公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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この人は誰でしょう ヒント北海道の恩人

2018-10-02 06:53:41 | 日本人

ヒント北海道の恩人


1901年三原高等小学校2年終了後、私立尋常中学鳳鳴義塾(現在の兵庫県立鳳鳴高校: 桂文珍の出身高校)に入学、1902年大阪陸軍地方幼年学校を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の@@家の養子(父・久八の弟・勇次が@@家の婿養子となり@@を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。1909年陸軍士官学校(21期:石原莞爾、百武 晴吉、留学生蒋介石と同期)に進む一方で東京外語学校でロシア語を徹底的に学ぶ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校(30期)を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年にウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満州、ロシア方面部署を転々と勤務、1925年公使館駐在武官(少佐)としてポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊連隊長時代に起きた相沢事件*は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭に慰留され、ハルビンに赴任する。
*相沢事件は、1935年昭和10年)8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件

@@・ルート
1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた@@(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で@@は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた@@は直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、@@は南満州鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右と直談判して了承を受け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた。その後ユダヤ人たちの間で「@@・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、上海まで彼らを乗せる列車を手配した東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、満州から入国したユダヤ人の数は、1938年だけで245名だったものが、1939年には551名、1940年には3,574名まで増えている。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想録には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている。しかし、ドイツへの外交的配慮からか、多数の難民が殺到した際の具体的な人数に関する公的文書は残されていない。

@@の孫の@@隆一(明治学院大学名誉教授/音楽学)は、難民の数は極東ユダヤ人協会のカウフマン会長か現場の河村愛三少佐(当時)からの報告によるものとした上で、「1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、近年のドイツの調査では25万人から31万人といわれていますから、二万人という数もあながち荒唐無稽ではありません」(cf.「ウォッカの小瓶と鴨居の小さな水彩画 … 祖父の思い出」『歴史街道』2012年4月号)と述べている。他にも『流氷の海』(1973)の作者・相良俊輔などが「二万人説」を唱えている。東京裁判においてソ連からA級戦犯として引き渡し要求があった@@に対し、当時ニューヨークに本部を置いていた世界ユダヤ協会が米国防総省に助命嘆願を働きかけ、戦犯リストから外させたというエピソードや、杉原千畝と共に、安江仙弘と@@の名がゴールデンブックに刻まれ、日本イスラエル協会から名誉評議員の称号を贈られている事実から判断すると、オトポール事件の史実としての存在を疑う余地はないといえる。

@@がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、@@が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして@@に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、@@はその出来事が脳裏をよぎったと後述している。

この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッペントロップ外相からの抗議文書が届いた。@@は関東軍司令官植田謙吉大将に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将と面会した際には「ヒトラーのおさき棒を担いで弱いもの苛めをすることは正しいと思いますか?」と発言。この言葉に理解を示した東条英機は、@@を不問とした。東条の決断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの@@に対する処分要求は下火になり、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。@@の名前は、ユダヤ民族に貢献した人々の名を刻むエルサレムの「ゴールデンブック」にも記載されている。孫の樋口隆一明治学院大名誉教授は2018年6月15日にイスラエルのテルアビブで「@@・ルート」で逃れた生存者カール・フリードマン氏の息子から「@@氏のユダヤ人コミュニティーに対する前向きな姿勢がユダヤ人救出を可能にした」と謝意表明を受けている。

アッツ島玉砕、キスカ島撤退
1942年(昭和17年)8月1日、@@は札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。1943年アッツ島玉砕、キスカ島撤退(いずれも対アメリカ)を指揮し、キスカ島撤退作戦では救援艦隊の木村昌福少将の要請を容れ、大本営の決裁を仰がずに独断で在留軍に、小銃を含めたあらゆる武器の海中投棄を指示して、乗船時間を短縮し無血撤退の成功に貢献した。

終戦後、
敗戦、1945年8月18日以降占守島、樺太における対ソビエト軍への戦闘を指揮した。そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で@@救出運動が展開された結果、ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、@@の身柄を保護した。

韓国メディアは日本人の右翼が煽ってTV出演が見送られたと報道。政治利用だと言って日本が指導者資格がないとレッテルばりの勢い。自分に適用できない基準で他国を批判するダブスタだけでは無く、経緯も書き換える荒技。
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