公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

無免許人生 このブログも明日で1500日だそうだ

2013-09-11 16:19:00 | 日記
三日坊主の500倍続いたのだから、このブログも今日あたりで終わりにしていいだろう。逆算すると2009年8月あたりが第1回だったのかもしれない。その前のサイトは閉鎖されているから見ることができない。2009年6月に恩人でもある、150億円の投資で350億円のリターンを叩きだした伝説のキャピタリスト、元HVCの大村卓元会長が亡くなって(享年70歳)、昔のことは忘れたが、ブログをはじめる動機に、何か元キャピタリストとして思うところがあったのだろう。

それからドラッカーマキャヴェッリという異色の組み合わせを選んだ。人間と経営の真に迫るというテーマで、メモ的断片で、まとめることはあえて避けながら開始した。語り尽くしたわけではないが、語れない領域まで来てしまった。

とうとう内容も言語の枠を超えなければならなくなり、煮詰まった末に、いよいよ今日が最後の投稿となった。何かのお役に立つのならという思いで残りの何十年かを頑張り続けたい。

最後にこれからの日本社会を背負って立つ若い人たちのために、自分の才能と職業適合の思い違いについてメモしておこう。これは決して自分に才能があるらしいからなどと、自惚れて書くのではない。いかに自分が思う自分の得意分野と実際の職業適合とは違うのかということ、これにすぎない。おもいつくまま自分自身の経験に則して書いてみる。

 「今日、先進国社会は自由意志によって職業を選べる社会へと急速に移行しつつある。今日の問題は、選択肢の少なさではなく、逆にその多さにある。あまりに多くの選択肢、機会、進路が若者を惑わし悩ませる」(『断絶の時代』)

人生の方向性、外部世界に対して対決する姿勢、つまり生きる姿勢は中学二年までに決まる。これはそのひとが生まれながらにしてもつ感受性と理性の軋轢(エリクソンが暫成説に言うアイデンティティの拡散)が最も盛んなときがこの時期にあるということで、これがその人のベースになる。その後も成長はするが感受性はより二次的、社会的、習得的なものになるので純な意味での人間の始まりは14歳くらいまでに経験する。その人の目的ジェネラティヴィティが理解できるのは少しばかり先#だけど
#ジェネラティヴィティ(generativity)とは、エリクソンが用いた精神分析学上の言葉。「次世代の価値を生み出す行為に積極的にかかわっていくこと」を意味する[9]

もしあなたが十代であれば、私の言葉よりも、ちょっと古いけど、この本を読むべきだろう。吉野源三郎は岩波の世界を創刊したした人であるが、その思想は支持しないが、関係ない良本であるからおすすめする。
「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)
吉野源三郎 著1935年(昭和10年)、山本有三の「日本少国民文庫」編集主任に就任。1937年(昭和12年)には明治大学講師[3]に就任。この年、『君たちはどう生きるか』を刊行し、岩波書店に入社[4]1938年(昭和13年)、岩波新書を創刊[4]1939年(昭和14年)、明治大学教授に就任。戦時中も一貫して独自のヒューマニズム論を展開した。

五七五、最後の五年がほろ苦い

15歳くらいまでは、自分はそこそこ絵もうまく、絵描きになるのが一番自分の才能にあっていると思っていた。しかしながら今にして思えば、50年間このかた自分が何を描くべきかアイディアが降りてきたことは一度もない。食ってもいけないだろうから、この道には進まなくてよかったのかもしれない。

十分な老年にさしかかって今さらに思うのは、一番自分の気性にあっていそうな職はテレビかメディアの仕事だったかもしれない。制約条件の中で瞬間的に思いついたことを一気にやり遂げてしまうことが思いの外自分の性格に向いていると思う。コピーライターやCMディレクターが一番あっていると思う。チャンスがあれば、今からでもやってみたい職業かもしれない。気性というものに合った仕事が最高の仕事だろうと思う。

今思えば、次に向いていそうと思うのが料理人。味に関しては、なにか降りてくるという余人に出来ないことができる。そんなことは中学生の時は全く思っていなかった。職業の選択肢から除外していた。これも残念なことだ。

私は教員に必要な単位を大学で取得したが、仕事に必要な教育を受けたことは一度もない。分析機器を使った研究をしていたが、大学では触ったこともなかった。その後創薬の仕事をしていたが、薬学は修めていない。投資の仕事をしていたがMBAなど取得していない。必要なことは全部現場で学んだ。いわば無免許人生。
あらかじめ学んで役に立ったのは読み書きと計算(そろばん)、英語ぐらいだ。


中学から高校にかけて英語は、嫌いな科目だった。しかし年月は私を変え、読む経験が増えてどうということもなくなった。若い人には受験英語は苦痛かもしれないが、パズルだと思って2年ばかりは割り切った方がいい。その後の年月、本当に英語文献を読み重ねてゆけば、受験英語はともかく英語はたいして難しくなない。大学の英語は試験日しか教室に出たことがなかったが、どうということはなかった。だから英語は単なる経験、苦手だからといって、海外に出て学ぶ可能性を初めから除く必要は全然ない。海外で学んでいればまた自分の選択肢も変わっていたろうと思う。

なにか研究者のような仕事につくだろうとは漠然と思っていたが、研究者が何であるかは何も知らなかった。これも未熟ゆえの不思議な自分のイメージだった。さて研究者になってみて自分にあっていたかといえば、あっていたわけではない。成果は出せても満足が伴わない。研究というものは社会的なもので、まずそこと折り合わなければならず、最後の掛け算がゼロならば、その時点で満足度はゼロになる。

そうしているうちに社会が必要としている課題から自分で探して研究に適した人材を集めて研究すべきだと考えるようになった。今もそうである。

得意の哲学に関しては、職業と考えたことは一度もない。私にとって哲学はオタク趣味が珍品や想い出を自分が住めないくらい家のなかに貯めこんで楽しんでいるのと同じで、これまで頭に突っ込んできた忘れがたい言葉を時々引っ張り出してみて慰みにするようなものです。全部持ち運べるので、これほど楽しめる趣味はない。哲学は終局を迎えたかと思えば、また新たな境地が生まれる。哲学は修めて損はしないが、絵描き同様に食ってはいけない。生きてさえいれば哲学の入り口はたくさんあるので、若い人たちはどんなに苦しくても、まず生きていることを選ぶべきです。

逆に今の職業の側から職務と才能との関係で適性はどうかと言えば、高校時代まで一番自信のある学科が化学だったから、ナノケミストはそんなにずれてはいない。しかし大学からずっと生物を研究したかった。才能があるかということとは関係がなく、ジャック=イヴ・クストーにたいする憧れの延長のようなものです。ましてやナノテクノロジーなど40年前には影もなかったが、今の土俵は結局化学の世界だ。今も絵画を見るのは好きだが、描く事については何の直感も降りてこないのは相変わらずです。

以上極短く見てきたように、左様に自分を知っている気になって、無駄な念慮に振り回された人生でした。

ついでに失敗も書いておきましょう。社会人になって7年間は全くの空回りだった。それが本来のサラリーマン社会人かも知れないが、若い人には会社の先輩に同化してはいけないと忠告しておこう。次の会社の最初の臨床開発は大きな失敗だった。ライセンス料は入ったので会社は損はしなかったが、自分の子供を人に預けるべきじゃなかった。

最後に若い人に、、、。自分のことを自分で知ろうとするのは大変難しいことです。導師がいれば幸せですが、必要なときに出会うことはかないません。道に従うことがかなわない時は、ただ直感に従って動きまわるしかないように思います。それでは、私も命が続く限り動き回りたいと思う。お付き合いいただきありがとうございました。



今から20年後、あなたはやったことよりも、やらなかったことに失望する。
出典
マーク・トウェインの名言 | 地球の名言
このおやじ気になったら、詳細を見る



自宅にて撮影
この後、しばらく投稿が停止する。

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