小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

八月の出来事 3

2005年03月30日 | FILM 七八九月
折れたワイパー【八の三】→→→  光を放つステージ、客席を浮かび上がらす。力が漲る会場を背に、蹲った優希を立ち上がらせ出口を後にした。会場の外は、スタッフが数人いるだけで、閑散としている。伝わり響く歓声と大音量の音楽が遠ざかるたびに、私達を一層暗い闇の中へ落としていく。狭いと感じていた歩道も、今では広く転々とある街灯がその道筋を照らしている。会話を交わすこともなく、ひっそりとした息遣いが繰り返されていた。まっすぐ伸びる歩道の表面を追いながら進んでいく。

 死ぬこと、生きることの確率。私の一年後の確率はどうだろう。百パーセントといえるだろうか、明日にでも、事故に遭い命を落とすかもしれない、それなら、百パーセントなんていえないのだから、九十九パーセントくらいとしておこうか。生きていれば、誰でも突発的な事故や事件に巻き込まれて、一瞬で命を落としてしまう可能性がある。だから、一秒先であっても、生きている確率は百パーセントとは言い切れない。所詮、私が考えるこの確率は、こんなものなのだ。明白でも、真実味もなく只の想像に過ぎない。だから、一秒先を怖いとも思わない。生き続ける事が当たり前だと思い込んでいる。
 けれど、この確率を背負い生活をする人が確かにいる。たとえ、何パーセントだろうが、背負ってしまった時点で、生きる難しさに苦しむ人がいるのだ。

 私は、そんなことを何一つ理解していなかった。今でも、理解していないかもしれない、けれど、今までは、そのことすら気づこうとせず、勘違いを繰り返していた。
 結局、そんな私が、優希にしてあげられる事など何一つないのだ。病院の駐車場から、馬鹿みたいに生きようなんて言ってみたけれど、そもそも、そんな事を言える筋合いでもなく、ただ、優希を苦しめただけだったに違いない。病室から見下ろしていた優希の隠れた表情は、歪んでいただろう。私の事を罵りたかったかもしれない。


 後部座席に荷物を投げ入れ、車に乗り込む。昼の熱気が、幾分残っているのか、車内は蒸し暑い。キックがキーを捻ると、ゴルフはぶるんと振るえ細かな振動を続ける。ステレオから、この会場で歌っているバンドのCDが流れ、キックは、停止ボタンへ手を伸ばす。ステレオの音が消える。幾つかのランプが消えるのを確認し、ヘッドライトが、停められている車を照らし、サイドブレーキが上げられ、アクセルが踏まれた。

 真直ぐに伸びる両側二車線の国道は、多くの交差点があり、何度も信号に捕まる。その度に、ゴルフは止まり青に変わるのをじっと待つ。国道沿いに立ち並ぶ飲食店のネオンが光を放つ。ガラス越しに明るい店内で食事をする家族連れや、カップル、さまざまな人々で賑わっている。突然、焼肉の匂いが車内に入り込む。キックが、窓を開けている。窓淵に腕を乗せ、信号を見つめていた。表情に、動揺は残ってなく無表情に戻っている。焼肉混じりの僅かな風が、前髪を揺らす。
 響くクラクション。後ろから聞こえた。続けて響くクラクション。
 信号を見つめていたキックは、慌ててアクセルを踏み、バックミラーをちらりと見て、ハザードランプを二回点滅させる。信号は、青に変わっていて、となり車線の車は、とっくに信号を背にしていた。後ろにいた車は、ゴルフが走り出すと、となり車線に出るなり追い越していく。
 車内の空気は、ずっしりと重くどんなに窓をあけ換気したところで変わるはずもなく、漂い続けている。これから、どうなるのだろう。後部座席で、ぱちんと消えてしまいたかった。


 車が小刻みに揺れる。ルーフをバサバサと何かが擦れる。いつのまにか、目を閉じていた。張り付く瞼を開けずに、この振動と音が、いったい何なのか考える。下からも様々な音が響く。小刻みだった揺れは、音が大きくなると共に、大揺れへと変わる。溜まらず、瞼をこじ開けると、目の前のルーフは、波を打っている。ゴルフの底が擦れると、シートがバウンドし、体が浮き上がる。

「うわっ」

 戸惑いと驚きの声が漏れる。体がシートにうまい具合に座らせる事が出来ないまま、窓の外へ揺れる視線を移す。ヘッドライトの光が、右往左往し定まらない。けれど、その光に映るものは、間違いなくオフロードのコースそのもので、無造作に転がった石と、脇にある生い茂る木々。道であろう、いや道であってほしい道幅は、極めて狭い。勝手に踊る二本の足に、シートから飛び上がる荷物が、シートの下へと次々に落ちる。押さえ切れない体が、ラグビーボールのように定まらず、体を捻り後部座席のシートにしがみ付く。

「キ・・・キキキックウ」

 ヘッドレスに頭をぶつけ、舌を噛みそうになりながら、シートから振り落とされそうになるのを必死で堪える。ゴルフは、何度も激しく跳ね上がる。その度に、全身に力を入れる。停まる気配を一向に見せない。前の座席に背を向けているので、二人がどんなことになっているのかはわからない。ただ、優希の声が、時々、漏れている。それは、呻き声に近いものばかりだ。このままでは、このおんぼろゴルフが、バラバラになってしまうのではないかと心配になる。タイヤが取れ、ルーフがさけ、ドアがぼろりと落ち、エンジンが火を吹くかもしれない。
 視界に入る景色には、光一つない。頭は揺さぶられ続け、何かを考えようとしても、答えを出すことが出来ない。テールランプの赤い光に僅かに舞い上がる砂埃を照らす。その中に突然現れる二つの光。その光に視線が釘付けになる。頭が揺れているせいか、定まらず残像が泳ぐ。動いたように見えた。地面を這うように近づいてくる。ランプの明かりに浮き上がる埃の中から、突き出た鼻。光るつぶらな目。小さな耳。牙が二本。短い足が、地面を蹴り上げる。

「イノシシっ!!」

 叫びとほぼ同時にゴルフが、うねりを上げる。エンジンの回転数が一揆に上がり、タイヤが鳴る。驚いたイノシシは、前のめりに巨体が浮き、一回転し、砂埃の中へ消える。速度を上げたゴルフは、踏み切り台を蹴り上げるように、一度沈み込み大きく浮き上がり、地面に落ちる。意識が、飛ぶほど激しく揺れる。焦げ臭い匂いが、車内に充満する。何かが擦れたのか、それとも、車が燃えているのかどちらかだろう。それでも、ゴルフは停まらない。ブレーキが壊れているのだろうか。キックが壊れているのだろうか。非現実的なこの状況は、リアルな夢かもしれない。ついさっきの重い空気の車内で、ふいに目が覚めるのだ。けれど、これが本当に夢なら、私はこれから先、夢と現実の世界の区別が出来ずに苦労するに違いない。

 突然、進行方向へ体が引き寄せられそうになる。離れそうな体を、必死で座席にしがみ付き耐える。砂の上をタイヤが滑り、音を上げる。引き寄せる力が薄れ、顔が、ヘッドレスに、再び当たる。揺れが収まり、エンジン音だけが、ブスブスと声をあげ、シュンと消える。ゴルフが、停まった。エンジンを切っても、ゴルフは興奮が収まらないのか、どこからか音を上げる。ヘッドライトの光が消える。ドアが閉まる振動が車体に伝わる。運転席側だろうか。いつの間にか降りたキックが、ドアを閉めたのだろう。後部座席に力なくうな垂れたまま動けずにいた。全身の力が抜けると、喉を何かが遡ってくることに気づき、外へ出ようとドアへ手を伸ばすが、三回空を切った。ようやく、手にし、ドアをあけ外へ出ようと足を地面に付けたとき、ぐらりと体が揺れ、そのまま、外へ崩れ落ちる。ひんやりとしたざらついた地面。手をついた掌に食い込む石。痛みを感じたが、揺れる体と頭、そして、込上げる吐き気。這いずりながら数歩前へ進み、二回吐いた。けれど、胃には、何も残っていなかったのか、口の中に胃液の味が広がるだけ。吐いても、地面はぐにゃりと曲がり、立つことは出来ずに、その場でうずくまる。呼吸を整えようと、唾を飲み込むが、一層気分を悪くする。

「つきい!!聞いているのかあ!!ここはどこだあ!!あたしたちは、どこにいる!!みているんだろう!!おしえろ!!つき!!道がないぞ!!」

 歪んだ顔を上げる。大きい満月が、闇の中で、ゆらゆらと揺れていた。満月の光の中に、月と話すキックのシルエット。揺れ続ける世界の中には、随分と変わった人がいるんだなあと遠めで眺める。キックに罵られ続ける月は、周りに街灯があるのではないかと勘違いするほど、明るく辺りを照らす。月の灯りは、柔らかく包み込むように光を落としていた。車は、草に覆われた狭い広場の中央にあり四分の三は、高い草と森で囲まれ、四分の一は、背丈半分程の平べったい石が、見晴台のように畳み二畳ほどの広さで、月の光に、反射している。そこだけ、木はなく開かれ、遠くの山が見渡せる。背後の森の隙間を、光が通り影を落としている。満月の夜とはいえ、こんなに明るいものなのだろうか。

「なんか、答えろ!!無視かよ!!明るいからって、調子に乗るなよ!!こらあ!!」

 喧嘩の仲裁に入る事はせずに、胡坐をかいて、どっかりとデコボコの座り心地の悪い地面に腰を落ち着ける。世界の歪みが正常に戻り始めた頃、肩を揺らし、息を切らすキック。私は、生まれて初めて、調子に乗っている月を見た。確かに、この明るさは、今までに見たことがなく、夜の闇は、どこかに消えていた。カチッと音がすると、ゴルフのルーフが開かれていく。車内にいる優希が、運転席側に乗り出し、ルーフを上げているようだ。すべてたたまれると、優希は、助手席のシートを倒し車内に隠れた。その時、掌がすくっと現れ月へ伸びた。キックは、何も言わない月に完敗し、石の上に座り、仰向けに寝転ぶ。キックの息遣いが、聞こえた。
 耳元に、羽の音が絡まる。手で払いのけるが、離れたかと思うと、再びやってくる。小刻みに振るえ続ける羽音は、間違いなく、通常の蚊よりも激しく羽ばたく。ピタリと止まったか思うと、腕に黒い粒。思い切り、ぴしゃりと叩く、赤くなる腕から、飛び立つ薮蚊。
 立ち眩みを乗り切り、大きく息を吸い込み吐き出す。空を見上げれば、月の光に押されぎみな星が、瞬いている。耳を澄ましても、自然以外の音は、聞こえず、もちろん、光も見当たらない。社会から追放された気分だ。追放というよりも、逃亡の方がより近い。しかしながら、ここで暮すわけにいかないので、帰らなければならない。そのとき、元の世界に戻れるのだろうかと不安になる。迷ったときは、来た道を戻れというけれど、果たしてそれは可能な事なのだろうか。今、考えてもマイナス思考の連続なので、忘れよう。それよりも、今、一番大事なのは、酷い揺れで荷物が散乱した車内から、虫除けスプレーを探し出す事だった。

「あった、あった虫除けスプレー」

 座席の下に、転がっているスプレー缶に手を伸ばし、脇が攣りそうになりながらも、手繰り寄せ、手にし独り言を言う。

「優希、スプレーするよ」

 倒したシートの上に寝ている優希へ声をかけ、服の上からほぼ全身にスプレーする。表情は、腕を乗せていて見えない。車から降り、キックの元へ向かう。キックは、月の灯りを全身で受けながら、石の上で仰向けに寝そべり、スウスウと寝息をたてている。いつの間にか、寝てしまったようだ。声を掛けずに、スプレーを吹きかけた。誤って顔に掛けてしまい、キックの顔が歪んだけれど、すぐに、寝息を立て始め安心し、キックの横に座ってみる。スプレーに書かれた注意事項を読もうとしたが、読み取れず諦め、缶を置くと、石の上に影が伸びた。

 真ん丸な大きな月は、一回り小さくなり、高いところへ移っている。満月の夜は、血の気が荒くなると言われている。事故や事件も普段よりも多いと聞いたことがある。今日の出来事は、この満月の影響もあったのだろうか。見上げた満月は、そんな素振りはみせず、闇の中に迷い込んだ三人を、そっと、照らし続けてくれている。今、私達は、間違いなくそんな月のパワーに、ほっとさせられているのは確かだった。


thank you
つづく・・・

八月の出来事 2

2005年03月26日 | FILM 七八九月
折れたワイパー【八の二】→→→  連なる人の流れが、平たく広がる席へ散らばり埋めていく。ステージは横一杯まで続き、巨大なジャングルジムのように鉄パイプが組上げられ、多くの照明が吊るされ、両サイドには、黒い壁、高くスピーカーが積まれている。中央には、楽器や機材が置かれ、Tシャツ姿にスタッフパスを首から下げた長髪の男性が、ギターを掛けテストをしている。横目にチケットに書かれた番号と同じ席へ向かう。

「まあまあ、の席だね」

 優希の言葉に賛同する。ステージからやや離れぎみであったけれど、ほぼ中央で無理なくステージを見渡せる。背の高いぬり壁のような人させこなければ十分楽しめるだろう。

「スピーカーの前じゃなくてよかった」

 二人は、スピーカーの前に座る人々を見ながら頷く。何年か前のライブで、見事にスピーカーの目の前になってしまい、始まる前までは、一番前で喜んでいたが、一曲終わるたびに目眩がするほど耳鳴りを起こし、ステージ半分は、機材の影になり見えず、おまけにドラムソロで見事に心臓が口からとびでそうになってしまったことがある。酷い振動に慣れるまで、何度生唾を飲み込んだことか。すっぱい思い出である。
 席に座り、他愛もない会話をし、始まりを待つ。スタッフは、準備を整えステージから消える。スモークがどこからともなくたかれステージから流れ出る。空は、太陽を隠したとはいえまだ、明るく夏の暑さを残している。けれど、オレンジ色の空は、狭くなり濃紺の空が広がりつつある。夜へと向かっていく。

 会場への注意が、アナウスされる。

 優希は、買ったばかりのうちわでパタパタと顔を仰いでいる。私は、その横で水滴がまだつくペットボトルを取り、キャップを捻る。カチリと最後の接合部分が音をあげると、優希の視線がそのボトルを捕らえ、少し頂戴と言葉を載せながら、横から手をだす。優希の気休めなうちわの風が私へ向けられると、思わず、ボトルを渡してしまった。グビグビと喉を鳴らして呑み続ける優希。あらかじめ、少しの範囲を、ボトルで確認しておくべきだったと後悔する。的を得ないうちわの風を時々受けながら、ボトルが戻る事を待つ。
 私のペットボトルを傾け、良い飲みっぷりを披露する優希の姿を見ていたキック。

「ビール飲んでこようかな?大じゃなければ大丈夫でしょ?」
「ビールかあ」

 席には、持ち込み禁止であるが、客席後ろには、出店が並びその中で、ビールも売られている。たしかに、この夏の夜の始まりにビールの一杯でも引っ掛けておきたい。二人で、顔を合わせ頷こうとしたとき、ペットボトルにキャップを絞めている優希が、飲んでいる間に始まったりしてと、口出し固まりそうな決意にヒビを入れる。

 その時、会場にSEが大音量で流れる。歓声が上がる。興奮を抑えられない客は、席から立ち上がりステージを食い入るように見つめる。スモークは、一層たかれ、そこへ照明が、一斉に踊り始める。軽快なSEが、余韻を残すことなくピタリと止まる。その一瞬の静粛が、ここにいるものの心をくすぐる。ビールへの思いは、跡形もなく消え、たまらず、立ち上がる。SEとは違う激しい音が、爆発するように打ち鳴らされた。スモークの中から、スティックを翳すドラマーが現れ、胸の奥を揺らすような音を打ち鳴らし、ギター、ベースの音が加わる。壁のように積み上げられたスピーカーが震える。
 会場後方から、真直ぐに伸びる二本のピンスポが、ステージを照らす。待ち構えたように、ボーカルが現れ、スポットと共に走り出し、ステージ前ぎりぎりまで進み、客席へ乗り出し煽り立てる。
 会場のエンジンが掛かった時、エレキギターが、聞き覚えのあるラインを刻む。それまでの歓声を掻き消す歓声が上がる。去年ドラマの主題歌にもなった、力強いハイテンポな曲から始まった。ボーカルがセンターに戻り、大きく息を吸い込みマイクへ魂を吹き込める。そして、馬鹿でかいスピーカーから放たれた。
 会場は、時間すら飲み込み興奮し叫びを上げた。

 湧き上がる歓声の連続。ボーカルに息遣いですら客を酔わせる。全身で、歌い続けるボーカルは、生きる証を吐き出していく。空を駆け上がるようなギター、止まる事無くリズムを刻むベース、鼓動を熱く打ち鳴らすドラム。
 ボーカルは、ステージを駆け回り息を切らす、マイクを客席へ突き出す。声を張り上げ歌う客。暗闇の夜に、一際光を放つこの場所が、この闇の中心にさえ思えてくる。
 響き渡る音楽に、体を貫かれ支配される。体の真ん中から、噴出す力を吐き出したい欲望にかられ、押さえきれずステージへ解き放つ。人々は、同調しひとつになる。
 荒れ狂う照明。湧き上がる力に地面が揺れる。降り続くどしゃぶりの雨の中、気にする事無く空を煽り、全身で降り止むことのない、激しく刻み続けるリズムを感じているような気分だった。


「えっ?聞こえない」

 自分の声すら、張り上げなければ聞こえない中、優希の口元だけが動いている。優希の口元に耳を寄せる。

「トイレっ!!行って来る!!」

 何度目かでようやく聞き取れ、こんなときトイレに行きたくなるなんて気の毒だと優希の肩を叩いた。座席に置かれた空のペットボトル。私は一口も飲まないうちに空けられていた。自業自得というやつだろう。優希は、飛び跳ねる観客の間をぬって通路へ向かっていく。視線をステージへ戻し鳴り響く大音響に夢中になる。

 ボーカルが、一休みにドリンクを飲みMCに入ったとき、優希が戻っていないことに気づく。

「優希、遅いなあ」

 となりにいたキックは、今まで優希がトイレに行った事すら気づかずにいた。私は、携帯を取り出し、優希の番号を押す。耳鳴りが酷く、ベルの音がうまく聞き取れず、耳に押し付ける。となりの空席に、優希のバックが置かれている事に気づき、そのかばんの中で青い光が漏れている。携帯を切り、カバンの中を覗くと優希の携帯が、まだ明滅を繰り返していた。

「ちょっと、見てくる、迷子かも」

 迷子になったとは考えもしなかった。けれど、こんな言葉が、咄嗟に出てしまったのは、湧き出る不安を掻き消したかったからだ。ステージの照明が、会場を浮かびあがらせるほど、明るく光、ボーカルの叫びと共に、ドラムが轟き、ギターが響き渡る。ステージに振り向いたキックの肩を、引き戻し顔を近づける。

「荷物っ!!見てて!!」

 キックは、大きく頷く。私は、後半が始まり一気に沸騰し始めた人々に煙たがられながら通路に出る。そして、駆け出していた。

 連なるトイレには、数人の出入りしかなくそこに優希がいるとは思えない。けれど、赤マークが出ているトイレの前で優希の名を呼ぶ。すべてのトイレから、返事はない。辺りを見回す、ステージから一番離れた後ろの席は、指定席ではなくフリーで座れるようになっている。時々、放たれる強い光が、届くたびに観客の顔を確認する。優希の服装は、どんなものだっただろうか。うまく思い出せない。どんな色だったか。トイレに行くと告げたとき、どんな表情をしていただろうか。何度考えても、頭の中が混乱するばかりで、一致せず焦るばかり。とにかく、立ち止まっては見渡し、また、走り出すの繰り返し。

 観客席からさらに奥、多くのコンテナや機材が置かれた場所。光はほとんど届かず、闇に包まれた場所。ステージで一番強い光が出ない限り、浮かび上がらない場所。そこに、不自然なシルエットが薄っすらと浮かんでいた。ギターソロ。髪を振り乱し、一心不乱にかき鳴らしている。ドラムが加わり、腹の底が、ドクドクと持ち上がる。心臓の鼓動は、それに負けないほど、激しく打ち鳴る。
 シルエットに、一歩も近づく事ができない。足が釘で打たれたように動かない。爆発する大音響。地面が揺れる。ステージに備えられた筒の中から、照明に届きそうなほどの花火が吹き上がる。会場が白く光、浮かび上がる。目の前にあるシルエットから、影が伸びる。そして、フラッシュが焚かれたように、明確に浮かび上がらせた。
 一瞬であったけれど、目の前にある事を理解する。歓喜が巻き上がり、会場が震える。込上げる思いをかみ殺す。

 地面にへたり込み、体が震え、何度もしゃくりあげ、肩が上がり、両手で押さえつける涙は、ぼたぼたと流れ落ち続ける。咽返り、口を開けたまま、引き攣り声を漏らす優希。
 全身の力が抜けそうになり、立っていることが苦痛だった。すぐ横で、人の気配を感じ振りむくとキックが立ち尽くしている。照明が届き、キックの横顔を照らしたとき、その頬を伝うものが見えた。汗なのか、涙なのかはわからない。キックの足が、踏み出したとき、その腕を掴む。

「荷物、荷物を持ってきて」

 キックは、厳しい顔を貼り付けたまま、言われるままに席へと駆け出す。

 曲が終わり落とされた照明。誰もが息を切らしているだろう。耳鳴りが、体に残した余韻ともに響き続ける。吹き抜ける夏の夜の風が会場を冷やしていく。風向きが、変わったのか、汗臭い匂いが鼻を掠める。息遣いが整ったのを、計っていたかのように、先ほどと違う、物静かな淡く青い照明が、ステージへ落ちる。
 ステージ中央に置かれたマイクスタンドの前に、ボーカルが立ち、俯き音を待つ。アコギの弦を弾く音が、流れだす。聞き覚えのあるメロディライン。やさしく話しかけるように歌うボーカル。会場が、それに答えるように小さな歓声を上げる。サビへと近づくたびに、やさしさに力強さが加わる。サビに入るとき、すべての音が重なり合う。切ないけど、温かくて、力強くて、たとえば、何か嫌な事があったら、ちょっとだけパワーをくれそうな曲。この場に及んで鳥肌が全身に走り、心が震えていた。あの日、キックの家のとなりの空き地で洗車した日、ラジオから流れてきた新曲だった。

 こんなとき、ドラマなら抱きしめて一緒に泣いてあげたりするのかもしれない。こんな風に泣き崩れる優希の姿を、見たのは初めてだったけれど、優希は、今までも、一人で泣き続けてきたに違いない。今だけではないだろう。彼氏でも、家族でもない私が、抱きしめて、共に泣いたところで、なんの役にもたたないに違いない。

 今、この場所は、優希にとって苦しくて息が詰まる場所に過ぎないだろう。
 一歩ずつ、優希の元へ近づいていく。

「帰ろう」

 優希の隣に、しゃがみ込む。嗚咽は、止まらず、両手は、ガタガタと震え、立ち上がる事も困難なのではないかと心配するほど、危なっかしくて、脆くて、温かさが感じ取れなかった。触れれば、溶けてなくなってしまうのではないだろうかとさえ思った。

 いつも晴れていた空。見上げていた空は、いつもきれいなブルーだった。けれど、本当は、その周りは、どこまでも薄暗い雲に覆われていて、いつも見上げていた青空は、偶々雲が割れて、偶然ぽっかり穴が開き、そこから青空を覗せていただけだったのだ。そんな事には気づこうともせず、天気予報でいえば、晴れなんていえるものでない、曇りや雨だったにも関わらず、見上げた空を信じ続け、そのたびにこんな風に思って、安心を手にしていたのだ。

 今日も晴れだ、良かった。



thank you
つづく・・・

八月の出来事 1

2005年03月23日 | FILM 七八九月
折れたワイパー【八の一】→→→  目が眩むような暑さが連日続き、寝苦しさに耐えかね、クーラーを付けっぱなしで寝てしまう日が多く、朝起きると、異常に体が重く、悪循環を繰り返す。
 食欲は落ち、あっという間に溶けてしまうソフトクリームを避け、カキ氷を食べる事が増えていた。これでは、何のパワーにも変わらず、気休めにでも、クリームカキ氷を注文したりする。
 天気予報は、見るまでもなく連日、高気圧に覆われ晴れマークばかり。天気予報というよりも、気温予報へ変わっていた。雨雲はいったいどこへ消えてしまったのだろうか。

 信号待ち。連なる商店の軒先に、青と赤のカキ氷の旗がゆらゆらと誘っている。息苦しくなり、息を吐き出すとなぜか、ガラスが曇る。外気より車内が暑いということだろうか。背中とシートが、じわりと湿る。恨めしく見ていた旗から、冷風口に目を移す。

「あっちい!!なにっ!!クーラー壊れてるの?」

 助手席と運転席のシートに手をかけ、前のめりに体を起こす。冷風口からは、たしかに風が出ているが、それは、外気と変わらないむっとしたものしか出ていない。溜まらず、声を裏返しながら叫ぶ。

「クーラーつけたら、車のパワーが落ちるから消しているんだよ、停まるよりマシでしょ」
「どれだけ、パワーが必要なのさ、もう、サウナじゃないんだから」
「慣れれば大丈夫、夏なんだから暑いのは当たり前だよ。夏の野外ライブが、凍えるような寒さだったら悲しいでしょ?」

 慣れるではなく、諦めるという事のような気がする。なぜか比べられる野外ライブには納得出来ないが、今、向かっている野外ライブが凍えるほど寒かったなら、間違いなく、暑くなれと天に、跪いているだろう。けれど、クーラーがあるなら、やはり付けてほしいし、もちろん車が停まってしまうのは困るので、半分ずつというのはどうだろう。質問に答えず、うな垂れる。

「仕方ない窓をあけるか」

 優希が、助手席の窓をあけ、キックもつられる。暑苦しい風が流れ込んだ。風の音で、会話は所々吹き飛ばされる。私は、ぶつぶつと文句を並べていたが、二人には、聞こえていないらしい。優希が、髪を靡かせ左手で押さえながら、振り向く。

「まあ、夏なんだし」

 宥められる私であるが、いつから、優希は、夏が好きになったのだろうか。たしか、優希が好む季節は、夏の前の春でなかったか。ちなみに、キックは、もちろん夏好きである。すれ違う車は、すべてと言ってよいほど、窓は閉められ整った髪形で涼しげな表情をし、中には、明らかにファーストフードで買ったホットコーヒー片手にハンドルを握っている輩もいる。これには、腹が立つ。それを持つ手が、膝の上に溢すことをそっと祈る。この車だけが、エンジンや風や声を張り上げ進んでいる。おんぼろゴルフは、エアコン効果なのか、どんどんスピードを上げていく。


 遠くに見えていた積乱雲が、進むほど近づいていることに気づく。激しい上昇気流があるのか、白く霞んだ青空は、グレーの低い雲に覆われ始める。フロントガラスに、ポツポツと雨粒が弾け、次第に間隔は短くなり粒も大きく激しさを増す。雲が光、稲妻が走り、数秒遅れて空気が振動し音を上げる。
 ほぼ、密閉された車内は、唸るような暑さになっていた。

「通り雨だよね」

 激しさを増す雨は、誰が見てもそう思えた。二人は、頷き汗を流している。ゆっくりだったワイパーが、動きを早めた。どうせなら、車を冷やすほど、降れと心の中で毒つく。

「ねぇワイパー吹き飛ばない?」

 口数少なく、ワイパーを見つめていた優希。

「はあ!!雨に負けるわけがないだろ!!」

 逆鱗に触れてしまった感のある優希は、気にすることなくワイバーに釘付けである。
 キックは、いつも以上に無口になり車内は雨音と、ワイパーの擦れる音だけが聞こえる。自然と、早い動きをしているワイパーに目を向ける。よく見ると、大粒の雨に押され気味のように見える。そして、しなってはいけない方向へしなっている。
 ワイパーの話が続けられることはなかったけれど、三人の頭にはまだ残っていただろう。なぜなら、優希はもちろんのこと私ですらそれからずっとワイパーに釘付けであったしキックも心なしか気にしているように見えた。激しさを増し続ける雨。アスファルトは川のようになり、路肩の排水溝へ波になり流れ込む。反対車線を通る車が上げる飛沫が、フロントガラスに覆い被さる。あまりの、豪雨に、背筋に冷たい汗がスルッと流れ落ちた。

 そして事故は起こった。

 前を走る車は、速度が遅く、見る見るうちに近づいてくる、荷台に書かれた工務店の文字。その上はブルーシートで山積みになった何かを覆っていて、雨風に煽られバタバタと端が捲り上がっている。荷台に弾かれた大粒の雨が風圧に飛ばされゴルフのフロントガラス目掛け次々に飛んでくる。只でさえ雨量が多いにも関わらず、それが増え分、ワイパーは一定のスピードを保つことが出来ずに、電池の切れそうな時計の針のように不自然な動きと音をあげ始める。不安が益々膨らんだとき、運良くトンネルへ入り、ワイパーは軽快な動きを取り戻す。弾き飛ぶ雨。それもつかの間、トンネルを抜けると事態は再び悪化する。突然の横風がトラックを煽り横にぶれ山積みの荷物が横ズレを起こす。包んでいたブルーシートの中へ空気が入り込み膨れあがるとそこから、何かが飛び出した。

「あっ」

 優希が声を漏らす。キックの肩が少し上がる。私は、両シートの肩を握る。物体は、ゴムで引き寄せられたかのように、フロントガラス目指してやって来る。咄嗟に目を瞑る。
 優希の悲鳴、フロントガラスにびちゃりと何かがぶち当たる。恐る恐る目を開けると、フロントガラス中央に開いた雑誌がまるでコピーでも取る様にぴたりと張り付いていた。
 熱愛発覚。五十二歳差。妻子持ちの俳優と、お笑い新人タレントの交際を報じている。走り続けるフロントガラスにて。スクープとも書かれている。
 二本のワイパーは、雑誌を挟みながら、仕事をしようと努力はしていたものの、不吉な音をさせ弓のようにしなっている。
 キックの気が気でない寂しい声がひっそりと漏れ、その心配は、現実のものへと変わり、スクープを振り払おうとしたワイパーは、ボキッと折れ、吹き飛んだ。根元だけが残ったワイパーは、今までで一番軽快に動き続ける。
 キックが、路上駐車出来るスペースを見つけ、車を滑り込ませたときには、雨は、小雨になり遠く東の空から青空が現れ初めていた。
 ゴルフを停め、点滅するハザードランプ。ようやくワイパーを止め、フロントガラスに張り付いた、マンションの前で、ふいを突かれた俳優の表情と、真正面にレンズを見据えたタレントの写真が、滲みながらずるりと滑り落ちた。

 キックは、外へ出て雑誌に手を伸ばしひょいと取り、車内の優希に放り投げ、ふやけた雑誌は優希の手に受けとめられ、足元へ落ちた。キックは、ドアに手を添えながら後ろを振り向く。ワイパーの破片を探しているのかもしれない。けれど、見つかるはずもなく、舌打ちをし、車に乗り込み、シートベルトを締めた。一言も話さず、真っ直ぐ進行方向を見据え、ハンドルを握る。

「雨、治まってきたね」

 控えめに声を上げてみたが、髪が濡れたキックの反応はなく、優希の方へ視線を送る。優希は、窓の外を眺めているように見えたが、サイドミラーに移る横顔は、口元が緩み、間違いなく笑いを堪えている。私は、助手席のシートの裏を足で蹴った。
 しばらくすると、雨はあがり、雲が取り残され、その上には青空が広がった。再び、窓をあける。
 雨上がりの冷えた空気は、雨の匂いを十分含み薄ら笑いを浮かべてしまうほど、心地よかった。太陽は刻々と傾き始めている。


 夕立の後、色濃い西日が、すべてのものをオレンジ色に染め尽くし、その光は眩しく、夕立の僅かに残った雫をキラキラと輝かせている。
 人の波。同じ目的を持った人たちが、見渡せないほど広い駐車場脇の会場へまっすぐと伸びるアスファルトの歩道を進む。アスファルトは、雨になど濡れなかったのではと思うほど乾き熱を放っている。Tシャツ姿で、タオルを首から下げ、人の行くまま進んでいる男や、はしゃぎ、声を張り上げ会話する女達、背広姿で、おしゃれをした彼女と共に歩く彼氏。それぞれが、会場へと向かっていく。駐車場を跨ぎ、橋が架かりそこへ差し掛かる。

「わあ」

 優希の感嘆する声。優希自身、声を上げたことに気づいていないだろう。橋の上は西の空が一望でき、その景色を前に、自然と人の波に弾かれ橋の欄干へ追いやられる。

「綺麗」

 キックは、答えぬまま西の空を正面にまっすぐ見つめ、優希は、欄干を両手で握り寄りかかるように頷き、私は、進んでいた足元を残したまま、上体だけ捻り顔を向けている。
 目の前に広がっていたのは、オレンジ色の空に忘れ去れた千切れ雲が光り、太陽は、山肌の輪郭を浮かび上がらせている。眩しいほどの強すぎる光、けれど、それは、昼間のような容赦ない光ではなく、胸の奥にこの色を焼き付けるようなものだった。
 三人の後ろを、どれだけの人たちが通り過ぎていっただろうか。その人たちは、三人が立ち止まっていたことを気づいただろうか。私達は、飛行機雲もない、虹も掛かっていない、絶景でもない空をなぜか眺めていた。いや、このオレンジ色があまりにも綺麗で、骨抜きにされていたのかもしれない。もしくは、昔のカメラのように焼付ける時間が必要だったのか。


thank you
つづく・・・

七月の出来事 2

2005年03月19日 | FILM 七八九月
青空の下で【七の二】→→→  壁一つ隔てた向こう側は、間違いなくキックの店舗兼自宅であるが、塀をわざわざ乗り越えこちら側に来る人間が不思議に思えてならなかった。優希は、エンジンを切り、外の暑さを忘れたように躊躇いなく車から降りる。ドアは開かれたままで、車内は、あっという夏の空気に入れ替えられる。

「何しているの?」

 優希の呆れた声。キックは、返答することもなく、ブロックの上で屈み、後ろ向きになり両足を投げ出し、注意深く降りる。暴れるホースの後ろに回りこみ取り押さえ握る。水圧で砂煙を上げる地面は、水分を吸い色を濃くし、茶色い水溜りができていく。

「車を、洗おうと思って」

 麦藁帽子のつばで、上半分の顔は影が出来ていている。今の時代、この年齢で麦藁帽子を受け狙いではなく、おそらく利便性を重視して被っている女はいるだろうか。いや、ビジュアルを重視してかもしれない。なぜなら、この姿、絵描きセットを背中に背負っていたら、間違いなく山下清である。実は、ファンなのかもしれない。考えるうちに、額を伝い汗が流れていることに気づき、溜まらず外へ出たが、暑さは変わらない。
 ピチャピチャと茶色い飛沫を飛ばしていたホースの水は、キックの指揮により、おんぼろゴルフに向けられる。ボンネットは、音を上げ水水しく潤っていく。埃交じりの水の匂いが辺りに立ち込める。
 体は、車を羨ましく思うほど、熱く汗が流れ落ちていた。無理もない、天辺にいた太陽が僅か角度を変えただけでは、涼しくなるはずもなく、気温は、急上昇しているに違いない。そんな中、キックはこんな空の下で洗車をしようとし、そして、偶然、居合わせた私達は、車へ戻るわけもなく、この洗車に付き合うことになった。
 通りのアスファルトは、水溜りのような蜃気楼を作り出している。塀の上が好きな野良猫すら木陰に隠れているだろう。こんな時間にいったい何をしようとしているのか。洗車。そんなことは百も承知、けれど、飛んだ巻き添いである。

 のっぺりと水が纏わりつく車体は、ホースを下ろすと目に判るほど急速に乾いていく。麦わら姿のキックは、ホースの先を押し潰す。放物線を描く事無く真っ直ぐと水が飛び出す。車体がバチバチと音を上げる。勢いよく弾ける飛沫が、随分と周りの空気をひんやりとさせているように思える。時々、肌に触れる飛沫交じりの冷えた空気が気持ちよさを伝える。
 暑さで口数少なく動向を見守っていたが、ぽつぽつと言葉が交わされる。

「その麦藁帽子どうしたの?」

 バケツに水を張りスポンジを沈めたり、浮かしたり意味のない作業をしながら問いかける。突然、麦藁帽子で現れたときは、どう声をかけてよいのか判らなかったけれど、目が慣れてくると、以外に似合っていることに気づく。

「あげないよ」

 笑いひとつ浮かべないキック、冗談ではないだろう。ホースを下ろし、優希に手渡す。空き地の端に落ちている汚れたビールケースを持ち逆さにし塀の前に置くと、それに上がりブロックに手をつき上体を浮かし、塀を越えた。向こう側に脚立でもあるのか、がしゃりと踏んだ音が聞こえる。

「ほしくないよねえ」

 小声で言いながら優希を見ると、大げさに三回頷く。

「いつ被るのか迷う」

 優希の疑問を、いくつか想像する。買い物のついでに被る優希、出勤途中に被る優希、旅先で被る優希、どれもこれも、噴出し笑い予備軍である。優希の持っていたホースは、見る見るうちに勢いを失い、ホースはうな垂れて、ちょろちょろとしか出なくなると、キックがスポンジを手にして塀から現れ、上るときは、勢いがあるのに、降りるとき、必要以上に慎重のようだ。
 三人は、追加されたスポンジとブラシに液体石鹸をつけ洗い始める。汗は、滝のように流れ落ちていたけれど、それほど不快感はなくスポーツをしているような感覚になっていた。ただ、運転席側面の窪みを洗っているときは、少しだけ居た堪れなくなり、スポンジに力が入った。キュッキュッと音を上げた。

「あああ、あちい、ホントむかつく!!」

 キックの不満混じりの怒り声。返し方を考える程、機嫌の悪い声音。それは、耳に届いた者の心も落ち込まさせる音。暑さに八つ当たりしているのではないかとふと考える。
 浅いため息。呼吸かもしれない。キックだろうか。優希だろうか。不安が膨れる。
 立ち上がり、言葉を返す事無く、泡まみれになったゴルフを見る。キックは、ブラシでタイヤのホイルを擦っている。優希は、後ろに回りこみ屈み足元しか見えない。聞こえるのは、車体を磨く音だけ。

「部屋にクーラーついているんだから、そこで寛いでいればよかったんだよ」

 向かい側へ声をかける。キックは、ブラシを持ち立ち上がり首を振る。

「壊れてるの!!扇風機もないしさあ」

 始めの語尾は、強いままだった。けれど、ふと気づいたのかもしれない、扇風機からは言葉が柔らかくなっていた。

「麦藁帽子被って、外で体動かしていたほうが、健康的だって」

 キックへ、笑いかけると、キックの目じりが下がった。


 ゴルフは、泡に包まれ、塀の前に置かれたビールケースの一番近くにいた私は、すばやく近寄る。

「水、出してくるね」

 張り切った声。立ち尽くす二人を背に、逆さのケースに上がり、ざらついたブロックに両手をつき、勢いをつけ登る。塀の先には、やはり一メートルほどの脚立が置かれている。ブロック塀を跨ぎ脚立に足を伸ばす、なぜか少し遠い。これは、足の長さの問題なのだろうか。体を出来るだけ伸ばし、方向がずれたのか、脚立の片方の足が浮き上がり倒れそうになる。すぐに気づき足の向きをかえ、なんとか、添える事ができ、ゆっくりと重心を移動させていく。半分以上体重の移動を済ませたとき、ぐにゃりという感触を足の裏から感じた。芝生の上に立っているのでその感触だろうと気にすることなく、庭に下りた。ホースが取り付けてある水道へ向かう。
 オレンジ色の網に石鹸が入り吊るされていた。最近ではあまり見かけない光景。水道を捻る。半分程回したが、さほどホースに勢いがなくもう少しだけ捻る。けれど、出ている雰囲気が感じられない。水圧が弱いのだろうか。結局、回らなくなるまで捻り脚立へ向かう。
 脚立を上り、少し離れたブロック塀に手を伸ばし、顔を出したとき、優希がホースを持っているのが見えた。先ほどと変わらない水量しか出ていないと、優希は顔をあげホースを振って見せ首を傾げて、ジャスチャーしている。キックも優希に近寄る。私は、すでにブロック塀への体重移動は始まっていて、ちょうど脚立を蹴った瞬間だった。ホースの中からぶしゅっと音があがり、上に向けられていたホースの口から、全力の水圧で水が噴出した。届くはずのない空へ向かう。もちろん、頂点までいけば、すべて落下してくる。土砂降りの雨、豪雨、半径二メートル以内でそれに匹敵するほどの水が落ちてきた。悲鳴が上がる。

「虹!!」

 声を上げる、二人には、聞こえない。キラキラと光る水の中に、七色の虹が浮かび上がった。ホースが地面に向けられると一瞬で消えてしまった虹。目撃者は、私一人。あんなに小さな綺麗な虹を、目撃出来なかった二人が気の毒だ。
 水溜りの中にいる二人は、雫を落としながら今月もずぶ濡れになっている。笑おうとしたとき、優希がきつく睨みつけている事に気づく。眉間は、戻ったとき、跡がつくのではないかと心配になるほど溝が刻まれ、眉毛は八の字。私は、ブッロク塀にしがみ付きながら、ケースの上に立ち振り向く。キックが、優希からホースを取り、その手は、ゆっくりと上げられ、狙いを定める。一歩下がってみたけれど、数センチしか下がれず、ぺたりと塀に張り付くだけ。悪者に撃たれる可哀想な人のようだ。勢いよく噴出す水は、キックがホースの先を潰すことにより、秒速を上げたに違いない。数十センチ横のブロック塀を抉る勢いでぶち当たり飛沫を撒き散らす。思わず、両手で頭を抱えた。
 直撃。顔を顰めるほど、勢いがあり、冷たさを感じたときには、肌にべたりとついた服を伝い水が流れて落ちていく、体をくねらせ、くの字になる。そして、水圧は、壁へとずれていく。

「うわっ、恥ずかしいっ!!」

 キックが、100パーセント悪戯声をだす。添加物なし。薄々冷たさ加減で、気づいてはいたけれど、自分の目で確認してみる。上半身は、飛沫程度の濡れで済んでいたが、下半身は、股から下がずぶ濡れ。まるで小さい子がお漏らしをしてしまったようだった。確信的な犯行である。
なんて、幼稚なんだろうと心の中で幾度も念仏でも唱えるように嘆く。優希は、数秒呆気に取られていたが、このばかばかしさに気づいたらしく、自ら水飛沫を飛ばしながら爆笑の中へ落ちていった。突然恥ずかしくなった私はさらに、体をくの字にまげ、小さい子がトイレに行きたい時にする足を組むポーズを思わず取ってしまった。そして、心に、メラメラと怒りの炎があがり、ホース奪還作戦にでるべく、逆さのビールケースから飛び降りた。

「きゃああああ」

 優希の驚きと涙交じりの叫び。自分の車を見つめ声を上げる。ホースの取合いを休戦し、優希の車へと視線を移す。車は、キリンのような泥のまだら模様がつき、世の中にこれほど汚い車は、早々お目にかかれないほど、泥の塊になっていた。
 
 積もった泥と、水の跡は、太陽に照らされ続け、水分は蒸発し干からびてしまっている。
 何気にゴルフへ振り向いてみると、ゴルフも同様だった。泡は、押し花のようにべたりと張り付き、跳ね上がった泥は、洗車する前の車よりも酷く汚れている始末。結局、馬鹿な行動を反省し、心を入れ替え、一からやり直すことになった。

 タオルで乾拭きを、せっせとこなす頃には、あれ程高かった太陽は 私たちをあざ笑うかのように急速にオレンジ色の空へ落ち始めていた。

 人は時々気持ちを伝染させる。
 キックのイライラは、暑さのせいでないのは、予想がついた。こんな暑さの中、どうして洗車などしたのか、いや、この暑さだからしたのかもしれない。ならば、キック自身のもやもやがそうさせたのか?それとも、私の心の片巣に暗く閉ざされた部分がいつのまにか顔をだしていたのだろうか?もしくは、私が気づこうとしなかった、優希の何かがああいった形で伝染したのか。

 ただ、ひとつだけ明らかなのは、私は、あの花火の夜から、何かに気づきながらも見過ごしてしまっていた。
 キックは今、何を感じているのだろう。優希の事を二人で話すことはなく、たぶんこれからもないだろう。

 目眩。ぐらりと地面が柔らかくなり膝を落とす。突然、力が入らなくなる。駆け寄る二人。そこに響いたのは、馬鹿でかい空腹を知らせる音だった。考えてみたら、朝から何も口にしていない。暑さを忘れ、空腹も忘れ、これでは、プールで騒ぐ小学生と変わらないではないか。情けない。いや、子供の特権の乱用などではなく、集中力がそうさせ、うっかり忘れていただけに決まっている。

「お腹と背中がくっ付きそうだ・・・」

 張りを失った声を絞り出すと、二人は、そんなわけないと、見れるものならみてみたいとも言いながら、笑い続ける。今にも、崩れ落ちそうな心の骨組みを、いくつもの笑いが支えていた。不甲斐なく笑いを漏らす私の声も、腹を抱えて笑う優希も、麦藁帽子焼けで顔半分が赤いキックも、ゲタゲタと笑い、それは、私の心同様、二人の不安も打ち砕こうとしているのかもしれない。

 綺麗になった優希の車、帰り道、二人であの麦わら帽子は、自ら買ったものなのか確認し忘れてしまった事に気づき、しばらく討論を続け、そのとき、ラジオから流れたニュースは、今年初めて真夏日を記録した事だった。



thank you
おわり・・・

七月の出来事 1

2005年03月16日 | FILM 七八九月
青空の下で【七の一】→→→  色とりどり咲き誇っていたアジサイが、すっかり元気を失い、醜い色へ変わりうな垂れ始めた頃、降り続いていた梅雨は通り抜け、じめついた空気は、急激に湿度を落としていき、夏の準備が整いつつあった。
 真っ青な空に、積乱雲が現れる日もあり、脱皮したセミは、きっちりと鳴くという仕事をこなし始める。水の張られた田んぼには、緑色の絨毯が風に揺れている。
 そんな夏が始まる休日。前夜の夜更かしもあって、町が鳴らす昼のチャイムが、目覚まし時計になった。目が覚めたとき、首筋や胸元は汗で濡れ、じっとりシャツが纏わりついている。
 張り付く前髪を掻きあげながら、起き上がる。カーテンを引き窓を開ける。雲ひとつない空に、太陽が、ギラギラと照らしている。そのまま、立ち上がり洗面所へ向かう。
 鏡の映る自分の姿は、ズボンのゴムは、不自然に捻れ斜めになり、Tシャツは胸の辺りにSKIPとデカデカと書かれ、鏡の中で反転した文字は、読めたもんじゃない。Tシャツが濡れないように、ズボンの中へ裾を入れる。蛇口を捻り流れ出る水を掬う。温まった体には、ひんやりとした感覚が気持ちよい。顔を適当に洗い、ブラシの毛が不自然に四方八方に飛び出していたが、そこへ、歯磨き粉のチューブをとり、三ミリの板ほどしかないチューブを底からクルクルと丸め何とか搾り出し、ちょろっと押し出された歯磨き粉を毛並みが揃っていないブラシに載せる。歯を磨きながら、跳ね上がる髪をブラシで直す。

 髪を整え、そのまま台所へ向かう。お腹が空いている事を、突然自覚するような匂いが漂っている。ガスコンロの上に、親子丼につかう専用の鍋が置かれたままになっている。母が、昼兼用で作っていたのだろうと、期待を抱き茶の間に向かう。
 ドアのノブを捻り、開く隙間から案の定、部屋は親子丼の匂いが立ち込めている。
 はやる気持ちで、部屋へ入ると、親子丼は二つテーブルの上に置かれていて、母は、すでに半分程食べている。どんぶりから顔をあげ、もう昼よと、弾んだ声で言い、再びどんぶりへと視線を戻す。もう一つの、親子丼も、地層の断面図のようにすっぱりと、半分消えている。消えた半分を収めた人物は、箸を止め、おはようと言った。
 再び、箸を進め残された地層の黄色い表面にぐさりと入れ、割れた黄色い卵と玉ねぎと鶏肉がご飯と共に掬われ、口へと運ばれようとすると、白い湯気が、どんぶりから昇った。その光景に、唾を飲み込み、もうひとつどんぶりがないだろうかと、狭いテーブルの上を探す。恐る恐る母に聞く。返事は、信じられない言い訳が返る。

「あんた、起きてこないし、冷めちゃうから」

 この不条理な言葉はなんだろうと目の前が暗くなる。空腹で目眩がしたのか、優希に親子丼を食べられてしまったというショックからか、腰が抜けたように膝を落とした。

「自分で作ってこようかな」

 怒りたい気持ちを、ぐっと抑え前向きに考える。けれど、そんな前向きな言葉も、一網打尽に粉々に吹き飛ぶ。母から発せられた弾丸は、ご飯、もうないよだった。それは、朝、いってらっしゃいと見送ってくれるときのように、あっさりとしていた。スイッチの入った腹の虫は、鈴虫のように鳴り続けている。

「とりあえず、着替えてきたら」

 米粒一つ残さず、箸を置いた優希は、肩を落とす私に満足顔で投げかけ、立ち上がり着替えに向かおうと、部屋を出ようとした私を呼び止めた。

「シャツを、ズボンに入れるのはいいけど、ゴムの位置上過ぎない?足、七分になってるじゃん」

 母と優希は、気が合うようで声を上げ笑い始める。


 よれたTシャツを脱ぎ、外へ出ても恥ずかしくないTシャツを潜る。馬鹿にされたズボンを脱ぎ、ベットの上に放り、ハンガーに掛けられている7分丈のジーンズを履こうと、左足を上げたとき、ドアが開き優希が入ってきた。不満げな顔を現し、ノックぐらいしろと注意しようとすると、それを察したのか優希は部屋に入ってから壁をコブシで二回叩いた。言葉を飲み込み、ジーンズを上げ、ボタンを締める。

「のりは、いつでも食べれるんだから、別にいいじゃん」

 優希は、ベットの上の放りなげたパジャマを跳ね除け、腰を下ろす。まあねと返したが、これから先何度親子丼を食べようが、今、どんぶりを持ち空腹の胃の中に詰め込みたかった。
 コツっと、窓枠の横の壁から音が聞こえると、突然目覚ましよりも何倍もけたたましい油蝉の鳴き声が響きだす。あまりの音量に空腹を知らせるアラームも掻き消される。
 ベットに座る優希は、背後にある窓へ振り返り、そっと窓から壁の方を覗く。
 もう少し綺麗な音で鳴いてくれさえすれば、気持ちも安らぐものだろうけれど、この油蝉は、どのセミよりも厳つい体つきで、泣き声も濁音が混じりっぱなしのイライラとさせるような耳障りな部類に入っていた。ベットへ上がり優希が覗いている方へ顔を向ける。外壁に止まり、息つく暇もなく、がなりたてている。

「うるさいぞ、セミイチゴウ」

 優希が、ぷっと吹き出し、セミは、私の言葉を理解したのか、ただ居辛くなったのかは定かではないが、プラスチックのような体からセロハンのような羽を広げ、壁を蹴るように飛び立ち、まっすぐ隣の家に外壁に向かい、勢いよく真正面からぶつかり、バウンドし、数メートル降下し、ぱさりと軽い音が響き、突き出しの屋根に落ちた。なんて馬鹿なセミなのだろう。

「自殺?うるさいって言われたから」
「まさかあ、虫だよ虫」

 二人で突き出しの屋根に落ちたセミの動向を静かに伺う。
 始めの音は、詰まり短くジジっと鳴き、その次には、事故に遭う前と同じように本来の鳴き声に戻ると、なぜか、私は、ほっとしていた。たかが、虫。されど、虫。
 横にいる優希の背中を叩き、外に出ようと促す。二人は、立ち上がり部屋を出る。

 玄関から一歩踏み出すと、屋内とは比べものにならないほど、太陽は燦々と光を降り注ぎ、優希の車のボンネットは、触れないほど、熱を放し続けている。熱のせいで、汚れが目立つのか、それとも関係ないのか、とにかく、優希の車は、白くなりこびり附いた泥が無数にあり、雨の跡にも似ている丸い水跡が水玉模様のように模られている。梅雨が明けてから一度も洗車していないに違いない。指でなぞれば文字が書けるドアを開けると車内は、どんよりとした生暖かい空気が立ち込めている。優希は、乗り込む前にキーを回しエンジンをかける。二人で両ドアを開けたまま屋根越しに向き合う。

「車汚いね」

 洗おうと思ったという言い訳を聞き流し車に乗り込んだ。

 空気口から冷風が音を出して吐き出されるとあっという間に、快適な空間へと変わる。

「涼しい・・・」

 気持ちよくシートに体を沈めていると、ラジオから、唯一三人共通に好む、バンドの新曲が流れ始めた。アコースティックのギターの音から始まり、ボーカルがやさしく歌い始める。この曲は、タイアップもなく、発売もまだ先でラジオからしか聞く機会はなく、二人とも曲がフェイドアウトしDJが話し始めるまで一言も発せずにいた。

「いい曲」

 車は、速度をあげ、優希がアクセルを踏み込んだに違いない。黄色から赤へ変わろうとする信号機の下を通り過ぎる。

「きっと、ライブでやるよ」

 夏恒例の野外ライブ。ライブは、来月開かれ、チケットはすでに、キックに郵送されているだろう。この曲を、生で聴けるのかと考えると、想像するだけでゾクゾクする。

 逃げようがなく赤信号に捕まり、優希はブレーキを踏み停車させる。車道沿いの歩道を小学生らしき男の子達が、黄色い水泳帽を被り、海水パンツ姿で、浮き輪を肩にかけ、足元は、スニーカーで歩いて行く。一人の男の子が信号に気づいたらしく、他の子供達に横断歩道が青だと知らせる。それを聞いた他の子供達は、歩道から横断歩道へ斜めに走り込み反対歩道へ駆けていく。点滅し始めた青信号は赤へと変わる。反対車線側の歩道の向こうには、金網越しの市民プールが見える。プールで遊ぶ子供達は、まるで、この暑さが適温なのでないかと勘違いしてしまうほど、気持ち良さそうに、はしゃいでいる。周りで見守る大人は、眉をひそめながら、木陰で肩を落としていた。なにかに、夢中になると暑さも気にならなくなるのだろうか。それとも、子供の特権か。


 県道から逸れ、広くない道を走る。青い屋根の店舗兼住宅の三階建ての家に到着し、その前を徐行し、お隣の放置された土地に車を入れる。整地されず、穴にタイヤが入るたびに車がバウンドする。住宅と空き地との間に背丈程の壁があり、それ沿いにおんぼろゴルフが停められている。キックは、居る模様。車を停めたが、エンジンを切らずにいた。

「呼んでこようか?」

 そう口にしたとき、壁から何か棒のようなものが現れた。口を空けたまま、表情が止まった私に気づいた優希は、私の視線を辿る。
 棒・・・いや、ブラシだ。紫色のブラシが壁を越え空き地に落ちる。青色のバケツが顔を出したかと思えば、また落ち、転がる。壁の向こうで水色のホースの先が見え隠れし、壁の上をするりと越え、だらりと垂れ数秒後には暴れだした。そして、最後に現れたのは、ブロック塀を越えようとしている麦わら帽子に、短パン、タンクトップ、ビーチサンダル姿。
 車のエンジン音に顔をあげ、ブロックの上で仁王立ちし、一方の手を上げる。

「いらっしゃい」

 キック登場である。


thank you
つづく・・・

六月の出来事 4

2005年03月12日 | FILM 四五六月
花火【六の四】→→→ 「さあ。花火するぞ~」

 腕まくりをしたキックは、焚き火に目を留めると、火が弱いよとぼそりと言いながら、積まれた薪を次々に、炎の中に放り込み、すべて入れてしまった。薪の入れすぎで、逆に炎は蓋をされたように弱くなる。キックは、屈み、優希が使っていたパンフレットを取りパタパタと仰ぐ。蓋をされた炎は、隙間をみつけては高く燃え上がり始め、バチバチ音をあげ、メラメラと近くに寄れないほど狂ったように燃え上がる。

 キャンプファイアー並に、辺りを明るくさせる。キックは、木が足らないなと独り言をぼそぼそ呟きながら、灯りの届かない砂浜の方へ歩いていく。

「風の谷のナウシカでも、火は、必要以上に使ってはいかんっているのになあ」

 ふて腐れ気味に、花火のパッケージへ手を伸ばす。優希も、焚き火の暑さに耐えかねて、てんこ盛りの花火の方へやってくる。

「いいじゃん、キャンプファイアーみたいで」

 燃え盛る炎は、辺りを明るくさせると同時に、心までも同じ効果を明らかに上げていた。ナウシカ話を持ち出して、捻くれたのは、なぜ、もっと早くこうしなかったのだろうと後悔したからだ。
 ずるずると何かを引き摺る音が聞こえる。キックが、丸太を引き摺ってくる。

「いいものみつけた、これで、オッケーでしょ」

 電信柱並の丸太。その丸太を、焚き火を踏み潰すように躊躇せず上から落とした。炎は、真っ二つに割れ、火の粉が辺りに撒き散る。私と優希は、悲鳴に近い声をあげる。キックは、笑いながら、丸太をひょいと持ち上げ、丸太の下に石を入れ、傾ける。
 非常に不恰好になってしまった焚き火は、φ(フィー)のような形になった。見様によっては火事にも近いような。けれど、気持ちも、浜辺も明るくなったのは確かで、弁解の余地はどこにもない。私は、花火を袋から出すという地道な作業に没頭する。
 バチバチと音を上げる炎を、聞きながら、熱く燃え上がるキックに、跳ね飛ばされた記憶が、許可もなく勝手に頭の中で浮かび続けていた。



 廊下を歩き、自動販売機の前を通り過ぎ、エレベーターへは向かわず階段へと向かう。人気のない階段を、歩いて降りていたけれど、一階に着く頃には、駆け下りていた。呼吸は、荒くなっていて、体が熱く舞い上がっている。外へ出る自動ドアを目指して廊下をかける。目の前に、白衣が飛び出し、咄嗟に体を捩り避けたけれど、お互いの肩がぶつかり、私は足がもつれ反対側の壁に手を突いた。看護士は、持っていた資料を床に落とし、バインダーからはずれ、散らばった紙を屈んで拾い集めている。

「ゴメンなさい」
 
 何も言わない看護士の背中に、一方的に声をかけ立ち去った。
 自動ドアが、開くとヒンヤリとした空気が頬に触れ、全身を包む。匂いのない新鮮な外気を、肺がパンクするのではないかと思うほど深く吸い込む。体に滲みこんでいくのが判る。入口から、左に病院沿いを歩く。数台停められる駐車場が隣接されている。一番奥に、見慣れた車が停まっていた。自然とその車に足が向かい、どういうわけか、一歩歩くたびに、目の前が霞んでいく。おんぼろゴルフの前に辿りついた時には、整えたはずの呼吸が、苦しくなるほど、全身に力が入っていて、溢れ出そうな堤防を必死で食い止めようとしていた。
 運転席側のドアの前に立ち、右手で色あせたルーフを触る。ポツポツと音が鳴り、ルーフは黒く滲んでいく。小雨が降り始めたのではなく、それは、ダムが決壊し溢れ出した涙だった。飲み込もうとしても、溢れる嗚咽は、辺りに響いたかも知れない。立っている事すらままならず、ゴルフに覆いかぶさるよ
うに体を預ける。自らの泣きじゃくる声に、頭の隅で、恥ずかしいなと思いながらも、止めるすべは見つからない。どうして、こんなに涙が出るのだろうと、考える。この涙はしっかり止まってくれるのだろうかとも考える。
 そんな事を考えていても、吐き気がするほど相変わらず、泣き伏す自分。優希がこんな事になり、悲しいのか、苦しいのか、神様を恨み嘆いているのか、自分自身に憤りを感じているのか、比率は、はっきりしないが、こんな要素が食べ進められた寄せ鍋のように入り乱れていた。けれど、そんな時、頭角を現してくるのは、やはり怒りだろう。立ち上がる為のパワー。込上げる怒りをパワーに変える。漲る力。

「ガツ!!」

 全身に力が入り、振り上げた足は、私をやさしく受け止めてくれていたおんぼろゴルフに突き刺さった。鈍い音と共に、全身をつま先から痛みが駆け上がり、頭のてっぺんの三角のポイントを折り返してつま先へと戻ってくる。顔を顰め、あまりの痛みに片足立ちになる。つま先が折れたのではないかと心配になり、痛みと戦いながら地面につけ動かす。折れていないことを確認し、ヒビが入ったのではないかとまた、心配になる。視界に、おんぼろゴルフのドアが入り、そこに卵が収まりそうな窪みを確認した。ジンジンと熱くなり始めたつま先を、おそるおそる嵌め込む。恐ろしい事に、シンデレラの靴のようにすっぽりとフィットしている。

 舌打ちをし、三歩下がって、見守ってみても、スポンジのように戻る気配もなく、頭は真っ白になり、眺めていた。太陽の光がゴルフへとあたり、その窪みには三日月型の影が出来ている。こんなところに、あるべき影ではないのに、くっきりと作り上げている。

 とりあえず、今日のところは、何かを埋め込んでやり過ごそうと辺りを見渡す。涙のおかげで、未だ辺りはサンドグラスのようにぼやけている。車の助手席側には、アスファルトと芝生の境で花の咲いていない花壇がある。車の前にでて、その花壇の辺りを探す。
 その時、黒い影がイノシシの如く一直線に突き進んでくる。霞んだ目を、手で拭う。拭わなければよかったと数秒後に後悔した。
 スタタタタ・・・と、どこかで百メートル走の計測でもやっているのかと思うほどの軽快かつ力強い走り、けれど、体とは一変し、表情は、血管が切れるのではと心配するほど、目を吊り上げ血走らしたキックが、ものすごいスピードで近づいてくる。
 スピードを緩めないキックに、危険を察知し、後二メートルといったところで、ひょいと横に飛んで避けたつもりだった。
 キックは、巧みなステップで方向転換し、雪崩のように私に覆いかぶさる。
 私は、キックに轢かれた。

 浮いた体は、花壇をゆうに飛び越え、芝生の上に着地し、クルクルと力の行くままに転がる。やがて、ぴたりと止まり、芝生まみな、ちくわのようにうつ伏せで寝そべる。土と青臭い匂いが、鼻につき、芝生は予想以上にちくちくとしている。衝撃で、地球が揺れているのか、自分自身の頭が揺れているのかは定かではないが、とにかく、頭を上げると世界はゆらゆらとしていた。

 肩で息をする仁王立ちのキックが、立ちはだかっている。

「何をしているの!!何を考えてんの!弁償しろ!!」

 ここが、家が所狭しと立ち並ぶ下町だったら、地区全体の人が駆けつけてくるかもしれない。それほどに、息巻いている。

 言われるままに、キックの顔を見上げ、キックは、怒りを収めることなく続け、勢いで一歩体が動いた。
 キックの背後にあったのは、三階の一箇所だけカーテンが風で揺れ出ている部屋。そこから見下ろす優希だった。

 こんなに早く、キックが駆けつけたのは、上から見ていたからだろう。そして、すべて、見られていたに違いない。優希の表情は光の加減で見えない。何か言わなければいけない。こんなにも情けない姿は、これから先、優希が確率の中の一パーセントに入ってしまう事を嘆いているようにしか見えかねないだろう。必死で言葉を探した。

 キックの激憤をBGMに、体を起こし芝生の上に正座する。腿に手を乗せ、肩を使って思いっきり息を吸い込み吐き出し、目を閉じた。

「とりあえず、生きよう」

 目を開け、三階にいる優希へ頼りない声を上げる。優希へこの言葉が届いただろうか、表情は、見えず、となりにいるキックの耳にすら届いていない気がする。

 かつてこの言葉を、こんなに真剣に使ったことなど一度もなく、立派な大人が聞いたらこいつはなんてとんでもない事を口走っているのだと、口をあんぐりあけて呆れ果てるかもしれない、けれど、私には、この言葉の使い道が、正しいのか間違っているのかわからない。それどころか、疑いすら抱かなかった。ただ、死という文字が、ジャガイモのでんぷん文字のように、薄っすらと浮かび上がり、生きるという文字も共に姿を現し始めたのは確かだった。そして、その意味は、辞書程度にしか理解していない。



「どんっ!!」

 優希の右手に握られた、年末にもらうカレンダーとほぼ同じくらいの筒の先から、白い煙が、燃え盛る焚き火の灯りに映し出される。言葉を失い、立ち尽くしている。そのシルエットは、コロシアムで聖火を掲げる選手のようだ。

 三十秒前、花火をしようと言ったキックに賛同し、私は、景気を付けようと一番大きな筒の花火を手にした。それを優希に、アイスでも握らすようにスムーズに差し出すと、優希は何の疑いもなく握る。キックが、焚き火から枝を抜き、筒の導火線へと傾ける。
 ちりちりと煙をあげて、曲がる導火線。

「掲げて、高く掲げて!!」

 私は、耳の穴に指を突っ込み一歩ずつ後退し連呼する。優希は、何かを叫んでいたが耳を塞いでいるので、すべて聞き取れない。ちょうど、正面で同じように後ずさりしているキックの馬鹿でかい声が同じような事を叫んでいる。私達の線上の中心で、アタフタと足をバタつかせ、何かを叫ぶ優希。耳に届いた言葉といえば、オモチ。お餅?いったい何のことだろうと、やや耳に突っ込んだ指を浮かせると、その言葉がなんなのか理解した。

「手持ち?手持ち?」

 縋るような言葉でも、返答はなく導火線は焼き進む。
 筒の先に白く光った瞬間、空気が重く振動した。ドラムの一番低い音と似ている。黒い空を、光が駆け上り、消えた瞬間光の塊が花開く。パチパチと音をたて消えていく。とても、きれいな花火だった。

 白い煙が止まった筒を握り締めたままの優希。キックが、綺麗だったと絶賛しながら優希の元へ近づき、筒を受け取ろうとする。優希の目は突然、現実の世界へと戻り手を伸ばしたキックをきつく睨み、筒を一瞥し、渡すことなく強く握りつぶした。分厚いはずの筒は、ぐにゃりと折れ曲がる。

「書いてあるでしょ。日本語で!!手で持たないようにって!!読めないの?ねえ!!馬鹿!!ホント!!救い様がないバカだ!!」

 鼻息は、荒く、鼓膜が破れるのではと心配になるほど、喚き散らす。連続花火のように、咲いては余韻を残しながら新たに咲く怒声。

 優希は、言葉だけでは物足りず、腕を大きく振り被り、曲がった筒を全身全霊、渾身の力を込め、浜に投げつけた。砂浜にも、所々に石が砂に埋もれている。けれど、それは、さほど多くない。だから、投げつけた筒も、ぐさりと砂浜に食い込むはずだった。ところが、偶然にも、筒の着地地点には、石があり、見事に跳び箱の踏み台の役目を果たしてしまい、筒は、跳ね上がり、弧を描くように宙を舞い、焚き火の上に落ちた。筒はもうゴミ同然であるのだから、そのまま燃え尽きてしまっても危険もなく問題ないはずだ。ところが、これまた偶然にも、筒の落ち方が不味かった。勢いをつけて落ちた筒は、燃え盛る炎を叩きつけ、火の粉を撒き散らす。何もない砂浜なのだから、火の粉が多少飛ぼうがこれといって困った事もないのだけれど、これまた、偶然にも、その無数の火の粉が、てんこ盛りの花火の上にパラパラと降りかかった。

 一番に動いたのは、キックだった。砂浜をけり花火へと駆け寄る。火の粉を振り払おうとしたのかも知れない。
 ところが、キックの足元で緑の光が現れる。キックは気づかない。

「点いてるよお!!足元!!」

 危険を感じ、声を振り絞り叫ぶ。私の声に気づいたキックは、足元へと視線を移し足で踏みつけて消そうとしたとき、その花火からシューっという音が聞こえ光は増す。

「駄目だ!!」

 キックは、言葉を置き去りにし、踵を返し躓き、掌が砂浜につき、無理やり体を起こし駆け出す。一歩も動けない私と優希の元へ、全力で駆け寄り、停まる事無く横を通り抜けていく。

「逃げろ!!」

 その場に残されたのは、キックの言葉と駆け抜けた風だった。無数の光が、蛍のように飛び交う。赤い閃光が、砂浜を滑るように駆け抜ける。怯み一歩後ずさりし、キックの背中を追う。優希の横を通り過ぎるとき、優希の腕を掴み引き寄せる。優希は、うそぉと呟き花火に背中を向け走り始める。

 振り向く余裕などなく走り続ける。後ろでは、尋常ではない無数の花火の音が鳴り響く。来るな、来るなと願わずにはいられなかった。けれど、その願い虚しく、空気を裂く音速が近づき肩を竦めると、あっというまに光線が落ちこしていき、キックの背中に当たり弾け、弾丸に撃たれたかのようにバタリと倒れた。

「いっやああああああ」

 キックの惨劇に、声を上げずにはいられない、キックに当たってしまったことに叫んだのではなく、自分に当たったときの事を想像した叫びだった。
 波際に倒れているキックに駆け寄る。というよりも、これ以上先には進めず立ち止まったというのが正しい。
 優希は、砂をかき集め山を作っている。私も咄嗟に、湿った砂を手に取る。目の前に二十センチほどの高さがある山が出来上がり、波を背にうつ伏せになった。状況は、頭隠して尻隠さずだろう。けれど、防災頭巾程度の役目はあるに違いない。
 三人は、川の字に並び、花火が通りすぎるたびに、小山に隠れる。

「もう、何なのよお、のりがあんな花火持たせるからだよお」

 うろたえ、涙声の優希は、投げ出した足で、ごつごつと私の足を蹴る。

「大丈夫だって」

 何が大丈夫なのか、いや、全然大丈夫な状況でもないような気もするが、八割方気休めではなく、本当に大丈夫だと考えていた。頭をあげ、様子を伺う。黄色い閃光が真っ直ぐと近づく。やばい・・・。
「下げろ、頭!!」
 キックの声。突然、後頭部が何かに打ち付けられ、ずざっと音をあげ、顔が砂に埋もれた。閃光と共に、やってきた音は、頭の上で止まる。顔をあげようか迷ったとき、パンッと響き、耳の奥に痛みを感じる。火薬の匂いが鼻につく。少しだけ顔を上げると、小山の頂上に細い棒が突き刺さっていた。やはり、あまり大丈夫ではないかも知れない。全身に鳥肌が駆け抜けた。
 その時、背後から近づく何かの気配を感じる。優希が、波と一言、嘆く。
 冷気と共にやってきた波に、逃げることも出来ずに飲み込まれる。白波と一体化した私達は、当分の間塩分を控えめにするべきだ。
 幾度となく、波に浸り、ひたすら伏せ待ち続ける、そして、荒れ狂っていた花火の音は消えていた。


 海の匂いを放ち続ける体を、恐る恐る起き上がらせ様子を伺う。燃え盛るのは、焚き火のみで、どこを見渡しても火花は見えない。
 終わりを、確認し、深いため息が吐き出される。
 三人は、やっとの思いで立ち上がり、海水を滴らせながら、足跡を残し焚き火へ向かう。足跡は、すぐに波に飲み込まれていく。焚き火と、波際の丁度真ん中の地点で、燃え尽きた花火の中で、小さな光がチリチリとひっそりと音を上げている事に気づいた。両脇の二人の腕を掴む。足を止めじっと見守る。
光は、閃光へと変わり、ひゅうと音をあげ、空き地側へと進んでいく。力が入りきった体から、息と共に緩み、肩を撫で下ろす。

 空き地に進む閃光は、しばらくして、パンと弾けて終わるはずだと、誰もが思った、いや、そうだと決め付けていたから、考えもしなかったという方が正しいだろう。でも、その閃光は、偶然にも、草を生やした軽トラにぶつかり、僅かな火の粉を撒き、三百六十度の方向転換をし、一直線に戻ってくる。
 緊張が解かれた体は、海水に錆びたように判断が鈍り、眺めている。閃光は、猛スピードでやってくる。手遅れな危機感が、一気に高まり、私は、頭を抱えしゃがみ込もうと体を沈ませるているとき、キックの、ファイティングポーズが流れるように視界に入る。いったい、何と戦おうとしているのか。砂浜に膝をつくと、優希の体が、不自然に後ろへ重心が掛かり、柔道でいうなら受身の姿勢になりつつあり、もしくは、マトリックスと言っても良いだろう。海水に濡れた服のおかげで、動きづらい上に、石にでもすべったのかなと思う。音は、すぐ側まで近づいている。
 音が消えた。うっかり抱えていた頭を上に上げる。目の前が、色とりどりの光が突然開き、送れて空気が低く振動し、バチバチと音をあげ火薬が色をかえ弾ける。花が咲き乱れ、やがて光を失い消える。火薬の匂いと、そのカスと、残像と、耳鳴りが残り、呆然と見上げ、浮かしていた尻が砂浜に沈んだ。寄りによって、最後に降りかかった花火は、打ち上げ花火だった。砂浜に押し寄せる波の音と、相変わらず燃えている焚き火。花火の残像は、随分と長い間、どこへ視線を動かしても映し出されていた。一瞬の光が、目の奥に焼きついていたのかもしれない。

「山盛りの花火、朝までかかると思っていたんだけどなあ、予想もしないよ、こんな様に終わるなんてさ、気づいたら始まっていて、もう、どうしようもなくて、考えている暇すらない、それでも、花火は勝手に進んでいるし、落ち着いたら、すっかり終わってる」

 優希は、打ちつけた腰を摩りながら、上半身を起き上がらせ続けた。

「こんなものなんだろうね」

 キックは、上げていた両腕を下ろし優希の方へ振り向く。私は、尻餅をついたまま、両腕を浜につけ、両足を伸ばし、顔だけ優希に向ける。何が?そんな事は、聞けない。
 キックの表情は、変わらず無表情でただ優希を見下ろいている。けれど、突然踵を返し、スタスタと歩いていく。焚き火の横にある、山になった花火の燃えカスを足で蹴飛ばしていく。何をしているのだろうか。蹴飛ばすのをやめ、その中に手をいれ、戻ってくる。
 キックは、何か手に持っている。それを私達に翳す。ひょろっと細長い紙。

「線香花火?」

 私は、その形が何であるか、疑いながら口にする。長さが不均等で、所々黒く焦げているけれど、束になった線香花火だった。

「スリル満載の花火も楽しいけど、ゆっくり線香花火をするのもよいよ、やろう」

 キックの背中が、焚き火へと近づいていく。

「あはははっ、はははははっ」

 スリル満載その言葉が、今までに降りかかった花火の出来事を頭の中で繰り返させる。思い出し笑いである。突然笑い出した、私に優希もつられ、笑い始めた。

「内容が、濃すぎるよね」

 頬をヒクヒクとさせながら、優希に問いかけると、ホントだよと笑い混じりに言う。一瞬の記憶でも、鏡を写したように、その記憶は、焼きついていた。


 膝を抱え、線香花火の灯りに映される優希の横顔は、真っ直ぐと弾ける花火を見つめ、真っ白な肌が、なんだかとても不安にさせた。チリチリと小さな花が小さくなっていき、赤い玉がジリジリ音をあげ、ポツリと砂の上に落ち黒い塊になる。優希は、落ちる瞬間、小さな声を漏らした。

 心の中で、暗い影が膨らみ始めていた。その事に、気づき始めていたのかも知れない。姿を現すことなくひっそりと隠れている恐怖。それを、見てみない振りをする。あの日、駐車場から三階を見上げ放った言葉は、届いているわけがないと、思い込もうとしていた。


 翌日の夜からまた、梅雨の雨がしとしと降り続けた。しとしとと降る雨は、人の涙と似ている。ならば、誰の涙なのだろう。



thank you
終わり・・・

注意:打ち上げ花火は、しっかりと取扱方法を、読んだ上、広い場所で上げましょう。

六月の出来事 3

2005年03月09日 | FILM 四五六月
花火【六の三】→→→  真っ黒の海と空、針を指したような小さな穴から光が漏れるようにチカチカとする星。冷たい潮風と、繰り返される波の音。民家の明かりが遠くに灯り、その中を偶に通る車のヘッドライトの明かりが、何度か通り過ぎていく。空を見上げても、ぽつぽつと光る星のみで、月はいまだに顔を出さない。
 真っ暗な浜辺の一部分だけが、ぼんやりした灯りのカマクラを作り出している。燃える焚き火の横に、無造作に置かれた薪を、気まぐれに火の中へ放ると、一瞬だけ炎の背丈が延び、燃え尽きた木は、ぽきりと音をあげ崩れる。
 私と優希は、焚き火を囲んで座り、手を翳し、じんわりと熱い炎を感じていた。もし、この焚き火がキャンプファイアーのような轟々と燃え盛る炎なら、興奮し言葉数も多くなるのだろうけれど、目の前にある焚き火は、生憎そこまで、はしゃぐようなものではなかった。どちらかというと、消えないように、気遣いながら、炎を見つめ言葉少なく浸るようなものだった。

「キックどこまで行ったのかな?」

 太めの木が、音をあげ弾ける。私の問いに優希よりも早く返答した薪。

「さあ」

 太めの木が、炎に包まれ赤く染まったとき、ようやく言葉が返る。

「猪突猛進」

 ふと連想したのは、この四字熟語で言葉に漏らす。

「ははは・・・ホントだ」

 優希の瞳の中に映されていた炎が揺れる。

「いっつも、そうだよね、猪突猛進、猪突猛進、猪突猛進・・・」

 私の知る限り、キックは、数え切れない程の猪突猛進の繰り返しだ。現在の浜辺に取り残された状態も、さほど驚く事でもない。日常茶飯事とは、幾分大げさではあるけれど、ほぼそれに近いとは言えるだろう。

「でもさあ、イノシシって、ただ突進しているだけじゃないんだって。まっすぐ突き進んでいても、直前でクイックして相手を交わしてみたりするんだってさ」

 優希は、笑いながらウンチクを披露し、細い枝で炎を突付いている。その度にパチパチと音が上がる。

「クイックって・・・なんだそれ」

 イノシシのクイックが想像出来ず、揺れる炎を眺める。優希が、あまりにも焚き火を突付くものだから、通常以上に炎が上がり燃えつけるのが早く、薪を放り込む。

「それに、鼻もいいんだ。何箇所か掘った穴の中に食べ物を入れておくと、ちゃっかり、食べ物を入れた穴だけを掘って食べるんだよ。しかも、その穴の上に人が持ち上げられない石とかを載せていても、鼻でひょいって退かしちゃうだ、どうやら、考えなしの猪突猛進ではないみたい」

 頷いたものの、優希の手元が気になり、焚き火を突付き続ける優希の持つ細い枝を、私が持つ太い枝で炎の中から退かす。

「なんか無敵だな、欠点とかないわけ?」

 太い枝で優希の細い枝が、再び炎の中に入らないように阻止を続ける。

「実は、気は弱いらしい」

 細い枝の先はいつの間にか炎が灯る。優希は、その炎を目を寄せて見ている。私は、息を吸い込み蝋燭を吹き消すように炎目掛け息を吐いた。ゆらっとした枝の炎はぱちんと消える。
 優希は、眉間に皺を寄せ口を尖らせ、焚き火を今まで以上にグリグリと荒し始め、私は太い枝で参戦する。
 細い枝は、ぽきりと折れ、炎に包まれと戦いは終わりを告げ、枝を失った優希は、小さな舌打ちと共に、再び手を翳す。

「あっ」

 優希が、空き地の方を見ている。私もつられ顔をむける。街を抜けるヘッドライトとは明らかに別の場所を照らすライトの灯りが海側に近づくにつれ大きく膨れる。波の音にまぎれて、砂利が擦れる音が微かに響く。

「帰って来た」

 優希は、視線を釘付けにしたまま頷く。

「走ってくるかな?」

 イノシシの話を思い出し、口にする。
 空き地を照らしていたヘッドライトが消えるのを確認すると、二人は焚き火に視線を戻し、優希は、表情を緩ませてひとつ呼吸を置く、私は自分で問いかけて置きながら溜まらず答えを口にしたくなる、二人の答えは、同時に一字一句間違いなく重なる。

「走ってくる」



「スタタタタタタタ・・・」

 病室の前の廊下から場違いな音が響く。間違いなく看護士が駆けている音ではなく、短距離走で、軽快に走る抜ける音に近い。近づいたかと思えば、迷いなく通り越し、キュッとスニーカーと磨かれた廊下が擦れ合う音が響くと、再び軽快な走りが近づいてくる。
 病室の前でピタリと止まり、迷う事無くドアが開かれ、息を切らしたキックが顔を出す。廊下を全力で駆け抜けたキックの表情をみたとき、強張っていた頬が自然と緩んだ。

 降谷とお祖母さんを見送り、降谷から聞いた病室へ向かい、ドアの横に付けられたプレートを確認しても、すぐにドアを開けることが出来ず、数秒立ち尽くし呼吸を整えてから中へと入った。病室には、二つベットが置かれているが、一つは使われてなく、窓側のベットに優希が、白い枕と掛け布団に挟まれ、自宅で昼寝でもするように気持ち良さそうに、寝息を立てていた。
 ベットのパイプをいつの間にか握り締めていた私は、必要以上に全身に力が入っている事に気づき、深く息を吐き出す。起こさないようにベットから離れ、窓際の壁に沿って置かれる椅子に腰を下ろす。今、優希が起きたら、私は酷い顔で顔を合わす事になってしまうだろう。それだけは避けたかった。優希の目が覚める前に、少しでも平常心を取り戻す必要がある。けれど、何度深呼吸をしても、状況は酷くなるばかりで、暖房の効き過ぎで暑苦しく気持ちが悪くなり吐きそうだった。壁に寄りかかり、目を瞑り、頭の中で飛び交う数字を無理やり弾き飛ばし、思考を切断することに努力した。
 しばらくすると、弾き飛ばしても、すぐに浮かび上がってくる数字を、次々に踏み潰していく軽快で気持ちよい音が入り込んできた。
 キックは、開けたドアの隙間から顔を出し病室を伺っている。私の姿を確認すると、勢いよくドアを開け中へと踏み込む。

「どうしたのっ!!何があったのっ!!」

 あまりにも、気兼ねない声は大きく響き、私は、慌てふためき立ち上がり、人差し指をたて口元に持っていき、歯を見せるほど口を横に開く。
 優希の寝息だけが響いていた病室は、突然慌しくなる。キックは、私のジェスチャーを把握し、小声で同じ問いを繰り返す。小声と言っても、囁くとはいえない音量だった。

「うう・・・」

 優希が、唸りをあげ、布団の中で体を捩り体勢を変えている。キックを連れ出そうと、駆け寄りキックの体を引き摺りだそうと体に触れたときだった。二人の動きは、ぴたりと止まる。
 その時、ラジオ体操第二のメロディーがキックの体から響いた。キックは、慌ててポケットから取り出そうとしたが、手元から落ちた携帯は、床の上でブルブルと振るえる。

「病院だよ、切らなきゃ」

 キックは、うっかり忘れてたでもいう表情をし、携帯を拾い上げようと手を伸ばす。ピタリと携帯は鳴り止む。二人は、妙な体勢のまま肩を撫で下ろす。妙な体勢。確かこんな体勢になるゲームがあった。ルーレットを回して、示された色の上に手や足を乗せ、それを交互に行い倒れたら負けというものだ。キックが、携帯を拾い上げようとしたとき、また、ラジオ体操第二が、私達を嘲笑うように響く。キックは、うなぎを掴み損なうように、また携帯を取り落とし、飛ぶ携帯は、再び床に落ち、私も手を伸ばす、ところが、右足がキックの左足に躓き、前のめりになり、よろけた足が、携帯を蹴飛ばし、携帯はスルスルと床の上を滑り、ベットの下へと入りこむ。

「あああ・・・」

 二人の声が同時に漏れる。覗き込む二人。ベットの上で、干した布団を叩くような激しい音と共に、優希の声が病室を揺らす。

「うるさい!!」

 無理な体勢の上に、二人して顔をあげると、重心はズレ、見事に絡むように崩れ落ちた。ゲームならば、おそらくイーブン。ラジオ体操第二は、まだ、鳴り続けている。

 通りすがりの看護士に注意され、しばらくしてから、ベットの隣に置かれた荷物を収納出きるテーブルの横に、白いハンカチが落ちているのを見つけた。拾い上げた私は、知らない花の刺繍を確認する。

「お祖母ちゃんが、忘れたのかな?」

 キックに笑いかけていた優希の表情が、曇ったように見え、不味い事でも口走ってしまったかもしれないと後悔する。

「会った?」

 優希の表情から笑いは消えている。

「ちょうど、降谷が送っていくときに、入口でばったりね」

 嘘をついても仕方ないので、素直に話す。

「降谷さんでしょ。さ・ん!!」

 優希よりも先にキックが口を挟む。それにしても、妙な所に律儀である。優希は、気にせず続ける。

「話した?」

 言葉短く、探りを入れられているようだ。このときの、話したとは、言葉を交わしたという意味だけはないのは、優希の眼差しから伺える。ここは、惚けた方が良いのか、それとも、すべて聞いた事を告げた方がよいのか、迷い、いつの間にか体は緊張していた。

「聞いたよ」

 優希は、私の言葉にゆっくりとした瞬きを一度し、そっかあ、と残念そうに苦笑いを浮かべる。

「何を?」

 キックが、いつになく真剣な眼差しで言葉を発して、唾をごくりと飲み込むのが判った。
 優希は、ベットの上で座りなおし掛け布団の皺を両手を使って丁寧に伸ばしながら、キックに時々視線を向け、手術が成功した事や、これから起こりうる再発の可能性を説明する。キックは、しきりに携帯のストラップを触り続けている。優希の表情は、明るさこそ、なかったけれど、動揺を見せることもなくスムーズに話し続けていた。その間、私は一度も顔を上げずベットの横のテーブルの棚に置かれた水玉のタオルの水玉を見続けていた。畳まれた水玉の多くは楕円が捩れたようになっている。掌にかいた汗が、気持ち悪い。心臓は痛いほど、跳ね上がっている。

「の・・・飲み物買ってくる」

 の、が喉に詰まって、動揺は隠せず、日本語すらうまく話せない。二人は、そんな私に突っ込む事無く、力ない返事をする。私は、立ち上がり、顔を伏せたまま病室を後にする。見えすぎた嘘を二人は見過ごしてくれた。



 街の薄明かりをバックに空き地に現れた黒い影。間違いなくキックだろう。影は、砂浜へと動き、徒歩とは思えぬスピードで近づいてくる。焚き火の灯りが届き、ぼんやりとビニール袋を抱えたキックが浮かび上がる。砂浜を蹴る音が、徐々に大きくなり、キックの呼吸が聞こえる。

「やっぱり、走ってきた、急いでないのにね」

 そうだね、と優希に言葉を返す。
 息を切らしたキックが、私たちの前に到着すると何もいわず、不敵笑いを浮かべ、抱えていたビニール袋を逆さにした。音をたて、ビニールのパッケージが、いくつも砂の上に落ち積み重なっていく。

「コンビニの花火、ほとんど買占めちゃった」

 砂の上でてんこ盛りになっている花火をみて、自慢げに胸を張り話すキック。このてんこ盛りの花火は、総額幾らなのだろうか。なるべくなら考えたくなかった。


thank you
つづく・・・

六月の出来事 2

2005年03月05日 | FILM 四五六月
花火【六の二】→→→  いつの間にか空高く昇っていた太陽は海との角度を急速に縮めていた。先程まで青かった空も朱色に染まり始めている。さほど変化のない景色をどれくらい見過ごしてきたのか、どのくらい走ったのか判らなくなっていた。ハンドルを握るキックは、把握しているのかと、やや不安になる。ポツポツと会話をしていたキックは、バックミラーで後続車をちらりとみてからウィンカーを出した。一般道から外れ舗装されていない細い道を進み、浜辺が見渡せる空き地に車を停車させる。働き続けたおんぼろゴルフのエンジンが不規則な音と共に静まっていく。最後にブルンと振るえた。次にエンジンを掛けた時、すんなりと走れる事を祈る。

 海沿いにあった街。辺りを見渡しても、観光客らしき車は一台もなく、錆びた軽トラックが土の中に沈み、荷台の上には、雑草が生え風に揺れている。
ドアを開け、足を踏み出すと柔らかい土の中にスニーカーの底が沈んだ。立ち上がり、おもいっきり腕をあげ体を伸ばす。
 体の至る所の筋肉がきしきしと痛む。力を抜くとだらりと体が緩み息が漏れる。
 目の前に広がるのは、弓を模ったような砂浜を縁取る白い波。砂浜には、誰もいない。あるのは、腐りかけた船と絡まった網と、波に打ち上げられた何かのみ。
海を眺めている間にも、太陽は海へ近づき、強烈な光を発している。

「降りよう」

 キックは、言葉だけを残し雑草の生えた斜面を駆け下り、砂浜を歩き始める。優希も後に続く。砂浜を歩く二人の影が、長く伸びる。私も斜面を滑り降りた。
 砂浜を歩いた途端に靴の中に砂が入り込む。立ち止まり、片方ずつ靴を脱ぎ、手に持ち傾けるとパラパラと砂が流れ落ちる。砂を捨て歩き出すと、また砂が入る。雨の日の飛沫のようにきりがないようだ。キックの細長い影の後を優希が歩き、優希の細長い影の後を追って歩いている。影はどんどん伸びていく。足元の優希の影が止まる。赤く染まる海。太陽は海に半分浸かり、光の道を作り上げる。立ち止まり、変わりゆく景色を見つめ時間を感じていた。
 急速に色を変え続けるすべての物の中で、立ち止まってしまった私は、今に置いていかれ過去へと引き摺りこまれていく。



 去年の秋と冬の間。あの時の私は、会社のトラブルの処理に借り出されていた。連日の残業と休日出勤の連続で、家に帰れば寝るだけの生活が続き、約二ヶ月の間、一度もキックと優希に会うことがなかった。
 世間は、クリスマスムードが色濃く出始めた頃の昼休み、食欲がない体に無理やり、おにぎりを与え、その後机の上で、突っ伏していると、電卓の横に置かれた携帯が鳴った。
 首を捻り、ディスプレイを見ると、公衆電話の表示が点滅している。仕事関連だろうかとため息を一つ吐き、机から起き上がり通話ボタンを押す。

「元気か~い?」

 なんだろう。この雰囲気に溶け込まないこの声は。思わず、背中を丸め、机に隠れながら、小声で答える。

「元気じゃないよ、優希、何か用?」

 元気のない私に元気出せよと言った優希は、その後、用件を簡潔に伝えた。
 声のトーンは変わる事無く、今、大学病院に入院しているということ、手術をして、すっかり元気になり、毎日退屈していること、だから、お見舞いに来いということ、私からの質問は一切聞き入れられず、まるで電報のように一方的に電話を切ってしまった。私は、背中を丸めたまま携帯を耳に押しつけ、プープーという電子音を聞きながら、額を机につけていた。

「仕事終わってからでいいから」

 最後の言葉はこれだった。勢いよく立ち上がり椅子が弾かれ後ろへと流れ、横の席で寝ている同僚が何事かと飛び起き目を丸くする。私は、椅子を戻す事無く、踏ん反り返って寝ている上司の机の前へと向かう。



 怪訝な表情を貼り付けた上司の視線を背中で受けながら、無理やり会社を早退し、そのまま病院へと駆けつけた。一番始めに見つけた駐車場に車を止め、病院へ伸びる昇り坂を一気に駆け上り自動ドアへと向かう。数メートルというところで自動ドアが開き見たことのある人物が出てきた。スーツ姿の降谷、優希の学生時代の身元引受人である。

 駆け出していた足が止め、降谷と視線を合わせる。息を切らし落ち着きのない私に、場違いな笑いを向けやってくる。

「こんにちは、昇子さん、仕事は?」
「え・・・」

 場違いなのは私なのだろうか。降谷の表情に焦りはなく、極めて穏やかな声で話しかけてくる。

「あの、説明して頂けますか?」

 投げかけられた笑顔に答える事などできず、心臓は高鳴るばかり、今は不安を一刻も早く打ち消したかった。出来るだけ冷静に話しかけたつもりでも、きっと、不安が言葉の音に滲み出ていたに違いない。

 優希の元へ向かわず、病院の外庭のベンチに二人でかけた。
 優希は、健康診断で再検査に引っかかり、病気が発覚し一ヶ月半前に手術をうけ、もうじき退院らしい。降谷から聞かされる事すべてが驚く事ばかりで、私の心臓が落ち着きを取り戻す事は一度もなかった。聞かされた話には、未だ病名が登場していない。けれど、盲腸のような病気でない事は予感させた。
 病名を聞こうとしたとき、一息早く降谷の口が開き、私は、言葉を飲み込む。

「日本人の三人に一人は、癌になる時代らしいです」

 生命保険のCMかと思う。スーツ姿で、芝生の上でそよ風が吹いていて立地条件は整っている。

「癌になったからといって、すべての人が命に関わるわけもなく、回復し元気に生活している人も数多くいます、そうでない人ももちろんいますが」

 もしかすると、降谷の仕事は保険関連の仕事かもしれない。顔色一つかえず、車椅子を押す看護婦を見つめながら続ける。

「優希さんの手術は、間違いなく成功です。その結果、一年後の生存率は、六十五パーセントで二年後の生存率は、三十パーセントで、三年後の生存率は、八パーセントだそうです」

 耳を疑った。高鳴り続けた心臓が止まるのではないかとさえ思った。息苦しさを感じ息をしていないことに気づき、息を吸い込む。

「成功なんですか?」
「成功だそうです」

 四年後の生存率はどうなのだろう。聞きたくとも、聞くことが出来ない。それにしても、この不謹慎とも言える数字は何なのだろう。降谷が、酷く憎らしく思える。何か言い返しそうと言葉を捜してみても、ひとつも見つからず発せられない。視界に入るすべてのものを理解することすら困難に思えた。
 降谷が突然立ち上がる。下から顔を覗き視線を辿る。背中の曲がった老人に焦点を合わせた。知り合いだろうか。

「優希さんのお祖母さんです」
「長野の?」

 降谷は頷く。優希の母親の実家は長野にあった。そこに、優希の祖母は一人で暮らしている。会うのは初めてだ。見るからに、やさしさが滲み出た小さな体をしたお祖母さんだ。優希が年を重ねたら、あの様なかわいいお祖母さんになるのではないだろうか。降谷は、駆け寄り話しかけ、私を紹介する。名前を言い、お世話になっていますと頭を下げると、皺くちゃの冷たい土色の手が、私の手を握った。

「優希をお願いします」

 縋る様な眼差しと共に繰り返される言葉。私は、どう返事をしてよいのか迷い、結局、なんのリアクションも起こせず固まっていた。
 そのうち、降谷が長野への電車の時間を気にし始め、二人は駅へと向かった。
 同じ言葉をしつこく繰り返えしたのは、私が返事をしなかったからだろうか。はい、とひとつ言えば良かったのかもしれない。けれど、手術をすることも、病気になってしまったことも、何一つ知らされていなかった私に、何かできるようには思えない。二人の背中を見送りながら、そんな事を考えていた。


「沈んじゃったね」

 優希の寂しそうな声に頷いた。
 太陽は、姿を隠し朱色に染まっていた空は、紺色へと変わり金星が輝き始める。潮風も、急速に冷やされていく。光を求め、太陽の変わりに月を探して見たものの、空の一部に雲があり、どうやらその雲に隠されているようだ。影は闇へと変わっていく。

「花火。海と夜があるなら、花火でしょう」

 キックが、闇を打ち砕くように声を上げる。

「売っているかな?」

 花火は、夏にするものであって、一歩引いても夏とは言えない今の季節である。

「絶対ある、ちょっと、コンビニで買ってくるよ、火、熾しておいて」

 立ち尽くす二人の横を駆け抜けていくキック。砂を巻き上げながら全力疾走で遠ざかっていく。砂浜から姿を消すと、遠くでおんぼろゴルフのエンジンが鳴り響く。

「行っちゃった・・・」

 この道中、コンビニなんてあっただろうか。あるかどうかも判らないコンビニを探し、再びこの浜辺へ戻ってこれるのだろうか。そんな不安を感じながら出た言葉だった。
 クツクツと笑いが聞こえる。優希をみるとクツクツ笑いが、腰に手を置きガハガハ笑いへと変わっていく。この馬鹿ばかしさに、もらい笑いをし、闇に包まれた浜辺に二人の声が響く。

 波の跡を模るように、打ち上げられた木を拾い集め適当な場所へ集める。明かりのない浜辺の上で、カバンの中を手探りで居酒屋でもらったマッチを探す。カバンの中がほどよく混ざりあった頃、四角ケースをみつけ取り出す。財布の中からいらないレシートを集め組んだ木の中へ押し込み、四本束にしたマッチ棒を擦った。ぼうっと音あげ、オレンジ色の炎があがり、レシートにつける。見る見るうちに、レシートは燃え上がり枯れ木に灯る前に灰になりそうだった。二人でカバンの中からいらない紙を探し、火を消さない努力を試みる。枯れ木が、赤く光始めると体を屈め息を吹きかける。幾度の目眩に耐えながら続けると、ぱちぱちと音をあげ木から炎が上がった。

「点いたっ!!」

 優希の言葉と共に、力が抜け目眩で身動きが取れない。優希は、カバンから取り出したパンフレットのようなもので、パタパタと炎を仰ぎ出している。炎は見る見るうちに、辺りを明るくしていく。

「・・・」

 私の努力は、無意味だったのだろうか。



thank you
つづく・・・

六月の出来事 1

2005年03月02日 | FILM 四五六月
花火【六の一】→→→  突然雨の日が増えた。そう感じたのは雨が何日も続き、最近太陽を見ていないと気づき、纏わりつく空気を不快に思い始めたからだった。気持ちよく過ごしているのは、カタツムリと繁殖し続けるカビぐらいだろう。
 どこへ足を運んでも、雨の匂いは消えず、誰もが少しずつイライラとしているように思える。人間に関わらず、体をブルブルと振るい毛に滲み込んだ雨水を払いのける野良猫も、いつも以上に不機嫌そうに歩いていた。梅雨前線の下にあるものすべてがジトジトと生暖かい空気で包み込まれている。

 仕事終え帰宅し風呂に入ると、幾分さっぱりした気持ちになるものの、いざ布団に納まると、屋根を叩く雨音が聞こえ、体がじっとりと梅雨の中に後戻りしていく感覚に陥っていく。仕方なく、ぼんやりと降り続く雨音を聞き流していたが、激しく打ち付ける雨へと変わり始めると聞き流すことなど出来ず耳を塞ぎたくなってくる。家の前の道路を通り過ぎる車は飛沫をあげ走り去っていく。時折吹く風が、カラカラと何かを飛ばそうとしているようだ。
 明日も雨なのだろうかと思いながら布団の中へと潜った。偶に聞く雨の音なら心も安らぎ受け入れることも可能であるのだが、こうも長く雨が続くと不便な事が次々に出てくるし、不便の積み重ねがイライラとさせていた。いくら梅雨の雨がどれだけ生活に必要かを訴えられても、自分にとっては生活水を賄う水瓶がどうであれさほど関係ないわけで、関係がでてくれば不自由もするのだけれどそうでない限りは、ただのわがままで梅雨に対して多くの不満をもらしてしまうのだ。

 そんなことを考えながら、寝苦しさをもちろん梅雨のせいにしながら、いつもと同じようにぐっすりと眠りについていた。

 足で蹴り飛ばした掛け布団が、四分の三ベットからずり落ち、締め切った部屋の中はぐんぐんと気温をあげていたらしく、体は汗ばんでいた。唸りをあげ、布団の上でこたつの中で丸まった猫が伸びをするように体を伸ばす。

「暑苦しい・・・」

 しゃがれた声で枕に投げかける。有給をとった朝は、不快指数百パーセントの目覚めだった。顔を時計に向けると、二分後には、正午を過ぎようとしている。寝苦しかった夜を、十時間と三十五分も眠りについていたようで、この不快感は、もしかすると梅雨のせいではなく寝すぎのためかもしれない。
 体を起こし、カーテンに手を入れると、白い光がベットに伸び、そのまま引いた。
 降り注いだ光が、部屋を明るく照らす。久しぶりに目を細め、太陽を見上げる。

「晴れた」

 忙しなく流れる雲の上に、真っ青な空が広がっていた。この気持ちよい空とは裏腹に、私の頭の中は、梅雨空のように未だくすんでいる。
 背後で、電子音が響き渡る。振り向くと、テーブルに無造作におかれ、なぜか横向きに立っている携帯電話が振動し、ぱたりと倒れてもブルブルと振るえている。
 ベットの上から、ぐっとテーブルに手を伸ばし指先が触れ、二、三宙を切ったけれどなんとか取ることが出来、電話に出る。

「出かけるよ」

 もしもしと言う前に弾んだ声が、聞こえてくる。クラクションが響く。電話の中から聞こえたクラクションは、窓の外でも響いていた。電話を耳にあてながら、窓の外へと目を向ける。
 雨に染みたアスファルトの上をルーフを開け、二人が乗る車が現れる。

「あ・・・」

 キックは、ハンドルから左手を放すと手を振り、助手席の優希は携帯を耳にあてながら、微笑み、窓に張り付いているパジャマ姿の私を見上げる。

「九分、九分で出発だから」

 十分ではなく、九分。この一分はなぜ必要なかったのだろうか。電話が切れると、携帯を頬リ投げベットから転げ落ち、小指を棚の角にぶつけ、痛みが全身を駆け抜けても、バタバタと着替え身支度を整える。

 車に駆け寄っていく。運転席側のドアへ、咄嗟に視線を落としていた。ついさっき、ぶつけた足の小指がまだ痛かった。相変わらず、つま先がすっぽり収まる程のへこみが空いている。それもそのはずで、このへこみを作ってしまったのは私自身、いまだに弁償もしていないのだから直っているはずがない。あれから、六ヶ月が経っていた。このへこみをみたから、小指の痛みが増したのかも知れない。

「二分遅刻」

 キックの声で、我に返り顔を上げた。ゴメンゴメンと頭を下げながら後部座席に乗り込み真ん中の席に腰を下ろす。
 二つの座席に手をかけ前へと乗り出し二人の顔を交互に見る。

「どこ行く?」

 優希は、腕を組み考え込み唸り、一人ぶつぶつと口元を動かしている。

「さあ?まあ、とりあえず走りますか」

 キックは、言葉と同時にニュートラルからドライブへと入れた。
 オープンカーとは予想以上に考えつくされたものである。初めて乗ったとき、驚いたのを覚えている。何が考えつくされているのかというと、風の流れが天井がなくとも車内にあたるエリアには入り込んでこないのだ。つまり、窓を下ろさない限りは、髪を乱すことも少なく、荷物が吹き飛ぶ事もない。ということもあり、こんな気持ちよい日差しの下をルーフをあけ走るというのは、予想以上に気持ちよいドライブを体験する事になる。
 
 久しぶりの晴天、しかも平日。すれ違う営業車、コンビニで買った弁当を下げて信号待ちをするOL。路肩で、弁当を食べているヘルメット姿の作業員。多くの人は、働いている中私達は、当たり前だが気兼ね一つせず気持ちは緩みきっている。

 しばらく走っていると、国道を跨ぐ自動車専用道路の標識が現れる、ウィンカーがカチカチと音を上げ、車は大きく左へ逸れ専用道路へと入る。乗り口のすぐ先には、先払いの料金所があり、左ハンドルのゴルフでは、必然的に助手席の優希が支払いをする。優希は手動でクルクルと取っ手を回し窓をあけていく、ハイウェーカードをキックから受け取り、紺の帽子を被った職員に渡す。天井がないのだから、窓を開けなくてもよいのにと、ふと思う。

「どうも」

 優希は、職員からカードを受け取ると少し笑いかけ頭を下げ、キックへと渡し、キックはアクセルを踏み込みながらカードをホルダーへと差し込んだ。おんぼろの癖して、加速は早いゴルフ。優希は窓の取っ手に手をかけ回す。三センチほどガラスが見えるとぴたりと止まる。

「え・・・閉まらない」

 右手だけでまわしていた取っ手に左手を沿え力を込める。バサバサと風が音をあげ続ける。私の横にあるキックが読み捨てた雑誌が、ものすごいスピードで捲り上がる。ビニール袋がふわりと舞い上がり、私の目の前でくるくると回っている。不思議な光景だった、それは、宇宙飛行士が、スペースシャトルの中でクルクルと回転しているのと似ている。前の座席は、とくに酷かった、あっというまに加速したおんぼろゴルフは、竜巻にでも襲われたのかように、強風の音と共に、あるゆるものが飛び交った。
 ガムのくず、領収書、カード、おにぎりのビニールのひも・・・その他。動体視力がとびきり良いわけでもない私は、すべての物を確認することは出来なかったのだ。
 この状況を回避するのに一番良い方法は、間違いなくスピードを落とし、違反でも路肩に止まることだろう。けれど、人いうものは、窮地に陥れるほど、パニックは付き物なのだ。たとえば、窓が閉まらないと気付くのが、加速する前であったら、対処はもちろん違っていただろう。それが、後であって、案の定状況が突然悪化してしまったことに原因があったに違いない。
 とにかく、閉まらないと優希が悲鳴交じりの声を張り上げた瞬間には、悲劇は急激にスピードをあげ始まっていた。
 肩に力を入れるほど、優希は取っ手に全力を込めていた。数センチ見える窓を、おもちゃの舌のように、引っ込めたり出したりを、スピードをあげ繰り返す。トラックの轟音と共に、突風が通りすぎたとき、優希の髪は浮き上がり絡みあい悲鳴をあげ肩をすくめる。
 冷静でなくとも、冷静な表情を貼り付けたままのキックは、目の前に張り付く領収書や、舞う紙くずを、動き回る蚊を掴みつぶすように、空いた手で次々にひょいと取っては、尻の下へと詰め込んでいく。それをみた私も、飛び上がりそうなものを次々に尻の下へ入れる。

「あああ、もう、馬鹿ゴルフ」

 怒りに満ち溢れた叫びが聞こえたかと思うと一瞬で後ろへ飛ばされる。何もかもが音をあげ続ける。
 すっぱりと九対一に分けられバタバタと荒れ狂う優希の髪、そんな姿をきにする素振りもみせず、腕が上がり掌を振り被る。押し出された掌は、車内が揺れるほど、取っ手の横にぶち当たった。ドアがパカっと取れるのではないかと、全身に鳥肌が駆け抜けていく。
 優希は、再び取っ手を両手で握りクルクルとまわす。窓は、数センチの壁で止まることなく上げられ続けた。
 目の前でふわふわと浮かんでいたビニール袋は回転が鈍くなりやがて足元へと落ちていく。押さえていた荷物や雑誌も落ち着きを取り戻していく。
 窓が上げられ風が遮られたとき、初めてキックはアクセルを緩めた。横を通り過ぎていく車の運転手や助手席の人の多くは、口元が緩んでいる。そんな人たちを、呆然と見過ごしていた。
 
 ハプニングのあった有料道路を降りると、山を抜け海へと出た。広がる海を眺めながら、海沿いを止まる事無く走り続けている。波が岩に弾かれる白い飛沫を上げている。潮の匂いが風に乗って漂う。変わらぬ景色を、ぼうやりと眺めていた。キックは、優希となにやら話していたけれど、どんな会話を交わしているのかは聞き取れなかった。座席に凭れながらキックの僅かにでる後頭部と優希の笑う横顔が視界に入る。
 突然優希が振り向き、視線が合い、咄嗟に海へと逃がした。ちらりと、戻してみても優希の視線は私を捉えている。どうしたらよいものかと迷っている間に、優希はシートベルトを伸ばし、体を捻り後部座席へと半分乗り出し腕を伸ばす。

「いたっ!!」

 私は、頭をいや額を抱えた。一瞬、火が出るのではないかと思うほど熱を感じたのだ。優希の伸びた腕は、私の額にマッチ棒でもするようにこぶしを力任せにすりあげたのだ。流血は免れたものの、間違いなく赤くなっているに違いない。

「一人で遠くいかないっ!!」

 まるで、この行為が正当化されているようなもの言い方だった。その後、いくつか、小さな反抗をしてみたものの、それらすべては笑い飛ばされてしまうような事であって、本当は、この時、私はこう言い返したかったんだ。

「優希こそ、一人で遠くへ行くな」

 でも、言えなかった。


thank you
つづく・・・

ONEーCOIN NEWS

2005年03月02日 | ONE-COINの楽しみ方


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                                    三日月