goo blog サービス終了のお知らせ 

『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学14章01~02段落

2016年03月29日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学14章01~02段落 「すべての人は、自由になる素質を備えている」。 そう言う時、次のような反論が予想される。 人は人種や家族、男女など、 さまざまな自然発生的な集団の一人として生きており、 国や教会や会社などの集団の中で働く。 人は自分の属する集団の性質を帯びているし、 自分の行動もその集団の中での立ち位置によって決まる。 それでも、「一人であること」 =自由であること、がで . . . 本文を読む

■自由の哲学13章52段落

2016年03月26日 | 『自由の哲学』
調和のとれた成熟した人は、自分の値を自分で決める。 自然や神から快を受け取ろうと努力するのでもない。 禁欲生活に入って外の正しさを義務として果たすのでもない。 ただ、自分のしたいようにする。 その人自身の精神の悟りに基づいて。 その人がしたいことを実現していくことが、 その人の生き甲斐になり、 生きることを心底楽しいと感じる。 その人の欲と実現との関係が、その人の人生の値を決める。 自分の欲の . . . 本文を読む

■自由の哲学13章51段落

2016年03月23日 | 『自由の哲学』
こう述べると、誤解されやすいだろう。 調和のとれた人ではなく、中途半端な人は、 自分のやりたいことが人のすべてだ、と見なしがちだ。 自分が認めない考えはすべてはねつけて、 自分の思い通りに行動したがるだろう。 調和のとれた人について語った50段落までのことが、 成長途中の中途半端な人には 当てはまらないのは明らかだろう。 自分の高い欲が、 低い欲の殻を破って出てくるまでの人に 調和のとれた . . . 本文を読む

■自由の哲学13章50段落

2016年03月20日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学13章50段落 悲観論的な倫理学では、 「人の精神には理想を仕立てる力がない」という前提で、 快を感じるために人は欲するのだ、と決める。 自分で理想を思い描けない人は、 人から与えてもらわなければならない。 また、おなかがすいたの暑いの寒いのという 低次元の欲は、物理的な自然が満たしてくれる。 しかし、人がまるごとで求めるものには、 精神的な欲求も含まれている。 それを知らないか . . . 本文を読む

■自由の哲学13章49段落

2016年03月17日 | 『自由の哲学』
人が欲を満たすことを快と思うのは、 欲が人間から出てくるものだからだ。 そして、欲を実現することに値打ちがあるのは、 自分がそれを欲したからだ。 人の欲することに値打ちがないというなら、 値打ちのあるものを、 人が欲しないところから、 もらってこないといけなくなる。 ※ う~む、なんか人をバカにした話です。 「アンタの望んでること、値打ちないから 代わりにこれやっときなさい」 って人が教え . . . 本文を読む

■自由の哲学13章48段落

2016年03月14日 | 『自由の哲学』
「自分の欲を求めてはいけない」と言う者は、 まず、人を奴隷にしなければならない。 「したいからする」人ではなく、 「命令されるからする」人に。 そもそも、欲を満たすことは喜びだ。 「善」とは、誰かに言われてしなきゃいけない事ではなく、 自分が本当の自分になりゆきつつ、 そうしたいと思うことが善になる。 それを認めない者は、 まず、人の欲をその人の中から叩き出して、 これを欲するべきだ、これが善 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章47段落

2016年03月11日 | 『自由の哲学』
尊く、大いなる理想に向かって努力する者は、 それが、その人の中にあるからだ。 その人の中にあるものを外の世界で実現していくのは、 その人の楽しみなのだ。 その楽しみに比べたら、 日常のアレコレの快を、その時の気分で満たすなんてことは、 小さなことだ。 理想主義者たちは、理想を現実にしながら、 精神的な贅沢を味っている。 ※ とばしてますね~。 もうすぐこの章も終わりです。 ここはわかりやすい . . . 本文を読む

■自由の哲学13章46段落

2016年03月08日 | 『自由の哲学』
人が行為する時、理想的なのは 「道徳のファンタジー」から行動することだ。 「道徳のファンタジー」を実現するには、 その人に、 苦しみや痛みを乗り越えるほど強い欲求があるか にかかっている。 それは、人が高いところから悟ったものであり、 人の精神のピンとした張りつめである。 人は、それを実現したいと思うものだ。 なぜなら、それこそ人がもっとも素晴らしいと感じるからだ。 倫理が人に「欲を無くしな . . . 本文を読む

■自由の哲学13章45段落_2

2016年03月05日 | 『自由の哲学』
ここからはトークショーをお届けします。 悲観論者: 「快を求めるな。快なんてものにはありつけない。  一人ひとり自分の課題の実現に向けて努力しろ」。 シュタイナー: 「人って、もともと、誰かに強制されなくても 自分の課題を実現しようと努力するものじゃないですか? 人が利己的に自分のシアワセばっかり求めてる、 なんてのは、哲学者が勝手に言ってるだけでしょう?」。 悲観論者: 「いや、快なんて求 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章45段落_1

2016年03月02日 | 『自由の哲学』
悲観論者は「いくら快を求めても不快の方がもっと大きいんだから、 自分の欲なんか捨てて、みんなの幸せに尽くしなさい」と言うが、 人は、自分のやりたいこと=目標、に向かう時、 別に、快や不快の大きさなんかに左右されない ということを忘れている。 人は、あらゆる困難を乗り越えてなお、やりたいと思う。 その充実感を求めて動く。 その「やりたい」という気持ちが、人の行動を決める。 人一人の仕事も、文化への . . . 本文を読む

■自由の哲学13章44段落_2

2016年02月28日 | 『自由の哲学』
(前半= 「快と不快のどっちが多いかなんて計算できない」 と言って、悲観論者を論破してみる人もいるけど、 快と不快、どちらが大きいかは、実感としてわかる。) ただ、その結果から、 「何かをしたい時に、人は快と不快の大きさで決める」 と言うのは間違いだ。 私たちが何をしようかと決める前に、 「快・不快どっちが大きいかな」と思い巡らせるのは、 結局、どうでもいい時だけだ。 仕事の後、軽く息抜きを . . . 本文を読む

■自由の哲学13章44段落_1

2016年02月25日 | 『自由の哲学』
悲観論を論破しようとした側は 「快と不快のどっちが多いかなんて計算できない」 と言ってきた。 「どっちが多いか計算できる」というからには、 互いに同じ土俵で比べられるということだ。 さて、どんな快・不快にもそれなりに 決まった大きさや強さがある。 きっちり数字でどのくらいとは言えないにしても、 「おいしい料理」や「イケてるジョーク」が 快であること、楽しいことを知っている。 それぞれの快・ . . . 本文を読む

■自由の哲学13章43段落

2016年02月24日 | 『自由の哲学』
悲観論の人が言うように、 世界は快よりも不快が多かったとしても、 それが、私たちが欲を持つことに何も影響はない。 生き物は、快感を求めるだろうから。 苦しみが喜びより大きい、と 実験か何かで裏付けられたとしても、 そのことは、 「快の方が大きいから人生は生きるに値する」という 幸福論の人をお先真っ暗にするには役立つだろうけど、 欲を持つことが非理性的だと言うには役立たない。 そもそも、欲が繰り . . . 本文を読む

■自由の哲学13章41段落_2、42段落

2016年02月21日 | 『自由の哲学』
欲を満たすことで招く快と不快について 理性的な哲学がどう言おうと、 生きることにおいては、次のように言える。 たとえば、りんごをいくつか買おうとしている時。 もう店をしまいたい店主が 「安くしとくからこっちも一緒に持っていってくれ」、 と、悪いりんごを2倍ほど押しつけようとする。 私は、良いリンゴの値段に加えて 悪いりんごを持っていく労力を見積もって、 安いと思えたら、悪いりんごも喜んで持って . . . 本文を読む

■自由の哲学13章41段落_1

2016年02月18日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学13章41段落_1 40段落で言ったことが正しいということは、 次のことからもわかる。 快の値は、棚からボタ餅的に得た時よりも、 苦労して得た時の方が大きい。 「もうこんなにしんどいんだったら止める」と、 欲がどんどん減っていきながらも、 なんとか続けてみてやっと得られた時は、 かろうじて残っていた欲との比で見るから 快の値はとても大きくなる。 また、次のことからもわかる。 . . . 本文を読む