公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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書評 「街場の読書論」内田樹 (著)

2015-02-06 20:23:11 | 今読んでる本

この読書のオムニバス。著者のいろいろな示唆がある中で、今日は世界の終わりとは何かをピックアップしてみよう。
『三月一一日の福島原発事故は 、まさに 「生き延びようとする必死の努力 」によって 、生き延びる可能性そのものが減じてゆくという 「世界の終わり 」の話形をなぞったもののように思えました 。これまで物語の世界でしか知らなかったことが 、 「これでほんとうに現実になったのだ 」というのがそのときの実感でした 。ほんとうに現実になったのだ 」というのがそのときの実感でした 。』
脳については、こうだ。
『「私はこのように思う 」という判断を下した瞬間に 、 「どうして 、私はこのように思ったのか ?この言明が真であるという根拠を私はどこに見出したのか ? 」という反省がむくむくと頭をもたげ 、ただちに 「というような自分の思考そのものに対する問いが有効であるということを予断してよろしいのか ? 」という 「反省の適法性についての反省 」がむくむくと頭をもたげ … … (以下無限 ) 。ということは 「すごく頭のいい人 」においては必ず生じるのであるが 、ここで 「ああ 、わかんなくなっちゃった 」という牧伸二的判断保留に落ち込まず 、 「いや 、これでいいんだ 」と 、この無限後退 (池谷さんはこれを 「リカ ージョン 」 〈 r e c u r s i o n 〉と呼んでいる )を不毛な繰り返しではなく 、生産的なものと感知できる人がいる 。真に科学的な知性とはそのような人のことである 。』
街場の読書論➖池谷裕二 『単純な脳 、複雑「私 」 』より

池谷氏曰く『「学習 」は脳への入力である 。 「テスト 」は脳からの出力である 。つまり 、脳の機能は 「出力 」を基準にして 、そのパフォ ーマンスが変化するのである 。平たく言えば 、 「いくら詰め込んでも無意味 」であり 、「使ったもの勝ち 」ということである 。書斎にこもって万巻の書を読んでいるがひとことも発しない人と 、ろくに本を読まないけれど 、なけなしの知識を使い回してうるさくしゃべり回っている人では 、後者の方が脳のパフォ ーマンスは高いということである (生臭い比喩であるが ) 。』

『科学者とは 「ふつうの人よりたくさんのことを知っている主体 」のことではない 。そうではなくて 、 「知っていると想定された主体 」抜きには人間の知性は速度も強度も長くは維持できないという真理を経験的に知っている主体 、すなわち 「自分の 〈生身性 〉を痛感している主体 」 、 「身体をもった主体 」のことなのである 。』

なるほど、内田樹はこうとらえたか。この真摯な心の探求を科学ととらえていただけるのは、この人くらいかもしれないなあ。わかる人だけでいいんです。私は、カモメのジョナサン・リビングストーンですから。

『学問に人間を向かわせる動機づけになる強烈な身体的快感とは 、強いて言うと 「脳が加速する感じ 」なのであるが 、これは経験したことのない人間にはどうやっても説明することができないし 、そもそもこの世にそのような快感があるということさえ学生たちは知らない 。でも 、武道も哲学も集中的な修行や 、それがもたらすブレ ークスル ーを可能にするのは 、ある段階で経験した強烈な快感の記憶であることに変わりはない 。』

加速と強度 疾走感が内田樹氏の読書論の通奏低音となっている。
漱石の非人情もでてくる。懐かしいマルクスの➖経済学哲学草稿➖もでてくる。非人情が遠くから熱く燃える

『「外国から迎え入れたばかりのイギリス皇太子妃のもとで催される舞踏会のために 、貴婦人たちの衣装を魔法使いさながらに瞬時に仕立てあげなければならなかった 」 ( 『資本論 (上 ) 』三七二 ─三七三頁 )からである 。
痩せこけた少女たちが詰め込まれた不衛生きわまりない縫製工場で作られた生産物がそのまま宮廷の舞踏会で貴婦人たちを飾ったのである 。その現実を想像した上で次のようなマルクスの言葉は読まれなければならないだろう 。』


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