じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

不意転

2007-02-17 | 教育(education)
 またぞろ「教育委員会」をなんとかしようという議論があちこちで起こされています。まあ「盲腸」(この名称は変えたい。英語では「付録」(appendix)といわれる)のようなものですからという意見もないではないけれど、だからいらないというのではない。「小腸から大腸への移行部にある袋状の部分。爬虫類・鳥類・哺乳類に見られる。鳥類や草食動物ではよく発達し、消化に関与する。ヒトや類人猿では短く、先端は退化して虫垂と呼ばれる小突起となる」(大辞林)
 不要だというわりにはいろいろと画策しています。そのなかでももっとも目立つのは人事権(採用・研修・移動など)です。小砂丘さんは十二年間の教員生活中なんと九回も移動させられました。そのほとんどが「本人の同意なし」で行われたのです。当時、このことをさして「不意転」といわれていました。今日でもさかんに使われます。管理職や教委の覚えがめでたくないと「飛ばすぞ」となるんです。不意転。
 なにも教育の世界だけではありません。ずいぶんと古くからの仕来りのようで、その証拠に「左遷」などということばが使われてきました。
 教育委員会に対する勧告(命令)権を文科大臣に認めよう、政府の政策に同意しない教委にはそれなりの処置をとろうじゃないかという意見が大きな声で叫ばれています。
 たった一本の法令で学校教育はゆがめられ、教師も子どもも「物言わぬ」「物言えぬ」人間にされてきました。どこまでも泥濘(ぬかるみ)がつづくのでしょうか。