じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

義務教育はだれのためになっているのか

2006-01-07 | 教育(education)
 「学校」を変革することは可能か?-という問いに、「否」の答えを返す前に、私はより根底的な疑問を抱くようになりました。「学校」とは、たとえそれがうまく運営されるとしても、いったい全体、なくてはならないものなのか、と。「学校」は学習の場として最善のところではないのではないか、という否定的な見解を持つようになったのです。ある特殊な技能教育の分野を除けば、「学校」などたいして存在価値がないのではないか、と。
 私自身の胸に聞いてみても、現に私が知っている知識の大半は、「学校」で習ったことではないのです。集会、ワークショップ、セミナーなど、いわゆる「学習環境」とか「学習経験」という言葉で総称される場所なり機会のおかげで身につけたものでも全然ないのです。
 時間が経つにつれ、私の疑いはさらに深まり、「学習(ラーニング)」という言葉それ自体にも、ある種のうさん臭さを感じるようになりました。
  (ジョン・ホルト『なんで学校へやるの』《Teach your own. A Hopeful Path for Education》)
 ジョン・ホルトの『自分で教えなさいよ』が刊行されたのは1981年で、もう四半世紀も経過しました。その時期、アメリカでは教育改革・学校改革という竜巻が暴れていた時代で、いわゆるフリースクール、ホームスクールが雨後の筍(たけのこ)のように続々と出現した時期でした。ホルトはその代表者で、表現は不適切ですが、いかにも時代の寵児といった感がありました。彼は「ホーム・スクーラー」を呼ばれていたのです。義務制の学校を根底から作り変える改革者としてもてはやされました。
 上に引用した部分につづけて、彼は次のように指摘します。
 「しかし、それにしても、『学習』にこれ程までとりつかれた社会は、かつてほかにあったでしょうか。より多く、より良く、より速く、より容易に『学習』することばかり議論している社会は、以前この世に存在したことがあるのか。そもそも、『学習』に関する議論や懸念が存在すること自体が、私たちの社会の問題のあり方を示しているのではないか。ヘラクレスの時代、エリザベス朝の時代、独立戦争後のアメリカのようにエネルギーに満ち、健康で行動的で創意工夫に富んだ社会が、そんなに多くの時間を『学習』論議にさいただろうか?」
 この問に対する答えは明らかだ、とホルトは言います。健康(健全)な社会の人びとは、物事をなし遂げようとすることによって学ぶのだ。「主体的で目的に満ち、意味に溢れた生活および仕事」と「教育」つまり「脅しと褒美、恐怖や欲望の圧力下で行われる、人生から切り離された学習」との間に一線を画すことの必要性を認めるべきだというのです。
 彼の指摘は正しいと思う。でも、それは半分だけです。たしかにわたしたちの社会においても、農林水産業などにあっては、そこで必要とされる技術や知識を「教える」学校などというものはことさら必要ではなかった。未熟な者はみんな、大人や熟練者がしていることを見習い、聞き覚えながら自分で訓練を重ね、工夫を凝らして知識や技術を習得していたからです。人から手取り足取り教えられるなんて、まことに恥ずかしいことだった。
 箸の上げ下げを教え、顔のあらかたを強制する集団は、けっして住み心地のいいものではなさそうです。右向け右、前にならえというのは学校(軍隊)の専売だった。
 わざわざ教えなくても、自分で考え、工夫する、そんな力はだれにでもあります。だから学校がやらなければならないのは、右利きが正しくて(right)、左利きはまちがい(wrong)だなどという、つまらないことを強制(教授)するのではなく、ひとりひとりが自分の意見をはっきりと他者に対して語る力を養う、それを助けることです。デモクラシーのために。(李四)