公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

『 戦争責任者の問題 』伊丹万作 1946年4月28日

2021-08-04 16:42:00 | 日本人
伊丹万作とは、映画監督、伊丹十三の父で死後ずーっと経過して、宮本信子の義父となる。シナリオ作家>映画監督だ。この引用は戦争が終わってからはじまった戦争責任者探しに遭難して反論したものだ。戦争協力と指弾された行為とは、日独合作映画の「新しき土」のことだろう。結局意見が合わず同じシナリオから二本の映画が生まれる。 原節子主演『世界』昭和25年11月号掲載記事)本地陽彦、p100 見落としてはいけないのは、この原稿が長い病床生活の末に書かれたこと、この数ヶ月後に伊丹万作は亡くなっている。

『 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。 
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。』


無知から騙されたと思うのは自由だが、戦時中に世間が誰に対しても圧力をかけていたのは本当だろう。ちょっとしたお出かけでも、男はゲートルを足に巻かなければいけない滑稽な世間があったことを日本人はもう忘れているが、(2021年のマスクのような滑稽)映画を見ると、それなりにその時代考証しているから状況を思い浮かべることができる。戦時中だからと言っても、街中で戦闘服まがいの格好をしていることに合理性はない。モンペ姿だから協力的とは限らない。いつも何かの作業をして動員されているふりなのか、いつでも突撃する覚悟が大事なのか?どんなことよりも世間に合わせようとする習慣が先にあったに過ぎない。
戦争とは無から金をうみだす手の込んだマジック




WGIPという進駐軍の陰謀論(陰謀にしては一貫してあからさま)があるが、これはWar Guilty Information Program の略だがこのWGIPのIは日本人にとってImmunity つまり免責プログラムでもあった。

『少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。』

映画人らしい指摘である。騙された論の方が責任論よりも優勢だったのは日本の特異的光景ではないだろうか。騙されたなどという言い訳自体幼稚であるし、自分の馬鹿を宣伝して許していただこうという根性は何処から生えてきたものだろうか。自ら國の未来を捨てる学徒動員あたりで敗戦に気づかないのは馬鹿だろう。あってはいけない事が目の前にある時に、これをを見ようとしないのが世間不変の法則である。

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