じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

教員の促成栽培塾が流行の兆しを見せている

2006-03-18 | 教育(education)
 「私、子どもたちはね、かけがえのない位置が必要だと思うの、クラスにおいて。みんなが同じようなこと答えていくなら、別にだれさんがいなくても困んないと思うの。いなくても構わないってことがどんなに子どもにとって嫌なことか」(大村はま)
 昨年4月、98歳で亡くなった大村はまさんがあるインタビューで語られたことば。クラスのどの子にも「かけがえのない位置」という指定席を教師は用意しているでしょうか。
 最近やたらと目につくのが「教師塾」です。形態はさまざまですが、要するに「教師養成」塾です。それも教育委員会が経営しているのです。さきがけは東京都。小学校教師志望者を全国から募集し、トータルで40日の実習を含めた一年間の詰めこみ塾です。教員養成は大学でというこれまでの方法では「即戦力」は期待できないという苛立ちからのようです。杉並区や京都市もつづいています。われもわれもと ひきもきらず、かな。
 即戦力とはなんのことか。昨日は鳥がとまっていた樹木が、チェーンソーで伐採され、トラックで運ばれて、今日は住宅用の材木の用を為すという話ではないか。「教える」ための技術や知識は暗記でも獲得できますが、それではたして教師に必要とされる、なにが養成されたのか。一年間くらいの詰めこみで、要領よく「生徒指導」や「学習指導」がやれたとして、せいぜいが受験や進学勉強に特化したたちの悪い授業、学生のバイトとどこがちがう、となりはしませんか。
 明治以降、一貫してこの国の学校教育が目指してきたのは「器用な人間づくり」だった。とにかく器用で要領のいい人間がもっとも好まれたのです。あれをしなさい、これをしなさいといわれるがままに従順であればあるほど、優等生として評価をもらえた。そしてそんな人間が学校教師になっていることも否定できないのです。優等生は優等生を好みこそすれ、劣等生は歯牙にもかけないのが通り相場です。類は友を呼ぶ、といいます。
 「一人一人が夢中でやり抜くうちに、勉強はね、できるできないの世界を越えるんじゃないか。できてもできなくても、そのことに関係ない、優劣のかなたの世界に子どもを持っていくだけのことをしなければ、本当に学んだ知恵、自分で自分を不幸せにしない知恵を持った人にすることはできないんじゃないか」(大村はま)
 優劣の彼方、それこそ、おそらく器用な、要領のいい先生たちにはまずわからない風景ではないですか。人間には出来と不出来があるのは当たり前、だから自分は出来る側の人間になったのです、と。でもよく考えてみれば、優も劣も教師(学校)によって作られたもの。だから学校のなかった時代は、いつでも子どもたちは優劣の彼方の世界の住人だったとも言えます。それをわざわざ「優劣のこなたの世界」をこしらえて、そこの住人に無理矢理仕立て上げたのは学校であり、学校を必要とした国家だったのです。教師は国家の意図を体現させられているのだから、それに反旗を翻すなどとは金輪際あり得ない話でした。このとき、「器用な」は「要領がいい」であり、さらにはっきりいうなら「ずるい」ことでもあるのです。
 杉並だけに通用する教師や京都市専用の教師、東京都御用達の教師とは、いかにも狭くて、見栄えがしない。まるで冗談かと思われます。子どもは(先生も)●●区や◆◆市や▲▲都の所有物ではないのです。養成塾出身の先生はまるでお役人のようにみえます。(このようにいって、お役人を低めるつもりは毛頭ありません)もちろん、いまだって相当に役人根性が根づいている教師が少なくないのに、心身のど真ん中から「お役人」教師に養成されたら、さぞかし寒々とした教室が出現することは請け合います。(政経塾出身の政治家もいました、この国には)
 教師は簡単に養成なんかできない。まるで養鶏や養豚と勘違いしている向きがあるのは、いかにも教育を見下しているし、子どもを軽く見ている証拠ですね。(反養成塾)