『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学14章06段落_1

2016年04月13日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学14章06段落_1

人を「類」で見ようとする人は、すぐ限界に突き当たる。
人は「類」の限界を越えて、
自由に自分のことを決める者にもなる。

「類」で判断するなら、科学的に見ることもできる。
人種、種族、民族、性別は、科学になり得る。
「私は」ではなく「私たちは」と言う時は、
「類」として科学的に判断される対象でしかなく、
何かのステレオタイプにピタリと当てはまるだろう。

しかし、その科学では、一人ひとりには迫れない。
自由が始まるところ=
自分で見て、自分で考えて、自分で行うところで、
一人を「類」の法則で見ることができなくなる。

人が、外からの覚えに自分の考えを重ねて、
現実をまるごと掴もうとする時、
誰のものであっても、その現実の内容は、
「こういうものでしょ」って
誰かが整理することもできなければ、
すべての人に「これが現実です」と残すこともできない。

私が考えを得るのは、私が考えるからだ。
私がどう考えるかは、私がナニ族とか、女とか、母親とか、
そういう「類」から引っ張りだして来ようとしても無理だ。
私がどんな考えを得るか。
それは、ひとえに私次第だ。


「類」と「私」の関係です。
ここは、認識する時の注意点。
(6段落後半は、実行する時の注意点)。

「類」らしさのひとつに「人種」がある。
たとえば、白人は優れている、という刷り込みに従って
美白に精を出し、または外科的な方法で皮膚を白くし、
金髪のウィッグをかぶって、英語を話し、
ブルーのカラーコンタクトをすることができる。

外国人から見た日本人女性っぽさ、
やや白目の小麦色の肌色で、
髪のうねりをストパでサラサラにして、
髪も目も真っ黒で、伏し目がちに恥じらって微笑む、
という選択肢もある。

見た目の年代だって、ある程度自由自在。
「類」らしさに「中年」というのもあるけど、
そこから自由になりたくて、技術が進み、
皮膚を引っ張ったり、髪を染めたりして、
見た目、若い人に近づくこともできる。

経年変化を受け入れ、
ふんわりたるんでしみそばかすを散らした顔で
年齢なりの熟成や貫禄を楽しむこともできる。
「最近の人は」とか言ったりして。

そういえば最近「最近の“若い”人は」って
あんまり聞かない気がする。
批判しつつ、自分もまだ若いって思いたいのかな?
余談でした。

えーと、
わかりやすい見た目の問題で「類」らしさを考えるとしたら、
そこから自由になることは、
太いとか細いとか大きいとか小さいとか若いとか年寄りだとか、
そういう見た目の特徴を排除することではないな。

…赤ちゃんっが抱っこされたいような
ふくふくしたおなかで、自分らしさ生きること?

もちろん、中身も同じ。
和を以て尊しとする民族だとか、
強いことが正義の民族だとか、
基本的に男性は体力があるだとか、
女性は細かいことが得意だとか、

そういう「類」らしさがあることを認める。
「類」らしさを否定しない。
「類」らしさが自分の中にあることに気づく。

その上に、自分らしく生きることで、
「類」らしさとケンカしないで、自分らしくあれる。

年を重ねた時の「類」らしさ、
つまり、私で言うと、中年らしさ。
まずは「類」らしさを生きる。
つまり、いつまでも若くあることを目指すのではなく、
今まであれこれ体験してきたことを元手に
自分で考えて家庭や社会の中で動く。

その時に、自分らしさが出てくる。
その時は、「類」らしさを越えて、自由だね。

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