『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学15章1段落_4

2016年06月03日 | 『自由の哲学』
(考えなんて主観的なものでしょ、という人は、)
しかし、考えることは主観にも客観にもまたがることも、
覚えと考えを合わせてまるごとの現実に至ることも、
知らなかった。

覚えから見て取れる法則を、
単に、自分の頭の中だけで理解するなら、
なるほど、それは主観的だ。

だけど、自分の覚えと絡めて考えること、つまり
覚えたことについて、考えに助けてもらって得る内容は、
主観的ではない。

その内容は、自分が考え出したものではなく、
現実から得たもの=もらったものだ。

その内容は、現実のうちの、
考えないと届かないところにある。
または、自分の経験した中で、
覚えだけでは取り出されない種類の経験だ。

考えも現実だと思えない人は、
自分の精神の内にいったん決め込んだ
カチカチの理念みたいなものを考えるだけだ。

最初は、考えが自分だけの主観的なものだと思うのは、
私たちの精神の成り立ちのせいだ。
それは、覚えが他人と違うのと同じで、
私たちの体の成り立ちが他人と違うからだ。

見ている木ひとつでも、それだけで存在するわけじゃない。
大きな自然の歯車の中のひとつとして存在して、
その大きな自然との関わりの中でこそ存在している。

頭の中だけでひねりだした考えが、
それだけでは現実となり得ないこと、
木がそれだけでは現実のひとかけらに過ぎないのと同じだ。


考えが現実だ、というのは、なかなか難しい。
考えたことが現実になる、という、
自己啓発本の古典とかもあるけど、
ふつうに考えたら、考えは現実とは違う。

ふつうに考えることは、たぶん、
考えじゃなくて、思っていることだから?
「どこか旅行行きたいな~」とか、「これほしいな~」とか、
「○○さん、こうしてくれないかな~」とか。

それこそ、頭の中だけで思っていることだから、
ぜんぜん現実じゃない。

考えを現実にするには、
考えをめちゃくちゃクリアにすること。
漠然としている間は、現実には重ならない。

例としてどうかと思うけど、たとえば、
「どこか旅行行きたいな~」なら、
山なのか、海なのか、町なのか、
車なのか電車なのかバスなのか、
誰と行くのか、いついくのか、お金はいくら出すのか、
そうやって、一つずつ現実にしていくことで、
考えが現実と重なりを深め、実現していく。

旅行以外の例でも、ひとつずつの思いを現実と重ね、
重なりを深めていくことは、
何も、すごい瞑想とか必要なくて、
普段の自分の経験から覚えられることだけで可能だ。

自分を動かす、まるごと全体を貫く糸が見えない、
と嘆いているのは、なかなか不自由です。

そう嘆いているくらいなら、
目の前の現実について、よく見て考えていくことで、
まるごと全体の現実に「近づいて行く」ことができます。

会社がこう言うから、おかしいと思うけどしなきゃ、とか、
家族のためにこうしなきゃ、とか
そういう思いを、頭の中だけでグルグル回すんじゃなくて、
具体的に考えて、現実と重ねていくことで、
自分の思いに近づいていくことができます。

いいじゃん、自由で!

会社をやめるとか、泥棒するとか、
治療をやめて病院を出るとか、
そういう思い切ったことをする前に、
やってみてもソンはない(^^)/

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