公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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思考1.0

2021-03-17 18:24:00 | モナドの呪縛

古今東西哲学といっても、それらは思考の一種である。しかしこの宇宙にかつて人間以外の思考があったかどうかという探検ほど科学的に無視されている分野はない。故に哲学は思考の観測であると再定義すべきと考える。経験主義哲学は演算可能な世界に拡張されなければならない。その最初の実践家がライプニッツで、彼の言葉《モナドは鏡である》に相当する。なぜなら私はこう思う。経験は精神的演算結果に過ぎず認識主体と世界との関係を人間の精神的演算にだけに限定しない哲学《思考1.0を観測する論理思考》がモナド論#の現代的デジタル再構成として必要と考える。少なくとも世界は無限に観測可能ではない。あるところから数学と論理によって思考そのものの基礎を人間以外の物質過程に求めざる得なくなる。


神は言った、「天の大空に光があって、昼と夜とを分けさせ、しるしとし、季節とし、日とし、年としなさい」:そして、それらを天の大空に灯し、地上に光を与えるようにされた。神は二つの大きな光を造られた。大きな光は昼を支配するため、小さな光は夜を支配するためである。神はこれらを天の大空に置いて、地に光を与え、昼と夜とを支配し、光と闇とを分けるようにされたが、神はそれが良いものであることを見られた。
- 創世記1:14-18


宗教はその人間以外の欠落分野を大昔から埋めてきたが、普通の人間の思考を新しい人格の思考に置き換えたに過ぎない。人間が神を見出す前に宇宙に思考があったかどうかということと、明らかに思考が存在しなかった宇宙開闢のビックバンの状態との間を繋ぐのは数学であると思う。
 
真空の宇宙に二項演算写像に使える基礎エネルギーがあったならば、すぐに宇宙の思考が生まれただろう。真空の量子揺らぎは膨大なエネルギーを持つ。無制限のエネルギーによる二項演算と無限の量子もつれが有れば、巨大な計算機がすぐに誕生したことだろう。
 
われわれの物理学と数学の課題は原初思考の観測に向かう必然性を持っている。なぜならば、宇宙の存在目的が人類に思考1.0を発見させることだから。
 
 
 
“In the beginning God created the heaven and the earth. And the earth was without form, and void; and darkness was upon the face of the deep. And the Spirit of God moved upon the face of the waters. And God said, Let there be light: and there was light.”
- Genesis 1:1-3
 
"初めに、神は天と地を創造された。地には形がなく、空虚であり、闇が深淵の面にあった。神の霊が水の面を動いた。そして、神は「光あれ」と言われた。
- 創世記1:1-3
 
なぜか以下のように旧約聖書日本語版創世記は意味がわからないようにできている。私は”darkness was upon the face of the deep”はそのままに理解している。深淵とは真空のエネルギーでありその上に光エネルギーが生まれ出る前の素粒子の闇、すなわち取り出せない量子クオークが支配していた時代に。神の霊すなわち思考が水が象徴する何かの上を動いた。これが写像であるように思う。それが何かはわからない。次に光がきた。光は宇宙の晴れ上がりまでプラズマ宇宙内部を38万年反射し続けて思考の記憶基礎である量子もつれを完成させた。

はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

#モナドについてwiki

ライプニッツは、現実に存在するものの構成要素を分析していくと、それ以上分割できない、延長を (ひろがりも形も) 持たない実体に到達すると考えた (第3節)[1]。これがモナドである。ライプニッツによれば、モナドは構成されたものではなく、部分を持たない、厳密に単純 (単一) な実体であるが (第1節)[1]、にもかかわらず属性として状態を持つ。属性を持たなければすべてのモナドは区別できず、複数のモナドがあるとはいえなくなるからである (第8節)[1]不可識別者同一)。どのモナドも、他の全てのモナドと互いに必ず異なっており (第9節)、またモナドは変化する (第10節)[1]。このとき、或る状態から別の状態への変化の傾向性を欲求という (第15節)[1]

この「状態」は他のすべてのモナドの状態を反映する。すなわち、究極的には無数のモナドから、そしてただそれだけからなる現実世界全体の状態(ということはすべてのモナドの状態)に、個別のモナドの「状態」は対応する。これがモナドの持つ「表象知覚」能力である(モナドは鏡である)。しかし、モナドは部分を持たない厳密に単純な実体であるから、複合的なもの同士が関係するような意味で「関係」することはできない (第7節) (モナドには窓がない[1]。厳密に相互に独立している。

したがってこの表象能力、他のモナドの状態との対応は、モナドの定義からいって不可能であるところの外的な「相互関係」によるものではなく、モナドの自然的変化は内的な原理から生ずる (第11節)[1]

ちょうど、あらかじめ時刻を合わせた二つの時計のような意味での、創造の時点で予定・調整された「調和」である(予定調和)。モナドの状態の変化は、可能性としてそのモナド自身が有しているものの展開であり、厳密にそのモナドの先行状態にのみ由来する。

この表象能力には、その対応の正確さや明晰さに応じて、明晰・混雑などの度合いの差がある。すべての他の事物や世界の状態が同等に知覚・表象されるわけではない。対応するものを明晰に反映していない表象は、しかし雑然とした形で意識の状態に影響を与える。これを微小表象といい、後にいう無意識の概念に近い。たとえば眠っているときの意識は、身体や外界の状態に曖昧かつ不明瞭に対応する微小表象によって構成されている。人間や動物の精神や生命は、このモナドの表象・知覚の能力によって説明される。逆に言えば、そこから、すべてのものにはそれぞれの度合いに応じて精神や生命があるということにもなる。

  1. ^ a b c d e f g ライプニッツ 『モナドロジー 形而上学叙説』 清水富雄・竹田篤司・飯塚勝久訳、中央公論新社〈中公クラシックス〉より、ライプニッツ著 清水富雄・竹田篤司訳「モナドロジー」、2005年1月。ISBN 4-12-160074-6

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