どうしてここにいるのですか。ずっと、このベンチで何をしているのですか。それとも、誰かを待っているのか、その誰かは私ですか。七年経った今、何か責め忘れた事を思い出しここで私を罵ろうとでもいうのですか。それとも、あれからずっと積もり積もった恨みでも晴らそうというのか。そうだ、あの葉書。私の元へ送られてきた七回忌を知らせる葉書。あれだって、七年の間ずっと彼の影すら私に触れさせなかったあなたが、なぜ、今になってそんな葉書を送ってきたのですか。公場に、誘い出し何らかの方法で償わせようと考えているのですか。
どうして、このベンチなのですか。彼が育ったこの街には、思い入れのある場所は無数にあるはずで、あえて彼の母は、いまこの場所を選んでこうやって何も言わずに座っている。彼の母は、時々こんな風に座って何かを思い起こしているのだろうか。私と彼がいつも一緒にいたこの場所で。これは、私へのあてつけなのだ。私が彼の姿を待ったように、彼の母も彼が座っていた場所に座りあの時の姿に自分自身を重ね合わしているのかもしれない。消えるはずのない悲しみと恨みをいつも胸に貼り付けながら、逃げるように離れていった私を引きずり戻そうとしているのだ。
問い質せるはずがなかった。何も言わずに、川の流れを眺め、隣に座りながら七年前の華やかさは消え、柔らかさもなく、怒っているわけでもなく、何かがぴたりと止まってしまっているそんな表情だった。
ひとつだけ分かっているのは、このベンチは冬にたった一人で座るには寒すぎます。
私はどうすればよいのか。それを受け止めるべきじゃないのか。明日になれば、再びこの街を離れ、今ある世界で暮らし生きていくのだ。風も匂いも違う世界を歩く。この振り落とされた世界に残された人を受け止めるべきだ。
まてよ。私にそんな権利がどこにある。私自身、誰かを受け止められる程の心など持ち合わせていない。この七年間の私の苦しみに比べたら、彼の母の方がずっと苦しんだに違いないのだ。そんな私が受け止められるはずなどないのだ。
連なる屋根の上にある雪を傾いた太陽が照らす。それを見ながら答えを求めた。
彼の名を久しぶりに心の中で呼んだ。
三太、私はどうすればいいのかな。
雲行きが怪しい空の下、ベンチに座る二人の間にはバック一つ分の隙間が開いていて、冷たい風が気がつくと通り抜けている。そのたびに体がぶるっと震え上がる。私は、腰を浮かしバック一つ分横へずれ、三太に体を寄せた。横においていた鞄へ手を伸ばそうとしたとき、ベンチの上にポツリと雨が落ち丸く滲む。またひとつ落ち滲む。
空を見上げた。流動するグレーの低い雲から、透明の針がすい・すいと落ちてくる。私に釣られ三太も見上げ、雨だとぽつりとつぶやき、手のひらを空へと向けその針を掴む努力をする。
「雪じゃなくて雨か。なあ、ブリあるだろう。魚のブリ。あれって出世魚だからブリになる前にハマチやメジロの段階踏んでブリになるんだ。この雨も、凍ると雪になるんだよな。これって、うっかり忘れがちな事だろ」
「だろって、雨は出世してないと思うけど」
「でも、うっかり忘れているだろう」
「だろうって、おたまじゃくしが蛙になるみたいに」
「おまえ、そんな簡単な事を、うっかり忘れているのかよ」
畳み掛けるような雨が、激しい交響曲のようにピッチを早め振り落ちてきた。三太は私の手を掴みながら立ち上がり橋の下へ向かって駆け出した。
ほんの数秒だったにも関わらず、橋の下に辿り着くと辺り一面雨に濡れ連なる屋根のトヨからは雨が流れだし、くだらない話をしなければ前髪がぺたりとおでこに張り付くまで濡れずにすんだに違いない。橋の上でも、突然の雨に驚いた観光客が騒がして掛けていく。あまりにも激しく落ちる雨に三太と私は手を繋いだまま見とれていた。
「忘れてといえば、私、忘れるを書くとき、忘を忘れるんだよね」
この雨音に、なんら共通点はなかったけれどふと思い出し言葉にする。
「なんだそれ、早口言葉か」
「それで、決まって思い浮かぶのが、笑うで、忘れるを書こうとすると笑うが出てくるの。不思議でしょ」
「あっ。ほら」
私の話はすっかり忘れられる。土砂降りの雨は威力を半減させ失速し、その中にちらほらと舞い始めた雪が混じり、雨は完全に勢力を失いあっというまに雪へと変わった。三太は自慢げに、なっそうだろ。と言った。何がそうなのかは考えず、真っ先に目に飛び込んだのは、ベンチに置かれたままの二人の鞄だった。私はそれを指差した。
「うっかり忘れていたね」
三太は、蛙が潰れたような声を出した。
thank you・・・
まずい・・・春になってしまう・・・でも、まだ、つづく。
どうして、このベンチなのですか。彼が育ったこの街には、思い入れのある場所は無数にあるはずで、あえて彼の母は、いまこの場所を選んでこうやって何も言わずに座っている。彼の母は、時々こんな風に座って何かを思い起こしているのだろうか。私と彼がいつも一緒にいたこの場所で。これは、私へのあてつけなのだ。私が彼の姿を待ったように、彼の母も彼が座っていた場所に座りあの時の姿に自分自身を重ね合わしているのかもしれない。消えるはずのない悲しみと恨みをいつも胸に貼り付けながら、逃げるように離れていった私を引きずり戻そうとしているのだ。
問い質せるはずがなかった。何も言わずに、川の流れを眺め、隣に座りながら七年前の華やかさは消え、柔らかさもなく、怒っているわけでもなく、何かがぴたりと止まってしまっているそんな表情だった。
ひとつだけ分かっているのは、このベンチは冬にたった一人で座るには寒すぎます。
私はどうすればよいのか。それを受け止めるべきじゃないのか。明日になれば、再びこの街を離れ、今ある世界で暮らし生きていくのだ。風も匂いも違う世界を歩く。この振り落とされた世界に残された人を受け止めるべきだ。
まてよ。私にそんな権利がどこにある。私自身、誰かを受け止められる程の心など持ち合わせていない。この七年間の私の苦しみに比べたら、彼の母の方がずっと苦しんだに違いないのだ。そんな私が受け止められるはずなどないのだ。
連なる屋根の上にある雪を傾いた太陽が照らす。それを見ながら答えを求めた。
彼の名を久しぶりに心の中で呼んだ。
三太、私はどうすればいいのかな。
雲行きが怪しい空の下、ベンチに座る二人の間にはバック一つ分の隙間が開いていて、冷たい風が気がつくと通り抜けている。そのたびに体がぶるっと震え上がる。私は、腰を浮かしバック一つ分横へずれ、三太に体を寄せた。横においていた鞄へ手を伸ばそうとしたとき、ベンチの上にポツリと雨が落ち丸く滲む。またひとつ落ち滲む。
空を見上げた。流動するグレーの低い雲から、透明の針がすい・すいと落ちてくる。私に釣られ三太も見上げ、雨だとぽつりとつぶやき、手のひらを空へと向けその針を掴む努力をする。
「雪じゃなくて雨か。なあ、ブリあるだろう。魚のブリ。あれって出世魚だからブリになる前にハマチやメジロの段階踏んでブリになるんだ。この雨も、凍ると雪になるんだよな。これって、うっかり忘れがちな事だろ」
「だろって、雨は出世してないと思うけど」
「でも、うっかり忘れているだろう」
「だろうって、おたまじゃくしが蛙になるみたいに」
「おまえ、そんな簡単な事を、うっかり忘れているのかよ」
畳み掛けるような雨が、激しい交響曲のようにピッチを早め振り落ちてきた。三太は私の手を掴みながら立ち上がり橋の下へ向かって駆け出した。
ほんの数秒だったにも関わらず、橋の下に辿り着くと辺り一面雨に濡れ連なる屋根のトヨからは雨が流れだし、くだらない話をしなければ前髪がぺたりとおでこに張り付くまで濡れずにすんだに違いない。橋の上でも、突然の雨に驚いた観光客が騒がして掛けていく。あまりにも激しく落ちる雨に三太と私は手を繋いだまま見とれていた。
「忘れてといえば、私、忘れるを書くとき、忘を忘れるんだよね」
この雨音に、なんら共通点はなかったけれどふと思い出し言葉にする。
「なんだそれ、早口言葉か」
「それで、決まって思い浮かぶのが、笑うで、忘れるを書こうとすると笑うが出てくるの。不思議でしょ」
「あっ。ほら」
私の話はすっかり忘れられる。土砂降りの雨は威力を半減させ失速し、その中にちらほらと舞い始めた雪が混じり、雨は完全に勢力を失いあっというまに雪へと変わった。三太は自慢げに、なっそうだろ。と言った。何がそうなのかは考えず、真っ先に目に飛び込んだのは、ベンチに置かれたままの二人の鞄だった。私はそれを指差した。
「うっかり忘れていたね」
三太は、蛙が潰れたような声を出した。
thank you・・・
まずい・・・春になってしまう・・・でも、まだ、つづく。