町並みを抜け、大きな駅の明かりがどこよりも光を放ち目立つ。二人はゆっくりとその明かりへと向かう。
「もう、引き返せないんだよな、俺さあ、この事に気づくのに七年もかけた」
 伊達は落ち着きゆっくりと確かめるように話し私は耳を傾ける。
「私達、本当は、あの日から知っていた。けれど、気付かない振りをしていたのかもしれない」
「不器用だよな、俺たち」
「何度も彷徨っては迷い、振り向いては失ったものへ手を伸ばしてもがいて、人を傷つけて、また悩んで苦しんで自棄になって、それでも、考えて何かに気付く事が出来たなら、それが正しいのか間違っているのか分からなくても、それでいい。それで、いいんだよ」
「それが、答えか」
「どうかな、でも、今はそう言える」
 駅を包む光を見つめる。多くの人が吸い込まれては吐き出されていく。三太の未来を消した場所を前に二人は自然と足を止めた。ここで起きた事が運命だったとは思いたくなかった。きっと、伊達も同じ思いだろう。それを認めてしまったら、すべてが定められているからこんなにも苦しい思いをしている事になるし、三太の未来も定めだからそもそもなかったということになる。そんな事は断固反対でプレートを下げて町中を行進しても良い覚悟だ。それに、今日の出来事もそれぞれの覚悟の元で動き出したはずで、もちろん、偶然もあったけれど、それは、必然と偶然を粉々にして混ぜてから半分に割って固めたものぐらいだろう。完全な偶然ではない。運命なんてものではなく、人の想いがそうさせたと私は感じていた。神様は、どんな事もお見通しであったとしても、きっとそこまで親切ではないだろうし、几帳面ではないはずだ。

「ひとつだけ、聞いてもいいか」
 その質問がなんであるのかは、想像がつきそれを濁す必要もなく心臓が跳ね上がることもなく聞き入れる。伊達も緊張感はまるでなく今日の夜どんなテレビがやるかな程度のテンションだった。
「どうぞ」
 答えをいうためのスタートボタン。
「団子屋の写真、あれは、おまえ達だよな」
 質問ではなく、確認。
「うん、三太と私」
 確かにあった事実を答える。
「そうかあ、楽しそうだよな」
 羨ましそうに伊達が笑みをこぼし、釣られて私はおどけてみせる。ふいに伊達の視線が目じりを下げたまま空へ向けられる。
「あっ、雪だ」
 私も空を見上げる。闇の中から雪が舞い降りてくる。灯る街明かりに照らされチラチラと光る。手の甲に冷たさ感じ視線を移すと雪の欠片がそっと乗っていて、じわりと解け、見届けてから手のひらを上へ向けた。偶然舞い降りた雪がちらりちらりと止まる。冷たい筈の雪はほんのりと暖かい。手のひらが温かいだけもしれない。その姿を伊達は見つめ、二人は、再び舞い降りてくる雪を見上げる。
「伊達っち、結構楽しかったよね、三太がいて、伊達っちがいて、私がいて」
 毎年、雪が降る度に胸が締め付けられた。何年経っても変わらずに続きミシミシと音を立てた。でも、これからは、締め付けられる想いの中に、確かにあった楽しい思い出も一緒に思い出せる気がした。

 団子屋に飾られていた写真を思い出す。
 朱色に染まった一面の雪、真ん中をつきる真直ぐと伸びる一本道。舞い降りる雪の中を歩く二人。寄り添うように伸びる長い影。空へと伸びる三太の手が雪を掴もうとしている。私は三太を見上げていて、二人の姿は暖かくて、恥ずかしくなるようなものだった。夜を迎えるまでの、ほんの束の間の時間を切り取った七年前の二人で過ごした時間がそこにあった。この写真がいつどんなときに撮られたものなのかは分からない、思い出すことも出来ない、そう、こんなふうに二人はいつも一緒にいたのだ。

 伊達が、三太がよく手を伸ばしたように、雪の欠片を掴む。
「これって、子供っぽいよな」
 照れながらいうと、二人は顔を見合わせ噴出した。



 駅から出ると体がぶるっと震えた。人はまばらで誰もが足早に駅から去っていく。店はすべてシャッターを下りていて、最終の電車が行き後は一日の終わりを告げるだけのようだ。零時を回っていた。外は朝放り出されたぐらい寒かった。夜が深まったから寒いわけではないようだ。黒い空から白いものがチラチラと落ちていて私が雪を運んできてしまったのかと一瞬思ったがそんなわけはない、それは天気の問題で低気圧が寒気を吸い寄せたからだろう。さて、今、この道の先の自動販売機の前に立っている人物との出会いは偶然だろうか。
「偶然だね」
 自動販売機から出てきた缶を屈んで取った風間の顔が上がる。夜中に自宅から数十分かけてわざわざ缶ジュースを買いに来る根拠などない。分かっていながら、こんな言葉をかける。そう、会話のスタートボタンみたいなもので、それが矛盾してようがなんだろうがどうでもいいことなのだ。
「偶然だな、お帰り」
 缶を手のひらで包みこむように持っている。白い息が漏れ、はにかむ。私もそれに答える。缶を持つ手がとても冷たそうだった。
「はあ、ひどく疲れた。人生の中で一番長い一日かも」
 なんだか気恥ずかしくなり愚痴からこぼし、大げさにおもいきり大きなため息を吐く。照れ隠しのつもりが突然、体も頭も二・三日寝ずに動き回ったような疲労が押し寄せてきた。
「そうか、ご苦労さま」
 私は風間にどれだけの苦労をかけていたのだろう。今日一日を何を思い過ごしていたのだろうか。風間は、私が持つずしりと重いリュックに手を伸ばし右肩に引っ掛けた。何も聞かない風間に何をどう話せばよいのだろう。
「証明。ほら、数学で証明問題ってあるでしょ、あれを解いているような一日だった」
「それで、解けたの」
「まあね、でも、答え合わせはもうしばらく先かな、見つかるとも限らないしね」
 雪がやんだ。空を見上げる。もう落ちてこない。この雪に気付いた人はどれだけいただろうか。私と風間と他の誰かだ。風間と並びながら歩き、凍て付く寒さに、朝置き去りにされたときの事を思い出しどれだけ驚いて戸惑ったかや、リュックが重くて肩に食い込んで肩が凝ったなど、くだらない話を延々続け、風間は頷き笑い、なぜそうなってしまったのかを勝手に解説してみせる。

 遠くに風間の部屋の明かりが煌々と灯っているのが見えた。誰もいるはずのない部屋の明かりがまるで灯台のように灯っている。
「風間さん、今度みたらし団子三本奢ってよね」
「ああ、二本おまけで五本でいいぞ」
 考えるそぶりも見せず、即答だった。忘れることがなかったのかもしれない。
「とりあえず、コーヒーを」
 風間がポケットから取り出した缶コーヒーに手を伸ばし掴むと思わず声をあげ落としそうになった。キンキンに冷えていた。声を上げて風間は笑いながら、ボタンを押し間違えたと言い訳をする。私は、再び風間のポケットに冷たい缶コーヒーを押し込んだ。押し問答をしばらく続け私は数歩先に駆け出して振り向く。
「ありがとう」
 髪が乱れるほど勢いをつけ、体をくの字に曲げ深く頭を下げていた。ドサクサに紛れて精一杯感謝の気持ちを全身で表した・・・が、轟音と共に風が巻き起こった。大型トレーラーが車道を通り過ぎていく。風が収まると竜巻の後のように静まり返り、排気ガスの匂いが充満し、髪は重力に逆らい乱れ二人は立ち尽くしていた。風間には聞こえなかっただろう。ドサクサに紛れたのが悪かったのかもしれない。仕方ない勇気を振り絞ってしっかりと言おう。風間が一歩踏み出し、私も一歩風間の方へ踏み出した。



おしまい。


中篇これにて連載終了です。
三ヶ月間ありがとうございました。
しばらく、不定期更新になります。
それでは、春色が溢れ始めた今日この頃から感謝の気持ちをこめて。 
          三日月



雪が解けるまで 14

2006年03月20日 | 雪が解けるまで
 伊達は、確かに私を見ているが相変わらず動こうとしない。私は伊達の方へ歩きだす。伊達も息を切らしているようだ。肩が上下している。私を追いかけたのだろう。
 近づく程小さな顔がより小さく広い肩がより広く見える。いつもこの小顔が皆羨ましく、肩幅が不自然に広いから顔が小さく見えるだけだと皆でからかっていた。
 伊達の目の前に立つ。顔を見上げる事はしなかった。コブシを作り、それを振り上げ力一杯左肩へ打ち付けた。力は分厚いコートを通り越し伊達の体の中を行き交う程の鈍い響くような音が鳴った。通りすがりの人が驚き体をぴくりとさせる。コブシの表面が俄かに痺れている。伊達の体は、少しだけ後ろに傾いただけで、足元は動かす事無くそのまま張り付き、吐息すら漏らす事無く、すべてを吸収してしまったように思え、この肩幅の広さはそのためにあるのだろうかと考えてしまった。
 痛みを堪える仕草も見せない伊達を見たとき、私の方が崩れそうになった。全身から力が抜けそうになる。私が打ちつけた伊達の肩が動きその腕が私の肩へと触れ、私は伊達の顔を力なく見上げた。
「相変わらず、肩幅、広すぎ」
 私は力なく笑い、伊達の口元がゴメンと動く。二人が見えていないかのように力が有り余った観光客が騒がしく通り過ぎていった。このゴメンを声で理解したのか、動きだけで理解したのかは分からないが、私は確かに受け止めて口元を再び緩めていた。張り詰めていたものが次々に綻んでいく、そんな感覚に陥っていた。

「伊達っち、失神してもいいよ、痛いと言ってもいいんだよ」
 伊達の言葉を受け止める事に私は私であるためにこうするしかなかった。伊達は痛みを感じないような強靭な人間になったわけじゃなく、失神した時と同じだけ痛みを感じているはずで、だからこそ、その反動が私に流れ込む。心臓をきゅっと握られてしまったかのように苦しくなる。いっそうのこといつものように失神してしまったほうがどんなに楽だったのだけれど、それが、この七年の伊達の苦しみを物語っていた。塗り固めてしまった心が、このコートの下にある。伊達の胸が大きく膨らみまた元へ戻り、ふっと笑った。

 二人は肩を並べ、しばらく何も語らずに歩いた。陽が落ちると急速に空は濃紺へと変わり暖色は消える。二人を映し出していた影は、店先や街路灯の明かりにぼんやりと張り付いていく。ふとみると、隣を歩いていた伊達の姿はなく影だけが置き去りにされていると思ったら、店先に出ていたスタンド看板の陰であることに気づき後ろを振り返る。
 ゆらゆらとはためく団子と書かれたノボリの前に伊達は立ち止まり、人一人分と団子を焼くスペースだけがある瓦屋根の小さな建物の中へ視線を向けている。伊達の横顔は何かを真剣に見ていて私の存在を忘れているようにさえ見えた。何秒程経ったのかは分からないが、伊達の視線が私へ向けられるとその団子屋を指差した。
「食べていこう、奢るよ。一本」
 伊達は、私の返事も聞かずにポケットの中へ手を突っ込み、小銭でも探しているのか次々に三つのポケットを探した。私は、店の横にあるコの字型の塀で囲まれたスペースに移動する。そこは、三方に細長いカウンターがついていて、椅子はなく、奥の塀には長方形に繰り抜かれ塀の向こうにある柳の木やうっすらと流れが見える川面、明るさを増す月が見える。私はその前に立ちカウンターに肘を乗せ、もたれかかるようにその景色を見つめながら伊達を待つ。
 香ばしい匂いに自然と誘われ出された団子を受け取る。
「いまだ変わらず六十円だった」
 伊達は背をカウンターに向けながらブツブツと安すぎるだのやっていけるのかだのと続けた。所々聞き取れなかったけれど、とりあえず頷き団子を食べる。醤油味にかりっとした団子の表面が口の中で広がるたびに懐かしさが増す心にも染みこんでいく。
「今日さあ、目が覚めたらこの街にいたんだ、始めは夢かと思って、でもどうやら現実だって事に気づいたのはいいんだけれど、歩くたびに時間がさあ・・・。七年前に引き摺り戻されたのかと錯覚して、今、私は、いったいどちらの時間にいるんだろうって真剣に考えた。でもね、当然ながら三太がいなくなってからの七年を過ごしていたのは変わることない現実であって、まあ、内容はどうあれさ。でも、思いはいろいろな場所に置き忘れていたみたい。結局、拾い歩いた一日になってしまった」
 冷めかけの団子を冷める前に口に入れる。みたらし団子は一粒が小さいので一本では当然物足りなくなり、おまけに香ばしい醤油味が後を引くものだから、どうしても、もう一本食べたくなる。伊達は手持ち無沙汰に串を持っていた。
「俺さあ、結局卒業して一年も経たないうちに、ここを出たんだ。苦しくなって、それが耐えられなくなった、それから、今まで数える程しか実家に戻っていなし、逃げたんだ」
 月が川面に移り揺れていた。冷たい風が柳をゆらゆらと揺らす。
「よし、今度は私が奢るよ」
「ああ」
 伊達の串を受け取り重ねてゴミ箱に捨て、店の前へ経つ。赤く光る炭火が、じわじわと団子を焼き、お婆さんが器用にクルクルと回し焦げ目を付けていく。
「団子を二本下さい」
 財布から百二十円出すと、差し出された皺くちゃの手のひらに置く。手元の横にある籠の中へ入れられた。
 小さな店の中へ視線が止まる。壁に掛けられた額に釘付けになっていた。
「はい、お待ちどう、熱いからねえ」
 お皿に乗った二本のみたらし団子から湯気が上がる。それを受けとりお婆さんに笑顔を返し伊達の元へ戻る。
「どうした」
 伊達にみたらし団子を出しながら、首を横に振ると伊達は団子を口に入れ噛もうとした瞬間に動きが止まり、音を立て空気銃のように団子が一つ飛び出した。飛び出した団子はコロコロと転がっていき伊達は追いかけ飛びついた。
「三秒以上経っているよな」
 小石が塗された団子を指先で摘みながら顔を真っ赤にして立ち上がった伊達は、失神こそしなかったが明らかに団子の熱さに動転している。私はその姿に久しぶりに呆れ団子を食べながら背中を向け再び揺れる月へ視線を移した。


「なんだよ、随分落ち込んでいるな、彼氏と喧嘩でもしたか?あのさ、頼みがあって、明日みたらし団子三本奢るから、見てほしいものがあるんだ、いいかな」
 街を出る少し前で、三太が亡くなった少し後だった。その頃頻繁に街で見かけ、いつのまにか話すようになったカメラを提げた男性がそう言った。けれど、私は団子三本を奢ってもらうことはなかった。



thank you・・・。
さあ~て、ラスト一回です。次回は最終回ですっ!!
春が本格的に来てしまうので・・・。

雪が解けるまで 13

2006年03月13日 | 雪が解けるまで
 冷静になれ、冷静になれ私。もう大丈夫だと三太の母に伝わるようにまっすぐ前を見て歩こう。手足は交互に出ているよね。肩に力が入り過ぎているかな、でも、ぎこちなく見えないよね。振り向いて笑いかける事は出来ないけれど、これが私に出来る精一杯の事だった。でも、中身はボロボロで、いつの間にか空がオレンジ色に変わりだした事も、影が長く伸びている事も、観光客が疲れた顔になっていることも、風が冷たさをましていた事も、何一つ気づく余裕すらなく、自分がどこにいるのかさえ分からなくなっていた。
 気持ちが昂って涙が溢れそうになったとき、どうして駆け出してしまうのだろう。それはドラマでよく見る光景だけれど、一概に間違っているわけでもなさそうで、大げさでもないようだ。もう、三太の母からは見えていないと考えた瞬間に、涙を堪えるために行く当てもなく駆け出していた。これが、ランニングコースならさほど目立ちもしないのだろうが、ここは町一番の観光名所で風格のある長屋の店が道を挟みまっすぐと続き、その道は歩道専門で脇には水のせせらぎが聞こえる。丁寧に雪かきがされているのか雪は所々にしか残っていない。観光客はのんびりと連なる店を眺め時には足を止め楽しんでいる。そんな場所を、私は全速力で駆け抜けていく。始めは人を避けながら走っていたが、すぐに、走る音と振り子のように揺れ動くリュックに不信感を抱かれ警戒され自然と行道が開かれていた。しだいに息は切れどこまで走ればよいのか分からなくなり観光客の視線は私へと注がれ続ける。
「ユキノハラアアアア」
 ユキノハラアアアア・・・YUKINO HARA・・・原雪野。私の名前だった。


 頭が妙に小さい男が、となりの席に偶然座り名前を聞かれた。
「野原の原に、雪が降るの雪に、野原の野で、原雪野」
 私の説明に、妙に顔の小さい男が机の上に直接カツカツとシャーペンで私の名前を書いていく。全部右肩上がり角ばった文字だ。最後に付けられた溶けて形が崩れたようなハートマークにあえて触れない。
「ローマ字にすると、ゆきのはらだ、これ確信的でしょ」
 ハートマークを、丁寧に塗りつぶしながら話す姿が、面倒になり、知らないと答える。でも、さらさら話題を変える気はないらしく、今度はローマ字の下に、漢字で雪野原と書いてにやにやしている。そして、また読み上げた、やや気持ちの悪い男だと思い始めていたとき、男の肩が突然捕まれ後ろへぐいっと引かれその勢いで体が椅子ごと傾きそのまま倒れた。後ろの席から突然飛び出してきた男は、頭の小さな男が書いた文字を不自然な体制のまま乗り出し読み上げた。
「雪、野原、清清しくて気持ちよさそうな名前だな。ちなみに俺は三太って言うんだ、長男だけど三太」
 倒れたままの妙に頭が小さい男は、倒れているのにいまだ、椅子に座ったままでぼんやり天井を見ているのかと思ったら気を失っていた。

 伊達強志は、体格も良いし名前も強志であり、負けるところ敵なしのように思われがちだが、誰よりも痛みに弱かった。つま先を柱の角に掠らせただけで、うなり声を上げて蹲っていたし、雪の日に調子に乗って自転車に乗り、案の定転び、体を強打したときは痛みに驚いて気を失った。カッターで指先を切った時は、指先を包帯で保温するくらいグルグルと巻きつけ号泣していた。初めて会った時も、椅子ごと倒れて気を失い、とにかく痛みにめっぽう弱い迷惑な男なのだ。けれど、私は伊達強志の失神のおかげで三太と多々話す機会が生まれたのも事実だった。


背中へ投げつけられたような言葉。それが私のブレーキになる。流れに投げ込まれた二つの石。流されることなく動かない石。流れは仕方なく石を避けて流れる。
 立ち止まり振り向くと動く観光客の中に、茶色いニット帽を被った男性が立ち動く事無く私を見ていた。ニット帽を被った男性の前にいた若いカップルが退くと姿を現し、ニット帽を被り、いつもにもまして小顔で人一倍肩幅が広く、皮のコートを着込んでいるせいか不自然に広すぎる。その上背が高い一見モデル並みのスタイルの伊達強志がそこにいた。三太の親友だ。懐中時計を私に渡した男だ。
 連なる軒先からカラスが翼を広げ飛び立つ。その向こうには金星が光を放っていた。

 転がった缶コーヒーがこつんとつま先に当たる。電話が鳴りそれを取るとすぐに友人の部屋を飛び出し病院へ駆けつけた。訳が分からず息を切らしたまま立ち尽くしていたが、動けなくなったのはそれだけではなく、一斉に向けられた視線、その中で一際恐ろしいものは母親と伊達だった。伊達は手にしていた缶をソファに置き捨て私と視線を合わさぬまま歩いてくる。足元の缶を拾い上げ、腕をきつく掴み誰もいない廊下へ引っ張っていく。体は意思に反して引きづられていく。
 誰もいない休憩フロアの壁に肩が強く当たり痛みが走った。伊達は、何も言わずに捨てるように手を離す。
「何をしてた?おまえ何してたんだよ。どこ行ってた」
 押し殺していた声は、しだいに強さを増し鋭くなり私を混乱させる。
「どこって・・・それより大丈夫なの、ねえ・・・大丈夫だよね」
「聞こえ・・・どうして、聞こえなかったんだよ。どうしてだ答えろ」
 怒りに声を詰まらせながらも激しく怒鳴る伊達に通りかかった看護師が立ち止まり声をかける。引きつった顔をした二人はただ頷くだけしか出来ず、伊達は、今にも私に殴りかかりそうな勢いだ。振りあがった伊達の腕は、再び私の腕を掴み引きづられるように非常階段に押し出される。
「見た奴がいるんだよっ、お前がバス停にいて、駅にいたあいつがお前を追いかけたことを。水色のダウンを着たおまえが、バスに乗る姿を見たやつがいるんだぞ、見送りに行ったんだろ、なんで声をかけねえんだよ。どうして、気づかねえんだよ、あいつの声が聞こえなかったんだよ」
 掴まれたままの腕が突き放されたとき、トレーナーの袖は伸び腕は痺れ伊達が持ったままの缶がグニャリとへこみ私が口を開こうとすると一方的に帰れと吐き捨て、背中を向け非常階段が揺れるほどの勢いでドアを閉めた。私は一人残されその場に崩れ落ちた。その扉は開かれる事も開く事もなかった。



thank you・・・
今日は、突然雪が舞いました。春一番が吹いたはずなのに。
そんなわけで、どんなわけで?そろそろ、この物語も終わりが近いです。
もう少し、つづく。

雪が解けるまで 12

2006年03月06日 | 雪が解けるまで
「葉書届きました」
 小さく呼吸を整えてから言葉を並べた。たぶん、三太の母の耳の中へ入っていただろう。
「ごめんなさいね、うっかり忘れてしまっていて」
 今の面持ちから考えても似合わないほどさらりと言いのけた。言葉が返せず絶句してしまった。うっかり忘れてという言葉は、三太の母の口癖なのかもしれない。それとも、三太の口癖を母が真似をしてみたのだろうか。そんなことを考えてから、ここで使われたうっかり忘れるという意味について頭の中で回転させる。上から見ても下からみても横から見ても三百六十度横転してみせても、ただのうっかり忘れてだ。
 今まで連絡を取ることをうっかり忘れていて、それは絶対に違う。でも、このうっかり忘れてという言葉のおかげで、なぜ、私に出したのか問う道は絶たれたように思えた。結局、そうですかと答える他ない。私の顔色は三太の母にどう映っているのだろうか。
「もし、都合がついたらだけど、久しぶりに顔を見せてあげて、あのおっちょこちょいに」
 三太の母の声は、同じトーンでやさしかった。まん丸の懐かしい声だ。でも、膝の上に置いた手の人差し指は、重ねた指をしきりに擦っている。私の心は、ドクンドクンと跳ね上がっていく。自分の呼吸が乱れているのは、あからさまに白い吐き出される息で分かるだろう。けれど、三太の母は、出来るだけその動揺を隠すように事故前の彼女のように明るさを装っていて、いつのまにか私は、三太の母にですら気を使わせてしまっているのだ。事故の事実も後に知ったに違いない。もしそれが本当ならばしっかりと伝えなければならないと私は大きく息を吸い込んだ。
「三太が追いかけたのは、やっぱり私だったんです」
 事故の日から、何度も何度も同じ事を聞かれ責められ続け、そのたびに私は、首を振り続けた。バス停にいたのは私ではないし、三太は私を追ったわけではない。現に私はそこにいなかったのだと。でも本当は、そうであってほしくなかっただけだ。でも、それが三太の見間違えであっても、三太が追ったのは私だったのだ。私の背中を追い、私の名前を叫び、何も知らずにいなくなってしまった。
「あの子も、もうそろそろ思い出すかもね。うっかり忘れていたって」
 そうですね。また同じ。レパートリーが少なすぎる。情けなく不甲斐ない。堪らず立ち上がっていた。人目を憚らず大きく深呼吸をする。
「いつか、顔を見せてあげて、デート中でも構わないから、あっ家族旅行の日程に入れてくれてもいいわね」
 橋へと視線が飛びその先に茶色いニット帽を被った男性の後姿へ視線が止まった。下から見上げているので上半身しか見えないが背が高いせいか他の人よりも目立っている。どうして、その人へ視線が飛んだのかは分からない、偶然だったのかもしれないし、何かを感じたのかもしれない、けれど、今の私にはそれを明らかにするほどの余裕はなかった。むしろ、もう駄目だった。言葉のひとつもでなければ三太の母の顔すら見ることが出来ない。腰骨に微動する何かを感じ、それが懐中時計だと気づいた。ポケットに手を入れそれを握る。秒針が定期的に動いている。こんなことなら、あの時計博物館の館長にこの時計が止まる三十分前に巻き戻してもらえばよかった。そうしたら、私は事故の朝コタツの中で眠り込んでいるとき、友人がトイレに立ち上がった時、それに気づいていた私も起き上がって部屋を出て駅へ見送りに行き、しっかりと別れを告げ、お互いの道をごく普通に過ごすことが出来たはずだ。三太の未来はまだ続いていた。何千回、何万回と考えた事だった。けれど、そんな事が起きるわけもなく、虚しくなって苦しくなって悲しくなるばかりだった。こんな事だから見兼ねた皆が私をここへ置き去りにしたのだろう。
 ならば、三太の母も、私のためにこの場所で待ち話しているのか。七年の時間は、皆も同じ時間だけ動いていた。それらの時間、何を思い過ごしていたというのか、ただ何もせずにいる事は不可能だろうし、そのたびに折り合いをつけ時には、苦しみ迷いながら・・・、迷いながら過ごしてきたはずだ。やっと気づいた、私は、とんだ自分よがりだった。三太の周りにいたのは私や三太の家族だけではない。皆、自分のために、答えを探そうと決め立ち上がったのだ。

 この感触を忘れないように、手のひらの中にある懐中時計を強く握り確かめた。指先にある細胞がコンマ何秒の振動も取り逃さないように。すべてを忘れないように。


 橋を渡る彼女を、ベンチに座ったまま見送る。気力を使い果たしていた。彼女は一度も振り向かずに前を見て歩いていく。何度も何度もこのときを想像し、どんな言葉をかけようか毎日迷い悩んだ。言ってしまった今も、それが正しかったのか間違っていたのか、分からない。ましてや、私の思いとは裏腹にまったく違った意味で彼女は受け取ってしまったかもしれない。けれど、今、手のひらの中にあるこの懐中時計が、そんなに間違った方向へはいっていないと物語っている。耐え切れず立ち上がった彼女を前にしたとき、また間違ってしまったと後悔したが、彼女が懐中時計を突然取り出してみせ、私へ差し出し、それを受け取ると、動き出しました。とだけ、無理やり笑顔を作りリュックが頭にガツントぶつかるほどに深々と頭を下げその場を後にした。息子が気に入っていた懐中時計が、再び動き出し私の時間もスムーズに動き出してくれたように思える。彼女を疑い、罵り傷つけ、苦しい七年にしまったのは今も消えない、これからも。でも、謝る事も、彼女の幸せを願う言葉もしっかりとは口に出来なかった。それは、また今度会えたときに持ち越そう。
 彼女は橋を渡りきり姿が見えなくなった。その姿をぼんやりと思い浮かべていると橋の中央辺りを歩く茶色いニット帽を被る男性が突然駆け出した。背が高いのか他の観光客に比べ頭一つ出ている。駆け出したニット帽の男性はあっというまに消えてしまった。あの後姿に見覚えがある。今日という日が、二人にとって幸せへのきっかけに為れば良いねと、息子がよく見ていた景色に話しかける。

 川面がキラキラと瞬いた。


thank you・・・。
まだまだつづくと言いたいところですが、ゴールは案外近いです。でもまだつづく。