国際交流のススメ

舞台芸術・海外公演に関する情報をニューヨークから発信します。

BACK STAGE 紙が伝える酒井法子ニュースって

2009年11月15日 | アメリカ徒然日記
三谷幸喜作演出、香取慎吾主演のミュージカルのレヴューがどこかに出ているかな?と思ってアメリカの劇場関係のウェブを検索していると、なんと!酒井法子さんの覚醒剤事件の記事が掲載されているのを発見!

記事が掲載されていたのは、The Actor's Resource(役者のための情報源)と自らを評するBACK STAGE 紙。同紙はオーディションや仕事に関する情報だけでなく、同紙のウェブ上で履歴書を作成でき、しかもデータベース化して掲載してくれるなど、役者にとっては非常に有益なサイトです。(http://www.backstage.com/bso/index.jsp)もちろん、舞台の批評や最新ニュース、関係機関の連絡先なども載っています。で、三谷さんのレビューがでていないか見ていて、「日本の女優、麻薬使用で有罪」なるニュースを発見しましたー!しかも酒井法子さんの写真入りです!

記事のタイトルは “Japanese Actress Convicted of Drug Use”日付は2009年11月9日となっています。記事の内容はまあ、日本で報道されているのと同じで簡潔に伝えているだけですが、かい摘んで書きますと・・・

“アジアで爆発的人気の日本人女優、酒井法子が月曜、麻薬使用の罪で有罪となった。”“3000人を超える群集が判決を待つなか、東京地方裁判所は38歳の酒井に懲役18ヶ月、執行猶予3年を言い渡した。”“酒井は夫の逮捕後、1週間ほど姿をくらましていたが、8月に逮捕された。”“酒井は1990年代に中国や香港、台湾を含むアジアで人気を集めた。”“酒井の麻薬スキャンダルはこの数ヶ月、日本のヘッドラインを占拠し続けている。”“トヨタを含む彼女のCMはキャンセルされた”“所属レコード会社のビクターは彼女との契約を打ち切り、すべてのアルバムや関連商品の回収を行った”

記事としては日本で伝えられている内容をそのまま書いただけのつまらないものですね。しかし、面白いのは、このニュース配信、顔写真の横にヘッドラインが掲載される形になっているのですが、

デンゼル・ワシントン:Denzel Washington Set for 'Fences' on Broadwayとか
ジュード・ロー:Jude Law's 'Hamlet' Goes From Red To Blackとか
ルーシー・ルー:Lucy Liu Film Highlights Child Traffickingとか
マーティン・スコセッシ:Martin Scorsese to Receive DeMille Awardなどなど

なんてハリウッドの大物たちの記事の中に酒井さんの顔写真と「日本の女優、麻薬使用で有罪」のヘッドラインが・・・。
えー。なんでー。なんで、この配信記事を掲載する気になったんだろう??
まあ、いいんですけどねー




三谷幸喜のNY初公演って(2)

2009年11月14日 | 海外公演

NYの日本語フリーペーパー「週間NY生活」
11月14日号掲載の記事


三谷幸喜さんのNY初ミュージカル「Talk Like Singing」の記者会見が11月10日の夕刻にタイムズスクエアの某ホテルにて開催されたらしく、記者会見の様子が現地NYの日本語フリーペーパー「週間NY生活」の11月14日号に掲載されています。それによると、“会見中、ワン・タイムズ・スクエアのLED看板には同ミュージカルの宣伝広告が流れた”らしい。うーん、ド派手ですねえ。お金かけてますねえ。しかし、なんのために??そりゃ当然、記者会見を盛り上げるためでしょう。が、しかし、なぜ記者会見を盛り上げる必要があるのか?そりゃTV的な演出が必要だったからでしょう。制作がTBSとキョードートーキョーですからね。

うーん、別に構わないんですけど、TVってやっぱり未だにこういう感覚なんでしょうね。タイムズ・スクエアが一望できるホテルのラウンジで記者会見をして、その向こうの巨大モニターに広告が流れる・・・ちょっと感覚が古過ぎやしませんかね?というか、今時、こんな演出を有難がる人って・・・うーん・・・あのぅ・・・ちょっと・・・・田舎者っぽくないですか?こういう感覚って未だに「カーネギーホールで公演!!」みたいなのを有難がる感覚と似ているのかも。お金さえ出せば基本的には誰でもできるのに。もっともそのお金は誰でも出せる訳ではありませんから、逆説的にはそれも成功の証と言えるのかもですね。まあ中には純粋にカーネギーに特別な感情を持っている人もいるかもしれないので、一概には言えませんが。でもこの記者会見は、きっと周りがそういう演出を決めて、出演者の方々はそれに従っておられるだけなのではないかな??

でもね、それで喜ぶファンの方たちもいらっしゃるだろうから、これはこれでいいのかもしれないですね。ファンが喜ぶものを提供するのも商売のうちでしょうからね。

それにしても、この記者会見、一体誰のために、そして何のために開いたのか・・・。関係者と日本人プレス以外に誰が来たんでしょうね・・・。アメリカ人にとっては全くニュース性がないし、やはりTVを通してこの様子を日本で見ている日本の視聴者に向けてやっているとしか思えないですよねえ・・・

ところで、記事には・・・“日本語と英語を半分ずつ取り入れ、字幕なしで上演する”・・・・“香取さんは気持ちで芝居をする。だからこそ、日本語であろうと、英語であろうとお客さんに伝えられる。”・・・・ とありました。

なるほどねえ。まあね、「オペラ座の怪人」とかって、演技も素晴らしいし、絢爛豪華で音楽も素敵だし、ストリーも分かりやすいから、英語が分からなくても感動できますからね。でも「オペラ座の怪人」が英語で上演されているのは、客の大半が英語を話す人だと想定しているからですよね。では、「Talk Like Singing」は一体、どんな人たちを観客と想定してNYで公演することにしたんでしょうね。誰に見せたくて、作品を持ってきたんでしょうかね。

まあ、なにはともあれ、来週水曜に観て来ます!
どんな風に仕上がっているのか楽しみです!!
面白いといいなあ!!






シルク・ド・ソレイユのウィンタックって

2009年11月13日 | 海外公演



見てきましたー!!
シルク・ド・ドレイユの「ウィンタック」 今ではNYの年末年始の風物詩となりつつある本作品は、ミッドタウンの西側、劇場街の南端に位置するマジソン・スクエア・ガーデンで毎年開催されています。マジソン・スクエア・ガーデンは前にも書きましたが商業劇場としては会場の名前が作品の名前よりも知れ渡っている珍しい劇場です。前にも書きましたよね、商業劇場では例えば「ライオンキング」は知ってても、それがなんという名前の劇場で行われているのかはあまり知られていない、劇場の名前が知られているのは大概、非営利の劇場であることが多いって。詳しくは過去のブログをお読みくださいー。

で、マジソン・スクエア・ガーデンですが、バスケやアイスホッケーの試合が行われるアリーナとは別に横にだだっ広い劇場があります。あまり良く知らないのですが、マジソン・スクエア・ガーデンでコンサートと言えば、たぶんこの会場で行われることが多いのでしょう。写真上をご覧いただければ分かるとおり、めっちゃ横に広いです。しかし天井が低い。見易いのか見難いのか・・・。まあね、どの席でも舞台までは近いですけどねえ。

     
7アベに面した入り口。                      ちょっと品揃えに不満の残る売店。

そうなんですよねー。ちょっと売店に不満が残ったんですよねー。小さなブースが1箇所だけでしかも品揃えがいまいち・・・。残念。

シルク・ド・ソレイユはご存知の通り、フロリダのディズニーワールドや、ラスベガス、そして東京ディズニーランドにあるような年中公演を行っている専用の常設劇場での公演と、テントを持って移動する公演とがあるのですが、「ウィンタック」はその中間ですかね。劇場は既存の劇場を利用しているけど、季節限定で公演期間も短いですね。個人的な感想ですが、やっぱりシルク・ド・ドレイユはテント公演よりも常設劇場のほうが見ごたえがありますねえ。で、残念ながら「ウインタック」は今まで見た中では一番残念な公演でした。

     
開演まで緞帳がおりています。             客席左右に演奏者ブースが。           


うーん、まず音楽がいまいち。英語で歌っているんですけど、はっきりしすぎていていつもの不思議な無国籍感が全くなかった。そういう狙いなのかもしれませんが、僕の好みではなかったです。衣装・・・スキーウェアの発表会かと思ってしまった。そしてアクロバット・・・うーん、今までで最もこじんまりした内容でした。やっぱり天井の高さとか、床下のスペースとかに制限があるからかもしれないですけどねえ。それと照明が明るすぎるのと単調なのがいただけず・・・。色々制限があるならむしろシルク・ド・ソレイユらしい演出で魅せて欲しかったなああ・・・。

しかし、エンディングは豪華でちょっと気晴らしになりましたー!!






淡路人形浄瑠璃座北米ツアーって(3)

2009年11月10日 | 海外公演

「戎舞」で主人が戎様にお酒を振舞うシーン。
もっともっとと、酒をねだる戎様の可愛くてユーモラスな仕草に
満席の会場から笑いが起こる。


2009年2月19日、ロサンジェルスでの公演とワークショップも無事終了し、一行は空路、ニューヨークへ。西海岸と東海岸の時差は3時間。ロスーNY間は約5時間なのですが、これに時差が加わるのでスケジュール上は8時間かかっていることになります。午前8時20分にLAを飛び立ち、JFKに着いたのは午後4時35分でした。JFK空港から次のツアー先のコネチカット州ミドルタウンにあるウェズリアン大学までは貸切チャーターバスで。以降、東海岸での移動はすべて各地で探したチャーターバスで行いました。

東海岸1箇所目のウェズリアン大学はワールド・ミュージックの学部が有名で過去には津軽三味線の上妻宏光さんのツアーや都一中さんなどのツアーで訪れたことがあります。今回、上演した会場は普段はガムランの練習と公演に使っている講堂です。ウェズリアン大学と、次にツアーしたコーネル大学だけが講堂での上演となりました。ということで、バトンも無ければ、劇場照明もありません。

バンクーバーとロス公演では、それぞれの劇場に大道具や字幕映写用のプラズマなどを発注しましたが、東海岸ではNYですべて準備し持ちまわることにしました。ですので、ツアー出発前に東海岸で必要な物品を運送業者に引き取ってもらい、しばらく預かってもらっておいて、一行の到着に合わせてデリバリーしてもらいました。舞台では平台や箱馬も使いますが、これらはジャパン・ソサエティの劇場のものを使用しました。さらに、バトンの無い会場用に最高16尺の高さまでパイプを仮設できるアルミ・パイプセットを間口40尺分、NYから持参しました。横パイプは8尺が最大なので間にサポートが入るため舞台中では使えませんが、バック巻くを吊るのには大変重宝しました。写真の通りなにもない教室のようなスペースですから、いかに小屋っぽく見せるかに腐心しました。


   
搬入風景。雪こそ降ってないもののめっちゃ寒い。    搬入後、棟梁の鈴木田を中心に打ち合わせ。
金属部品は切れるような冷たさ!


   
しかし手元を見ると手書きのラフな図面が・・・       一応、僕も働いたというところを見せるために・・・。
鈴木田の名誉のために言及しておきますが、       行き当たりばったりぶりを後輩の鈴木田から叱られる。
彼はCADで図面も描けます。                あげく「あんたは単にラッキーなだけや」との小言も・・・。
この手書きのいい加減な図面は私の作品です。     へいへい、皆さんあっての私です。
すみませんね、ローテクで!!


   
仕込風景。メインエントランスとなる小幕口。        大黒の後ろにはガムラン楽団セットが収納されている。
向こうに見えるのがJSから持参した箱馬。         まだ劇場の雰囲気のない会場。


   
客席で人形の髪を結う座員の記虎さんと興津さん。   ヤンキース・松井選手に似ている記虎さん。
普通では見られない光景にしばし仕事を忘れて見学。


私のプランニングと(??)皆様の勤勉な作業によって無事舞台は完成しました。講堂とは思えないほどのできばえに、主催者も大変喜んでくれました。ツアーから大分たった頃、舞台芸術に関する会議でウェズリアン大学を訪れた国際交流基金の職員の方たちから聞いた話しですが、その会議の席上でも淡路人形浄瑠璃公演のことが話題になったそうな。そのぐらい好評だったようです。

ウェズリアン大学ではキャパ200席程度の会場で2公演実施しましたが、下の写真の通り両公演とも満席でした。2日目の客席にはコンテンポラリーダンサーで、別名・ジーニアス・グラント(天才助成金)を受賞し、米国でもすっかり有名なエイコ&コマの姿も。たまたま同時期にコンテンポラリーダンスのクラスをウェズリアン大学で持っていたんだそうで観劇に来てくれました。二人も大いに舞台を楽しんでくれた様子でした。そしてツアーはアイビーリーグの一角、コーネル大学へと続きます・・・。


   



海外公演における字幕の重要性って

2009年11月09日 | 海外公演
以前、蜷川幸雄演出の「身毒丸」がケネディセンターで上演されたとき、字幕がつかなったのですが、これに関して地元紙であるワシントン・ポストが以下のような記事を掲載したことがあります。記事の全体的なトーンとしては、作品と演出を賞賛する記事になっています。ただ、字幕が付かなかったことに関しては不満があったようで、タイトルもそれに触れたものになっています。また記事には写真(白石加代子と藤原竜也が抱き合っているもの)も掲載されていましたが、その写真の注釈にも “Although the play suffers from a lack of translation, the intensity that Kayoko Shiraishi and Tatsuya Fujiwara bring to their love-hate relationship is not lost. ー 芝居は翻訳が無かったことで痛みを被ったが、白石加代子と藤原竜也の愛憎関係が損なわれることは無かった。”と書かれています。


The Washington Post

記事タイトル:   ‘Shintoku-Maru': At a Loss for Words
              ー‘身毒丸’言葉を失う-

By Peter Marks
Washington Post Staff Writer
Saturday, February 9, 2008

(記事中段からの抜粋)
・・・I’d love to say that the visual dimension of “Shintoku-Maru” was enough, but a half-hour into the production, I found myself craving more information than I had access to. Because of the language barrier, the compact, 90-minute work at times lulls you into a state of woozy indifference. A rather esoteric decision was made by the director not to provide a running English translation of “Shintoku-Maru’s” dialogue scenes. The intention for non-Japanese speakers seems to be an unadulterated immersion in Ninagawa’s refined design elements.

In some productions, words might indeed be secondary. (As a leftover from a presentation of the piece in London a decade ago, British actor Alan Rickman recorded a plot synopsis that is played before the show over the public-address system.) The fabric of “Shintoku-Maru,” however, is of some psychological complexity, and the protracted scenes in which the teenage Shintoku-Maru (Tatsuya Fujiwara) vents his feelings or engages in battles of will with his stepmother-to-be, Nadeshiko (Kayoko Shiraishi), cry out for the explication that much of an American audience is denied.・・・


筆者は、身毒丸のビジュアル的な側面は十分であったが、開演後30分ぐらいからもっと内容を理解したいという欲求に駆られた、90分というコンパクトな舞台ながら、言葉の壁のためにぼうっとしてしまうことがある、と書き、ある種の舞台では言語は2次的な要素であるが、身毒丸のような心理的に複雑な舞台では、それなりの説明があったほうがとの主旨で書いてあります。

記事の全文を読みたい方は以下のサイトで読めます。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/08/AR2008020803525.html


海外で日本語の演劇などを上演する時、大きな問題の1つが字幕です。これにはハードとソフトの2つの面があります。ハードとはどういう技術でもって字幕を付けるか、そしてソフトはどう翻訳・字幕を準備するか、です。

当然ながら字幕を付けるか付けないか、という選択がまずあります。作品によって意見が分かれるでしょうが、僕の経験から言えば基本的には不可欠だと思っています。確かにあまりに字幕の分量が多くなると、観客は読むのに手一杯で舞台を見る隙がなくなるかもしれません。しかし洋画の場合、私たちは必ず字幕を見ながら映像も見ているのですから、つまり分量と映写方法・位置さえきちんとできれば、字幕があるから舞台が台無しになるということはないと思います。また字幕のいらない人は見なければ良いとも言えますから。

むしろ、字幕がない場合を想像してみてください。たとえば「12人の怒れる男たち」がロシア語で上演されたとして字幕がなかったらどうでしょう?動きや演技だけみてこの映画の魅力を十分に理解できたと言えるでしょうか?映画や演技の専門家でもない一般の観客が字幕なしに映画を楽しめるでしょうか?ましてや映画のビジュアルによる情報伝達は舞台の何倍も豊富にもかかわらずです。

逐語訳ではなく、場面の状況説明やあらすじを各シーンの頭にだけ映写するという方法もあります。まあ、内容によってはそういう方法も可能かもしれません。ただ現代演劇の場合、筋だけ分かってもねえ、と僕なんかは思います。時々、「演技を見ていれば伝わるものがある」「むしろ文字からの情報より動きや表情から読み取って欲しい」という人がいます。そういう部分もあるとは思いますが、トータルで1時間も2時間も台詞のシーンがあるのに、演技だけで十分物事を伝えられると思うのは、いささか傲慢な感じがします。むしろ、どう字幕(あるいはそれ以外の情報伝達手段)を上手く劇に取り入れるかを検討したほうが良い結果に辿り着けると思うのですがどうでしょう?

今ほど映写が簡単でなかった時代は、スライドで映写したり、要約を印刷したプリントを配布して観客はシーンごとにそれ読みながら観劇するなんて時代もありました。スライドでAとかBとか出して、観客はその符号のページを読むなんて方法もありました。

実際、アメリカで字幕付きでの演劇上演をなんども経験していますが、字幕を読むスピードを考慮して文字数を減らしたり、同じことの繰り返し分部は字幕をカットし舞台に目を向ける時間を作ったりするようにしますが、それでも「あの間はなにを話していたの?」「字幕よりも役者はもっとなにかを言っていたけど、なんて言っていたの?」といった質問を受けることがあります。台詞量やシーンの長さに反して字幕が少なすぎる、と感じた時、フラストレーションを抱く観客は多いように思いました。もちろん、多すぎても読み切れなかったり、疲れてしまうので、タイミングと量をどう調整するかが字幕の難しいところですね。

それと、映写位置や方法も非常に重要です。よく文字やプロセに映写したり、スクリーンを吊ったりして映写することが多いのですが、特に前列に座った観客からは字幕が高すぎたりして不評なこともあります。チェルフィッチュの「三月の5日間」の海外ツアーでは、字幕は別途スクリーンを設けずに背景となるバックパネルに映写しています。


チェルフィッチュ『三月の5日間』@Esplanade(シンガポール)


これだと、役者と字幕の距離が近いので、演技を見ながら字幕を目で追うことが比較的容易になります。またジャパン・ソサエティで上演した落語公演では高座の真後ろに舞台美術の一部としてスクリーンをはめ込み、落語家からさほど視線をはずさずとも落語家の肩越しに字幕が見えるように、しかもリアスクリーン使って裏打ちしました。また文字だけでなくイラストなどを活用したこともあります。例えば長屋が話題になった時には長屋のイラストを、花見の話しのときには日本式の花見の様子を出したりしました。古典落語のように外国人には馴染みのない物品や事象が話題になるときに、そういったビジュアルイメージを出したりできるのも、字幕映写の有効的な活用方法ではないでしょうか。

また、500人ぐらいまでの劇場であれば、スクリーン+映写の変わりに、50-60インチ程度のプラズマモニターを使って字幕を出すことも多くあります。これだと少々舞台が明るくても文字が読めるし、登場人物によって文字の色を変えるとか、書体を変えるとかも自由なので便利です。字幕だとだいたい2行から3行が一般的ですが、プラズマなら5行から6行出すことが可能です。通常、舞台の左右に1台づつ置きますが、クナウカの米国ツアーではそれを舞台セットの少し上に吊りスクリーンのようにして使っていました。

面白いのでは、メトロポリタン・オペラではそれぞれの客席の前座席の背中に小さな専用スクリーンがあって、言語も英語、ドイツ語、と選択できるようになっています。言わば飛行機のパーソナルTVの要領で字幕を見ることができます。

舞台背景に映像を使い、その中に上手く字幕を配置し、字幕が必要ということを逆に積極的に利用している映像クリエーターの人がいました。その人はたしか「カッコいい字幕を出したかった」とか言っていたような気がします。実際の舞台は見れませんでしたが、写真で見る限り文字通り“カッコいい字幕”の映写方法となっていました。

     
太夫座の左に見えているのがプラズマを使った字幕。    現在、字幕のオペはもっぱらパワーポイントで行います。
写真には写っていませんが、舞台下手にもう1台       データのアップデートも簡単にできますし
プラズマによる字幕モニターが設置されています。      どこの劇場に行ってもPCとパワーポイントは持っていますから
                                    いざと言うときには劇場のを借りられるので便利です。 


字幕以外に、同時通訳という方法もあります。白石加代子さんの「百物語」ツアーを北米で実施したときは同時通訳を使いました。入口でヘッドセットかイヤホン型のレシーバーを配布し、ブースで同時通訳者が芝居に合わせて準備した原稿を読んで行きます。同時通訳のメリットは観客の負担が少ないということでしょう。吹き替え映画のようなものですから。デメリットは生音が聞こえ難い、基本的には一人の同時通訳者が全キャストを演じるので分かりにくい(男女ペアで行うときもありますが)、同時通訳装置の方が映写より費用も設営の時間もかかる、ヘッドフォンの配布と回収が面倒、同時通訳者を毎公演必要とする、などでしょうか。

字幕を付けるか付けないか、付けるとすればどういう方法で付けるか、その翻訳の分量やタイミングをどうするか、の判断はアーティストだけで下すべきものではありません。劇団の手打ちの公演であれば、他人がとやかく口を挟むこともないのかもしれませんが、招聘公演ではむしろ主催者側の問題とも言えます。現地の観客や言語について当然主催者のほうが知識が豊富でしょうから、現地の意見を取り入れて、アーティストと主催者で最善の方法を検討するべきでしょう。