公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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誰も書けなかった「笑芸論」 森繁久彌からビートたけしまで」 高田文夫

2016-02-01 20:55:04 | 今読んでる本
多くの未成年者が被害にあう中で、メディアとしての役割を十分に果たしていなかったと自省しています。より深く真実に迫ろうとする姿勢を改めて徹底し、取材や番組制作に取り組んでまいります。NHKより2023/09/08
 
次はこれ
 
「誰も書けなかった「笑芸論」 森繁久彌からビートたけしまで」高田文夫
 
高田文夫は安藤組の花形敬(享年33歳、1930年 - 1963年9月27日)に少年野球コーチをしてもらったことがあるらしい。
 
 
住んでいたところが会社の前の住所そば、富ヶ谷だから、ちょっとこの話、身近に感じる。ワシントンハイツには、今世間が大騒ぎしているジャニー喜多川さんが住んでいたらしい。彼は「米極東司令部 ジャニーズ野球少年団 ジャニーH喜多川」という名刺を持っていた。高田らの宿敵ジャニーズは野球チームの名前が先で、当時あおい輝彦らがメンバー。世田谷に引っ越してからは森繁邸と清川虹子邸の間に敷地があったというからどれほど坊ちゃんかわかる。師匠筋の塚田茂のお話が出てこないが、師匠名義の仕事が多かったのだろう。
 
1981年オールナイトニッポンにビートたけしを単体デビューさせたことが、文化のレベルで放送不文律破壊王として暴れる世界の北野の道を拓いた。高田文夫くらい幅広く都内の演芸を嗅ぎまわっていた人物は少ない。基本は坊ちゃまである。しかし意外なことに浅草芸人の世界を知るのはビートたけし後からのことらしい。長寿番組「大正テレビ寄席」なんて懐かしいなあ。よく見ていた。
 
なるほど「浅草のエノケン&たけし、理論はのロッパ&タモリ、落語家の金語楼&サンマ」という構造の比較は高田文夫でなければできない。丁度10歳年上の半生記である。心肺停止からよくぞ生還された。それにしても震災からこっちお亡くなりになった昭和のヒーローの多いこと。
 
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ビートたけし「俺は北海道から帰ってきて、お金がなくて。ニュージャパンはフジテレビのプロデューサーが知ってて、タダで泊まれるんだよ。あの当時、関西からの漫才やなんかがみんなニュージャパンに泊まってた時代があって」と、背景を説明。
 
 「俺も便宜図ってもらっちゃおうかなと思ったけど、いや、仕事じゃないんでやめようっつって。高田文夫ってのがいて、作家に、新宿にいんのよ。そこまで行って、お金借りて、プリンスホテルに泊まったんだけど」という。

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