公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

第三の直感 3

2016-04-29 06:42:49 | 今読んでる本
リアリティ考えれば考えるほど正体がわからない。例えば見えるということは、ある種の肉体的習い性、脳の刺激に対する適応にすぎない。しかしながら限界はあるものの信頼に足るものであるから視力の成果を現実と見ている。鳩などに至っては、始終頭を前後に揺らしながら静止して世界を外に見ているに違いない。

私たちは得体のしれないものを信頼度の差で本物と信じているベイズ確率的に一回きりの信頼を重ねあわせている)。下の動画リンクをクリック、事例を見てみてください。疑問が生まれる前に<信頼するか、信頼しないか>を脳は認識が定まる前に、瞬間的に始末している実例の一つです。

T-REX

動くものを凝視し続けて静止するものを見たときの動揺錯視なども脳のシステム1側の習い性の一例である。
さらに外部世界の反映ばかりでなく、もう一歩すすんで、私達が経験上から対象の性質を知るということは、ほとんどが、問いと答えの定形セットを用いた(対象を知ることを自己申告するかのように働く)反射的プログラムであって、相当に経験を要する複雑なものであっても、初等算数で九九を覚えるような定形セットの組み合わせ反射群にすぎない。経験にかぎらず、脳の成り立ち自体とそれに由来する活動(考えるということ)が外部世界刺激に対向する内側世界の多層にわたる線引きに過ぎない。考えるということは外部刺激の集合なしにはまったく定義できない空っぽの補集合です。脳はそのような意味で考える(多層的に刺激を解釈リレーする)皮膚である。もし最も最初にできる脳組織が魂の住まいだとしたら、脳髄液しか無い空っぽの脳室であろう。何も無いところが己とは皮肉なこと。己とは、ドーナッツの穴と同様、論理的に最も早く完成するドーナッツの一部と考えらてているただの空虚(外部刺激の影)です。

外部世界の反射的認識に限らず、価値観としての対象の良し悪しの現実感もまた脳が創りだした主観的に<矛盾のない>反射群の総体で、ここで現実感と現実は全く関係がない。我々の知る確からしさ、その確からしさに由来した信念は、はじめから五感の成長に付随した肉体的習い性ということになる。これでは精神が自らの仕組みでリアリティの本質を智ることにはならないでしょう。

ましてや記憶の貯蔵と取り出しが精神の創造、すなわち目的とはならない。

しかしながら私達が学校で勉強したり本を読んだりすることが無駄というわけではない。知識を積み上げることは様々な連想と豊かな情緒を与えてくれる。無関係なことを突然つなげてしまう智の直感は、学問が導くことではなく、霊的なものである。第三の直感を受け止める精神(心眼)を養うことが本当の教育であって、知識はその手段にすぎない。精神を養うということは志や意志を持つことによって達成されるのではない。そのような教育の達成は分別智と呼ばれる、通常の教養にとどまる。本当の教育を岡潔は「春宵十話」のなかで、「本当のものがあればおのずからわかるという智力」、心眼・無差別智が重要であると述べている。一見関係性のないものを結びつけるという能力は訓練によるものではない。感じ取るもの、センスと言っていい。

19世紀前半の世界が革命の時代に入っていた時、見たこともない石炭と蒸気によって造り変えられた資本主義と革命の世界を直感していた、吉田松陰をはじめとする日本の先人たちは、おのずから明白な未来を感じ取っていた

おのずからわかるという、いかにも簡単そうな精神の準備というものが、実は大変に困難なものなのだと気づく。なぜならば、おのずからわかるということは区別と判断の意識過程から独立した無差別智が分別智(悟性や設問と答えのセット)から独立している(つまりプログラムの外)状態にほかならない。これは大悟に至るには、教養ではなく、別の道、つまり自己中心的反射プログラムからみたときに、ある種のハッキングを受けた時のような衝撃を要することを示唆している。
ある意味(属性としての思考の立場から見ればということだがここでは詳しくは述べない)では身体自身が答えをだすということです。

自明ということを知識の媒介に依らず直接に確信するということの純粋さは次のPHP文庫「霧に消えた影」池波正太郎 傑作歴史短篇集に収載されている「明治の剣聖 山田次朗吉」の直心影流免許皆伝の瞬間の描写が最もよく理解できる事例と考える。

 「明治二十六年の冬のことである。次朗吉は榊原先生の供をして、陸軍戸山学校へ剣術の指導に出かけた。その帰途、ふたりとも足駄ばきで冬の道をやってきて、九段坂下にかかったとき、榊原先生のはいていた足駄の鼻緒がプツリと切れた。。。榊原がよろめいた。その一瞬に。。次朗吉の片手は老師の体をささえ、もう一つの片手は、おのれの下駄を脱ぎ、これを老師の足元にそろえていた。。」

この事例は剣豪の誕生の瞬間のいわば身体が答えを出す事例ですが、老師と弟子がこのような瞬間を共有することは、禅の世界にも事例がある。さて、この逸話を客観的に分析してみると、ただならぬ心技体の仕上がりとともに、到底予測予知すること無しにできないという状況と、おのずからわかるということが含まれている。ここがこの短編のよみどころです。

ただ私は教育が真に授けるべき自明ということを自明と見切る能力 「おのずからわかる」能力、岡潔の言う情緒というものが、理屈によって分別できないものであるという事例として引いておく。これほどおのずからわかるということは簡単なことではない。一言で言い換えれば、分別という己に克つということです。もう一つ分別というものがなんであるかという事例を示しておきましょう。アメリカの脳科学者ジル・ボルト・テイラー (Jill Bolte Taylor)が語るそれは全く意外なことに、理論によってではなく、彼女自身が死に瀕しながら目にした世界です。分別や自我(小我)が如何に人間の外部世界の《非自非他》の自覚を制限しているかということを眞ざ眞ざと語っています。医学的には、左脳の脳卒中を体験することで得た証言です。彼女の体験は眞に死にながら生を発見した体験です。ジルが脳内出血で突然失った左脳の機能はまさにショーペンハウエルの四つの根に相当する。すなわち空間的認知、継起的認知、(この二つをまとめて第一の直感=実在感と岡潔はまとめた。)分析的認知、動機的認知(自覚)、(この二つをまとめて第二の直感=これを岡潔は選別感とまとめた。)四つの自明は自動処理されている。ジルはこの自動処理が失われた状態、生の第三の直感がジルの天国にいるかのような死の体験談を語っている。彼女の話は是非聞いたほうがいい。左脳は第三の直感の次元を自ら生成する因果律の次元に巻きつけて見えなくしているのだということがよく分かる。この世のリアリティは左脳が創りだした創作なのだという事例です。

西郷隆盛が1858年に体験したこともこれと同じ体験だったろうと想像できます。
  
  吾性即天也 躯殼則藏レ天之室也
  吾が性は即ち天なり、躯殼(くかく)は則ち天を藏(おさ)むるの室なり。


これに対して私が試みようとするのは、生きながら論理的に死を体験するという道です。
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