公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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今読んでる 古書『東条英機とその時代』 矢次 一夫

2017-09-22 10:54:20 | 今読んでる本

東条英機とその時代 (1984年) - – 古書, 1984/8
。『東条英機とその時代』三天書房 1980の改装版、これは死後の再出版。

矢次 一夫 (やつぎ かずお、1899年7月5日 - 1983年3月22日)

30年経過すれば古書も古書、現代の若者には読みにくいことだろう。しかし日韓関係を語る上では、読まねばならない。矢次一夫の博覧強記。自慢話は当然としても、証言の価値は自慢によって摩損するものではない。
注目しているのは、日米開戦直前のハルが裏で受け取っていた日本側の暗号外交通信傍受の英訳の【超訳】ぶりが野村駐米大使や来栖に対しての不信感を煽っていたという事実、東京裁判でも論点、米国征服の意図の有無など、となったが判決には影響しないとされた。である。いったい誰が意図的な誤訳を行なっていたのか?米国側に犯人がいることは確かだろう。

矢次 一夫は、大正・昭和期の日本の、労働運動家・フィクサー、ロビイスト。
昭和研究会と並ぶ、民間の国策研究機関「国策研究会」の創立者の一人。戦後台湾・韓国ロビーの中心であったと記載されている。

人物[編集]
1899年(明治32年)7月5日に、佐賀県にて、長崎の県立病院に勤める医師だった父と、同じ病院の看護婦だった母の間に生まれた。
早くに母を亡くしたこともあって、大阪で、厳格な祖父の下で育てられた。
祖父が亡くなった15・6歳の頃に家を出て、人夫・沖仲仕・鉄工所などを渡り歩いて肉体労働に明け暮れる放浪生活を経験した後、徴兵検査で一旦故郷に帰ったものの、20歳で上京。一時は北一輝の食客となり、これを契機に労働運動の渦中に身を投じることになる。
1921年(大正10年)に、田澤義鋪(たざわよしはる)の勧めで協調会に入り、1924年(大正13年)に退会し、独立。
1925年(大正14年)に、労働事情調査所を創立して労働週報を発刊。野田醤油争議、共同印刷争議、日本楽器争議などの大争議の調停にあたり、辣腕を振るう。調停の過程で、無産運動家から軍人まで幅広い人脈をつかみ、その能力を買われ、陸軍との繋がりを持つ。
1933年(昭和8年)、陸軍省から依頼され、統制派の幕僚・池田純久少佐と結んで、国策の立案に着手。総合的な政策研究組織の必要を感じ、同年10月に、官僚、学者、社会運動家、政治家などを集めて国策研究同志会を組織。
1936年(昭和11年)の二・二六事件の後に一時解散するが、1937年(昭和12年)に再組織。1938年(昭和13年)に国策研究会に改称。戦時国策の立案に従事。組織の拡大を図る。
戦時中は、上海で「大陸新報」を発行したり(当時、国策研究会常任幹事)、企画院委員、大政翼賛会参与、翼賛政治会理事などを歴任、戦時内閣の組閣や倒閣にも深く関与した。田中隆吉によれば、矢次は大政翼賛会を操っていた人物として名指しされている。
終戦後は公職追放されたが[1]、1951年(昭和26年)、追放解除となる[2]。サンフランシスコ講和条約発効後の1953年6月に国策研究会を再建。
1956年(昭和31年)、訪台した矢次は蒋介石中華民国総統と会談。日韓関係の改善を求める。日台韓の反共連盟の強化を目指していたとされる。
1957年(昭和32年)、日韓会談再開のため、矢次は柳泰夏駐日韓国代表部参事官と李ライン抑留問題に関する秘密交渉を行う。同年、矢次の仲介で金東祚韓国外務部長官・駐日韓国大使が岸信介首相と接触。昭和32年第一次岸内閣のもとで「財団法人」の認可を得、同内閣成立に前後して、日本・台湾の要路人士を結集して「日華協力委員会」を創立。
1958年(昭和33年)5月、岸信介の個人特使として訪韓。李承晩韓国大統領と会談。日韓併合について謝罪し、国交回復を打診。
1970年(昭和45年)10月、朴正煕韓国大統領が矢次に一等樹交勲章を贈る。
1972年(昭和47年)、福家俊一の仲介で矢次と金炳植朝鮮総連副議長が会談。日朝経済関係の促進に乗り出す。矢次は日朝貿易を取りまとめる協和物産を設立。
1973年(昭和48年)9月、訪韓した矢次・岸信介と朴正煕が、金大中事件について会談。事件処理と経済関係を切り離すことで合意。
1980年(昭和55年)5月、訪中した矢次は鄧小平と会談。中韓経済交流について交渉。岸信介も70年代後半から訪中を探っていたとされる。
同年9月、岸信介と共に訪韓した矢次と全斗煥韓国大統領が会談。金大中問題について交渉を行うが、目立った進展はなかった。旧朴正煕政権の対日人脈に不信感を持っていたとされる。
1983年(昭和58年)3月22日に、80歳でこの世を去るまで、その広い人脈を生かして韓国・台湾の政財界とのパイプ役として力を発揮した。
元読売新聞記者の橋本文夫は、矢次をこう評している。
『黒幕と言われる他の人々、例えば児玉誉士夫や小佐野賢治らは利害関係にある人達としか交際はなく、彼等の知り得る情報は彼らの企業の利益に必要なものに限られている。小林中・荻原朔太郎・笹川良一にして然りである。一方、矢次の持つ情報は多方面にわたり、かつ正確なのだ。会った人が必要とする情報を常に持っている。彼は偉大なる情報屋であり、それが怪物の本質である。』

国策研究同志会は、大蔵公望(男爵、貴族院議員)、小野塚喜平次(東京帝国大学総長)、美濃部達吉(東京帝国大学教授)、矢次一夫(労働事情調査所主幹)らが参加して1933年10月に結成された。1937年の二・二六事件を契機に戦時体制への傾斜が進む中で、1938年に国策研究会と改称し、「実践的研究団体」として拡大改組され、以降、多数の調査研究報告書等を作成し「民間企画院」とも評された[1]。特に、第1次近衛内閣(1937年 - 1939年)から小磯内閣(1944年 - 1945年)に至る各内閣には、国策研究会の関係者多数が入閣をしていた[1]。

1942年には、高橋亀吉が常任理事調査局長となり、大東亜共栄圏の具体的構想に取り組んだ。高橋亀吉自身は昭和 23年5月に公職追放に会い 、昭和 26 年 8月 に公 職追放解除になっても、日本経済研究所に復帰しなかったが、研究 所活動は大戦後の経済復興に大きな貢献した。
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