小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

十二月の出来事 4

2005年05月28日 | FILM 十十一十二月
曇りのち雨【十二の四】→→→数秒の間が待ち遠しくいったい何が起こったのかと、心臓の運動が激しくなる。どうしたのか、問いかけてみたが返事はなく、聞こえるの雑踏の音のみ。もう一度問いかけようと言葉を吐き出そうとしたとき、優希がようやく口を開いた。

「歩道橋の上にキックがいる」

 電車がホームに滑り込んだらしく時間がないのか早口で告げる。駅のホームを思い浮かべる。あそこから見える歩道橋は一つしかない。ならそこにキックがいるというのか。

「え・・・何してるの?キック」

 キックは、駅へ駆けつけようとしたが、間に合わないと思い、ホームが見える歩道橋から見送ろうとでもしているのだろうか。それとも、優希に聞かされる前に、優希が帰る事を知っていてこっそりと見送りに来たのか。青春ドラマのように、何かを叫んだりするだろうか。キックなら人目を気にせずにやりかねない。それにしても、なぜキックは、歩道橋にいるのだろうと、つかの間に巡らせてみたが検討をつけることが出来ない。

「背筋をピンと伸ばして、バタバタ腕を振ってる」

 目の辺りにしている優希もキックが何を考えているのか判らない様子で実況をする。

「腕・・・。それって、手旗信号?」

 バタバタと腕を振っている言う優希の声に、頭の中である光景が思い描かれる。先月、橋の上で配達カーをみつけたときのキックの姿。あのときと同じメッセージを送り続けているのか。いくらなんでも、そんな馬鹿なことはないだろう。けれど、中村が言うとおり私達は、その部類に入るらしいので、一概にないとは言い切れない。あれから一ヶ月も経っているのだから、もう少しマシな一つや二つのメッセージは憶えているだろう。

「なんで?なんでキックは、手旗信号をやっているの?あれ、私に送っているのかな?」

 優希は、キックの手旗信号を初めてみたせいで、自らに送られていることを上手く飲み込めないようだ。私はそんな優希に、それは間違いなく優希に送られているメッセージだと言う。

「歩道橋の上、人だかりが出来始めてる。携帯で写真取られているっぽいよ。それにしても、理解不能・・・熱いメッセージが伝わってこないけれど、必死感は伝わる、でも、なぜに手旗信号?」

 そりゃーそうだろう。手旗信号を目の前で見た事がある人なんて多くないはずで、ましてや駅へ続く歩道橋の上で真剣に誰かにメッセージを送ろうって人間は、万に一人ぐらいではないだろうか。歩く人も、危険を感じなければ足を停めるだろうし、何かの撮影かと勘違いしている人がいれば、携帯で写真をとる人だっているかもしれない。優希は、おそらく熱いメッセージを送られているはずなのだが、本人は、時間が経つほど冷静さを取り戻していき、呆れた声に変わっていく。今まで培われた対処方法だ。
メッセージを言葉に変換出来れば、熱く込上げる何かがあるだろうけれど、優希は、それを読み取るすべを知らない。

「たぶん、いざって時が来たんだよ」

 優希の問いに、答えになっていないだろうが、これしか思い浮かばなかった。キックが手旗信号でメッセージを送るのは、いざという時なのだ、今回はそれに当てはまるのだろう、もちろんキックにとってはだが。優希が、どこまでキックの思いや行動を理解したのかはわからない、いや、一割も理解していないだろう、私だって判らないのだから。けれど、優希は、それを楽しむように嬉しそうな声で、そうだねといい、その向こうから列車のドアが閉まるときに鳴る空気圧の音が聞こえると電話は切れ、ツーツーと電子音が鳴り続けた。
 キックが、優希に何を伝えようとしたのかは、おおい気になるがこれから先、自ら聞くことはないだろう。それは、私に送られたものではなく優希へのもので、私が知る必要なんて微塵もないのだ。

 一筋の太陽光も通さない曇った空の向こうで、再び罅割れた光が走り遅れて鈍い音が空気を振動させていく。少し近くなっているかもしれない。それが合図だったのか、ぽつぽつと芝生が音をあげ透明の欠片が弾け、服に当たった粒は生地の色をかえ滲ませる。大粒の雨が落ち、風に色濃く雨の匂いが混じると数秒後には激しく落ち始め、辺り一面一斉に色を変え、青いベンチも紺色に変わり流れる雨が滴り落ちる。飛沫を高く上げるほどの激しい雨が降り、歩道を歩く人々は、駆け出していく。
 肌に当たる雨は、冷たくて痛いのか大粒で痛いのかは判断できず、されど、凍るような冷たさは変わらず、なら避けるように屋根のある場所へ駆け出せばよいのだが、そんな気持ちは微塵もなく、私にはその中で立っていることしか出来なかった。服は、乾いているところがないほど濡れていて雑巾のように絞れば足元に大きな水溜りが出来るほど雨を吸い込んでいる、大粒の雨は、頭からシャワーを浴び続けているのと変わらず、成すすべをなくし、忘年会の時のガラスに触れた冷たさを思い起こしていく。数時間の間に起きた出来事を考えれば、これくらいの冷却をした方がよいのかもしれない。

 持ったままになっていた紙飛行機がぐっしょりと濡れている。もう、飛ばないだろう。この紙をどうするべきか。広げて鶴にでもするべきか、いや、そんなものをあの嘘つきに作ってあげる筋合いなどない。でも、捨てるのも心が引ける。座り込み体を丸め、上半身で僅かな雨避けを作り、膝の上で折り紙を折り始める。強くひっぱると切れてしまい、ぐったりとうな垂れたものしか出来なかったが、とがって飛び出た両端を組む。
 折られた紙の端を両手でそっと持ち、駅があるだろう方向へ向け目の前に翳し、ある瞬間を待つ。
 グレーの空が光った瞬間、紙を開くように真ん中を前へ押し出すと、組んだ紙が解け開かれた。ゴロゴロと空気を振動し音が続く。

 ファインダーの中に見たのは、キックの手旗信号と、最後にそうだねと言ったときにしただろう優希の笑顔だった。

「くわあ、さむ!!」

 ぶるっと全身が震え鳥肌が模様のように浮き立ち、髪から滴り落ちる雨が、頬を伝うと冷たく傷みさえ感じる。体は見る見るうちに体温を奪われその証拠に、白い湯気が上がっている。ようやく屋根のある場所へ向かおうと溜まった雨を踏み潰すように振り向くと、雨が踊るように弾かれる赤い傘を差し白いタオルを抱えた中村が滝のように降りしきる雨の中にたっていた。傘に弾かれる白い飛沫が、バチバチと音をあげ飛び散っている。中村の足元は濡れている。
 また、馬鹿と言われるに違いない。そういえば、キックはどうしただろうか。街を包み込んだ大雨にずぶ濡れになっているのではないかとふと頭を掠めた。
 大きなくしゃみが一つ二つと続き、キックの事も吹き飛んでしまった。服から雫がどさっと音を上げ落ちる。光のないグレーの雲が唸る空に、今まで一番大きな閃光が描かれた。薄暗い世界が本当にフラッシュでもたかれたように光が放たれ影が浮き上がったかと思うと、空が割れ地球まで割れてしまいそうな馬鹿でかい音が轟いた。病棟のガラスが、ギシギシと振動している。肩を竦め頭を抱えようとしたとき、視界に入ったのはくるっと踵を返し傘から落ちる雨を振りまきながらひき帰す中村の背中だった。

「せめて、タオルだけでも渡してくれればいいのに・・・」

 中村よ、おまえはそういうやつだったのか。びくびくしながら、出来るだけ低い姿勢でぬかるんだ芝生の上を足早に中村の背中を追う。一人分突き出した屋根ではこの豪雨を遮る事は出来ず、中村は傘を差したままで私を待っている。花壇を飛び越えそのまま屋根の下に入り込む。僅かに乾いている足元コンクリは、私から落ちる雫ですぐに水溜りを作った。風向きが変わるたびに雨が顔まで吹きかける。中村は、持っていたタオルを渡し、受け取った私はとりあえず頭から顔にかけて拭く。

「ところで、明日の温泉どうする?」

 白い息を吐く中村。予想もしていなかった言葉に私は拭く手を止めボサボサの髪の間から顔を出す。

「へ?」

 気の抜けすぎたまぬけな声が漏れたのは、明日の温泉の事を忘れていたのもあったが、それだけではなかった。なぜ、中村が温泉の話を知っているのか、優希が言ったとしても、この言い方だとどうも不自然である。そんな疑問が中村が答えを出す。

「三人で行くはずだったのに」

 私のまぬけ顔を確認しても関係ないとでも言うように中村は、残念そうな顔をしている。どうなっているのだろうと、考えてみる。もちろん、二人分の予約しか取っていなかったことを優希は知っているわけで、それを優希は三人で温泉に行こうと誘っているということは、覆る事のない確信的な犯行だ。中村は、まだ気づいていないが優希に騙されていたのだ。明日温泉に浸かりながら、のんびりと手の込んだ裏切り話のタネにしてやろう。

「もちろん行くさ、おもいっきり浸かってやる」

 手に持ったままだった濡れた折り紙を見た中村が、それは何かと聞き、私はだらりとうな垂れるカメラを模った折り紙を見せる。無理矢理、折り紙の端を接合し中村に向けシャッターを切って見せようとしたとき、再び空を引き裂くような稲妻が走りフラッシュがたかれ、窓が軋み空気が振動し腹を突き上げるような低い音が轟に響き渡る。二人は、肩を竦め短く声を上げた。

 キックは、雷に打たれていなければよいなとふと思う。優希が乗った電車は停まって立ち往生しているかもしれない。明日は晴れればよいなと唸る空を見上げてから、中村が差す傘の淵からポトポトと落ちる雫が私の右足を濡らし続けている事に気づいた。


thank you
終わり・・・


 エピローグ

 初夏な日。遠くの山を覆い被すような入道雲が空へと発達を続けて、中央高速道路のサービスエリアから見渡す景色は、まさに夏を現し高い山々と共に絵葉書に納まりそうな絶景だった。
 その景色に目を奪われた人は、車からカメラを取り出しその景色をカメラに納めている。もちろん、携帯を翳しシャッターを切る人もいる。私も、その人たちの仲間入りをしたいのは山々だったのだけれど、生憎カメラも持ってなければ、携帯にもカメラが付いてない。したがって、絶景を前に店で買った高原ソフトクリームを舐めながら、歩道に刺さる車止めの円柱に腰掛け眺めている。老若男女、その景色に何かしら心を惹かれているらしくそれぞれ、満足しながら立ち代り入れ替わりやってくる。カメラに納めていく人は、あの景色をこれから先どうしようとしているのだろうか。この景色をバックに誰かを撮るなら、それはその人の為でもあり分かれないでもないが、景色だけを収めていく人は携帯の壁紙にしてみたり、大きく引き伸ばして部屋に飾ってみたり、そんな感じだろうか。もしくは、撮ることに満足していて、あとは多少の話の種にしてしまうという具合だろうか。どちらにしても、カメラに収めるのも、私が濃厚なソフトクリームを舐めながらジワジワと記憶に焼付けていくのも、さほど作業は違わないのではないだろうか。

 けれど今はそうかもしれないが、これから十年、二十年、三十年先、私はこの景色を思い出せるだろうか、そう考えると自信がない。ところがカメラに収めた人は、この写真さえ保管することが出来れば、三十年後にひょっこりと箪笥の引き出しから出てきて、手に取り、この景色はきれいだななんていいながら、これはどこで撮ったのだろうかなんて考えて、もしかするとシャッターを切ったときを思い出すことが出来るかもしれない。となれば、それは確率の問題だ。私が、この景色を何かの拍子で思い出す確率と、この写真をみて記憶の引き出しが開き思い出す確率は、それほど変わらないはずなのだ。   

 それならば、何十年先、今広がる景色を収めた写真が手元にあろうが、今広がる景色を思い出すことができなければ、なんら意味が無いのではないか。それは、私が、思い出せないのと同じ事なのだ。順調に舐め続けたソフトクリームは、コーンの中に納まりつつある。これからは、様子見で、コーンと共に食べていくことにする。

 試しに一年前の夏は何をしていたか、思い出してみる。

 酷い揺れの中、突き進んだゴルフを思い出す。今のところ、記憶は鮮明で、私の中にあるカメラが、数え切れないほどのシャッターを切り続け、その音は鼓動ともに胸に響き、フィルムに焼き付いていたようだ。連想する様に去年の暮れを思い出す。中村へ向けた雨に濡れた折り紙のカメラ。シャッターを切ったとき、とんでもない閃光のフラッシュがたかれ、私の中の記憶というフィルムに焼きついた。

 いつかは、写真のように色あせていくだろう。写真を手にしても思い出せないなら、ないほうがマシではないだろうか。
 ソフトクリームより白い入道雲は、最高頂まで伸びてしまい行き場を失い、今度は斜めに傾きはじめ、随分とかっこ悪い形になり始めている。
 目の前を高そうな一眼レフカメラを提げた人が、残念そうに戻っていく。コーンの中のクリームは溶けてしまい液体のようになっている。溢れ出ないようにコーンをざくざくと齧っていく。
 カメラを否定していながらも、本当は少しだけ後悔している。実は、私達はここ数年の間、たった一度もカメラを持たなかった。山ほどいろんなことがあったというに、たった一枚すら納める事がなく、一枚くらいあっても良かったのではないかと考える。なぜ、シャッターを切らなかったのだろう。
たぶん、それは、三人とも、うっかり忘れていたからに違いない。それ以外の理由は思いつかない。カラーコーンを縮小した程度のコーンになり、最後は一口で口の中へ放り込んだ。コーンが崩れ中から、冷たくて甘いクリームが広がり口から飛び出さないように注意をした。

 中央道をおり、一般道をひた走り、高い建物がなくなり、一番高いものといえば、火の用心とかかれる鉄骨で組上げられた矢倉のようなものだった。地図を確認するために、路肩に車を停めても誰の迷惑にならない程の交通量で、のんびり地図を広げる。目印なんてものは、ほとんどなく、見渡す限り青々とした田んぼが広がる。なんとなく、そんな景色に魅せられ、冷房を切り窓を開ける。夏の暑さは変わりなかったけれど、田んぼを駆け抜ける風が水と稲の匂いを載せながら車内を通り過ぎていく。細かく書かれた地図も目印がなければその精密さは発揮することがなく、単純な地図と変わりない。交差点の数とそこから三本目の道を左と覚え、誰もこない車道へウインカーも出さずに走る出す。
 心地よい風が頬にあたり、ドアに腕を乗せ気持ちよく走り続ける。左へ曲がり、あとはずっと直進のはずで、相変わらず田んぼに挟まれた道をゆっくりと進む。田んぼの真ん中に数本の高い木で囲まれた一軒家が見え始め、次第に近づいていく。表札を確認しようと探してみたけれど、見当たらずそのまま敷地に車で入っていく。中は、納屋があり、その前は砂利でひき詰められ広く車は一台も停められていない。適当な場所に車をとめ、庭の向こうにある平屋を見る。誰かいるだろうかと、窓を開けたまま外へ出た。

「あら、のりこさんかい?」

 振り向くと、手ぬぐいを被ったお祖母さんが、農作業姿でたっていて、両手には、鍬と大根を持っている。前に病院であったときとは、随分と印象が違う。あのときよりも、もっと田舎らしい温かみを増しているように思えた。この景色のせいだろうか。

 土間を上がり、家の中はひんやりとしていた。クーラーがはいっているわけでもなく、家の作りがそうさせているのだろう。お祖母さんに、先に上がって待っていてくださいと言われたままに上がっていた。とにかく、静かで今聞こえる音といえば、お祖母さんが外で使っているだろう水が流れる音と、私が歩く音だけだ。
 廊下から、開けっ放しの畳がひかれる居間に入ると、大きな仏壇が一番初めに目に飛び込んだ。いくつかの写真が並べられ、小さな器に入ったご飯が置かれ、仏壇の花には似合わないひまわりが飾られている。自然と足がそっちへ向き、埃ひとつない仏壇を前に座った。
 後ろを振り返る、静まり返っているだけでお祖母さんは家の中に入ってきていないようだ。体を戻し仏壇に置かれているマッチをとり、一本出し箱の側面にこするとシュッと音を上げながら炎が揺れ、蝋燭の芯に添える。燃え続け短くなったマッチを三回振り消し利用済みマッチ棒入れの小さな穴に落とす。線香を二本とりオレンジ色の光が灯り小さく落ち着くとゆらゆらと一本の白い煙が昇り、柔らかい灰の中に差し込んだ。
 チンと音を鳴らし反響する部屋の中で手を合わせる。
 廊下を伝わり土間の方から、引き戸が開けられる音がし、廊下の板が軋む音が近づく、やがて足音が消え背中に人の気配を感じる。合わせた手を外し、顔をあげ後ろを振りぬく。

「うわっ・・・その麦わら帽子」

 驚いて後ろに仰け反ってしまい正座をしていた足の一方が崩れお尻が畳に付くと体のバランスが崩れた。突然現れた優希になら、これほどまでに驚かないのだが、問題なのはその格好だ。麦藁帽子を被り顎の下に白い紐が垂れている。ここでは麦藁帽子が流行っているのか、それとも、開放感から、夏だからという理由で被っているのか、目の前にいる優希は、白い肌が少し焼けているように見える。

「あの手旗信号、麦わら送る、だったらしいよ」
 
 優希は、麦藁帽子に止まったままの視線に気づき、帽子の鍔を指で示しながら笑った。手旗信号、麦藁帽子、二つの単語が頭の中で結びつくと、大きく頷いて見せる。以前、ゴルフの洗車をしたときキックが被っていた麦藁帽子、なぜ、キックは優希に贈ろうと思ったのだろうか、そして、歩道橋の上で、なぜに、このメッセージを熱く送り続けていたのだろうか。半年以上経ち、メッセージは解読された今であるけれど、再び疑問が現れ結局補い続けているようだ。

「ちょっと、この葉書」

 優希は、居間の棚にたち、何かを持ち私に差し出す。それは葉書で、宛名に、優希の名前が書かれ、その横に小さく私の名前が書かれている。だからといって私の家に届く事も無く書かれている優希の現住所に届けられているわけだが。その理不尽な葉書を受け取りヒックリ返すとそれは写真だった。どうやら写真に住所と名前を書いて送ったらしい。そこに写っていたのは、白い歯をくっきりと見せた満面の笑みのキックと、なぜかその横で微笑む降谷。これはいったいどういった事で、何が起こってこの組み合わせが写真に納まったのだろうか。想像を絶する展開に言葉を失った。凍りついた私を見ている優希が、腹を抱えて馬鹿笑いを始める。

「どうなってんのよおおお」

 畳の上で、叫ぶ私をみた優希のお祖母ちゃんは驚いてお盆の上に乗せていた三角に切られたすいかを畳みの上に落とし、三角の先の部分が、ぱかりと割れた。

 二人の後ろに、幌がついたジープが写っている。これは、今のキックの愛車だ。それにしても、またひとつ疑問なのだが、このジープも見たからにおんぼろで、それどころか、今度はドアまで吹き飛びそうな車だった。


ー完ー

これにて、フィルムは完結になります。
お読み頂きました皆様方、ありがとうございました。
  

十二月の出来事 3

2005年05月25日 | FILM 十十一十二月
曇りのち雨【十二の三】→→→ 一番遠い駐車場へ回され正面の道路を通らずに、中庭を抜け正面の玄関を目指そうと足早に進んでいく。

「僕に何か出来ることがありますか?」

 突然飛び込んできた声に歩調が緩み、ぱたりと歩みが止まる。
 病棟前、茶色の歩道沿い、花が咲いていない花壇が続く。花壇向こうのベンチに座る大きな背中は肩を落とし、小さな背中は頼もしさと優しさが滲み出ている。二人は、芝生が広がる中庭を前にしている。黒のダウンジャンパーを着た青年。紺色のカーディガンに、ベンチから覗く足元の白いスカート。突然、飛び込んできた一言でも、ダウンジャンパーの青年がどんな立場なのか大まかに予想が付いた。患者の家族か、友人か、恋人か、助けたい人がいて、自分に出来ることを探している。それをナースに相談しているのだろう。私は、前にいる二人に気づかれないように、二歩前へ出る。聞き耳をたて、悪いと思いながらもその答えが知りたかった。真直ぐ前を見ていたナースが、俯きぎみに少し前を見続ける青年の方へ体を向け斜めに座り直す。ナースの横顔が青年を見つめた。

「たくさん笑うと、免疫力を上げることがあるんです、まだ、実証されていないんですが、そんな症例があります」

 淀みのない疑いすら浮かばない、青年に向けられる視線のように真直ぐな言葉。躊躇うこともなく続け、微笑んで見せた。青年が大きく肩で息を吸い込み吐き出した。空気は、吐き出されたけれど、萎んだ背中に空気が入れられたように見える。すくっと立ち上がり、座るナースと向き合い照れながら笑顔を薄っすら浮かべた。俯いていた頭が真直ぐと前を見据え、その中に私が偶然入り込むと、私がナースに用事があるのかと勘違いしたらしく、ぺこっと頭を下げ、ナースにお礼をいい立ち去った。ナースは、立ち上がりながら、後ろを振り向く。
 優希にとってお世話になった人は、病院の医師や看護士で担当の方に会えば、優希と遭遇するのではないかと考えていた。間違ってはいなかった、けれど肝心な事が抜け落ちていたらしい。どうして、もっと早く気づかなかったのかと、益々自分が情けなくなる。優希が一番お礼を言いたかったのは、おそらく目の前にいるナースだろう。隠されていたのか、それとも、また、騙されていたのか、ただ、言いたくなかったのか。今となっては、分からないし、知る必要もない。

 向かい合う二人の間を、白い何かが横切る。視線は奪われ咄嗟に追う。花壇の上を通り抜け、芝生の上を低空飛行し、突然の風に煽られた紙飛行機は体勢を崩し巻き上げられ芝生の上に突き刺さる。今更目の前にいるナースと話す事などない気がし、優希は、もうこの病院にいない予感もする。優希を追うパワーもなく、虚無感が占領していく。花壇を乗り越え、ナースの横を通り過ぎ、柔らかな芝生の上を歩き、先が芝生に突き刺さる紙飛行機を拾った。先の部分が潰れている。紙飛行機を手にしたまま後ろに振り向き、病棟に開いた窓がないか探してみたけれど、どこから投げられたものなのか分からない。

 近づいてくるナースのカーディガンが風にぱたぱと揺れ、胸元についてる中村と書かれた名札がカチカチと音をたてている。

「優希、長野へ帰ったよ」

 強くなり始めた風、後ろから吹き抜け中村の髪が前へ流され顔に触れると右手で押さえる。

「過去形?」

 潰れた紙飛行機の先端を爪をいれて出来るだけ伸ばしてみるが、衝撃が強かったのか跡は消えずに、戻ろうとする。

「駅まで飛ばせば間に合うかも」

 中村は腕時計をみながら、時間を計算している素振りを見せ、私は紙飛行機の軸を指先で持ち、二、三回飛ばす素振り見せる。

「飛ぶわけ無いじゃん、ちょっとの風に煽られてすぐに庭に落ちる紙飛行機なんかさ、届くわけがない」

 紙飛行機を突き出し、中村の前へ翳す。冗談にもならない言葉しか発せられず、虚無感を埋めるのは苛立ちしかなく、徐々に占領を始めていく。

「現実逃避か」

 紙飛行機は無視され、私を真直ぐに見据え大きくため息をつくような言葉が吐き出される。

「所詮、こんなものだよ」

 苛立ちを見せるのは、大人気ないし出来るだけ隠しておきたくて笑いたくもないのに、笑って見せると、中村は、私を見透かしたように嘲笑い目を細め腕を前で組み肩を振るわせる。しばらく笑いが続き、突然腕が解かれると、ぴたりと止まり、表情は一変し仏頂面になり、水泳の息継ぎのように空気を吸い込んだ。

「何をどうしたかったわけ?支えてあげようとか、決心していたりしたの?もともと、出来ることなんてたいした事ないでしょ?」

 こんな中村は初めてで、いつもより二倍のスピードで言葉が飛び出している。一瞬、驚き固まってしまったがすぐに解凍した、なぜなら腹が立っていたからだ。

「随分とはっきり言ってくれるね!!そんなの分かってるよ、私は、医者でもないし、看護婦でもないし、家族でもない、現に優希が長野へ帰る事すら知らなかった訳で、気づくことすらなかった、ペアルックを着ちゃうようなやつに、いちいち言われる筋合いはない!!」

 中村に怒りをぶつけるのも筋違いだというのは、片隅で理解し、大人気ないぞとも、もう一人の自分が言っていたけれど、止める事は出来ずに、捲し立てるしかなく、声を荒げている自分を恥ずかしく思いながらも、掻き消すように尚、張り上げる。

「ぺ・・・ペアルック?何言ってんの?馬鹿じゃない!!あたしがここの看護師だって事も知らないすっとこどっこいが、優希に何をしたかなんて分かるわけ無いじゃん。それとも、何?知って知らぬふりでも決め込んでた?ぜひとも言ってみてよ、ペアルックがどうして悪いのか、私が優希に何をしたのかをさあ、さああ」

 ナースは冷静な判断を要求される職業ではないのだろうか。少なくとも数分前までは、立派なナースが目の前にいたはずだ。あんな心遣いはどこにも見えないどころか、まるで別人である。これほどまでに怒り捲くるナースも、中村も今だかつて見たことが無く、気が付けば呆気に取られ、吹き抜ける冷たい風が、辛うじて私を引き戻してくれる。中村は高揚し体全体に力が漲っていて立ちはだかる壁のようだ。

「知るかああああ、そんなのおおお」

 叫ぶ前に、遠くの空に光が走り、語尾のところで、ゴロゴロと地響きのような音が鳴り、それに驚いた私は、肩をビクつかせ声が裏返ってしまう。咄嗟に恥ずかしさを補うように右手で中村の左肩を押すと、予想以上に力が入っていたのか、掌がつるりと滑って宙に浮いてしまいそのまま引き戻す。

「私は、優希がこの病院に来る前から、ここで働いていたんだよ。ここに、私が居たから、優希は色々話しただけで、馬鹿な二人みたいに、一緒に泣く事も叫ぶことも、笑うことも出来なかった。してあげることは、幾らでもあったけど、することは出来なかったんだよ。優希はねえ、馬鹿な二人だから言いたくても言えないことだってあったはずで」
「馬鹿ア??」

 馬鹿という言葉に過剰に反応し、言葉を遮り中村の目を睨みつけると、その目には、溢れんばかりの涙が溜まり、今にも、ぽろぽろと流れ落ちそうだ。私が泣かしたのか、いや、泣かされるのは私ではないだろうか。それとも、ペアルックがあまりにも悔しいのだろうか。

「馬鹿じゃん、大馬鹿だ。優希が、どんなに塞ぎ込んでいようが、無理矢理笑わせて、立ち上がらせて、いつの間にか、動かざるおえなくなって、優希は、いてもたってもいられなくなって、その繰り返しで、苦しい時間も、少し短くなって、忘れさせて、おまけに馬鹿の一人は、病状聞かされて、私とぶつかっても、気づかない程、動揺しているし、それでも考えて、苦しんで、叫んで、車をへこませたり、でもさあ、いろんなことあるのに、傍からみたら羨ましく思うほど、楽しそうに過ごして・・・笑って・・・」

 怒鳴られているにも関わらず、羨ましがられているとは、冷たいものと温かいものを一度に口で含んだような戸惑いがあったけれど、中村の何度も途切れながら放ち続けた言葉の単語が、辞書を引いたときのように心に入り込み重さを感じさせていく。中村は落ちそうになる涙を堪えながら、話し続け、大きく息を吸い込み吐き出した。

「これが、馬鹿以外なんのよおおおお」

 瞬きを堪えていたが耐えかねたらしく瞼が閉じ、開いたときには、一筋の涙が猛スピードで頬を伝い流れ落ちるかどうかのとき、中村の手が涙を拭い線が崩れ、次に涙が溢れそうになると背を向け肩で息をしながら、ズカズカと、芝生を削り取る程の勢いで怒りを撒き散らしながら病棟の方へ歩いていく。反論する暇もなく、言われるだけ言われ続け、幕が一方的に下ろされていた。
 吹き下ろす風当たりが尚、強さを増す。病棟の間を音をあげ抜けていく。いつの間にかすべての窓が閉められている。辺りを見渡せば、今にも大泣きしそうな空を避けるように、誰もいなくなっていた。覆い尽くす雲はめまぐるしく流動し一層、グレーの上にもっと濃いグレーが塗りつぶしていく。
 みもふたもないほど打ち砕かれ粉々になった虚無感と苛立ちをなくし、深夜放送を終えた後の砂嵐の前のカラフルな画面のようになっていた。そこへ、緊急ニュースの画面に切り替えられたように、大変な事を思い出した。うっかり忘れていたといえばそれまでだが、優希はもう、この街を出てしまっただろうか。

 自らの不甲斐なさを反省していると、ポケットがブルブルと揺れている事に気づき携帯を取り出すと優希からの着信だった。
 随分とタイミングが良いじゃないかと受話ボタンを押し、何も発せず、耳に押し当てる。

「のり?」

 始めに話したのは、優希だった。

「うん、長野に行くんだって?中村に聞いた、随分酷いやつだな」

 いつもと変わりなく会話をする自分が不思議に思える。出来れば、今さっき中村に懇々と言われ続けた事を伝えたい気分だったが、そんな時間はないだろうし、伝えるのも迷惑だろう。したがって、確信的な若干の八つ当たりを言葉の節々に織り交ぜながら続ける。優希はなにも言わない、自分の事で怒っているのだと勘違いしているのかもしれない、けれど、一概に間違ってもいないので、あえて訂正するのをやめる。

「優希」

 今まで何回この名前を呼んだのだろうか。優希の名を始めて呼んだのは、いつだったか、始めは苗字で呼んでいて、一緒に居る時間がちょこちょこと増え始めたくらいからきっと、優希と呼ぶようになった。呼びなれた名前を呼ばなくなると、よそよそしくなったり、忘れてしまったり、するのだろうか。

「優希、あの本、あの意味もなく分厚い本。あれ、読み終わった。それで今日返してきた、というよりも佐々木に押し付けてきた。まったく、最後の一文字まで感動もなにもありゃしない、最低の本で最高につまらなかった、間違いなく今まで読んだ本でダントツのワーストワンだ。どこの誰だか知らないけれど、誰が何の為に書いたのか疑うよ、きっと金の力で無理やり本にしただけだな、あれは、ただの自己満足だよ」

 話しているうちに、また別の怒りが顔をだし、佐々木のメッセージ、一生忘れませんなんていう言葉も怒りの炎の燃料へ変化し、怒りがふつふつと湧き上がり、ぶつぶつと受話器に向かって重なる怒りをぶつけ続けていると、まるで落語でも聞いているかのように、随所で優希の笑い声が上がる。

「あのねえ、笑ってる場合じゃないよ、どれだけの時間を費やしたと思っているのさあ、一時間や二時間、三日や四日じゃないんだからあ」

 足元の芝生の中の一部が切り忘れた髪の毛のように伸び放題で飛び出している。二つに分けて先端を結んだら、誰かが躓くだろう。中村が躓けば良いなと勝手な想像をする。左足で、おもいっきり掠るように蹴り上げるとパサッと音が鳴る。

「のり。私達は、自己満足を手にしたんだよ、分厚い本を読んだっていう」

 私達。優希も読んでいたということなのか。と、なれば、またひとつ騙されていたということだろう。今更驚きも落胆もなく開き直って聞くことにする。

「私達?読んだの?」
「もちろん」

 やはり、そうだったのか。何気にあの本を私が気づくように置き、食いつくのを待っていたと考えても不思議でないだろう。

「つまらないって教えてくれれば、多くの睡眠や自由な時間を手に出来たと思うんですが?」

 優希は、つまらないという事を知りながら進めたのは、無意味な時間の多さを誰かに体感させたかったのか、あまりにも退屈な時間の連続で、八つ当たりでもするように私に同じ思いをさせたいがために勧めたのかもしれない。

「あはは、それはどうかな?頭が痛くなるほど爆睡して、何をしたかも憶えていない時間が増えただけだよ。うん、間違いない。あっ電車来たからもう切るよ」
「うん。じゃあ、また、って、おいっ!!こらあ!!」

 まるで、昼休みの電話のようだ。優希の声が聞こえず、切られてしまったのかと受話器に耳を傾けていたが、電子音は聞こえず雑踏だろうノイズが聞こえる。優希は、何も言わずにただ携帯を握っているようだ。その中で、電車を知らせるアナウスが聞こえる、優希が切れないなら私が切ろうと耳元から携帯を放そうかと考えていた。

「あっ」

 篭ったアナウスの音に混じり優希の何かをみつけたような声が漏れると、離しかけた携帯を再び握り直し耳に押し当てた。


thank you
次回、ラストへつづく・・・

十二月の出来事 2

2005年05月21日 | FILM 十十一十二月
曇りのち雨【十二の二】→→→「忘年会?」

 サラリーマンサンタがビルの隙間に隠れ見えなくなり、となりの優希が息を吸い込み吐き出す音が聞こえ、一時置き、ぽつりと声を出した。優希を見遣ると、いつもと変わらない雰囲気へと変わり、居心地の悪さはこのフロアからくるものだったのだろうかと思いなおしていた。

「そうそう、奥の居酒屋。そっちは、忘年会兼送別会?」

 ほっとした気持ちがじわりと広がり、不安な気持ちが消え、話しながら後ろにある長いすに腰を下ろす。

「佐々木ちゃんが寿退社」

 優希は、私のとなりに座る事無く視線は、いまだにガラスの外へ向けられている。

「へーそうなんだ」

 笑顔で頷いて見せる。佐々木といえば、車上荒しにあったことを思い出す。私にとっては、勝手にコーラ事件と格付けていて四月の苦い経験をも呼び起こす。そういえば、佐々木は未だに、シートに飛び散ったコーラは泥棒が飲んだものだと思っているのだろうか。今度会ったら聞いてみようと決める。

「鉄板焼きかあ、羨ましいなあ」

 ガラスに映る優希に顔は、白い頬だけがはっきりと見えたけれど、目や口元は影が出来ていて、見て取れない。髪の毛から覗く白い首元と、少しなで肩の肩と真直ぐ伸びた背中を眺めていると、突然、不安な気持ちが、心の中で膨れ上がってくる。優希は、振り向き背中をガラスに預け、一度フロアへ視線をやり、私の顔へ移すと人数が少ないからと続けた。その時、私の中で不安が絶頂に膨れ、その視線を離さぬまま一瞬間が開き、大切な事を思い出したように口にする。

「そうだ、あれ、どうだった?」
「あれって?」

 優希は首をかしげ、私を見下ろしたまま、何も言わずにガラスに寄りかかっていた背中を浮かせ直立に立ち私の答えを待っている。

「検査・・・検査するって言ってなかった?」

 優希は、あれの意味することを知っていたかも知れない、私が検査の事を口にする事を望んでいなかったのだろうか。いや、望んでいなかった。それでも、私は、戸惑いながらも、びくびくと口に、その答えを待っている。

「ああ・・・。言わなければいけない?」

 やっぱりかと確認するような失望混じりのため息をつき、背にしたガラスから斜め前にいる私へ体を少し向け左掌がガラスに触れる。

「そういうわけじゃないけど、なんか気になったから」

 威圧的な態度に完全に押され続け、どういうわけかも分からぬまま気持ちと動揺に口元もしぼみ、しどろもどろになっていく。

「これから先、結果が出るたびに言わなきゃいけない、今回は、こうだったとか、ああだったとか言わなければいけいない?」

 周りを気にする事無く響き渡る優希の声は、まるでジャブを数回喰らい、いきなり強力なアッパーを喰らって吹き飛ばされる程のノックアウト顔負けだった。不安をきっかけにふとした疑問が言葉にでて、優希を傷つける結果になった。今、言葉を一つでも吐き出せば、必死で堰き止めているものが溢れ出てしまう。そんな事態は絶対にあってはならないと、長いすの淵を力の限り握り締め、目頭に力をいれ一分一秒でも早く優希がこの場から去る事を願う。
 エレベーターが開く音が鳴ると、そこから足音が出て優希の名を誰が呼ぶ。

「御免なさいね、遅れてしまって」

 少しだけ顔をあげ、振り向く事無くガラス越しに伺うと、コートを着た年配の女性が優希に笑いかけ待っている。優希は、いくつか言葉を返し、ガラスに付けていた掌がコブシへ変わり付け根の関節が強く浮き出てそこから離れていった。窓に映る優希の後姿が、年配の女性と共に遠ざかっていき店の中へ消える。あのコブシで出来るなら、私を殴りたかっただろう。もし、エレベーターが開かなかったならば、そうなっていたかもしれない。
 掌を囲むように白く曇っていたガラスが、見る見るうちに崩れ、何もなくなった。
 このまま、座っているわけにもいかず、仕方なく立ち上がりガラスの前に立つ。
 優希と同じように、掌をガラスにつけてみると、ひんやりと冷たく、その温度が少しずつ体に入り込んでいくように感じる。
 その温度を意識しながら、気持ちを整えていく。今にも溢れそうだったものが、徐々に引いていく。目を瞑り、深い呼吸を何度も続ける。頭が前へ傾いたとき、ゴツンとおでこがガラスに当たり、鈍い音とじんわりとした痛みが頭に響く。目を開けると、何度も吐いた息が、ガラスを白く曇らせている。
 優希の言葉に、膝を落としてうな垂れるほど酷く傷ついた自分がいて、それを見下ろしている自分もいた。優希の言葉は、落胆するほど冷たくあっけないもので、おまえなんかに関係の無い事だと面と向かって罵られているようだった。
 たしかに、私の言葉すべてが人事そのものだったのだ。謙遜とかそんなものでもなく、こんな大切な事は、友達に気軽に話せることでもないはずで、友達よりも家族の方がずっと深刻でその代わりなんて甘っちょろいことは出来るはずもなく、私は、ただ、良い結果を期待し安心したかっただけなのだ。
 けれど、それは私が頼りないとかそんな事が原因なわけでもないだろう。誰よりも頼りがいのある友人であっても同じ結果になるに違いない。なぜなら、友人というのはそんな役回りなのだ。結局一番になることはありえないように、重大であればあるほど首を突っ込みづらくなり、何か言おうとしても言葉を詰まらせるか、気休めなものしか掛けられない。たとえば、家族を犠牲にしてまで友達を守ろうとしないだろし、たとえ逆のパターンはあってもそれはなく、平気でなくとも犠牲にすることは出来る。
 だからこそ、こんな忘年会の前に偶然あって、立ち話でこんな事を簡単に口ずさんでみたりするのだ。
 こんな事を考えながらも、優希の言葉にダメージを受けても優希には煮えくり返るほど腹が立ちおもいっきり怒鳴ってやりたい衝動にかられても、それと同じくらい自分自身も罵倒したい気分なのだ。

 エレベーターが、また人を運び込んだ。そこから出てきたのは同僚達で、駐車場がどうだとか騒いでいる。一人が、私に気づき声をかけ、私は、人並みの笑顔を彼らに投げかけ、何食わぬ顔でその中へ入る混み、鉄板屋の前を通り過ぎ、目的の居酒屋に入っていく。私が曇らしたガラスは、もう、跡形もなく元の姿に戻っているだろう。


 年末休みに入り、明日はスノーボードの大会でもらった一泊二日の温泉が控えていた。コタツの上に置かれている本を遠くから眺めて、寝不足でシバシバとする目を擦りながら、大きな欠伸をし本へと近づき手を伸ばし抱え、旅館から送られてきた湯気が立ち上る露天風呂が印刷された四つ折りパンフレットを載せ車の鍵を取る。
  助手席に置いた本と四つ折りパンフレットと共に、正月準備に忙しく動き回る人々をみながら図書館へ向かう。
 駐車場は、想像していたよりも年末という事もあってか混んでいて空いている所を探し車を停める。本を抱え車から降りると、どんよりと低いグレーの雲で空は覆われ冷たい風が音をあげ吹きぬけていく。夕方までには、雨か、霙が降るかもしれない。雪が降るには寒さがいまひとつ足りないだろう。冷たく低い空を見上げながら一週間前の痛みを感じていた。あの夜から優希とは連絡を取っていない。一週間連絡を取らないことなんてざらにあったので気にすることもないのだけれど、お花見のときのような気まずさがしっかりと残っている。
 とりあえず、あの件はあやふやにし、この本を返し明日の温泉の話でも、さり気無く持ちかけてみようかと考えていると、パンフレットを助手席に置き忘れたことに気づいたが、戻るのが面倒くさくそのまま歩く。
 借りた本を持ちながら、館内を見回す。優希の姿は見当たらず休憩に入っているのかもしれない。

「あら?」

 自動ドアを抜けると、暖房が効いていてそれが頬に当たる。静かな図書館は、いつもよりも賑やかだった。当てもなく通路を歩いていると、棚の整理をしていた佐々木がびっくりした様子で手元を止めたまま顔を上げる。驚かせてしまったのだろう。驚く佐々木を前に、私は、あの事を聞いてみようと閃く。

「こんにちは。あの、突然なんですが、コーラ事件、あれ、犯人分かりました」
「え・・・コーラ事件」

 きょとんとした佐々木は、何のことだか分からず困り果てた様子で動きを止めたままで、仕方なく車上荒しの事だと説明すると、大きく頷き、サルだったんですよねと続ける。

「あの後すぐだったかな、優希さんが教えてくれたんですよ」

 明るかった佐々木の表情が曇り、何か悪いことでも言ってしまったのかと気になり明るい話題を探す。

「あっ結婚おめでとうございます」

 表情は、どこか上の空で辛うじて返事は戻ってきたが、益々曇っていく。仕事中に話しかけた事を後悔し、その場を後にしようと考えていた。

「優希さん、送別会の写真を取りに先ほどまでいらしていたんですけど、この後もお世話になった方に挨拶にいくって行かれちゃいました。本当なら、一緒に辞めたかったんですけど、なんか気を使ってくれたのかなとか思ったり、優希さん、最後まで優しい人でいろいろ気を使ってくれて、私感極まってあまり感謝を伝えられなかったんです。だから、優希さんに会ったら、一生忘れませんって伝えてくれませんか?」

 なんなんだ、この懇情の別れのようなメッセージは。薄っすら涙を溜めた目で、そんなわけのわからない事を言われても何がなんだか理解に苦しむ。けれど、聞き捨てならないのは、優希は一足先に仕事を辞めたという事だ。あの時の送別会は、優希のものでもあったということだ。でも、なぜ、辞めたのだろう。

「優希には、ちゃんと伝わっているよ」

 どれだけの感情が詰まっていたのかは量れない、持っていた本を佐々木に手渡しそこを後にした。そんな事は、自分で伝えればよい。私にだって、伝えたいことはある。人のことなんて考えていられない。気が付くと走り出していて、館内にいる人々が気づくと視線を向けていたが、そのまま、外へ駆け出していた。

 車にエンジンをかけ、点灯したランプが消えサイドブレーキを下ろし、ブレーキからアクセルに踏み換えようとしたが躊躇しブレーキを踏んだまま考えを巡らす。携帯には着信はない。なら掛けてみるべきか、それは得策ではない気がする。優希の行き先、私やキックの元ではないのは、明らかだろう。なぜなら、何も知らされていない私達のところへ行けば話はややこしくなるに違いない。部屋にいくべきか、思い当たる挨拶にいっただろう場所へいくべきか二者択一、直感を信じアクセルを踏み走り出す。

 これは、酷い裏切りか、それとも私の思い過ごしか。今ある事実は、図書館を辞めたということのみだ。いったい、辞めてどうしようというのだろう。何かの理由で転職して驚かそうとでも考えているのだろうか。もし、そうなら、言わない理由も理解でき、明日の温泉旅行ででも言おうとしているかもしれない。もちろん、それなら、騒ぎ立てることもなく、その時を待てばよい。けれど、そんな様には、どうしても思えなかった。なら、明日の温泉はどうなる。キャンルか?それとも、明日の約束は守られるのか?いや、今日の夜、温泉の仕度をしている優希を信じる事はできない。私は、おそらく、まんまと騙されている。


thank you
つづく・・・

十二月の出来事 1

2005年05月18日 | FILM 十十一十二月
曇りのち雨【十二の一】→→→ クリスマス直前の十二月二十二日、仕事へ出かける前、ティッシュを一枚取り鼻をかみながらテレビの前を通ると十二星座占いのランキングが流れていて、ちょうど視線を向けたとき十二位の星座が映しだされていた。目の前のゴミ箱にティッシュを投げたが淵に弾かれポロリと落ち、舌打ちしながら拾って捨てる。廊下を歩き、玄関に据わり靴を履きながら、大きくため息を吐き出し、今晩行われる忘年会の事を考える。占いの結果が後を引き気持ちが重い。せめて、十一位だったらと考えたけれど、もしそうなら、占いは見ていなかっただろうし、最下位だからこそ、タイミングが合ってしまったのだ。つまり、そのくらい運気が悪いぞと言われているような気がしてならない。知らなければ落ち込むこともなく、眠い目を擦りながら何も考えずに出かけられたはずなのに、占いのおかげでとんだ迷惑を被った。それでも何も起こらずに通りなれた道を進み、いつもの場所で渋滞に巻き込まれ、いつもどおり出社し、時間は過ぎていった。


 思ったとおりに物事が進まず戸惑い、居場所を失うでしょう。ラッキーパーソンは、イルミネーション。朝、見てしまった占いをふいに思い出し、窓に写る浮かない自分の顔と目が合う。鼻息が、その顔を曇らせる。曇った顔の後ろには、横にいる同僚南の横顔があり、その後ろには南の体から生えているかのように白く細い足が二本出ている。それは、南のふくよかな体ではなく、その横に座る日下部のものだ。

 七人乗りのミニバン、異様な空気が漂う車内の三列に並んだ座席の真ん中に、三人は座っている。右端の日下部は、時々足を組み替えている。真ん中の南は、私の座席に半分体をはみ出していることに気づく様子もなく、前にいる二人の会話に相槌を打ち、半分になった座席に左ドアと南の壁に押し潰され、まさに占い通り居場所を失い続けていく。

 仕事をそうそうに終え、第一陣は忘年会が開かれる居酒屋へ向かう。酒を飲まない同僚の車に乗り込んでいた。
 会社から出て、乗り込んだときは、真新しいシートの匂いがし、ルーフ部分は電車の窓のようにおおきくガラスが張られ、たしかCMで、家族が楽しく街の中を走り後部座席に乗る子供が、上を見上げ満面の笑みを浮かべているのを思い出し、まさにファミリーカーの典型だ。助手席にタバコを吸いたがってウズウズしている三浦、真ん中の座席、運転席後ろに、いつもよりも香水の匂いを撒き散らしている日下部、助手席後ろの私、日下部と私に挟まれる、巨漢だけれど、顔が小さく可愛い笑顔、米粒のようなピアスをつけている南、その後ろの座席に悠々と座っている一番年下だが一番のプライドの持ち主の眉毛が細い加藤、気が小さい上に、広がったおでこの皺から苦労が耐えなくありそうな四十歳を越えただろう田中さんが、幹事加藤に気兼ねしながら、さりげなくアドバイスを伝授していく。ハンドルを握るのは、三十五歳にして四人の子持ちである茶色の淵眼鏡をかけた立花さんで、きっと、家族で楽しく使うはずだったマイカーを、課長の一言で出すはめになり、貼り付けた笑顔の下には、耳を塞ぎたくなるほど悪態をつき続けているに違いない。なぜなら、どうみても、このメンバーは、この車には不似合いで、車のイメージまでも落としかねない。
 冬だというのに、空調からは冷たい風が流れ出し湧き出る異様な空気を出来る限りかき回している。

 車体が揺れるたびに、南の密着した肉がブルブルと振るえ伝わる。車が右折するときは、重心が反対側にズレ圧力が弱まり、締め付けられた体が弛められるのだが、逆に左折するときは、最悪で南の口答で聞いた体重より一割増しの体重が私を押し潰そうとする。この際、九十度の右カーブをおもいっきり曲がって、少しでも隙間を作りたい気分であるが、もし本当にそんなことになったら、反対側にいる日下部の足と体はぽきりと音を立て折れてしまうに違いない。
 そんな妄想にふけながら窓に写り込む悲惨な状況を見過ごし、その向こうにある景色を無理やり見ながら、息苦しさを考えないように心がけ、十五分の移動が一秒でも早く終わることを願い続ける。

 車が立体駐車場に差し掛かると緑色の矢印マークがハンドル越しに点滅を始めると徐行し、アスファルトから二階駐車場へ続く繋ぎ目にタイヤが音を上げたとき、小さな段差だろうが少しだけ車体が揺れ、南も揺れ、その波動が私にも遅れて伝わる。シートベルとの金具が腰に食い込みずきずきと痛む。
 駐車場は、忘年会シーズンということもあり多くが、停められている。助手席にいる三浦が、似たようなバンがライン擦れ擦れに停めてありその横の空いたスペースを指差し立花へ知らせるが、立花は、申し訳無さそうに、あそこは、狭くて入りませんといい、タバコが吸いたくて仕方ない三浦が別の場所を探す振りをして窓の外へ顔を背けたとき小さい舌打ちをするのが、助手席シートと壁の隙間からイライラを募らせた表情がアカラサマに見えた。
 一番後ろに座っている加藤が声を張り上げる。

「立花さん、向かう通路の真ん中が空いています」

 全員が、その方を向く。立花もそれを確認し、アクセルを踏む。車ががくんと前のめりになり、南の体もやや前へくの字になり浮き上がる。そのとき、私はシートに持たれたままで反動で戻ってくる南の巨体が右肩に乗っかる。南は、気付かず駐車スペースがあったことを喜んでいる。私は身動きがとれず、車は、スペースへバックし始め、このままでは、サイドドアを開けることも出来ないので、意を決し南へ顔を向ける。

「これじゃあ、他のやつらも苦労するかもな、やっぱりバスを借りるか、徒歩でいける場所にすりゃー良かったかな」

 南の「み」を発しようとしたとき、おもいきり絵の具の黒を塗られてしまったかのように言葉を、三浦が踏み潰す。南の小さな顔ごしに、幹事加藤の不満顔と視線があう。加藤は、表情を戻すことなく視線を外し、口元がぶつぶつと動いていた。

「み・・・」

 冷たく気持ちよい風が、背中に当たり車内に吹き込み言葉を飲み込む。カタリと音をあげたドアが勝手にスライドし開いた。南が私越しにドアを外をみると私たちは向き合い視線が合い南はそのまま降りる体制に入り体を前へだし、押しつぶされ押し花に成りかねなかった右肩が血の気を取り戻していく。
 南は、私の顔を見つめたまま私の言葉を待っている。

「ついてよかったですね・・・」

 南は、考えることもせず適当に頷く。それもそうだろう。会社から十五分の移動でついてよかったですねはない、エベレストの登頂に成功したわけでもないのだから。南が私を外へ促したので固まりかけた体を動かし肩を擦りながら外へ出る。


 エレベーターの表示を見上げていた。他の乗客もいたので特に会話もなく、光った十五につくのを待っている。十三階に差し掛かるとドアが開きエレベーター内の視線が一斉にフロアにいる三人のサラリーマンに向けられ、先頭にいた男性が前へ進み乗り込もうとしたとき、何かに気づいた様子で引き下がった。乗客が詰めさえすれば乗れたのではないかと思ったが、そのサラリーマンは、ひとつ頭を下げ閉じるのボタンを押した。次に開いたのは十五階で次々に降りていき、最後の南だけが人の間を抜けるのに苦労している。私は、エレベーターを降りてから、南が降りるのを待つ。数メートル先で、日下部が表情ひとつ変えずに振り返り足を止める。男性社員は、加藤を先頭に目的の店へ向かっている。私が立ち止まっている事に気づいた南が、体を揺らしながら駆け寄ってくる。

「途中で止まったとき、もう冷や冷やしちゃった、あの人と目が合って、私思わず首を振って訴えちゃった、乗らないでえって」

 南のつぶらな目が、少しだけ三日月のようになる。なぜそんな事をしたのか分からないまま、南の照れ笑いに答えるように、はにかんでみせ、二人並んで立ったままの日下部の下へ歩く。

 十五階のフロアは、エレベータを降りると向かって左に伸びていて、右側は薄暗い階段と長いすが二つ置かれているだけでその前には一面ガラス張りになっている。左右に店が並び、パスタや鉄板焼きや韓国料理などがあり、私達が向かっているのは、一番奥の居酒屋だ。
 鉄板屋に差し掛かったとき、二、三歩奥まった入口に何人かの女性が固まっていた。全員が後姿であったけれど、直感のようなものが勝手に働き歩調を緩め、目を留め続ける。女性の集団から定員と話す男性がひょっこり顔を出し、何度か女性達に向かっては話している。集団が前へと足を進めたとき塊が崩れ、声も漏れ聞こえ、送別会がどうとか話していてその中の一人が偶然後ろを振り向いた。

「優希」

 ぱっちりと開いた優希の目が、私を捉え数秒だけ時間が止まったのではないかと勘違いするほど見合わせている。南と日下部が立ち止まり私を呼んだことで秒針が動き始め、優希が列から逆流すると同時に、二人へ先に行っていてほしいと伝えると二人の背中は居酒屋へ向かっていく。
 エレベーターのドアが開き、人が溢れ出て賑やかになる。二人はそれを避けるように誰もいない階段の前の長いすの方へ歩く。

「どこかで、みたことある軍団だなあって、エプロン掛けてないと分らないものだね」

 一団が、店へ入っていき辺りは、店内の賑わいが響き伝わってくる以外は、静まり返っていて声が階段の方まで響き少しトーンを落とす。
 優希は、長いすに座らずガラス張りで眼下に広がる街を見下ろしている。なんとなく居心地の悪さを感じながらその横に立ち止まり、歩道に並ぶ植樹が色とりどりのネオンで飾られている姿を眺める。一度優希の横顔を見たけれど、視線は変わらずに下に注がれているばかりで、私は次へ続く言葉を捜しながらもう一度キラキラと光るネオンを眺めた。ネオンで飾られた木々の下を、サンタが歩いている。息苦しそうな髭をつけ、大き目の赤い服に帽子、どこからどうみてもサンタなのだが、ひとつ違和感があるのは、間違いなく、荷物が皮のカバンだからだろう。サンタだ、と呟くと優希が、あのサンタ、サラリーマンと兼業なんだねと言い二人は、くすりと笑った。もちろん、そんなわけはなく忘年会のためにどこかで買って着ているのだろうけれど、僅かでも今ある空気を変えたかった、けれど、寂しくなるだけで何も変わらない。


thank you
つづく・・・

十一月の出来事 4

2005年05月14日 | FILM 十十一十二月
みえないもの【十一の四】→→→「あのお、もうすぐ終わりですか?」

 不気味な手術室を作り上げたフロアの真ん中に、天井からの白いライトが手術台を浮かび上がらせ、その上に覆い被さるように、一人のお化けがいた。私の足音にぴくりと体を動かし、ぐいっと顔を上げる。セメントのような顔、額にべっとりと血がこびり付き汚れた白衣を振り乱しながら、だらりと腕を垂らし肩を力強く動かし不自然に進み続け、半分白目の眼球がぐるりと私へ向けられ、いよいよ悲鳴をあげなければならない状況にも関わらず私はこんな問いかけをした。
 平日深夜のお化け屋敷は、客がまばらで入る時間がずれていれば他の客と出会う事もなく、孤独を背負って進まなければならない。本来なら非常に楽しい状況の中、友達同士だけで恐怖を味あうのだが、生憎、私は一人で悲鳴をあげたところで動悸が激しくなり無駄な体力を使うだけであって、それを楽しむ事など出来ない状況に置かれている。
 セメント顔のお化けの目は明らかに困り果てた人間の目に変わり、左右に黒目が動いている。私を脅かそうとした顔の頬がぴくりと痙攣している。

「友達がリタイアしてしまって、なんか一人じゃただ怖いだけでつまらなくて・・・」

 申し分けない気持ちを表しながら話しかけてみたがセメント顔のお化けは、犬が唸るように声をあげ垂らしていた両腕を前へあげ、私の喉もとに手を掛けるように、空中で動かしている。私の言葉は届いているだろうか。近づきすぎたお化けは、すっぱい匂いと黴臭い匂いがし、思わず、一歩後ずさりセメント顔を覗き込む。低く唸っていた声が、時々妙な高さに上がり、口の周りに皺ができセメント顔に筋が入る。

「うううう・・・真直ぐ行ってえええ・・・角を左に曲がれば出口だあああああ・・・」

 背が高いお化けは、私を覆いかぶすように体を動かしながら、これからの進路を教えてくれている。このお化け屋敷は、廃墟した病院がモチーフになっていてその中を歩き回る設定になっている。そのためか、一本道を歩いてすぐに出口というわけにもいかず、入り組んだ通路を通っていかなければならない。人によっては、なかなか脱出出来ずに時間が掛かってしまったりする。そんなわけで、たった一人で、この中を歩き回るのも、非常に不気味でただ怖いだけでなんの面白みもなく勇気を振り絞って話しかけやすそうなお化けに聞いてみたのだった。案の定、シチュエーションを出来るだけ壊す事無く教えてくれたのだろう。しかしながら、かえって不自然というか場違いというか、私がこんな質問をしたこと事態間違っているのだろうけれど、聞いてしまったのだから仕方ない。

「ありがとおおおお」

 行き場を失い覆いかぶさったまま停まっているお化けをすり抜け、背を向け教えてくれた道をひた走る。三人のお化けが声を上げる暇もないほどの勢いで気にせず走りぬけ、一直線に出口から飛び出した。走りながら外へ出たせいか肺に入り込んだ冷たい空気に体が驚いて咳き込むと、入口のレンガの上に座り込んだ二人が振り向き空いた手をあげている。
 歩調を緩め、切らした息を出来るだけ整えながら近づく。二人の横には、それぞれ缶ジュースが置かれていた。ジュースでも飲んで気持ちを落ち着けようとしたのだろうか。

「もう、一人じゃただ怖いだけだよ」

 うな垂れ、憔悴した二人に話しかける。優希とキックは、入口に踏み込む前から極度に緊張し、私を軸に巨峰の房のように密着していたが、中へ入って最初の非常口が目に入った瞬間に、房から零れた粒のようにお化けを蹴散らしてまで一分一秒でも早く脱出するために駆け出していった。滞在時間は、たった数分でしかないはずなのに、目の前で座り込む二人は随分とテンションが低く力なく私の言葉に反応が遅い。

「あんなの耐えられない、というか設定が病院ってどうなの?少なくとも私は一年前入院とかしていたわけでさあ」

 優希は、恐怖を怒りへ変えながら、自分の入院話にまで結びつけようとしている。たしかに言われて見れば、不謹慎であるかもしれないが、本人も今更気づいた訳でただの八つ当たり以外の何者でもない。優希は、空き缶を数メートル先にある屑篭に頬リ投げる。缶は、ゴミ箱を掠めることもなく通り越し暗い木々の中へ見えなくなった。私は、缶を取りに林へ振り返ろうとしたとき、キックが持った缶がぐにゃりとへこみジュースが飛び出すと、体が地面の方へ屈み濁音交じりの音がキックの口から漏れた。
 考える暇もないほどの速さで飛び跳ね一歩後ずさりし見守る。キックは、吐き気だけで収まった様子で肩で息を整えながら顔を上げると、お化けに負けないほど顔色が悪い。

「駄目だ、あの匂い、鼻と口の奥にへばりついているみたいで気持ち悪い」

 優希が驚いた顔をして、耳を疑ったのかキックに聞き返している。匂い。そういえば、薬の匂いというか古い病院独特の匂いで支配されていたお化け屋敷で、キックは、これを一番の理由としてリタイアしたというのだろうか。まあ、ありえない事でもないかとカバンの中からティッシュを出しキックに渡し、林の中の缶を拾いに行き屑篭に捨てる。

「さてと、なんか、あったかいものを食べるか飲むかしようよ」


 ハンバーグセットについていたアスパラだけ残し箸を置き目の前にいる二人に今の時刻を聞くと、優希がキックより早く一時半と答える。

「一時半かあ、今日は昨日になったわけだ」
「今は今日だけど、さっきは昨日」

 優希はエビフライセットのコーンスープを残して食べ終え、皿の上に海老の尻尾が乗っている。右手でカップを持ち時間をかけて啜っている。

「そういえば、昨日の話しなんだけど、病院に行って検査したんだあ」

 優希は、カップをクルクルと回しながら底についているコーンを浮き上がらせている。私は、揺れる黄色いスープから目を放せずにいる。

「大丈夫、まだまだいけるよ、全然死ぬようには見えないもん、保障するよ」

 キックは特製釜飯定食を米粒一つ残さず食べ最後に残されたきゅうりのお新香を口に放り込み噛み砕いたところで、何かを思い出したかでもあるように言い放ちその言葉に私は思わず、再び箸を取り、大嫌いなアスパラへ伸ばし口に入れていた。
 横にいる優希の目を一時も離さずにひとつ頷くキック。私は、アスパラの味が分からなくなるほど混乱し、鼓動が胸を通り抜けて対面する二人に聞こえてしまうのではないかと心配になる。

 キックは、医者でもなく医学生でもなく、保険屋でもなく、預言者でもなく宇宙人でもない。この言葉を裏付けるものは、何一つないはずで、医者ですら、検査を繰り返して出来る限りの推測をしているにも関わらず、躊躇い無く言い切ってしまい、それどころかどんなものかは知らないが勝手な保障までして見せた。
 何も考えてない馬鹿なのか、よほど自分自身の感に裏付けるほどの根拠があるのかどちらかに違いない。もし、この場しのぎのものだったら、私は一生キックと話をすることはなく人間性を疑い、ゴルフのカーステレオを引き出してアスファルトに投げつけ、ボディにもうひとつ窪みを作るかもしれない。
 ところがキックからは、淀みない百パーセントの確信が全身から出ている。そう信じているのは間違いない。もしも、今日の検査の結果が思わしくなかったらキックはいったいどうするつもりなのだろうか。そういった事は、考えないのだろうか。いつもの三倍くらいキックの頭の中を疑って、考えれば考えるほど腹が立ち、私には、軽率な言葉にしか思えない。

 言葉は、何も出てこない。箸が手から落ちトレーの上に転がるのをみて、窓の外のスケートリンクへ顔を向ける。聞こえないように深呼吸をした。
 万が一検査の結果が思わしく無かった場合傷つくのは優希か、いや少なくともこの言葉に関しているならキックなのかもしれない。間違いなく自分を責める事になる。なら、その事を覚悟しての発言か。私は、そんな勇気もないまま、自分自身が悔やむのを恐れているのだろうか。スケートリンクから二人へ視線を戻す。
 キックは、冷めたお茶を啜り、優希は、空になったカップの中にへばりついたコーンをホークで差し全部食べ終え、ホークを置き、僅かに緩んだ口から泡のような笑いが浮かび上がっては零れて、そうだねと言い、キックがそうだよと続けた。私は、どんな表情を浮かべているのだろうか。普通の表情になっているだろうか。今の自分の顔を鏡で見たらきっと、がっくりと肩を落とすだろう。分かってはいてもどうする事が出来ない。二人はポツポツと会話を続けていたが、私に向けられることはなかった。
 声以外の雑音が聞こえ耳障りで、椅子を引く音や、厨房から片付けを始めたのか何を擦る音が響く。音のする方をみても、壁で隠されまったく見えない。閉店へ向けブラシで何かを洗っているのだろうか。その時、風呂掃除をしている優希の後姿が脳裏を掠める。
 検査が終わって、不安だったのかもしれない。だからあんな掃除を始めた。思い過ごしかもしれない、聞かなければ本当のことは分からないけれど、私には、聞く事が出来なかった。キックなら平然と聞いているかもしれない。尚更、キックの言葉を肯定することが出来ずにいた。

「ほら、行くよ」

 二人はいつのまにか立ち上がり、キックは伝票を持ち、優希は持っていた荷物を私の頭の上に乗せる。意味の無い行動に、その荷物を見上げそのまま立ち上がり荷物がずるりと落ちる。優希の横にいる何食わぬ顔をしたキックを睨み付けると睨まれた本人はなぜ睨まれているのかと不思議な顔を浮かべ出口に向かう。後に続き横にいた優希の肩がぶつかり、私はよろめき元に戻ると腰の部分をぱしりと叩かれた。

「温泉旅行は、内緒にしてやる」

 よろめきながら呟くと、優希は、くすくすと笑う。大人気ない事は重々承知であるけれど内緒にして、お土産を突然渡してやろうと決意していた。

このご時世何が正しくて何が間違っているかなんてなかなかはっきりしないものだ。

 一連の出来事で多少テンションは落ちていた。けれど無理に上げる必要はないだろう。真夜中のリンクを滑りながら、時々立ち止まっては、デカイモミの木を見上げたり、目の前を通り過ぎていく人を観察したりしながら、それぞれの立場でそれぞれの事を考えていたのかもしれない。
 それでも面白い話は笑えたし冗談も言える。見えないものは、相変わらず見えず、偶にもどかしさを感じるけれど、訳の分からないものを、手探りで受け止めて見たり、ただ見過ごしてみたりと少しずつ、受け止められるようになっていた。

 季節より早く飾られたツリーはどんと立ち時折吹き付ける風に揺らされては飾り付けられたベルたちがからからと安っぽい音を奏でていく。一足早いクリスマスが一年という年月の流れを早く感じさせていた。丁度一年前、私はゴルフを蹴り上げていて、いまだに治さず窪んだままで最近では気にする事も無くなり、ゴルフの一部のようにも思えていたが、この考えは私だけかもしれない。
どこに生えていたかもわからぬツリーを見上げながら、車の事は忘れ、あのツリーが普通に過ごしていただろう森を勝手に思い描いていた。


thank you
おわり・・・

十一月の出来事 3

2005年05月11日 | FILM 十十一十二月
みえないもの【十一の三】→→→ 連なる山の中を一本の有料道路が引かれそこを延々まっすぐに突っ走ると眼下に広がるのは、散りばめられた灯りと、無数の光が集合する街が一際煌びやかに見える。そのほぼ中心には、ビルや住宅などの光とは比べ物にならない程の多色のネオンや真直ぐと空へと伸びるライトが、ぐるぐると旋回しどこよりも光を放ち続けている。中には、器用に動き回っているものもあり、きっと何かのアトラクションだろう。次第に車は、その光の中へ飲み込まれていき闇は、随分と高いところに離れていってしまったように思えた。
 車を止め外へでると、目の前に無数の柱が器用に組まれ首が痛くなりそうなほど高い所からジェットコースターが振動と悲鳴をあげ風の如く走り抜けていく。しばらく、その姿を目上げていたが、乗っているわけでもないのに、なぜか立ちくらみがした。優希は、ちらちらとコースターをみながら、首に暖かそうなマフラーをし、こまめに防寒対策をとり、目を輝かせている。
 吐く息が、白く色を付けている。風も冷たく耳が少しだけ痛みを感じる。まだ十一月の下旬だというのに、ここは一足早く冬に包まれているように思える。でも、真冬になれば辺り一面は、数十センチの雪に覆われてしまうのだろうから、地元の人たちは、私が感じているほど冬とは思っていないのかもしれない。
 ジェットコースターの下を潜るように入場する。周りは、色鮮やかな電球で飾られていて、正面の入場口には、団体客が写真を取る為の記念撮影用に並べられた長いすが並び、誰かを待っているのかぐったりとしていくつものビニール袋を抱えた客が端に座っている。私達は、その反対側のチケット販売口へ向かい引換券を差し出しチケットを受け取り腕に付ける。
 入口を抜け、どちらかというと地味な通路を歩く、両サイドには壁があり連なる蛍光灯と遊園地やアトラクションを告知するポスターがびっしりと貼られている。音楽も何も流れてなく足音と話し声だけが聞こえ、帰るものは、この歩道で現実の世界に戻され、行くものは、現実の世界からどこかの世界に迷いこんでしまったのではないかと思わせる。何人かの帰り客とすれ違ったが、誰も私達の方を振り向かずにひたすら出口へ向かっていた。
 両側の壁が途切れ木々に覆われた歩道へと変わり道の先からは、真っ白な光とアトラクションの音とざわめきと篭ったBGMが聞こえ始め、心臓が、そのリズムを楽しむように早く刻んでいく。三人は、正面広場に足を踏み入れた途端ぱたりと止まり、びっくりするほど高い木を見上げていた。

「デカクナイ?」

 なぜ、こんなにデカイ木がここにあるのだろうと考えながらも、括りつけられた飾りをみてクリスマスのイベントなのだろうと納得した。あまりにも大きすぎてどのくらいの高さなのか検討が付かない。とにかく、小さいビルよりも高い。

「もみの木?星あるし」

 優希の言葉に、一番上の部分を見ると黄色の星型の電飾が煌々と光を放っている。飛行機が着陸出来るのではないだろうか。

「こんなのどこに生えてるんだろう」

 下の方は、ラジオ体操第一で行われる手を左右にブラブラとするみたいに、風が吹くとゆっさゆっさと様々な形の装飾品と共に揺れている。作られた小さな丘に埋められている根はしっかりと大きな幹と葉と装飾品を支えているようだ。しかしながら、こんなに大きなもみの木が日本のどこからか運んできたものなら、なんというか、そのままにしてあげればよかったのにとふと思う。こんなうるさい所に埋め立てられ、訳のわからないものを付けられ、オチオチ光合成もしていられないのではないだろうか。これでは、ほくろの上に生えてしまった毛のようではないか。

「・・・キック、生えるって、たとえがおかしいよ。へんなこと想像しちゃったじゃん」
「はい?ただの素朴な疑問を勝手に想像するのが悪い」
「ところで、何を想像していたのさあ」

 優希が私の顔を覗きこんでいるが、なんだかほくろの上に生えた毛を想像したと言うのが無償に恥ずかしく言葉に詰まると、顔が赤くなっていくのが自分でわかり視線を逸らし、前へ進み、再び首が痛くなるほど、もみの木を見上げる。後ろで優希とキックが、赤くなっているよとあれこれ言いながらちゃかしている。もみの木の下から照らしているライトの横にスピーカーが付いていて、そこから真っ赤な鼻のトナカイが流れ始める。
 私の今の顔は、暗い夜道で隠すことは出来るが、ぴかぴかに照らす事は出来ない。したがって、役にたたないだろう。風に吹かれた金色の鈴が、カサカサと揺れている。
 ツリーの向こう側には、真っ白なスケートリンクに煌々と照明が当てられ白く輝いている。

 アトラクションの配置が印刷された看板の前で何に乗るのか検討する。後ろでは、色とりどりのコーヒーカップがぐるぐると回っている。

「夜も更けてきたしお化け屋敷にいこ」

 私は、お化け屋敷が大好きで、とくにここのは面白いと評判をよく耳にしており、一番に提案してみる。ただ、二人は、こういったもの全般が大嫌いである。後ろのコーヒーカップが回転を弛め音楽が止まりブザーが響く。楽しんだ乗客が次々に狭い出口の階段を降りていく。
 私の正面にいたキックが、私を通り越した視線を後ろに送っている。私は、その視線に体をいれ遮るとお化け屋敷へ行こうと再び訴えるが、キックの耳には届いても認識もしないまま抜けていっているようで、仕方なく優希の方へ向き、怖くないから行こうと誘う。
 後ろではコーヒーカップの従業員が、客を呼び込んでいるが、なかなか乗り手が見つからないらしく周りにいる人たちに声を掛け始める。いよいよ焦り始めた私は、優希の腕に自分の手を絡ませ黒くぼんやりと浮かび上がるお化け屋敷の方へ踏み出す。

「そこのお姉さん達、乗っていかない?」

 従業員が柵越しに笑みを浮かべている。

「はーい」

 頭を振り抵抗を試みたが、どこから出してんだと確かめたくなりそうな可愛い声を両脇の二人が上げてしまい、掴んだ腕はあっというまに掴み返され、もう一方の腕にもキックの腕が絡んでいた。

「いやだあ」

 声を上げても聞き入れられずに、二人は、悪魔のような薄ら笑いを浮かべ、そのまま前へ強引に進み、体は、そのまま背を向けたままずるずると引き摺られていく。コーヒーカップへと上がる階段すら、前向きにしてもらえず、三段ある階段で三段ともかかとをぶつけ緑のコーヒーカップに座らせられる。この寒さにも関わらず、額からは冷や汗が噴出し、従業員がそれぞれのカップを回り鍵を閉めていく。
 私は、往生際が悪くこの場に及んでカップの淵に足をかけ乗り越えようとしたが、キックに引き戻され押し潰される。

「無理無理、回るの駄目なの、知ってるでしょ」
「大丈夫だよ、ほら、あんな小さな子だって乗ってるんだよ」

 焦りが滲み出た声とは対照的な優希の声がひどく冷たく感じられる。ブーと始まりを知らせるブザーが鳴ると、ゆっくりカップが動き始める。取り押さえられた体が、ようやく自由になり、優希が示した子供をみると、その子は、騒ぎ捲くる私を見ていたらしく視線が合い、満面の笑みでピースサインを出し、真ん中に取り付けられているハンドルを自慢げにぐるぐると回し始める。

「ほら、のりも回した方がいいよ、自分でやれば楽しめるって」

 キックが、銀色のハンドルを指差している。確かに、何かに没頭していた方がいいかもしれない。私は、両足をしっかりと床につけ両腕をトラック運転手のようにがっしりハンドルを握り思いっきり力を込めた。
 騙されたと思ったときには、見るものすべてはアインシュタインの相対性理論の中に溶け込んだようで、ブレーキなんてものは、もちろん付いていなくて、ハンドルを握ったまま振り落とされないようにカップの側面にへばりついているしかなく、両手をあげ、髪を降り乱しながら優希とキックはケタケタと笑い続けている。幼い時に読んだ童話を思い出していた。ちび黒サンボの周りを猛スピードで回り続けるトラが溶けてバターになってしまうというやつだ。軽快な音楽の中飛び込んでくる周りの景色は、先ほどの女の子もニコニコと笑っていて、苦しそうにしている人や、泣いている人はいない、なぜ、みんな笑っているのだろう。ぐらぐらと他人の笑顔が伸びたり縮んだりする中、本当にバターになるかも、もしくは、バターを吐き出すかもしれないとぼんやり考えていた。

 大人一人なら十分乗れる小銭をいれてぐらぐらと揺らして楽しむ遊具の一つ、路線バスの中に押し込められいる。体を斜めにし側面に体を倒し足はハンドルの方へ投げ出している。このバスは、止まっているけれど、私の頭の中はいまだにぐるぐると景色が回っている。バスの中で微動だにしない私を通りすがりの人が横目で見ていくが、そんな事は気にしていられず、窓から入る夜風に辺りながら体力の回復を待っているのだが、どうしてこんなところに運ばれたのかが、バツゲームに近いこの状況に納得できずにいる。
コーヒーカップに乗っていて終了を知らせるブザーがなんとなく聞こえ速度が徐々に緩んでいったのだが、私が目にするものは余計に加速し、目にするものは変形を繰り返していた。もちろん、立てるはずもなく、行きも帰りも優希とキックに抱えられその場を後にし、なぜか、ここへ押し込められる結果になった。
 抵抗をする余裕もなく押し込められて何分が経っただろうか。もう十二時を過ぎただろうか。遠くから伝わるジェットコースターが走る抜ける音や、アトラクションのモーター音がいつのまにか聞こえなくなっていた。
 目を開けてバスの小窓から外を覗く。騒音が出るアトラクションは十二時までの運行と決められていて、私の体調の回復を待っていたのでは、乗れないアトラクションが出ることが明らかになり、二人は、私を置き去りにし駆け出していった。
 体調も回復してきたし早く戻ってこないかなあと考えられるようになり、一時の感情とは裏腹に、ここは多少の風避けにもなり、予想以上に居心地が良い事に気づく。恥ずかしいとか気にせずに、二人が来るまでここにいようと決める。

「出発進行!!」

 車体ががくんと揺れ、スキップしたくなるような音楽と共にバスのスピーカーから運転手の声があがり、ゴトゴトと揺れ始める。バスの前と横に二人が笑いながら立っている。

「リハビリだよリハビリ」

 キックが、運転席に手を伸ばし色々なボタンを押しその度にクラクションやらバス停を知らせる声やらが鳴る。

「何個乗った?」

 揺れる車内から、二人に話し掛けると、カタカナの名前をズラズラと並べ始め、あれはすごかったとか、これはいまいちで私でも乗れるなど言い始め、いつの間にか、バスは停車していた。体は、調子を取り戻し立ち上がると屋根がないバスから体半分が飛び出て、体重を移動させるとぐらっと傾く。

「よーし!!お化け屋敷に、はいるぞおおお!!」

 大きく息を吸い込み、言葉と共に吐き出す。気持ちを入れ替え不思議な国のアリスで出てくるような小さな出入口を潜り、地面に立つ。重力のある地球にしっかりと足をつけている実感を再び取り戻す。顔を顰める二人の横にたち今度こそ二人の腕を取り、闇の道へと向かう。


thank you
つづく・・・

十一月の出来事 2

2005年05月07日 | FILM 十十一十二月
みえないもの【十一の二】→→→ 泡のついた浴槽をシャワーから噴出す水飛沫が洗い流し排出口に吸い込まれる。腕まくりをした優希が、洗い流された浴槽の内側を人指し指で摩りキュッキュッと音を立て、それを確認するようにシャワーを止める。

「なら、しょうがないよ、諦めるしかないじゃん」

 澄ました顔をした優希はちらっと、風呂場の入口の壁に手を掛けながら、券をひらひらとさせている私をみて鏡の横に置かれたシャンプーなどをタイルの上に置く。シャワーを再び出しシャンプーなどの跡が残った部分へかけ持っているスポンジでゴシゴシと擦る。

「なんで、折角取ったのに勿体無い、年末休みでしょ?それとも、どこか行くの?」

 鏡の横から風呂場のタイルを泡立てはじめている優希は、温泉よりも風呂をきれいにする事の方が大切なのだろうか。けれど、今はそんな優先順位であっても風呂さえきれいにしてしまえば、突然行きたくなるに違いなく、そこで予約を入れたくとも出来ないでは必ず後悔するに決まっている。

「休みだし、どこにも行かないけどさあ」

 タイルを擦る音と、石鹸の匂いが充満している中、優希はいまだに乗り気でないようだ。考えてみれば風呂掃除をしている優希の表情だってこの話題になる前となんら変わっていない。もしかすると、風呂掃除が嫌いなのだろうか。なんだか、タイルを擦る優希の姿は、鉄骨のサビを落とさんばかりに力が込められていて、棘を削り取っているようにも思える。風呂掃除に、こんなに力はいらないだろうしもっと、肩の力を抜けば良いのにと感じていた。

「なら、行こうよ、今、電話して空いてるか聞いてみて、空いてたら行こう、あっでも二枚しかないから、もう一人分取るようだ」

 息が弾んで肩が揺れている。それでも、タイルを磨くスポンジは止まらない。なんとなくどうでもいいと思うときは誰でもあって、優希にとって今がそうに違いないなら、ここは、無理やりにでも強引に押し進めるべきだ。

「いや、キックは温泉好きじゃないから行かないよ、だから二人分でいい」

 ようやく、顔をあげた優希のスポンジを持つ手は力が入り過ぎたのか赤くなっている。けれど、ちょっとだけ行く気になってきたかもしれない。嫌な風呂掃除しながらでも、温泉の話をしていたら、きっと白い湯煙や桶がぶつかる音や硫黄の匂いを想像して胸が騒ぎ出すに決まっている。もう一息だ。

「たしかに、風呂なんか家で入るのが一番気持ちいいとか言いそう」

 出来るだけ軽やかに投げかけると優希は頷きながら、立ち上がりシャワーでタイルの泡をざっと流し、そのまま私に背を向けたが、緩んだ表情を鏡越しに受け取った。

「よし、じゃあ電話するよ」

 一歩前にでて風呂の中に乗り出すと声が響く。普通よりテンションが高く、エコーがかかる。優希は、鏡を擦り始める。泡がたち二人の姿は消えていく。

「たぶん、空いてないとだろうけどね」

 乗り気でなかった声が、少し高くなっているのを確認し、要らぬ闘志を燃やし風呂場を後にした。
 携帯は使わず優希の部屋の電話をとり、券に書かれた番号を押すと、ツーコールで相手の受話器があがり、男性の声が聞こえる。券を持つ手に力を入れたまま、年末の予約が取れるかどうかを聞くと、男性は一度受話器を置き確認へ行く。受話器からカノンが流れている。
 電話の横に転がるノック式ボールペンへ手を伸ばしカノンを聞きながら、カチカチと手持ち無沙汰に繰り返す。
 プツリとカノンが消え、再び男性の声が聞こえ、やや背筋を伸ばし、受話器を耳に押し当てボールペンをノックする指を止める。
 うれしい男性の声に、メモを取ろうと近くにあるチラシを引き寄せ持っていたボールペンで控えよとしたが、最後のノックがペン先を閉まっていて、折り目のような線しかつかず慌ててノックしてペン先をだし、もう一度確認するようにチラシの角にペンを走らせ、男性の感じのよい声に気分を良くし電話を切る。
 私が控えたメモは、チラシの枠の余白角でジグソーパズルのように文字が埋まりそれは、直角に並びを変えていた。これでは、自分で何を書いたのか解らなくなりそうだったので、改めてメモ用紙を探し出しそれに書き写しながら、足元はそわそわと動いていた。
 書いたメモを、目の前にあるポストカードなどが張られているボードの空いたスペースにピンで留める。

「取れた取れた、二十八、二十九、取れたぞお!!」

 ふっふっ、やったーやったー取れた、取れた、言葉と心で、はしゃぎながら振り返り優希に知らせに向かおうと二歩前へ出たとき、うれしさに弾んでいるはずの足は、心とは裏腹に実際は弾んでいなかったらしく、短距離走のスタート直後に躓くアスリートのように走った体勢のまま宙を飛んだ。
 体が前に傾き床がみるみるうちに近づく、一瞬早く床に手をついたが、絨毯がずれつるりと滑り、跳び箱を飛ぶように体が横に押し出されたが、それは床であるわけだし、飛べない箱で結局そのまま顔から床に激突する事になる。運が良かったのは、床の上には、掃除のために弾かれていたクッションがあった事で、そこへ体ごと顔から突っ込んでいた。

「イテテテテテテテテ・・・」

 音飛びしているCDのように繰り返す。
 埋もれたクッションの中から顔を上げると目の前に裸足が二本、二本で一人。近すぎてピントがすぐに合わず、揺れる頭が落ち着き始めると、くるぶしの数センチ上の真ん丸に水滴が付着し、その中に何かが黒いものがあり、ほくろを水滴が覆っているのかと、確認するために顔を寄せると、その中には広がった自分の顔が映り込んでいる。それをみた瞬間足が動き、水滴がくるぶしを滑り、床へ落ち、もう一方の足が水滴を踏み、その足が動くと水滴は、べたり床に押し潰されていた。

「ああア!!なんで踏むのよ!!」

 自分の顔を踏みつけられたような気分になり腹が立ち顔を無理やり上にあげ声を張り上げる。

「何がよ!!のりこそ、なにやってんの!!足にコード巻きつけて、絨毯なんでこんなになってんのよお、クッションに顔突っ込んで何探してるのさあ!!」

 コード?床に寝たまま足元を見ると掃除機が転倒しコードが足に絡まり、私の体の下では絨毯がブルドックの顔のようになっている。優希の言葉どおりに確認し状況を飲み込んでいくが、最後の言葉は飲み込んだ振りをして吐き出す。

「さ・・・探してないよお!!」

 お互いが声を出すたびに覆い被すようにボリュームが上がる。私は、動きづらい倒れた体を起こし、巻きついたコードを解いて、ひとまず絨毯から離れ、絨毯の端を両手で握り強く引く。
 ブルドックの額から、元の絨毯に戻ろうとしたとき、優希の右足が偶然そこに乗っていて引っ張ったときにそれに気づいたけれど、頭で考えても体に中止の命令を拒否し、左足がバナナの皮でも踏むようにずるっと前へ滑り優希は大きく後ろに体勢を崩し傾き、倒れるかとおもいきや、軸足になっていた濡れた右足が、思わぬ力を発揮しバネのように体が引き戻された。

「おおおお」

 体操選手のような巧みな技が目前で繰り広げられ、驚きの声を上げる。下の階に迷惑が掛かるほど、大きな音が、ドンと響く。優希の戻された足が床にも戻されたのだ。肩で息をしている優希は一歩前にでて、私の上腕部分を二回指の第二関節で突付く。激痛が腕から体へ駆け抜ける。地味な嫌がらせであるが、腕のツボをピンポイントで力を込めて突付いてくるのは、かなりのダメージがある。それをよく理解した攻撃だ。私は、痛みに歯を食いしばりながら腕を熱いほどに摩り痛みを紛らしながら顔を上げる。
 優希は、してやったりな顔をこちらに向け、横目で口角をきゅっと吊り上げ、鼻から息を漏らし、背中を向け掃除機を片付けようとその前に屈む。
 コードを巻き上げるボタンが押されたらしくコードが反動でビクンと動く。それが先端にまで届こうとしたとき、咄嗟に投げ出していた左足のつま先を、引き戻される寸前のプラグにバレリーナのつま先のように力強く押し付ける。ピンと張られるコード、震えるつま先。止まった優希の背中。その背中が、異変に気づき動き出し後ろを振り向こうとした瞬間につま先をプラグから離すと、プラグは跳ね上がり押されたままになっていたボタンが早急に仕事をはじめ、コードは荒れ狂ったように波うちながら巻き上げられる。その先端のプラグが優希の手を弾き、乾いた音が上がり声が漏れる。私は、力を緩めた瞬間攣りそうな脹脛を心配しながらも視線を窓の外へ意味もなく向け知らん振りを決め込む。
 足に痛みが走り攣ってしまったのかと視線を戻すと、いつのまにか優希の足が絡まっていてそれは、数字の四に似ている。私の足はその四の中にあって、優希の四がしっかりと完成すると声をあげずにいられず、悶えるほどの痛みが体を強張らせた。

「イッタッタッタッタッタ」

 後ろへ倒れ床をバタバタと叩き顔を歪ませる。むせ返りそうな痛みはまだ続き、自然と口元は、痛みを訴える言葉から、ギブという二文字を繰り返し叫ぶようになる。
 優希の足が緩み四が崩れると、全身に痛みを残したまま体に入っていた力が床に溢れるように抜けていく。顔は、肩を揺らし音を立てて息をし歪んだ表情から悲しげな表情へと変わり唇に力が入り、鼻をなんどか啜りながら起き上がり、足を投げ出したまま、上半身は前へ向き両腕を絨毯につき力なくうな垂れ髪がだらしなく垂れ下がる。完全な敗北で、けれど、いったい何を勝負していたのか誰にも説明出来ない。

「何してるの?」

 世界七不思議を聞くよりも不思議そうな声を出し冷たい視線を送り続けるキックが、部屋の入口で立ち私達を見下ろしている。私は、キックに赤、もしくは青い顔を向ける。

「うわっなんで泣いているの?」

 心配する素振りはなく、むしろ笑いを交えながら何があったか知りたくて仕方ない様子がまじまじと見て取れる。
 この質問に答えたのは勝ち誇った顔の優希で、立ち上がりリングの上でステップするように軽い足取りを披露して、掃除機を持ち上げ、キックに遊んでいただけと言いながら、ステップを止める事無く廊下へと消えていく。
キックは、随分と激しい遊び方だといい、捲り上がったままのコタツを整え始める。私は、一人乱れた服装と体勢で取り残されている。

 締め付けられた足を大げさに引き摺りながらコタツに入り、寒くもないのに電気のスイッチを入れる。コタツの横に立っているキックが財布の中から細長い紙を出しひらひらとふって見せ、テーブルの上にひらっと落とした。滑り落ちたチケットが見の前で止まる。重なりあっている三枚のチケットは、チケットらしいチケットでしっかりと印刷されていて、見覚えのあるロゴが描かれその横にはナイターフリーパス引換券と書かれていた。遊園地のチケットに足の痛みとへこんだ気持ちがすっかり吹き飛んだ。

「どうしたの?これ」

 目を輝かせてキックを見上げると、得意げのキックがにんまりと笑う。

「お客さんにもらった」

 立ったまま話すキックと座った私の間にステップを踏みすぎたのか息を切らした優希が戻り顔をだし屈むようにチケットを見て、内容を確認すると声を上げた。

「おお!!ただ?」

 キックは、もちろん、無料だともとどこかの貴族のような話し方をする。ちなみに、貴族になんて会ったことがないけれど。何気に時計をみると、只今の時間午後七時を丁度回ったところで明日は三人とも仕事で、たとえば、今から行ったとしたら、遊園地は午前五時まで営業なので十分遊べるのは違いないけれど、明日の事を考えると卒倒したくなるような過酷な一日になるのは間違いなく、されど、キックの手から落とされた三枚のチケットは私達三人の心を捉えたまま離さなかった。


thank you
つづく・・・

十一月の出来事 1

2005年05月04日 | FILM 十十一十二月
みえないもの【十一の一】→→→ 「きっくううううう!!何しているのおおおお!!」

 街を真っ二つにする川の板チョコのように均一に並ぶブロックの一つの上にキックが立ち川を正面に腕をバタバタと動かしている。その川には、街を繋ぐ橋が掛けられ多くの人が主要道路として利用し夜中以外は混んでいる。橋を渡るとそれぞれ両岸の砂利道へ降りれる道があり、その脇には、生茂った草が連なり所々に空いた隙間から川へ降りる事が出来た。釣り人などは、その砂利道に車を停め自然と掻き分けられた草むらを通りながら目的地へ向かう。
 数分前、渋滞中の橋の上から川を眺めていて、その中の一台に見覚えのある車が停まっていた。優希の家に向かう途中であったけれど約束をしているわけでもないので、寄り道をし、川へと降りる砂利道へ車を走らせる。アスファルトから砂利道へ入ると、ハンドルに不規則な振動が伝わり、車体と体も揺れる。砂利を擦るタイヤの音が響き、砂埃を上げる。見慣れた車の後ろに車を止めエンジンを切り外へ出て、辺りを見渡すとブロックの上に十字架のように腕を広げてすくっと立っているキックを見つけ叫んだ。
 キックをよく見ると、右手に何かを持っている。手帳のようなものに見える。
 私の声に気づいたキックは、振り向きそのブロックから他のブロックに石飛でもするようにポンポンと渡っていく。ブロックとブロックの間はただの溝で水が流れているわけでもない。砂利道とブロックの間には背丈程の斜面になっていてそこは草が茫々と生えている。数メートル先のキックの場所まで行くには、もうしばらく橋下方向に歩いて下りる必要があるために、わざわざ降りていく気にはなれず、少しだけ背伸びをして出来るだけ顔を出すようにしてみたが、たいした効果はなく、キックが出来る限り近くに来るのを待つ。

「こんなところで、何してるの?仕事は?配達カー置きっぱなしだし」

 配達カーの置かれている方へ腕を上げる。キックは、適当に頷き右手に持ったものを私へ見せ左手で指差す。

「てばさきしんこう」

 やや大きめな声で小さな本をもっとよく見えるようにかざす。

「てばさきしんこう?」

 てばさきしんこうとは一体なんの事だろう。あの手の動きといい、「てばさき」はともかく「しんこう」というのは、列車が出発するときの最新の号令だろうか、聞きなれない言葉で聞き間違えたのだろうかと、訳が分からない顔を投げかける。

「手・旗・信・号」

 声を出さなくとも、口の形で解りそうな程唇がはっきりと動いたが、私にはなぜ、手旗信号をやっているのかが解らず、結局疑問は膨らむばかりで思案に暮れた難しい顔をしていたに違いない。

「誰に?」
「はい?誰にじゃなくて、いざという時に誰かにやるために練習しているんだよ、わかる?」

 憤慨したように、やや声を強張らせながら今一度手にしている本を私に見せる。
 私として見れば、川岸で、キーボードのボタンのようなブロックに十字架みたいに立って、本を参考にひたすら手旗信号の練習をしているキックすべてが疑問の塊だ。
 これが職業に必要ならなんの疑いも抱かないだろうけれど、キックは文房具屋だ。たとえば、万が一でも危険な目にあって誰かに何かを知らせなければならなくなったとき、これがいざというときだ、手旗信号で知らせるしかない、なんて意気込んでかっこよく言葉を体で表していくとして、その言葉をどれだけの人が理解することが出来るのだろうか。少なくとも、私の周りで手旗信号で会話をしている人も見た事がないし、それを大いにフル活用している人も見たことがない。果たして、誰にでも出来る手旗信号ブックを買ってマスターすることが、意味があるのかどうかいえば、意味なんてこれっぽちも感じず、それどころか無駄でしかない気が強いのだけれど、キックにとっては、それをこれから先たった一度も使う機会がなくても、そこには何かしらの意味があるのだろう。
 私は、誰でも出来る手旗信号本のページが所々折られているのをみてそんな事を思っていた。

「なるほど、頑張ってね」

 キックの表情がやや明るくなりやる気を漲らせていくのが判る。私にどこへ行くのか聞き、私は優希の部屋へ行くと答えると、キックは、頷きながら本でパタパタと腿を叩きながら配達が終わったら自分も行くと言い、また、溝のブロックに落ちないようにピョンピョンと飛び跳ねていき、再び太陽に反射してキラキラと光る川を前に、本へ視線を落としてから右手でそれを持ってバタバタと腕を動かし始める。
 しばらく、そんな姿を眺めていると人の気配を感じ横を振り向くと、太りすぎで水風船のように弛んだ体をした芝犬が私の靴の上に腰掛けていて、その首輪に付けられたピンクの紐を背の低い老人が持ち手旗信号を眺めていて、口元が動いていく。老人の口元とキックの手旗信号を交互に見る。

「ふ・く・や・ま・ま・さ・は・る」

 柴犬が、重い腰をあげ立ち上がり、ぶらぶらと肉を揺らしながら歩き始め、それに気づいた老人も体を川から道へと向ける。この人は、キックの手旗信号を読んでいた。キックの手旗に合わせて言葉を呟いていてからそうに違いない。となれば、たった数分の間に一人手旗信号を理解する人が現れたわけだから手旗を理解する人は多いのかもしれない。もしくは、私が知らないだけで手旗信号のブームがやってきているのか。
 キックは、私が見ている間ずっと似たような動作を繰り返していて、それが間違っていなければ、延々と福山雅治と信号を送り続けていることになる。
 私は、目の前で繰る広げられるメッセージの嵐を見ていながら、根本的な意図をみることが出来ずにいて、このまま時間が経過したところでそれが明らかになる事がないだろうと声を掛ける事無く車へ戻り、優希の元へ向かうことにした。


 公園に車を停め、少しだけブルーの空が色を変え始め、太陽も傾き西日が建物を照らし強い光を浴びせ車道を走る車はその光を反射させてはどこかを照らしていた。そんな中を車の鍵についているキーホルダーを指にひっかけクルクルと回しながら歩いている。コンビニの前へ通りかかると自然と視線はそっちに移動しウインドウ越しに並べられた雑誌を眺め、そのひとつの温泉マップ本をみてひとつ忘れかけていたことを思い出す。今年前半、スノーボードへ行ったとき、スキー場主催の大会に出て副賞で温泉旅行ペアー券をもらっていた、そういえばこの券を使っていない、たしか年内期限だったはずで、今年も残すところ一ヶ月ちょっと、これは使わなければならないと、速る気持ちがのんびり歩いていた足取りの回転数をあげるが、信号は赤にかわったばかりで立ち止まり、青に変わるまでの間中、あの券はどこの温泉だっただろうかとか色々考える。

 目の前をトラックが風を巻き起こしながら通り過ぎ、後方を走っていた乗用車が後を続く。淀んだ排気が、冷たい空気が巻き上がり肩を竦める。横断歩道の信号は、青に変わっていてトラックはともかく乗用車は信号無視だろう。ため息をひとつ落として、白いストライプを踏みだす。温泉の事ばかり考えていたせいか、風に吹かれて初めて肌寒いことに気づき、どうやら季節は冬へ変わってしまっているようで、だからこそ温泉の事を思いだしたのだろう、正確にいえば、季節に敏感なコンビニに並べられた雑誌をみて思い出したのだが、きっかけはどうあれ、冬がやってきたということが少しだけ時間の重さを背中に感じていく。
 国道沿いの歩道から脇へと逸れ、住宅が並び塀から覗くもみじの葉は、枯れ落ちている。じれったくぶら下がる葉が、僅かな風に煽られるとくるくると回っている。
 優希の住む部屋が見え、そのベランダには洗濯物が干されていて、ブルーのバスタオルが物干しに掛けられ洗濯バサミ二つでとめられている。その下を通り過ぎ階段を上る。

 チャイムを鳴らすと、しばらくしてカギが開きノブを捻りドアを開けた。腕まくりをした優希の後ろ姿が風呂場へ消え、私は、靴を脱ぎ部屋へ上がる。
 洗面所と風呂場の前で立ち止まり中を覗くと優希は、風呂の淵に手をつき、中へ体を乗り出し浴槽を泡まみれにしながら力強く洗っていてその背中に話しかける。

「キック後から来るって」
「うん、わかった」
「ねえねえ、スノボーでとった温泉旅行どうした?」
「あるよ、テレビの下の引き出しの中」

 考える暇もないほど素早い返答をしたということは、忘れていたわけではないようだ。優希の手元は止まる事無く動き続けているので、断ることなくテレビの下の引き出しへ向かう。優希の部屋はなんだかとても乱雑で大掃除の途中のようだった。掃除機は捲り上がったコタツの横に置かれ、コンセントの下に落ちたプラグとコードが引き出されたままで実に中途半端である。風呂の掃除をする前に、先にこっちを片付ければいいのにと思う。けれど、私は実家暮らしなので文句を言える立場ではなく、放置された雑巾と掃除機を跨ぎ引き出しの前に立つ。

 引き出しを開けると、光熱費や電話料金などの請求書や多くの封筒が束にされ入っていて、その横には、ホッチキスやハサミなどの文房具が入れられている。副賞は見つからず、今年始めのものだから下の方かもしれないと請求書の下の方に手をいれ探してみたけれど、それらしきものは挟まっていない。覗きこんで、もう一度始から探してみたけれど見つからず、他の引き出しなのではないかと疑い始めとなりの引き出しに移ろうとし上体をあげたとき、引き出しの一番手前に一回り大きい封筒に入った副賞を見つけた。一度視線が捉えると、どれよりも一際目だっていて、どうして探せなかったのだろうと不思議に思える。言い訳がましいが、どんなものでも近くで見るよりも一歩ひいた時の方が見えるときもあるという。これが、そんな感じだったと無理矢理解釈する。

 封筒を取り出し中身を出す。箱根温泉旅行ペア券と書かれた素人がプリンタで作ったような頼りない紙が入っていて、子供が作る肩叩き券の方がよっぽど豪華に見えるのではないかと思うほどのもので、果たして、この紙切れは、本当に二人を無料にしてしまうほどの威力を持っているのか不安なる。
 ひっくり返すと、注意書きが印刷されていて、期限は、予想通り年内、記載されている青雲館に自ら連絡をとり予約をいれなければならない。紙を持ちながら壁に貼られたカレンダーを捲る。年末は、誰もが忙しい時期で、休みなんて取れない、行くなら仕事終わりの年末しかないのだけれど、今から予約がとれるだろうか。これは、一刻を争う。

「優希!!優希!!期限が今年中だよお!!」
 
 一人興奮し叫んでみたものの風呂場からはなんの返答もなく、聞こえてくるのは、浴槽を流しているだろうシャワーの音のみで、仕方なく風呂場へ向かう。


thank you
つづく・・・