パペット劇場ふらり旅 ~広島~

芝居好きの私がめぐり合った人形劇の魅力、たっぷりとお伝えします。

劇作家大会熊本大会(3/19)シンポジウム「不条理演劇とはなにか」

2005-03-25 | 劇作家大会2005熊本大会
自分の芝居は不条理劇だと主張する鴻上尚史が、不条理劇作家の別役実に迫る。
不条理劇を「コント、おふざけよ」とさらりと言い放つ別役さんはやっぱりカッコいい。
別役さんは自分の芝居の登場人物のプロフィールを作らないそうで、それでもそれぞれの役が混乱しないのは、ちょうど将棋の棋譜のように人物を動かすからだという。

初めて不条理が登場したときには、理由や背景がなく何かが起こってしまう(「太陽がいっぱい」的)状況に開放感を感じたのだという。リアリズム演劇が全盛のときは、不条理劇もやり易かった。ところが、いまそのリアリズムが揺らいで不条理劇が成立しにくくなった。
人間性の不安を確かめるのが演劇の目標だとすると、言葉に対する不信感が高まった現代では不条理劇も存在そのものが危うい。(現実が既に不条理なのだ!)

60年代、言葉は実体を覆い隠す膜であるといわれた。
リアリズム演劇は予定調和を求める圧力が強い。
言葉が実体を体験させずに素通りしてしまうことをリンゴのドラマツルギーで説明。

林檎だ。
  ↓
林檎かもしれない。
  ↓
林檎じゃないだろうな。

このように言葉の指示性を弱くするほど、そのものに対する観客の実体感がつよくなる。
言葉ではなく、言葉の背後にあるものを言い表そうとするからだ。

不条理劇はポジティブな演劇だと思うと別役実は言い切る。
絶望感の中のコミュニケーションを不条理演劇はあぶり出したのだ。
さまざまな価値観の人と共同作業をするときにはやはりリアリズムの共通認識が有効。
リアリズムは方法論だと言い聞かせて不条理劇をやるのだという。

かつて私が観た別役実の芝居のほとんどが文学座アトリエの会で観たもの。
久保田万太郎の芝居で不条理劇をやると喩えられた文学座の舞台は、別役さん自身にも刺激的で面白かったそうだ。まさにリアリズムと不条理劇の幸運な出会いである。

演劇にお客が入らなくなったのは、必ずしも芝居が面白くないせいばかりじゃないだろう。
言葉が実体感を失った現代、言葉の芸術である演劇は危機に瀕している。
その絶望感の中のコミュニケーションを演劇は模索し続けているのだ。
コミュニケーションに何が有効か、一番早く見つけ出すのは演劇かもしれない。

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2 コメント

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ネオ・コミュニケーション (電脳太郎)
2005-03-26 21:51:29
常識やモラルという共通の認識のなくなってしまった現代、

共通の言葉もまた失ってしまったのかもしれない。



条理にかなった事象自体が不確実になり、

80年代に感動した多くの不条理演劇もまた

21世紀にはその存在すら危うくなってしまった。



急激な時代の流れは多大な情報を生みだし、

そして、瞬時に陳腐化していく。



そして今、コミュニケーションすら大きな変化を

必要とされているのかもしれない。
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Unknown (おけい)
2005-03-27 11:37:00
演劇をたとえばワークショップで経験しただけでも随分と違う気がする。

何年芝居を観ても観客で居る限り表現力はあまり豊かにならないんじゃないかとちょっと感じたり・・。

観る側の観客の水準が、いまの日本の演劇の水準なのでしょうから。
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