公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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多胡碑 ガラス越しなんでよく見えないが

2020-09-21 19:01:00 | 歴史探訪
和銅四年711年

碑文に期した将来も変わらない証の石碑。違和感とメンタルの違いを感じて当然だと思う。これは祖国を失った民族の安住を意味するはずです。羊を連れてきた人々 古代イスラエルの末裔景教教徒。羊を羊太夫と見る主流派を支持するならば、いかにも渡来人と思われる。松浦静山の記録ではJNRIと書かれた十字架も出ていている。残念ながら今はこの十字架は失われている。ネストリウス派の景教が少なくとも厩戸御子の時代に日本にあり、十七条憲法の三宝は父と子と聖霊のことを後の世に変えたのかもしれない。

弁官符上野国片岡郡緑野郡甘

良郡并三郡内三百戸郡成給羊

成多胡郡和銅四年三月九日甲寅

宣左中弁正五位下多治比真人

太政官二品穗積親王左大臣正二

位石上尊右大臣正二位藤原尊

 

羊に給いての読み下しは間違いだろう。成給羊は当て字の外国人名。と推察している。「多胡郡をもって成給羊に与えた」と読むべき。

渡来人の都はエルサレムつまり平安京は秦氏の本拠地に作られた。

急に黄金に目覚めるのは、宮殿再建という渡来人の夢を担いだため。

山部親王の母は渡来人系

皇太子になった山部親王は「奈良の仏教界が堕落している。遷都して政治を刷新したい」との思いから、水陸の便のよい京の長岡に白羽の矢を立てました。この長岡の新都造営に誰よりも協力したのが藤原百川の甥、藤原種継でした。  

天応元年(七八一)、病に倒れた光仁天皇から譲位された山部親王は桓武天皇となりました。この時、山部親王と母を同じくする弟・早良親王を光仁天皇の意思で皇太子と定めました。以前より桓武天皇は奈良の大仏を見て、 「これだけの黄金を献上できる日高見国の黄金を手に入れよう」 と決意していました。そして、 

一、新都を造営する 

一、征夷に力を尽くし、東北の黄金や領土や人々を手に入れる


秦河勝が生きていた頃の京都南部


太秦はこのあたり






巨椋池




多胡碑

多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)であり、国の特別史跡に指定されている。山ノ上碑金井沢碑とともに「上野三碑[1]と総称される。また、書道史の上から、日本三古碑の一つとされる。建碑は、その内容から8世紀後半とされる。

 

概要[編集]

碑身、笠石、台石からなり、材質は花崗岩質砂岩で、牛伏砂岩と呼ばれ、近隣で産出される。地元では多胡石、天引石などとも呼ばれている。碑身は高さ125cm、幅60cmの四角柱で前面に6行80文字の楷書が丸底彫り(薬研彫りとされてきたが、近年丸底彫りであることが判明した)で刻まれている。笠石は高さ25cm、軒幅88cmの方形造りである[2]。台石にのせられた碑身は下部が四角錐状になっており「國」の字が刻まれていると言われるが、現在はコンクリートにより固定されているため確認できない。

 

多胡碑の碑文は以下の通り[3]

弁官符上野国片野郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
石上尊右太臣正二位藤原尊

読み下し[編集]

弁官符(おお)す。上野国の片岡郡、緑野(みどの)郡、甘良(かんら)郡并せて三郡(みつのこおり)の内、三百戸を郡となし、羊に給いて多胡郡(たごのこおり)と成せ。和銅四年三月九日甲寅に宣(の)る。左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊[3]

現代語訳[編集]

朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅4年3月9日甲寅に命令が伝えられた。左中弁正五位下多治比真人(多治比三宅麻呂)。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上尊(石上麻呂)、右太臣正二位藤原尊(藤原不比等[3]

解釈[編集]

この碑文は、和銅4年3月9日711年)に多胡郡が設置された[4]際の、諸国を管轄した事務局である弁官局からの命令を記述した内容となっている。多胡郡設置の記念碑とされるが、その一部解釈については、未だに意見が分かれている。

 

『甲子夜話』 巻之六十三
多胡碑十字架の事
 
〔二十一〕或人曰く。上州多胡郡の碑にある羊〔人名〕は、蓋し遣唐の人なり。後其墓中より〔墓中とは碑下を云や。又羊の墓と云もの別にあるや〕十字架を出だす。是を「イサアカテツチンギ」〔先年舶来の紅毛人〕に長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せしに、「テツチンギ」是を鑑定せよとは甚不審なりと言しと〔この意は、此物は天主教の所用。吾邦制禁のものなる故なり〕。
唐に景教と云有り。これは『金石粋編』に出。又打碑をも舶来す〔或人こゝに唐代のことを引たるは、多胡碑に和銅四年の号あるを以なり。此年唐睿宗の景雲二年〕。太秦寺の事、景教伝法碑にも出、『旧唐書』にも見ゆ〔『仏祖統記』云。末尼火祆者ハ、初メ波斯(※ペルシア)国ニ蘇魯支(※ゾロアスター)ト云有リ。火祆ノ教ヲ行フ。弟子来テ中国ヲ化ス。唐ノ貞観五年、其徒穆護(※マゴス)何禄(※ホスロー?)、闕ニ詣テ祆教ヲ進ム。京師ニ勑シテ大秦寺ヲ建。天宝四年両京諸郡ニ勑ス。波斯寺有ル者ハ並ニ名ヲ大秦ト改メヨ。会昌三年、勑シテ、天下ノ末尼寺並ニ廃ス。京城ノ女末尼七十二人皆死ス。回紇ニ在者ハ之ヲ諸道ニ流ス。五年勑ス。大秦穆護火祆等ノ二千人並ニ勒シテ俗ニ還ヘス〕。
『旧唐書』武宗ノ紀ニ云。会昌五年云云。又奏ス。僧尼祠部ニ隷ス合ズ。請フ鴻矑寺ニ隷ン。其大秦穆護等ノ祠ハ、釈教既已釐賀革シ、邪法独存ス可カラズ。其人並勒シテ俗ニ還ス。又云僧尼ヲ隷シテ主客ニ属シ、明シ外国之教ヲ顕、勒シテ大秦穆護祆ノ三千余人ヲ勒シテ、還俗セシメ、中華之風ニ雑ラザラシムと。
景教伝法碑にあるは、太宗の代、大秦国を征しとき景教を伝ふ。郭子儀大に信心すと〔『旧唐書』『新唐書』とも子儀の伝此事無。蓋伝法碑の説予未この碑文を見ず〕。
然れば遣唐使も専ら此後の頃なれば、或はこの教を伝来りしなるべし。『西洋紀聞』にも、斎食には魚鳥を用ひて、獣肉を禁ずなど云へば、今宍の禁は若くは景教に起る歟と。又云。景教の号は、唐の時天主教を名づけて称せり。(中略)
或人又云ふ。凡天主教の徒は牛を尚ぶ。天竺にも波羅門種はこれも牛を尊敬すと。夫れにつき窃に思ふに、京師に太秦広隆寺と云あり。この寺推古の朝十二年の所建、聖徳太子の創立とぞ。この時隋の末、唐の初の事なれば、若くはかの大秦の教も吾邦に伝へたりしか。此寺今に牛祭と云ことありて、異体の仮面を蒙れる者、牛に乗りて進退すること有るよし。『都名所図会』に見ゆ〔太秦と称するゆゑ、又広隆と云ふこと其書の注に見ゆ。皆信ぜられず。○『山城志』云。広隆寺ハ厩戸皇子秦河勝ニ命建所。推古三十二年七月、新羅、任那ノ二国使来聘、仏像貢、之置ク。又云。其ノ摩咤羅神祠毎秋九月十二日祭祀修、之ヲ牛祭云〕。
多胡碑のこと『蓋簪録』〔東涯著〕に云所は、土人呼テ羊大夫ノ社ト為ス。何ノ故知不。或ハ以穂積親王之墓ト為ス。前世県ヲ置ク之碑ナルヲ知ラズ。」これ其碑文に拠て云ならんが、成給羊の三字漢文にあらずして読がたし。人茲以羊大夫と云なる。又その碑図を出せるを見るに、跗石蓋石ありて、いかにも墓の如し。然れば置県の碑に非ずして、墓標と為んも然らんか。又『東江書話』には、『蓋簪録』のことを諭て、別に彼地土俗の云伝へし羊大夫の事蹟を載す。その略は、この人、後、不廷のことありて、官軍の為めに討れ、自ら剄と見ゆ。されば斯人有りしも計りがたし。何分にも十字架の、かの碑下に出たりしと云うは訝かしきこと也。(以下略)

(注)
 1. 文中の改行及び丸括弧注(※)は全て引用者(バハラム)による。
 2. 文字表示の都合上、漢文は引用者が書き下し文に改めた。
また、この多胡碑の下からは「JNRI」というローマ字が書かれた銅板も見つかったという。JNRIとは、ラテン語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」を意味する略語INRI(Iesus Nazarenus,Rex Iudaeorum)のことであろう。
『甲子夜話』 続篇巻之七十三
多胡碑の傍より掘出す蛮文并考

〔十七〕 JNRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石槨を掘出す。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書『コルネーキ』を閲するに、邪蘇(※イエス・キリスト)刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す。因て蛮学通達の人に憑て彼邦の語を糺すに、其義更に審にせずと。
多胡碑の文、和銅四年三月と有り。この年は元明の朝にして、唐の睿宗の景雲二年なり。今天保三年を距ること千百廿ニ年。されば彼蛮物は何なる者ぞ。古銅券と横架の文と同じきこと、疑ふべく、又訝るべき者歟。前編六十三巻に、この碑下より十字架を覩出せしことを挙ぐ。蓋是と相応ずることならん。尚識者の考を俟。

 

以下は久保有政氏動画より
 
 


 
仏教さえ抵抗があった時代のに不思議なできごとだ。多胡碑設置の約160年前、難波の堀江の開削から239年後の、欽明天皇552年10月に、蘇我稲目が祀っていた仏像を、物部尾輿がこの難波堀江に投棄し、さらにそれらの息子の世代にも同様の事があり、敏達天皇585年3月、蘇我馬子が祀っていた仏像を、物部守屋が焼いて、同じく難波の堀江に投棄しています。この仏像を後に、信濃の本田善光が拾って郷里に持ち帰り、お祀りする為に建てたお寺が今の善光寺。

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