小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

短*印象的な景色

2005年06月11日 | 短編
 なぜここにいるのだろうか・・・。

 深く息を吸い込み肺に冷たい空気が満ちた事を感じ、瞼が上がり眩い光が飛び込んだときは、どちらの方が先立っただろうか。思い返してみても、息を吸い込む方が早い気もするし、瞼を開けた時の方が早い気もする。眠っていて目が覚めたときは、いつでもこんなものかもしれない。どこからが目覚めでどこからが眠りなのか境界線はハッキリとせず滲んだ雲のようにかすれているに違いない。

 けれど、そんな事を考えていたのは束の間で、吸い込んだ空気を吐き出すのを忘れてしまうほどの美しい景色に釘付けになっていた。目の前に広がるのは、コバルトブルーの小さな湖を膝丈ほどの草が囲み、向かいの岸には森があり高い木々が空へと向かい、木々の間には朝霧が漂い、もうじき上がる太陽は森の向こうから光を出し始めているのか、木々の隙間にいくつかの光の筋が浮かび上がっている。そこから、湖まで漏れた光が、湖面をキラキラと光らせる。森の上にある群青色の空は、もうじき光を取り戻し始めるだろう。 風がなく、森はひっそりと朝を迎えるのを待ち、湖面は揺れることなくガラスのように透き通り、反射する光だけがキラキラと輝いている。

 夜でもなく朝でもない静かで幻想的な景色は、目を覚ました時に味わった気持ちとどこか似ている。この美しい景色は、もうじき朝を向かえ、鳥達が起き出し賑やかな姿へ変えていくだろう。

 もし、絵筆とキャンバスを持ち合わせていたら、間違いなくこの草むらにキャンバスを置き、絵筆を持ちこの景色を描くだろう。自分がそれらを持ち合わせていないことが、悔しく思える。それほど、目の前にある世界は、美しかった。

 知らずうちに目が覚め、偶然居合わせた、あまりにも美しい景色に一歩も動かずに立ち尽くし、ただ感動し見惚れている。そんな景色を何かに納めようとするならば、今自分に出来ることは記憶に残すことだけだ、ならば、太陽が昇るまで、それほど多くない時間を、この景色が続く限り、このままでいようと決める。空っぽの心が何かに満たされていくのを感じながら出来るだけ満喫しよう。なぜ、目が覚めた時、ここにいたのかなんて、それから考えればよい。そんなことは、以外に簡単でただ寝ぼけていただけというのが落ちという可能性が強いが、そんな味気ないことは後回しにする。

 なぜこんな事がなっているかということよりも、大切なのは、目の前にした今をどうするかの方が、ずっと大切で重要ではないのか。ましてや、たった一人でこの景色を独り占めしている事が、誇らしく優越感に浸り始めていた。頭の中で、どこからとも無く朝を迎えるのに相応しい音楽が流れ始める。どこかで聞いたことがある記憶が、この景色に刺激され呼び覚ましたのだろう。実に心地よく気持ちが良い。

 湖面に散りばめられた眩い光に、突然、なにか違和感を感じる。それは、頭で響く音楽の中に不協和音が混じるような不快な出来事だ。この完璧に思えた美しい世界に、ほんの一瞬でも感じた不快と違和感が、心を動揺させる。何が、そう感じさせているのだろうか。気のせいだったのかもしれない。けれど、不安は消えず立ち尽くしたまま、あるはずがないと思いながらも何かを探している。
 対岸の少し手前の光。不自然に白く光っている。白。頭で理解するよりも早く、心臓の鼓動が早く打ち続ける。あれは、光ではなく白い何かだ。それが湖面に浮かんでいる。いや張り付いていると言ったほうが相応しい。あの白は、何だろう。不安が色を濃くし新たな不安が現れる。
 太陽はまだ森に隠れたままだが、こんなに太陽が昇るのは遅かっただろうか。森の木々の隙間に走る光の角度も変わっていない。湖面も同様だ。感激していたあまりに、時間が進む感覚が酷く遅く感じているだけかもしれない。
 木々を見つめる。風が吹かないせいか鬱蒼とした緑の葉は、揺れることがなく緑が重なったままで、ざわめく事もない。まるで、塗り固められているようだ。

 森を包む白いベールのような朝霧が、いつまでも晴れない。それどころか、濃さも変わらず流動することもない。足が竦み一歩も動くことが出来なくなっていた。言い知れぬ不安が、足を鉛で固められているように重い。言葉も失い、目覚めたときの疑問が、再び姿を現し答えを求めてくる。先ほどまでの晴れやかな気持ちは、暗雲に飲み込まれていく。
 なぜ、ここに居るのだろう。なぜ、誰もいない。なぜ、立ったまま目が覚めたのだ。何一つ解決の糸口を見つける事が出来ない。記憶喪失にでもなってしまったのか、誰かに助けを求めた方が良いだろうか。あれほど、一人で居る事に優越感で満ちていたにも関わらず、突然一人で居ることが恐ろしく思い始める。

 そんな湧き上がる気持ちを、掻き消す為に、ひとつでも落ち着ける証拠を探し求める。

 湖を囲む膝丈ほどの草。対岸にあるその草の先が、掠れている。掠れる?そんな言葉がなぜ浮かぶ。草が掠れるとはどういう事だ。空に雲が掠れるならば理解もするが、草が掠れることなどあるはずがない。けれど、よく見れば見るほど、似たような掠れは、草だけでなく、木々の葉も掠れている。それは無数に存在していた。まるで、細い筆で描かれているように、掠れているのだ。湖面に光っていると思ったものは、光ではなく、白が掠れているだけかもしれない。あれほど、美しいと思っていた景色が、景色ではなくなり無数の色の塊にしか見えなくなる。自らの目が、そうさせているのか、誰かに騙されていたのか。
 ここはどこだろう。なぜ、目が覚めている今も、何も思い出さない。頭はとっくに覚めている。いったいどうなっているのだ。包まれた恐怖に耐えられなくなっていく。一刻も早くこの場から立ち去りたい。そう思ったとき、発狂したくなるほどの不安が押し寄せる。
 目が覚めてから、一度も振り向いていない。それどころか、一歩も動いていないのだ。背中に神経を集中させ、僅かでもその先にあるものを感じてみるが、何一つ伝わる事がなく、溜まらず想像し、森や、草原や小高い丘などがあるだけだろうと満たしていく。
 振り向けば、すべては明確になる。けれど、背後の景色を見ることが怖いのではなく、振り向くという動作が不安や恐怖になり、体の隅々まで掻き立てる。
 瞬きをしただろうか、首を動かしただろうか、手を上げただろうか、鼻を啜っただろうか、そんな当たり前の動作を憶えているはずもないだろう。この景色に見惚れ動かさなかっただけなのだと、何度も反芻する。動けなかったのではなく、動かさなかっただけなのだ。この偽者の景色に絶望し一歩も動けずにいるけれど、動こうとすれば動けるに決まっている。
 脳みそが悲鳴をあげ、かあっと熱くなり、急速に冷やされていく。呼吸が上手く出来ない、すべてのピントがズレ、狂乱し恐怖が渦巻く。動くはずだ、動くに決まっていると足に言い聞かせ、振り返ろうとするが体が反応しない。その度に何度も、動かさなかっただけだと反芻する。
 ガンガンと頭が鳴り響き何も考える事が出来ない、目が眩み気が遠くなる。僅かにある記憶が、次々に壊れあの霧のように掠れていく。薄れる神経が、背中で何かを感じ取る。涼しげな風の音、誰かの足音が響く。夢だったのだろうか。今感じているものが、現実の世界なのか。ならば、夢から覚め現実の世界に引き戻されていくかもしれない。目を閉じた。

 冷房の効いた館内を興味なく歩いていたが、あるひとつのところで視線が釘付けになり、あまりの美しさに見惚れ、足を止め、いつのまにか酔いしれている。興味が次々にわき、額の中に描かれた立ち尽くす男の後姿をみて、小さく声を漏らす。

 この男は・・・(冒頭へつづく。


thank you
おわり・・・いや、永遠に続く。

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