公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

昨日は墓掃除

2022-08-12 07:29:00 | 日記
スッキリした。

江藤淳の臣民としての言葉は重い。

私の父は、ちょうど植木等やハナ肇と同じくらいの世代で、無理しなければ戦争に征く必要もなかった世代だが、家族の事情を忖度し、自ら志願して海軍航空隊にはいり16歳8ヶ月で、三重の特攻基地で終戦を迎えた。
私がまだ子供の頃、近所の招集された戦中派のオヤジ達が集まって酒を飲んだ時でも、オヤジ達は戦争のことは、抑留も特攻も面白おかしく言うだけで、本当の重い体験は何一つお互いに言わなかった。
彼ら戦中派は、父よりはやや年上の、戦地で人生が失われた大正生まれ世代の同輩だ。内田樹氏が指摘するように、本来ならば20代の創作の盛、時代の文化を担う若者たちがいなかったこと、このことは戦後原点を語る上で忘れてはいけない。文学者は口籠っていた方がいいと言って川端康成らを守ったのは小林秀雄だが、安全なところから従軍した文学者達は全く沈黙した。

ここでただ、一つだけ内田樹氏に注文をつけるなら、死んだ者達だけでなく、生き残った者達も臣民として名乗り、臣民として語ることができなかったということも忘れてはならない。虚脱とかそういうことではなく、彼らには形のない罪悪感を植え付けられたと言ってもいい。私が年齢の引き合いに植木等やハナ肇を比較に持ってくるのは訳がある。

彼らの出演した破天荒なコメディー映画は面白い。しかし、演者として植木等やハナ肇が飲み込む役柄と自分の核となる前史としての自分との距離に苦しみを感じてやってる、彼らのコメディーは、そこが透けて見えるのだ。つまり彼らの世代は心ならずも食うためにやってるという言い訳と、その延長で成功する後ろめたさがある。俳優としては鶴田浩二も同じだ。成功していても大きな過ちをしているかのような感性を残している世代なのだ。そこが少し若い高倉健などと違うところだ。
文藝春秋に遺された手記にはー今月70年記念号ー
『その日、学徒動員でさせられていた貨車から石炭を降ろす仕事は、何故か休みだった。同級生に寺の住職の息子がいて、寺の近くの池が、格好の遊び場になっていた。僕は黒の金吊り(当時の水泳用の褌)を穿いて、久しぶりの休みに、友達五、六人とその池で遊んでいた。昼頃、別の友達が「天皇陛下の放送があるらしいばい」と、僕らを呼びにきた。全員で寺へ走っていくと、ラジオから雑音だらけの音声が流れていて、大人たちの何人かが泣いていた。僕には、何を云ってるんだか聞き取れなかった。友達が言った。「日本が戦争に負けたらしいばい」「えー、降参したとな?」その後何度となく味わった、人生が変わる一瞬。諸行無常。この時が、初めての経験だったような気がする。』これが高倉健の世代だった。

戦争に飲み込まれた世代のそういうところを見ておかないと、単にあるべきだった戦後文学と戦後文化を手法として想像したとしても心の傷に踏み込めないだろうと思うのです。


内田樹こいつにはガッカリする

水道橋博士の議員辞職、応援していただけに、残念です。でも、裁判闘争は続きます。「山崎雅弘さんの裁判を支援する会」は完全勝訴の後も、いただいたご寄付を原資としてスラップ訴訟の被害者となった市民の方を支援しております。伊藤詩織さん有田芳生さんに続いて、水道橋博士も支援します。



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