公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

贅沢は素敵だ 門田勲の名文

2015-08-18 15:20:36 | 今読んでる本
今読んでいるのは門田勲の「古い手帖」という書き散らしエッセイ。

私は朝日新聞などに知識縁を持つつもりはないのだが、門田勲(かどた つとむ)さんの名文調に興味があって読んでいたら、花森安治の作と言われる「贅沢は敵だ」を褒めていた。敵の前に素敵の素が透けてるあたりが気になっていたが、門田勲も同じことを思ったらしい。花森安治は、《心の中のチョンマゲ野郎》と戦うために「暮らしの手帖」を創刊するが、戦中国策コピーの選者をしていた関係で、「欲しがりません勝つまでは」などの作者と疑われることも多かったようだから、門田勲の指摘も間違っているやも知れぬ。文屋らしく誰に対しても無礼で乱暴な口の利き方だったから誤解ならそれはそのままでいいのかもしれない。

七五調の標語はいけないという。「この土手を登るべからず警視庁」とか「新聞は地球を守るみんなの目」とかアーこりゃこりゃと合いの手を入れたくなるなどと、思わずクスリとさせる。
門田勲の洒脱なところは、京都のおそめのエピソードに現れている。本人は京都木屋町の宿と書いてることがあるが、おそらくは上羽秀の京都の店おそめのことだろう。
そのころ時々東京に出ていた上羽秀がまだ鎌倉の大仏を見たことがないというのを聞いて、「今度鎌倉の大仏を連れてこよう」と言って連れてきたのが大佛次郎だったという。読みは違うが嘘ではない。


ほとんど忘れられた名文家である門田勲は朝日新聞の捏造記事事件の事後処理で大阪に一時赴任したらしいが大阪には抵抗派がいて僅かな時期しかいなかったようだ。米騒動の煽りで鈴木商店に民衆の怒りを集めたのも大阪朝日だった。今も昔も変わらぬお勤めご苦労さまです。門田勲の名文には無駄がない。周りくどいところがなく、キチガイはキチガイと書いている。ネガティブな言葉を極力使わない表現者にはできない芸当だろう。もう一つもっと有名な言葉「戦後強くなったのは靴下と女」という愛媛県のミカン山で農協職員の言葉を全国に紹介した。

そういう朝日新聞を日本人は昔から好き好んで読んだり、競って就職したりしているのだから刷り込みとは恐ろしいことである。



”みよぼくらの一銭五厘の旗”に出てくる<チョンマゲ野郎>というのが、見識で捉えられない冥の世間、現世信仰なんだろうなあ。

なんとも説明しがたい日本人のやる気を挫かせるこの<腐った冥の世間>が押し付けつづける妥協は福島第一原発事故でも同じものを見た。<世間不変>の法則を維持するために、何事もなかったかのように食べて応援。恐ろしい社会である。多分この先も何度もこの原始的精神はこの國に現れる。

自己保身を本能的動機とする〈世間不変の法則〉を維持するためなら、国民に何も知らせず、SPEEDYも無視する。大本営発表の如く、直ちに影響は出ないと繰り返す。この國の空に世間の雲の出ない日はない。この國の人倫には理知というものが入り込む隙間が無い。理知は現世信仰の邪魔者だからだ。
大本営の連戦連勝の虚報と同じ台詞を、原発はコントロールしていると強弁する姿に見出す為政者の裏舞台では、チョンマゲの奴がせっせと働いている。

その動機が事なかれ主義、というほど主義の自覚もない信仰による目隠しと法的欺瞞、組織的無関心を作り上げる社会システムがチョンマゲ野郎の望み通りに稼働している。その証拠に、緊急事態が去ったかのように、東電は早々に作業衣を着て記者会見することをやめてしまう。

それもこれも<腐った冥の世間>が求める<世間不変>という私達の現世信仰が原因なのだ。前にも述べたように権力=金と結びついた世間は事実上の支配なのだ。どんなに理屈をぶつけても、一旦、金の流れができると原発を誘致した時と同じように、金の動きに沿って世間はひとつの都合のいい前提(復興資金誘致)以外を排除して世間の流れは強固になる。<顕><冥>の法則は今もこの日本社会に生き続けている。世間の顕は冥の裏返しと覚えなくては「食べて応援」などというご都合主義の顕に流され、やがて弱いものは一層弱く、強いものは一層強い世間の地獄循環に落とされてしまう。

昭和二十年八月十五日という一瞬の真空をのぞいては、常に世間を満たし続けている。世間のない空など日本人にはない。花森安治は戦前の大政翼賛会を取り巻く世間でメシを食っていたのだからそのくらいのことわかっているはず。戦後、平和主義者に転向した者たちほど<チョンマゲ野郎>の信奉者だったということを忘れてはいけない。この国では世間から独立した個人の知識というもは抱えているだけで苦痛なものだ。

「日本にとって
あれは 幻覚の時代だったのか
あの数週間 あの数カ月 あの数年
おまわりさんは にこにこして ぼくら
を もしもし ちょっと といった
あなたはね といった
ぼくらは 主人で おまわりさんは
家来だった
役所へゆくと みんな にこにこ笑って
かしこまりました なんとかしましょう
といった
申し訳ありません だめでしたといった
ぼくらが主人で 役所は ぼくらの家来
だった」
花森安治 「一銭五厘の旗」より。


 『NHKの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」。とと姉ちゃんこと小橋常子が、天才編集者・花山伊佐次と組んで「あなたの暮し」を創刊する時、「新聞広告を載せよう」という話になった。では、実際はどうだったのだろう? 「あなたの暮し」のモデルとなっている雑誌「暮しの手帖」の創刊号は、新聞広告を出したのか?

 読売新聞を調べてみると・・・ありました! 左の写真が1948年10月16日付の読売新聞の1面に載った「暮しの手帖」第1号の広告だ。川端康成、土岐善麿など豪華執筆陣を抱えている。ちなみに、この日の1面トップの記事は、吉田茂・民自党総裁が首相に任命され、組閣に入ったというもの。第2次吉田内閣のスタートだ。自民党ではなく、民自党なのが歴史を感じさせる。

 「とと姉ちゃん」こと小橋常子のモデルは、「暮しの手帖」を創刊した大橋鎮子しずこさん、そして、編集者の花山伊佐次のモデルは、大橋さんに協力した服装研究家の花森安治さんといわれている。その大橋さんのインタビュー記事が、82年8月20日の読売新聞夕刊に載っている。ちょっと引用してみる。

 「大橋さんは正式には編集長ではない。(昭和)五十三年一月にこの世を去った花森さんの遺言を守り、重要事項は幹部スタッフ五人との合議制で決定する。(中略)『花森が今もここにいるような気がして……』と語る大橋さんの後ろの壁には、その遺影がかかげられ、室内は当時のまま。机の上には数十本の鉛筆や万年筆、三角定規などがそのまま置かれている」――。』
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