公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

もう一度語りうるものの中から 2

2014-10-02 09:05:25 | ジョージ・ソロスのワンワールド
真理は語りえなくても、その方向の道についてはまだ言葉で語りうる。ソロスの哲学姿勢はどうもそのようである。人間のやること、信じることの不確実性を前提とするならば、客観的事実を尊重する社会に戻らなければならないというのがソロスのメッセージだ。

啓蒙主義は長く現代にまでわれわれの思考(認識反射の総体)に影響を与え、事実、ソロス自身が語るように、知識は操作できる物語と定義しなおしたポストモダニズムはソロスには長いこと全く飲み込めないものだった。
やがてソロス自身が再帰性を論じるようになると、知識は分析と実証という方向と、予測と説明という操作という作用の二面性を持つということに気づいた。彼は、ポストモダニズムというあたかも文芸評論の世界での出来事が政治と民主主義の世界、ビジネスの世界、投票という民主主義制度の根本の世界で、境界なく拡散した。と言う。ソロスは、知識が自由に操作できる宣伝と印象のパッケージ(テロとの戦い、テロリスト、原理主義者などなど)にとって代わったと述べている。これは以前(2010年5月)にこのブログ書いた世界観の逆転に通じる観察である。ある意味では現代に中世が蘇るのと同じことである。
このあたり、個人的にはソロスの着眼に共感できる。世界は多重に解釈可能である

ソロスが得意とする不確実性の相場世界にあっては、操作を通じて再帰する知識変貌は日常のことだが、私達が当たり前と思っている啓蒙主義とこれらのパッケージを見比べると、ポストモダニズムは欺瞞に満ちている。
しかしながらこの欺瞞はどこまでも力を持ち、操作された熱狂が冷めれば、新しい嘘そして新しい熱狂へと、次々に転がってゆくことを権力者には許されてもいいと決めた時点から、啓蒙主義は過去の知識集積となったとソロスは言う。

私の目から見ると、存在論<神の実在論>の祖であるデカルト哲学も、<知識は力>と考えていた啓蒙主義もポストモダニズムも、知識が力と考えた点で本質が変わらない。見かけは大いに違うが、啓蒙主義とポストモダニズムのどちらの立場を取るかは、支配のファクターにすぎない。
知識資源の枯渇しそうな客観世界の理解から、無限に創作できる世界に立脚点を移して支配する力を持ち続けたいと願っているだけにしか見えない。これは採掘可能な知識資源が枯渇したら、<豊穣な誤謬>の土地に列をなして移民しているようなものだ。

石炭から石油そして電気、原子力、まさに知識は世界を支配する力だった。石油と核開発は今もなお力だ。実は単純な強欲な意図を複雑に見せる宗教対立、欧州以外の民主主義との定義の違い、これらはすでに嘘の寿命が尽きている。かといって客観世界の探求で得られる知識資源は専門的すぎて嘘つきゲームの役に立たない。故に自分たちの利害に有利に作用する新しい知識をあたえれば世界を操作できると信じる、掟破りに躊躇がない人々が、現実のしっぺ返し(環境破壊、原子力廃棄物)を顧みずに単純で強欲な意図を隠し、再定義する。再発明する。再創造する。

それがソロスの警戒する”反<開かれた世界>”だろうと理解する。しかしソロスが中国の理性に期待する動機は私にはよくわからない。この人だ↓ それでは<開かれた世界>とはなんだろう。



The “open society” basically refers to a “test and evaluate” approach to social engineering. Regarding “open society” Roy Childs writes, “Since the Second World War, most of the Western democracies have followed Popper’s advice about piecemeal social engineering and democratic social reform, and it has gotten them into a grand mess.”

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もう一度語りうるものの中か... | トップ | もう一度語りうるものの中か... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。