折れたワイパー【八の三】→→→ 光を放つステージ、客席を浮かび上がらす。力が漲る会場を背に、蹲った優希を立ち上がらせ出口を後にした。会場の外は、スタッフが数人いるだけで、閑散としている。伝わり響く歓声と大音量の音楽が遠ざかるたびに、私達を一層暗い闇の中へ落としていく。狭いと感じていた歩道も、今では広く転々とある街灯がその道筋を照らしている。会話を交わすこともなく、ひっそりとした息遣いが繰り返されていた。まっすぐ伸びる歩道の表面を追いながら進んでいく。
死ぬこと、生きることの確率。私の一年後の確率はどうだろう。百パーセントといえるだろうか、明日にでも、事故に遭い命を落とすかもしれない、それなら、百パーセントなんていえないのだから、九十九パーセントくらいとしておこうか。生きていれば、誰でも突発的な事故や事件に巻き込まれて、一瞬で命を落としてしまう可能性がある。だから、一秒先であっても、生きている確率は百パーセントとは言い切れない。所詮、私が考えるこの確率は、こんなものなのだ。明白でも、真実味もなく只の想像に過ぎない。だから、一秒先を怖いとも思わない。生き続ける事が当たり前だと思い込んでいる。
けれど、この確率を背負い生活をする人が確かにいる。たとえ、何パーセントだろうが、背負ってしまった時点で、生きる難しさに苦しむ人がいるのだ。
私は、そんなことを何一つ理解していなかった。今でも、理解していないかもしれない、けれど、今までは、そのことすら気づこうとせず、勘違いを繰り返していた。
結局、そんな私が、優希にしてあげられる事など何一つないのだ。病院の駐車場から、馬鹿みたいに生きようなんて言ってみたけれど、そもそも、そんな事を言える筋合いでもなく、ただ、優希を苦しめただけだったに違いない。病室から見下ろしていた優希の隠れた表情は、歪んでいただろう。私の事を罵りたかったかもしれない。
後部座席に荷物を投げ入れ、車に乗り込む。昼の熱気が、幾分残っているのか、車内は蒸し暑い。キックがキーを捻ると、ゴルフはぶるんと振るえ細かな振動を続ける。ステレオから、この会場で歌っているバンドのCDが流れ、キックは、停止ボタンへ手を伸ばす。ステレオの音が消える。幾つかのランプが消えるのを確認し、ヘッドライトが、停められている車を照らし、サイドブレーキが上げられ、アクセルが踏まれた。
真直ぐに伸びる両側二車線の国道は、多くの交差点があり、何度も信号に捕まる。その度に、ゴルフは止まり青に変わるのをじっと待つ。国道沿いに立ち並ぶ飲食店のネオンが光を放つ。ガラス越しに明るい店内で食事をする家族連れや、カップル、さまざまな人々で賑わっている。突然、焼肉の匂いが車内に入り込む。キックが、窓を開けている。窓淵に腕を乗せ、信号を見つめていた。表情に、動揺は残ってなく無表情に戻っている。焼肉混じりの僅かな風が、前髪を揺らす。
響くクラクション。後ろから聞こえた。続けて響くクラクション。
信号を見つめていたキックは、慌ててアクセルを踏み、バックミラーをちらりと見て、ハザードランプを二回点滅させる。信号は、青に変わっていて、となり車線の車は、とっくに信号を背にしていた。後ろにいた車は、ゴルフが走り出すと、となり車線に出るなり追い越していく。
車内の空気は、ずっしりと重くどんなに窓をあけ換気したところで変わるはずもなく、漂い続けている。これから、どうなるのだろう。後部座席で、ぱちんと消えてしまいたかった。
車が小刻みに揺れる。ルーフをバサバサと何かが擦れる。いつのまにか、目を閉じていた。張り付く瞼を開けずに、この振動と音が、いったい何なのか考える。下からも様々な音が響く。小刻みだった揺れは、音が大きくなると共に、大揺れへと変わる。溜まらず、瞼をこじ開けると、目の前のルーフは、波を打っている。ゴルフの底が擦れると、シートがバウンドし、体が浮き上がる。
「うわっ」
戸惑いと驚きの声が漏れる。体がシートにうまい具合に座らせる事が出来ないまま、窓の外へ揺れる視線を移す。ヘッドライトの光が、右往左往し定まらない。けれど、その光に映るものは、間違いなくオフロードのコースそのもので、無造作に転がった石と、脇にある生い茂る木々。道であろう、いや道であってほしい道幅は、極めて狭い。勝手に踊る二本の足に、シートから飛び上がる荷物が、シートの下へと次々に落ちる。押さえ切れない体が、ラグビーボールのように定まらず、体を捻り後部座席のシートにしがみ付く。
「キ・・・キキキックウ」
ヘッドレスに頭をぶつけ、舌を噛みそうになりながら、シートから振り落とされそうになるのを必死で堪える。ゴルフは、何度も激しく跳ね上がる。その度に、全身に力を入れる。停まる気配を一向に見せない。前の座席に背を向けているので、二人がどんなことになっているのかはわからない。ただ、優希の声が、時々、漏れている。それは、呻き声に近いものばかりだ。このままでは、このおんぼろゴルフが、バラバラになってしまうのではないかと心配になる。タイヤが取れ、ルーフがさけ、ドアがぼろりと落ち、エンジンが火を吹くかもしれない。
視界に入る景色には、光一つない。頭は揺さぶられ続け、何かを考えようとしても、答えを出すことが出来ない。テールランプの赤い光に僅かに舞い上がる砂埃を照らす。その中に突然現れる二つの光。その光に視線が釘付けになる。頭が揺れているせいか、定まらず残像が泳ぐ。動いたように見えた。地面を這うように近づいてくる。ランプの明かりに浮き上がる埃の中から、突き出た鼻。光るつぶらな目。小さな耳。牙が二本。短い足が、地面を蹴り上げる。
「イノシシっ!!」
叫びとほぼ同時にゴルフが、うねりを上げる。エンジンの回転数が一揆に上がり、タイヤが鳴る。驚いたイノシシは、前のめりに巨体が浮き、一回転し、砂埃の中へ消える。速度を上げたゴルフは、踏み切り台を蹴り上げるように、一度沈み込み大きく浮き上がり、地面に落ちる。意識が、飛ぶほど激しく揺れる。焦げ臭い匂いが、車内に充満する。何かが擦れたのか、それとも、車が燃えているのかどちらかだろう。それでも、ゴルフは停まらない。ブレーキが壊れているのだろうか。キックが壊れているのだろうか。非現実的なこの状況は、リアルな夢かもしれない。ついさっきの重い空気の車内で、ふいに目が覚めるのだ。けれど、これが本当に夢なら、私はこれから先、夢と現実の世界の区別が出来ずに苦労するに違いない。
突然、進行方向へ体が引き寄せられそうになる。離れそうな体を、必死で座席にしがみ付き耐える。砂の上をタイヤが滑り、音を上げる。引き寄せる力が薄れ、顔が、ヘッドレスに、再び当たる。揺れが収まり、エンジン音だけが、ブスブスと声をあげ、シュンと消える。ゴルフが、停まった。エンジンを切っても、ゴルフは興奮が収まらないのか、どこからか音を上げる。ヘッドライトの光が消える。ドアが閉まる振動が車体に伝わる。運転席側だろうか。いつの間にか降りたキックが、ドアを閉めたのだろう。後部座席に力なくうな垂れたまま動けずにいた。全身の力が抜けると、喉を何かが遡ってくることに気づき、外へ出ようとドアへ手を伸ばすが、三回空を切った。ようやく、手にし、ドアをあけ外へ出ようと足を地面に付けたとき、ぐらりと体が揺れ、そのまま、外へ崩れ落ちる。ひんやりとしたざらついた地面。手をついた掌に食い込む石。痛みを感じたが、揺れる体と頭、そして、込上げる吐き気。這いずりながら数歩前へ進み、二回吐いた。けれど、胃には、何も残っていなかったのか、口の中に胃液の味が広がるだけ。吐いても、地面はぐにゃりと曲がり、立つことは出来ずに、その場でうずくまる。呼吸を整えようと、唾を飲み込むが、一層気分を悪くする。
「つきい!!聞いているのかあ!!ここはどこだあ!!あたしたちは、どこにいる!!みているんだろう!!おしえろ!!つき!!道がないぞ!!」
歪んだ顔を上げる。大きい満月が、闇の中で、ゆらゆらと揺れていた。満月の光の中に、月と話すキックのシルエット。揺れ続ける世界の中には、随分と変わった人がいるんだなあと遠めで眺める。キックに罵られ続ける月は、周りに街灯があるのではないかと勘違いするほど、明るく辺りを照らす。月の灯りは、柔らかく包み込むように光を落としていた。車は、草に覆われた狭い広場の中央にあり四分の三は、高い草と森で囲まれ、四分の一は、背丈半分程の平べったい石が、見晴台のように畳み二畳ほどの広さで、月の光に、反射している。そこだけ、木はなく開かれ、遠くの山が見渡せる。背後の森の隙間を、光が通り影を落としている。満月の夜とはいえ、こんなに明るいものなのだろうか。
「なんか、答えろ!!無視かよ!!明るいからって、調子に乗るなよ!!こらあ!!」
喧嘩の仲裁に入る事はせずに、胡坐をかいて、どっかりとデコボコの座り心地の悪い地面に腰を落ち着ける。世界の歪みが正常に戻り始めた頃、肩を揺らし、息を切らすキック。私は、生まれて初めて、調子に乗っている月を見た。確かに、この明るさは、今までに見たことがなく、夜の闇は、どこかに消えていた。カチッと音がすると、ゴルフのルーフが開かれていく。車内にいる優希が、運転席側に乗り出し、ルーフを上げているようだ。すべてたたまれると、優希は、助手席のシートを倒し車内に隠れた。その時、掌がすくっと現れ月へ伸びた。キックは、何も言わない月に完敗し、石の上に座り、仰向けに寝転ぶ。キックの息遣いが、聞こえた。
耳元に、羽の音が絡まる。手で払いのけるが、離れたかと思うと、再びやってくる。小刻みに振るえ続ける羽音は、間違いなく、通常の蚊よりも激しく羽ばたく。ピタリと止まったか思うと、腕に黒い粒。思い切り、ぴしゃりと叩く、赤くなる腕から、飛び立つ薮蚊。
立ち眩みを乗り切り、大きく息を吸い込み吐き出す。空を見上げれば、月の光に押されぎみな星が、瞬いている。耳を澄ましても、自然以外の音は、聞こえず、もちろん、光も見当たらない。社会から追放された気分だ。追放というよりも、逃亡の方がより近い。しかしながら、ここで暮すわけにいかないので、帰らなければならない。そのとき、元の世界に戻れるのだろうかと不安になる。迷ったときは、来た道を戻れというけれど、果たしてそれは可能な事なのだろうか。今、考えてもマイナス思考の連続なので、忘れよう。それよりも、今、一番大事なのは、酷い揺れで荷物が散乱した車内から、虫除けスプレーを探し出す事だった。
「あった、あった虫除けスプレー」
座席の下に、転がっているスプレー缶に手を伸ばし、脇が攣りそうになりながらも、手繰り寄せ、手にし独り言を言う。
「優希、スプレーするよ」
倒したシートの上に寝ている優希へ声をかけ、服の上からほぼ全身にスプレーする。表情は、腕を乗せていて見えない。車から降り、キックの元へ向かう。キックは、月の灯りを全身で受けながら、石の上で仰向けに寝そべり、スウスウと寝息をたてている。いつの間にか、寝てしまったようだ。声を掛けずに、スプレーを吹きかけた。誤って顔に掛けてしまい、キックの顔が歪んだけれど、すぐに、寝息を立て始め安心し、キックの横に座ってみる。スプレーに書かれた注意事項を読もうとしたが、読み取れず諦め、缶を置くと、石の上に影が伸びた。
真ん丸な大きな月は、一回り小さくなり、高いところへ移っている。満月の夜は、血の気が荒くなると言われている。事故や事件も普段よりも多いと聞いたことがある。今日の出来事は、この満月の影響もあったのだろうか。見上げた満月は、そんな素振りはみせず、闇の中に迷い込んだ三人を、そっと、照らし続けてくれている。今、私達は、間違いなくそんな月のパワーに、ほっとさせられているのは確かだった。
thank you
つづく・・・
死ぬこと、生きることの確率。私の一年後の確率はどうだろう。百パーセントといえるだろうか、明日にでも、事故に遭い命を落とすかもしれない、それなら、百パーセントなんていえないのだから、九十九パーセントくらいとしておこうか。生きていれば、誰でも突発的な事故や事件に巻き込まれて、一瞬で命を落としてしまう可能性がある。だから、一秒先であっても、生きている確率は百パーセントとは言い切れない。所詮、私が考えるこの確率は、こんなものなのだ。明白でも、真実味もなく只の想像に過ぎない。だから、一秒先を怖いとも思わない。生き続ける事が当たり前だと思い込んでいる。
けれど、この確率を背負い生活をする人が確かにいる。たとえ、何パーセントだろうが、背負ってしまった時点で、生きる難しさに苦しむ人がいるのだ。
私は、そんなことを何一つ理解していなかった。今でも、理解していないかもしれない、けれど、今までは、そのことすら気づこうとせず、勘違いを繰り返していた。
結局、そんな私が、優希にしてあげられる事など何一つないのだ。病院の駐車場から、馬鹿みたいに生きようなんて言ってみたけれど、そもそも、そんな事を言える筋合いでもなく、ただ、優希を苦しめただけだったに違いない。病室から見下ろしていた優希の隠れた表情は、歪んでいただろう。私の事を罵りたかったかもしれない。
後部座席に荷物を投げ入れ、車に乗り込む。昼の熱気が、幾分残っているのか、車内は蒸し暑い。キックがキーを捻ると、ゴルフはぶるんと振るえ細かな振動を続ける。ステレオから、この会場で歌っているバンドのCDが流れ、キックは、停止ボタンへ手を伸ばす。ステレオの音が消える。幾つかのランプが消えるのを確認し、ヘッドライトが、停められている車を照らし、サイドブレーキが上げられ、アクセルが踏まれた。
真直ぐに伸びる両側二車線の国道は、多くの交差点があり、何度も信号に捕まる。その度に、ゴルフは止まり青に変わるのをじっと待つ。国道沿いに立ち並ぶ飲食店のネオンが光を放つ。ガラス越しに明るい店内で食事をする家族連れや、カップル、さまざまな人々で賑わっている。突然、焼肉の匂いが車内に入り込む。キックが、窓を開けている。窓淵に腕を乗せ、信号を見つめていた。表情に、動揺は残ってなく無表情に戻っている。焼肉混じりの僅かな風が、前髪を揺らす。
響くクラクション。後ろから聞こえた。続けて響くクラクション。
信号を見つめていたキックは、慌ててアクセルを踏み、バックミラーをちらりと見て、ハザードランプを二回点滅させる。信号は、青に変わっていて、となり車線の車は、とっくに信号を背にしていた。後ろにいた車は、ゴルフが走り出すと、となり車線に出るなり追い越していく。
車内の空気は、ずっしりと重くどんなに窓をあけ換気したところで変わるはずもなく、漂い続けている。これから、どうなるのだろう。後部座席で、ぱちんと消えてしまいたかった。
車が小刻みに揺れる。ルーフをバサバサと何かが擦れる。いつのまにか、目を閉じていた。張り付く瞼を開けずに、この振動と音が、いったい何なのか考える。下からも様々な音が響く。小刻みだった揺れは、音が大きくなると共に、大揺れへと変わる。溜まらず、瞼をこじ開けると、目の前のルーフは、波を打っている。ゴルフの底が擦れると、シートがバウンドし、体が浮き上がる。
「うわっ」
戸惑いと驚きの声が漏れる。体がシートにうまい具合に座らせる事が出来ないまま、窓の外へ揺れる視線を移す。ヘッドライトの光が、右往左往し定まらない。けれど、その光に映るものは、間違いなくオフロードのコースそのもので、無造作に転がった石と、脇にある生い茂る木々。道であろう、いや道であってほしい道幅は、極めて狭い。勝手に踊る二本の足に、シートから飛び上がる荷物が、シートの下へと次々に落ちる。押さえ切れない体が、ラグビーボールのように定まらず、体を捻り後部座席のシートにしがみ付く。
「キ・・・キキキックウ」
ヘッドレスに頭をぶつけ、舌を噛みそうになりながら、シートから振り落とされそうになるのを必死で堪える。ゴルフは、何度も激しく跳ね上がる。その度に、全身に力を入れる。停まる気配を一向に見せない。前の座席に背を向けているので、二人がどんなことになっているのかはわからない。ただ、優希の声が、時々、漏れている。それは、呻き声に近いものばかりだ。このままでは、このおんぼろゴルフが、バラバラになってしまうのではないかと心配になる。タイヤが取れ、ルーフがさけ、ドアがぼろりと落ち、エンジンが火を吹くかもしれない。
視界に入る景色には、光一つない。頭は揺さぶられ続け、何かを考えようとしても、答えを出すことが出来ない。テールランプの赤い光に僅かに舞い上がる砂埃を照らす。その中に突然現れる二つの光。その光に視線が釘付けになる。頭が揺れているせいか、定まらず残像が泳ぐ。動いたように見えた。地面を這うように近づいてくる。ランプの明かりに浮き上がる埃の中から、突き出た鼻。光るつぶらな目。小さな耳。牙が二本。短い足が、地面を蹴り上げる。
「イノシシっ!!」
叫びとほぼ同時にゴルフが、うねりを上げる。エンジンの回転数が一揆に上がり、タイヤが鳴る。驚いたイノシシは、前のめりに巨体が浮き、一回転し、砂埃の中へ消える。速度を上げたゴルフは、踏み切り台を蹴り上げるように、一度沈み込み大きく浮き上がり、地面に落ちる。意識が、飛ぶほど激しく揺れる。焦げ臭い匂いが、車内に充満する。何かが擦れたのか、それとも、車が燃えているのかどちらかだろう。それでも、ゴルフは停まらない。ブレーキが壊れているのだろうか。キックが壊れているのだろうか。非現実的なこの状況は、リアルな夢かもしれない。ついさっきの重い空気の車内で、ふいに目が覚めるのだ。けれど、これが本当に夢なら、私はこれから先、夢と現実の世界の区別が出来ずに苦労するに違いない。
突然、進行方向へ体が引き寄せられそうになる。離れそうな体を、必死で座席にしがみ付き耐える。砂の上をタイヤが滑り、音を上げる。引き寄せる力が薄れ、顔が、ヘッドレスに、再び当たる。揺れが収まり、エンジン音だけが、ブスブスと声をあげ、シュンと消える。ゴルフが、停まった。エンジンを切っても、ゴルフは興奮が収まらないのか、どこからか音を上げる。ヘッドライトの光が消える。ドアが閉まる振動が車体に伝わる。運転席側だろうか。いつの間にか降りたキックが、ドアを閉めたのだろう。後部座席に力なくうな垂れたまま動けずにいた。全身の力が抜けると、喉を何かが遡ってくることに気づき、外へ出ようとドアへ手を伸ばすが、三回空を切った。ようやく、手にし、ドアをあけ外へ出ようと足を地面に付けたとき、ぐらりと体が揺れ、そのまま、外へ崩れ落ちる。ひんやりとしたざらついた地面。手をついた掌に食い込む石。痛みを感じたが、揺れる体と頭、そして、込上げる吐き気。這いずりながら数歩前へ進み、二回吐いた。けれど、胃には、何も残っていなかったのか、口の中に胃液の味が広がるだけ。吐いても、地面はぐにゃりと曲がり、立つことは出来ずに、その場でうずくまる。呼吸を整えようと、唾を飲み込むが、一層気分を悪くする。
「つきい!!聞いているのかあ!!ここはどこだあ!!あたしたちは、どこにいる!!みているんだろう!!おしえろ!!つき!!道がないぞ!!」
歪んだ顔を上げる。大きい満月が、闇の中で、ゆらゆらと揺れていた。満月の光の中に、月と話すキックのシルエット。揺れ続ける世界の中には、随分と変わった人がいるんだなあと遠めで眺める。キックに罵られ続ける月は、周りに街灯があるのではないかと勘違いするほど、明るく辺りを照らす。月の灯りは、柔らかく包み込むように光を落としていた。車は、草に覆われた狭い広場の中央にあり四分の三は、高い草と森で囲まれ、四分の一は、背丈半分程の平べったい石が、見晴台のように畳み二畳ほどの広さで、月の光に、反射している。そこだけ、木はなく開かれ、遠くの山が見渡せる。背後の森の隙間を、光が通り影を落としている。満月の夜とはいえ、こんなに明るいものなのだろうか。
「なんか、答えろ!!無視かよ!!明るいからって、調子に乗るなよ!!こらあ!!」
喧嘩の仲裁に入る事はせずに、胡坐をかいて、どっかりとデコボコの座り心地の悪い地面に腰を落ち着ける。世界の歪みが正常に戻り始めた頃、肩を揺らし、息を切らすキック。私は、生まれて初めて、調子に乗っている月を見た。確かに、この明るさは、今までに見たことがなく、夜の闇は、どこかに消えていた。カチッと音がすると、ゴルフのルーフが開かれていく。車内にいる優希が、運転席側に乗り出し、ルーフを上げているようだ。すべてたたまれると、優希は、助手席のシートを倒し車内に隠れた。その時、掌がすくっと現れ月へ伸びた。キックは、何も言わない月に完敗し、石の上に座り、仰向けに寝転ぶ。キックの息遣いが、聞こえた。
耳元に、羽の音が絡まる。手で払いのけるが、離れたかと思うと、再びやってくる。小刻みに振るえ続ける羽音は、間違いなく、通常の蚊よりも激しく羽ばたく。ピタリと止まったか思うと、腕に黒い粒。思い切り、ぴしゃりと叩く、赤くなる腕から、飛び立つ薮蚊。
立ち眩みを乗り切り、大きく息を吸い込み吐き出す。空を見上げれば、月の光に押されぎみな星が、瞬いている。耳を澄ましても、自然以外の音は、聞こえず、もちろん、光も見当たらない。社会から追放された気分だ。追放というよりも、逃亡の方がより近い。しかしながら、ここで暮すわけにいかないので、帰らなければならない。そのとき、元の世界に戻れるのだろうかと不安になる。迷ったときは、来た道を戻れというけれど、果たしてそれは可能な事なのだろうか。今、考えてもマイナス思考の連続なので、忘れよう。それよりも、今、一番大事なのは、酷い揺れで荷物が散乱した車内から、虫除けスプレーを探し出す事だった。
「あった、あった虫除けスプレー」
座席の下に、転がっているスプレー缶に手を伸ばし、脇が攣りそうになりながらも、手繰り寄せ、手にし独り言を言う。
「優希、スプレーするよ」
倒したシートの上に寝ている優希へ声をかけ、服の上からほぼ全身にスプレーする。表情は、腕を乗せていて見えない。車から降り、キックの元へ向かう。キックは、月の灯りを全身で受けながら、石の上で仰向けに寝そべり、スウスウと寝息をたてている。いつの間にか、寝てしまったようだ。声を掛けずに、スプレーを吹きかけた。誤って顔に掛けてしまい、キックの顔が歪んだけれど、すぐに、寝息を立て始め安心し、キックの横に座ってみる。スプレーに書かれた注意事項を読もうとしたが、読み取れず諦め、缶を置くと、石の上に影が伸びた。
真ん丸な大きな月は、一回り小さくなり、高いところへ移っている。満月の夜は、血の気が荒くなると言われている。事故や事件も普段よりも多いと聞いたことがある。今日の出来事は、この満月の影響もあったのだろうか。見上げた満月は、そんな素振りはみせず、闇の中に迷い込んだ三人を、そっと、照らし続けてくれている。今、私達は、間違いなくそんな月のパワーに、ほっとさせられているのは確かだった。
thank you
つづく・・・