公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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リスクをとることができない感情の構造

2019-02-03 20:10:00 | 経済指標(製造業)

リスク(不確実性)をとることができない構造はなぜ生まれるんだろう。


合成の誤謬という考察は、システム参加者が最善を尽くすことによって最悪の結末を誘導する結果を例示するが、それであれば社会全体がリスクを取らない横並び現象という説明はできない。不確実性を社会システム全体が一斉に嫌うということは不確実性の定義に反する。不確実性には一定の可能性が含まれる。その可能性の利得が経済合理性に合わないと予想される他方で合理的とも予想される。しかし常にリスク(不確実性)と合理性の重ね合わせが嫌われているわけではない。最終的には感情が決める。

しかし感情は構造ではない。交通渋滞がドライバーの責任ではないのと同じである。誰もが先に進もうとしているが先に進めないそれが自然に交通渋滞の構造である。日本の産業人も同じ状況にある。

第一に思いつくのは、コストである。どのように可能性が含まれていても、コスト増となるものを既存製品にオンすることはない。相当に高い利便性や効果がもたらされるのであれば別だが、改良の世界に価格上限が壁となる。

第二に思い当たるのは、責任回避と高収入を両立させるのがサラリーマンの理想と考えられている製造業企業文化の腐敗である。

第二の原因は個人の罪とまでは言えない。ホンダといえど、組織が大きくなれば高学歴のエンジニアばかりになって、徐々に安定を求めて創業の精神は薄くなる。


高校進学率が50%を超えたのは、1955年である。大学進学率はその50年後2005年に50%を超えた。

現在33歳未満の大卒にはもはやエリートの資格がない。しかしながら仕組み自体は課長職以上のエリートの安定を求めている。エリートの義務は変化の先端に立ち続けるということだったが、もはやそういう人材を制度的に保障するシステムが日本から消えて久しい。

現実が不確実性と実現可能性の重ね合わせであるということがどうしても感情的に整理できないというのがこの問題の本質ではないだろうか。社会の感情が一方的にリスクテイク、一発逆転に傾いているとき、景気は悪くても市場に局所的投機の機運が過熱する(相場)。

 

たまたま今読んでる本が『頼介伝』《出版社 苦楽堂 発売日 2018/7/5》というほとんど歴史に出て来ない起業家の生涯を松原隆一郎氏が書いたファミリーヒストリーなのだが、著者は都市工学者であり経済学者でもあるので、この不確実性に耐える人物像として松原頼介を描いている問題意識の重なりの偶然にびっくりする。著者はリスクと不確実性を区別しているが、そんな細部には意味がない。ただ頼介が変化の先端にいるということに大きな意義があるだろう。 以下は『頼介伝』より 《私は近年、過去に生じた事象の統計的な反復である「リスク」(略)、過去に事例がなく想像するしかない「不確実性」とを区別し、後者が我々の住む資本主義社会を動かしていると考えるようになった。不確実性に挑むには社会に対する深い理解と瞬時の判断が必要であり、暗記力で得られるような学歴だけでは対応できない。》 この不確実性と実現可能性の重ね合わせは感情の渦中にのみ保蔵することができる。常人は感情の渦に耐えられない。大きな渦は世間から見たとき迷惑をかけるかもしれない。しかし渦に載っている本人には世界はそうあるべきで、渦とその外の人という区別がない。そうでなければ財産家族を危険に晒せない。そういう考えが今のところ妥当と思っている。


苦しみ八割喜び一割、後は死あるのみという感情の渦を抱えて生きる、人生は覚悟これです。


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