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誰かが、真摯に話を聞いてくれたら、
自分でもそれまで考えてなかったようなところまで
探しに行けるから、新しい考えが出て来ておもしろい。
昨日、あれこれしゃべっている中で、
3年ぶりに会う相手が、
「私、今さら自分探ししてるかもなぁ~」
って言いました。あれ??
それって、3年前に私が辞める時、
めちゃくちゃいろいろ一緒に話した後に
「うまく言えないけど、
それって、自分探しの一種みたいなもの?」って聞かれて、
「うまく言えないけど、
そんなんは、もう、どうでもいいみたいやねん」って答えて、
2人ともうまく言葉に出来なかった、アレ?
空白3年越しの、あの会話の続きじゃない?! すごっ!
この日も、2人で空白の3年間の、
それぞれの変化を持ち寄って続きを探していました。
一緒に話を重ねていくうちに、
少しずつ言葉になっていくのがウレシイ!
そのうち、ひとつを書き止めておきます。
若い頃の自分探しの原動力は“不安”だった。
“今の私は仮の姿です。私って本当はナニモノですか”
って誰かに答えを教えてもらいたいという、
外に探しに行けば青い鳥が見つかる、みたいな問い方だった。
どこにも居場所のない自分が不安で、
外から(立場とか人脈とか仕事とか)で、
私を承認してもらいたがってた。
大人になってから、“私ってナニモノ?”と自分に問うとき、
その問いの原動力は、世の中とか周りとか自分に対する“愛”で、
その問いの意味は、
“私の役目は何ですか?”に変わってるじゃん!!!
青い鳥は自分の家に居ますよ、っていう感じ。
よくできたメルヘンだなぁ。
誰かに青い鳥の居場所を教えてもらうまでもなく、
「こういう世の中になればいいな~」っていう思いがあって、
それに自分のやりたいこと、出来ることを重ねて、
“じゃあ、そのために、今できる事は何?”っていう問い。
若い頃は、まだ中身が柔らかくて、
背骨も作りかけてる途中だったから、
カブトムシとかエビ・カニみたいに、
外に向かって鎧を着ることで自分を立ててた。
そして今。年齢を重ね、一応、背骨も出来て、
2本足で立ってヨタヨタ歩いている。
まがりなりにも、人類。その状態で、今度は、
自分が外に向かってどう働きかけるか
を考えるための問い。
考えるのは無尽蔵にタダ。
だけど、
「考える」と「行動する」の間の壁は、
いつも、すごーく高い。
その壁は軽くは越えられないけど、
壁をちょっとだけよじ登ろうとした時、
成功しようが失敗しようが、
その時の自分は「自由だ」と呼んでいい。
単なるワガママじゃなくて、
ちゃんと、やりたいことやれてるもんね(^^)。
「自由になっていきたい」
「みんな自由になっていけたらいいのに」
っていうのは、そういうこと。
「みんなが自由にやればいい」って言うと、
必ず「そんなことしたらぐちゃぐちゃになる」って言われる。
けど、それは、自由を制限しなきゃいけないんじゃなくて、
1人ひとりが、実現したい理想を描いたらいいんだよ、きっと。
一足飛びには行かないけど、方向性としてはそっちだな。
あら、「自由の哲学」になっちゃった。
でも、そう思う。
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