『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

大人の「自分さがし」は進化する

2021年02月27日 | 『自由の哲学』
誰かが、真摯に話を聞いてくれたら、
自分でもそれまで考えてなかったようなところまで
探しに行けるから、新しい考えが出て来ておもしろい。

昨日、あれこれしゃべっている中で、
3年ぶりに会う相手が、
「私、今さら自分探ししてるかもなぁ~」
って言いました。あれ??

それって、3年前に私が辞める時、
めちゃくちゃいろいろ一緒に話した後に
「うまく言えないけど、
それって、自分探しの一種みたいなもの?」って聞かれて、
「うまく言えないけど、
そんなんは、もう、どうでもいいみたいやねん」って答えて、
2人ともうまく言葉に出来なかった、アレ?
空白3年越しの、あの会話の続きじゃない?! すごっ!

この日も、2人で空白の3年間の、
それぞれの変化を持ち寄って続きを探していました。
一緒に話を重ねていくうちに、
少しずつ言葉になっていくのがウレシイ!
そのうち、ひとつを書き止めておきます。


若い頃の自分探しの原動力は“不安”だった。
“今の私は仮の姿です。私って本当はナニモノですか”
って誰かに答えを教えてもらいたいという、
外に探しに行けば青い鳥が見つかる、みたいな問い方だった。

どこにも居場所のない自分が不安で、
外から(立場とか人脈とか仕事とか)で、
私を承認してもらいたがってた。

大人になってから、“私ってナニモノ?”と自分に問うとき、
その問いの原動力は、世の中とか周りとか自分に対する“愛”で、
その問いの意味は、
“私の役目は何ですか?”に変わってるじゃん!!!

青い鳥は自分の家に居ますよ、っていう感じ。
よくできたメルヘンだなぁ。

誰かに青い鳥の居場所を教えてもらうまでもなく、
「こういう世の中になればいいな~」っていう思いがあって、
それに自分のやりたいこと、出来ることを重ねて、
“じゃあ、そのために、今できる事は何?”っていう問い。

若い頃は、まだ中身が柔らかくて、
背骨も作りかけてる途中だったから、
カブトムシとかエビ・カニみたいに、
外に向かって鎧を着ることで自分を立ててた。

そして今。年齢を重ね、一応、背骨も出来て、
2本足で立ってヨタヨタ歩いている。
まがりなりにも、人類。その状態で、今度は、
自分が外に向かってどう働きかけるか
を考えるための問い。

考えるのは無尽蔵にタダ。
だけど、
「考える」と「行動する」の間の壁は、
いつも、すごーく高い。

その壁は軽くは越えられないけど、
壁をちょっとだけよじ登ろうとした時、
成功しようが失敗しようが、
その時の自分は「自由だ」と呼んでいい。

単なるワガママじゃなくて、
ちゃんと、やりたいことやれてるもんね(^^)。

「自由になっていきたい」
「みんな自由になっていけたらいいのに」
っていうのは、そういうこと。

「みんなが自由にやればいい」って言うと、
必ず「そんなことしたらぐちゃぐちゃになる」って言われる。
けど、それは、自由を制限しなきゃいけないんじゃなくて、
1人ひとりが、実現したい理想を描いたらいいんだよ、きっと。
一足飛びには行かないけど、方向性としてはそっちだな。

あら、「自由の哲学」になっちゃった。
でも、そう思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿