公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

雷雨の間で散歩

2019-08-14 13:18:30 | 日記
雷雨の雨足が弱いうちに散歩してきた。晴れよりも快適。

(Reuters) - U.S. Federal Aviation Administration (FAA) has banned certain models of Apple Inc's (AAPL.O) MacBook Pro laptops on flights, after the company recalled select units which had batteries posing fire risks.



明治24年 茨城県人岡山峯吉、福島県人渡辺兵蔵及び高橋辰造ら西1線北11、2番地に長沼に入植する。

<岡山峰吉の碑>
碑文は「岡山峯吉君は理想に近き実業家なり、君を失いしは大野村の一大損失にしてヽその誇りとする青年の指導者を失いしなリ」の一節から始まる.
明治末期から大正中期にかけて、村民から『果樹王」と呼ばれた岡山峰吉は、明治四年(1871)、茨城県河内郡太田で生まれた.同三十一年七月、長沼を経て、単身大野へ移住している.峰吉の果樹園はかつて山田政人が果樹園を試みた地で、苗床十町歩、果樹園十町歩を経営し、リんご、なし、桜桃、ぶどうを栽培、年産額一万円の収穫を得るまでに成功したことか碑文に記されている.
その努力と大成功に村民から敬愛されたか、大正九年(一九二〇)三月、数え年五十の春に他界した.石碑は同年六月、峰吉の妻・蘭によって向野の道路沿いに建てられ、後に法亀寺に移された.碑文を書いた伊藤松太郎は函館の教会の牧師で、峰吉は熱心なクリスチャンでもあった。短命で後継者のない、はかない果樹王であったが、法亀寺の墓に刻まれた遺言と思われる「我は復活也生命なリ」という句から、世俗を達観した人であった。   
平成十八年三月 北斗市教育委員会

岡山峰吉の出身地は現在は牛久市で、当時の太田は現在牛久市役所のあたりである。同姓であることから、興味を持つに至ったが、同じくらいの時代に牛久には神谷伝兵衛(15歳年上)というブドウ栽培と甘味加工葡萄酒の成功者が出る。この人物が幡豆郡吉良町(岡山姓の本貫地は菩提寺華蔵寺けぞうじのある 〒444-0531 西尾市吉良町岡山山王山59)の近く矢作古川を挟んだ西隣り三河国松木島村出身であったことから、なんらかの縁者ではなかったかと思っている。


神谷 伝兵衛(かみや でんべえ、神谷傳兵衛、安政3年2月11日(1856年3月17日) - 大正11年(1922年)4月24日)は三河国松木島村(現在の愛知県西尾市一色町)出身の実業家である。東京都台東区浅草の洋酒バーの神谷バー、茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの創設者。旭製薬社長のほか、神谷醸造、日本製粉、九州炭鉱汽船、三河鉄道、東洋遊園地などの役員を務めた[1]。浅草で神谷バーを開店して成功をおさめた伝兵衛は、この成功によって得た資金を元に念願の葡萄酒づくりを実現させようとした。この時、尽力したのは婿養子の伝蔵だった。子供のなかった伝兵衛は兄・圭介の長女誠子を養女に、そして働き者で研究熱心と評判の高かった小林伝蔵を婿養子として迎えた。伝蔵は結婚式の3日後の1894年(明治27年)9月24日に葡萄栽培と葡萄酒醸造の技術習得を託され渡仏、1897年(明治30年)1月12日に多くの参考書や醸造用具、土の標本などを携えて帰国した。伝兵衛は伝蔵の帰国後すぐ苗木6000本を輸入し東京郊外の村に試植、順調な苗の生育に日本国内での葡萄栽培に自信を持った。茨城県稲敷郡岡田村(現・茨城県牛久市)に土地160haを購入すると、開墾して1898年(明治31年)に「神谷葡萄園」をつくった。1901年(明治34年)に仮醸造場を誕生させ、1903年(明治36年)9月には本格的な醸造場(現在のシャトーカミヤ)を完成させた。1^ 神谷伝兵衛『人事興信録』6版(人事興信所, 1921)



華蔵寺(けぞうじ)
華蔵寺は山号を片岡山(へんこうざん)といい、臨済宗妙心寺派の禅寺です。忠臣蔵で有名な吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の曾祖父、義定によって慶長5年(1600年)に金星山華蔵寺から片岡山華蔵寺と改められ菩提寺とされました。華蔵寺の吉良家墓所には義安以下、代々の墓が建ち並んでいます。毎年、吉良公の命日である12月14日には毎歳忌法要が行われ、たくさんの参拝客が訪れます。御影堂には吉良義央公の木像(県指定文化財)が、義安像、義定像と並んで祀られています。また、吉良家ゆかりの文化財を数多く所蔵しています。吉良氏に関わる人々の大規模な共同墓地と考えられている西尾市吉良町岡山の善光寺沢遺跡では鎌倉時代にさかのぼる墓が多数発見され、武蔵吉良氏ゆかりの世田谷勝光院の過去帳に吉良荘岡山の能満寺で1334年に吉良氏一族とみられる人物が葬られたことを示す記述があることから、貞家以前から義継系吉良氏が岡山周辺に拠点を構えていた可能性が指摘されています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『可能世界の哲学  「存在」... | トップ | CRAZY INVERTED YIELD CURVE!  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。