公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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今読んでる『文学のトポロジー』奥野健男

2018-09-12 09:56:00 | 今読んでる本
文学に限らず、自分の居場所はトポス。そこを囲む図形は心地よさのトポロジーであろう。『文学のトポロジー』奥野健男(おくの たけお、1926年〈大正15年〉7月25日-1997年〈平成9年〉11月26日)は、文芸評論家・化学技術者。多摩美術大学名誉教授。父は最高裁判事の奥野健一。)の遺作ともいえるのだけれども理科系の文学者は最後に謎めいた課題を残していってくれた。
 
自分を点として◇の図形の真ん中付近に置いてみると、どのように左右が伸びようとも自己像は変形されても本質的包摂関係は変わらないというのがトポロジーである。
難しいことではないが、変わらないことが難しいのが生身の人間というものだ。
 
試しに◇の左半分を切り捨てても同じ自分であるが、果たして切り捨てられた左半分の中に自分の点は含まれていないという確信があったかどうか後になって後悔することがほとんどではないだろうか。恋愛などはわかりやすい例だろう。学問においても仮説を捨てるということは同じく苦しいことである。しかし苦しいと感じる人間はまだまともである。現代人は自己分裂に気づかないふりをして不本意な会社勤めや役人や政治家をやっている。だから自分のトポスを捨てたことに無感覚でいられるのだ。
It's been a hard day’s night,
and I’d been working
like a dog
It’s been a hard day’s night,
I should be sleeping
like a log
But when I get home to you
I find the things that you do
Will make me feel alright
A Hard Day's Nightもトポスと自己分裂に対する順応を歌っている。実に単純なことだが、明解な真理がメッセージソングとなっているのである。
 
物理的な境界線がトポスと自分の関係を決めることもあるし、信仰と非信仰の境界線がトポスと自分の関係を決めることもある。人間はそのようなトポロジーとして関係の数を増やしながら生きている。逆説的には生きる手段として、時には目的に倒錯したトポロジーつまりは《乗り移り》の居場所がある。より主体的積極的関係によって規定されるトポス、いわば理念の運動点としてのトポスは自分の意思や動機の関数であり、モナド論の論理空間上の演算基礎構造のありかでもある。
 
文学とはこのように誰もが持っているトポス、その人とその人の及ぶ範囲との写像、場所的関係の捨て場、抜け殻である。文学は自己関係と自己分裂の化石である。
 
故に文学読書とは陸の化石発掘であり、海岸の貝殻拾いである。時に世代を経た重いトポスの地層的重なりの再構成であり、時に仮初めのヤドカリのような居場所の発見である。科学者が大いに苦しんで仮説を捨てるように、文学者が捨てるのは生の自己執着全般である。生に執着してるように見えて次の生を得るために腕の中の手の平の下の生を捨てているのである。生きながら死んで自分を排泄するのが文学者の仕事である。
 



ではそのようなトポロジーにとって本人の死とは何か?ここで初めて文学作品の傑作が出てくるのだと思う。新訳聖書もまた壮大なイエスの死の文学である。
故に文学とは、あるいは芸術とは、トポスの抜け殻である。

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