小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

短*君(前編)

2005年07月10日 | 短編
 君といたこの景色を見るたびに、あの雨の季節を思い出し鼻先に匂いを感じる。それは、今でも懐かしくて心がキュッとなり愛しくて、またキュッとなり、切なくて、またキュッとなる。
 この道から真直ぐ寺へと伸びる参道沿いに並ぶ紫陽花。寺へと向かう参拝者は思わず足を止め、躊躇うことなく一斉に青紫に咲き誇る紫陽花に目を奪われていく。
 私はこの道を通るたびに、そんな光景を前にしながらいつも、君と過ごした日々を思い出す、君に苛立ったり呆れたり寂しくなったり君に触れたやさしい感触をじんわりと思い広がっていく。
 そして、再び出会うことをどこかで願い、そのときをじっと待ち続けている。


*出会い*

 この傘の手元は、桜の木で出来ているんだよ。

 彼が持つ傘に視線を注ぎ込んでいると、彼はそれに気づき傘の手元を指差し恥ずかしそうに照れながらそう教えてくれた。私は目を丸くして彼の顔と桜の手元を交互に視線を注いだ。なぜなら、私は別に傘の手元が何で出来るのかを考えていたわけではなく、どちらかというとそんな事はどうでも良いことで、いや無関心で彼の答えがなぜ、これだったのだろうかと不思議に思っていた。ならば、何を考えていたのかというと、彼はなぜ、傘を持っているのだろうと頭の中に汗を掻いたのではと思うほど考えあぐねていた。
 周りを見渡しても、長い傘を持ち歩いている人は誰一人いない。けれど、初めてのデートで万が一の雨に備えての事なのだろうか。折畳みなら、分からずもないが、果たしてそんな用心深い人はいるのだろうか。空は、曇っているけれど雨を感じさせる気配はない。それどころか、晴れ間すら覗かせそうだった。昨日から西日本の方は、梅雨に入り始めていて、ここ二、三日の内に関東も入るだろう。それとも、もう入ってしまったのだろうか。今朝、家を出る前に新聞もテレビも見ていなかったので、見過ごしてしまったのか。
二人で並んで歩きながら、通り過ぎていく人たちの何人かは、自然と彼が持つ傘へ視線を移していた。彼は、そんなことに気づく素振りもなく、手元を握った傘を歩調に合わせてコツコツと軽く地面をつきながら歩いている。私の足音と、彼の足音と彼が突く傘の音が共に響き続けた。
 しばらくすると、空が暗くなり始め濃いグレーの雲が薄いグレーの雲に覆い被さるように広がり、街路樹の葉が、ユサユサと揺れ始め、ポツポツと小さな点が地面を濡らしていた。私は空を見上げ、頬にポツリと雨が落ち少し安心し彼に関心する。
 雨、降ってきたね。と彼に笑いかけると、そうだねと彼は同じように空を見上げて言った。
 雨の匂いが漂う。風が強くなると共に、ポツポツと落ちていた雨が、間隔を狭まりやがて隙間すらないほどに、降り始めた。突然の雨に彼は、梅雨に入ったのかもなと、ぽつりと呟いて照れくさそうに、ゆっくりと傘を広げ私の頭の上に傾けてくれた。疑問は、この空とは対照的に晴れていき、触れ合う肩が、心臓をドクドクッと跳ね上がらせ、気持ちが高鳴り、彼は天気に詳しいのかなと思いながら、ちらちらと傘を持つ彼の顔を見上げていた。周りにいた人たちは、突然降ってきた雨に駆け出したり、雨宿りへ急いだりと慌てていて、そんな中を私達は、やや自慢げに桜の手元の傘の下をゆっくりと歩いた。


*脱臼*

 二回目に会ったときも、彼は傘を持っていた。桜の木を使った手元で深緑の傘。たぶん、前回持っていた傘と同じものだろう。色は思い出せないが手元は同じような気がする。
私は、彼が持つ傘をみて自然と空を見上げていた。空は、梅雨の合間の晴天でどこに雨を降らす要素が隠れているのか探したが、くまなくみてもそんな要素はどこにもなくそれどころか雲ひとつない真っ青な空しかなかった。間違いなく降水確率ゼロパーセントの空を見た後、左手でしっかりと握られている桜の手元から丁寧の織り込まれた深緑を眺め、これは、日傘ではないだろうし、間違いなく雨傘だ。

 これは、ポリエステルで出来ているんだ。

 私の視線に気づいた彼は、またしても何を勘違いしたのか、傘の素材を話始めた。多くの傘は、ナイロンで出来ているけれど、ポリエステルの方が持ちも良いし使い勝手が良いのだと、時々、ポリエステル100パーセントの深緑の傘を見せながら説明を続けた。どうやら傘に注がれる私の視線にはえらく敏感のようだ。
 もちろん私は、その傘の素材を知りたくて傘を眺めていたわけではなく、こんな晴天の日にどうして雨傘を持っているのだろうと、冷ややかな気持ちで眺めていただけで、それ以外理由も何一つなく、この間のデートで二人でこの傘に入って歩いた大切な思い出すら、ザーザーと砂嵐のように薄れていく。
 そんな降水確率ゼロパーセントの日、彼は、この間と同じように桜の手元を握りしめ、自分の歩調にアクセントをつけるようにコツコツと地面を突いていく。この再び現れた疑問を、どう処理するべきか考えながら、彼との会話をポツポツと交わしているとき、突然、彼が何かに引き寄せられるように腕から体ごと反転した。彼は、傘の先を歩道の排水溝の網に取られ、傘を持つ腕だけが取り残され、グキッと肩が嫌な音をあげ、うっと絶句し、顔を歪めていた。私は、すぐに気づかず数歩進んで彼がとなりにいない事に気づき振り向くと、肩を抑えた苦悶の表情の彼がいた。私は、呆気にとられ口をだらしなく開けたままだった、何か言葉をかけようと探していたのだけれど、一文字すら思い浮かばない。仕方なく、口を閉じピクリとも動かない彼の体の後ろに回り込み、排水溝の網にしっかりと挟まった傘の先を引き抜いた。彼は、自分が引き抜かれたかのように、うっと声を漏らしたまま、相変わらず、非常口の緑の人みたいに固まったままだ。
 私は、手元が桜の傘を持ち前へ周り、歯を食いしばる彼の顔を見上げる。彼は、肩が外れた。と苦しそうに痛みを堪えながら私に訴え、近くの病院へ向かうためにゆっくりと歩き出す。彼が、息を切らしながら、私に、ゴメンね、こんな事になってと申し訳なさそうに謝り、私は、彼の体の事を本当に心配していたので大丈夫だよと返すと、彼は、本当に傘持たせてごめんねと言った。
 その言葉が、脳に届いたとき、傘が網に嵌っているのを思い出し、傘の骨がボキッと折れてしまえばよかったのにと本気で思い始めていた。
 この傘のおかげで、楽しいデートが台無しになり、桜の傘に苛立ちを覚えていた。
 桜の傘の馬鹿。


*涙雨*

 三回目に会った日は、うれしい事に梅雨真っ只中の雨で胸を撫で下ろしていたのだけれど、彼にとっては大変な出来事が起きた。
 芝居を見に行こうと駅を出て、二人がそれぞれの傘を差そうとしたとき、彼が桜の傘を斜めに傾け下ハジキの部分を外し下ロクロを押し上げようとしたとき、スルッとカバンを持ったサラリーマンが通り過ぎていきそのカバンが運悪く彼の傘に直撃した。傘が要らぬ方向に膨らみ彼の小さな悲鳴に等しい声が漏れたが、サラリーマンは振り向く事もなく、バサッと傘を広げスタスタ歩いて行っていった。

 彼は、傘を恐る恐る開くと綺麗な六角形の一角がぺろんと外に捲り上がっていた。
 ため息が漏れ肩が落ち目を潤ませながら、私の顔を見つめ、私は傘を閉じ再び駅の屋根の下に入る。
 隣に寄り添うと、沈んだ声で、下ハジキを外してなければこんな事にならなかった。桜の傘の下ハジキを自らの指で確かめるように押し、傘の骨組みを念入りに見上げ、受骨がどうとか、ダボがどうとか親骨がどうとか、イチイチ私に説明を入れながら確かめていく。おそらく、私に傘の名称を教えてあげようと思っての事ではなく、自らの気持ちを少しずつ落ち着かせ、説明しながら他に壊れたところがないか確かめているに違いない。
 すべてを確かめた彼は、突然座り込み濡れた床の上で何かを探し始める。人通りの多いせいか、すぐに諦められたらしく立ち上がり、ないなと呟き、携帯電話を取り出し、どこかへ電話を掛け始める。呼び出しベルが微かに私の耳にも届き、その音を聞きながら呆然としていると、彼はそこでようやく私の存在に気づいたらしく、ごめんねと言った。果てして、このゴメンネは私に向けられたものなのだろうか。
 彼は、相手が電話に出ると、捲し立てるように用件を告げ何度も頷くと電話を切り、傘屋に行ってもいいかなと私に気を使いながら言い、私は選択することも出来ずただ頷いた。
 
 傘屋へ向かう道中、彼は私の傘を持ち二人で一つの傘に入っていた。駅を出るとき、彼が私に頼んだのだ。壊れた傘は、彼がしっかりと持っていたが、どうしてそうするのかは聞く気も起きなかった。三度目のデートにして、嫌な沈黙が続く。これから先、私は、きっと彼にこんな言葉を投げかけてしまう日が遅かれ早かれやって来るかもしれない。
 私と桜の傘、どっちが大事なの?と。彼は、なんと答えるだろう。まさか、選ぶことなんて出来ないよ、なんて言ったりするだろうか、そんなはずはないと思うが確信はどこにもない。私は、彼の心配顔を見上げた。いや、躊躇わずに傘、なんて答えられてしまうかもしれないと不安になった。
心配事でいっぱいの彼と芝居をキャンセルしてまで傘屋へ向かい、三畳ほどの狭い作業場に足を踏み入れた。彼と店主は顔なじみらしく言葉を交わしていく。その場で修理をしてもらい、彼は心配で仕方ないらしく落ち着かない様子で眺めていた。私は、修理をしている職人の手先を見ながら、ぼんやりとその動きを見つめる。
 しばらくすると彼は、治っていく傘に安心したのか私のその視線にようやく気づいた。そして、再び勘違いし、目を輝かせ要らぬ説明に突入する。同じ露先は、ほとんど無いんだ。だから、出来るだけ近い露先を選んで、ああやって付けるんだ。そのとき、ただ糸で縛っただけだとすぐに切れてしまうから、あらかじめ蝋で固めて、括るんだよ。先を逆に付けるのは、出来るだけ緩まないようにするためで、職人の知恵ってやつだ。
 彼は、三回のデートの中で一番饒舌に話す。傘が治っていくのがうれしいのかもしれない。もちろん私は、傘の治し方を親身に心配しながら見ていたわけではなく、どうして、壊れた傘をこんなに心配するのだろうと彼を怪しみ始めていたのだ。
 六本ある骨の先は、同じ色であるのは二つしかなく、他の四本の先はすべて色が違い逆に付けられている。彼は、少なくとも今日を入れて四回以上は、こんな風に傘を心配し治るのを、待ち望んでいたのだろう。
 傘を治して外に出ると雨は止んでいた。まるで回帰祝いのように、笑顔でこれから食事にでもいこうと誘われ、本当はこのまま帰りたい気分だったけれど、断る理由を見つけるのすら面倒でそのまま付いていくことにした。
 店に入り、彼と向き合って席につき、彼の隣には桜の傘が立掛けられ、なんだか私は彼らの邪魔をしているのではないかとふと考えてしまった。彼がぐいっとビールを飲み干し満足げに呼吸をしたとき、おもわず、あなたの横にいる桜の傘の分のビールも注文しなくてよいのかと聞きたい気分だった。そんな事を巡らしているとこれから先、私と彼は、やっていけるのだろうかとすっかり自信が無くなっていた。真新しい金色の露先がきらりと光る。

thank you

後編へつづく・・・

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