入場客に配れらるPlaybill。 表紙とキャスト・スタッフのページ。
11月19日付けの朝日新聞のウェブサイトに「三谷流、言葉の壁に挑む 米オフブロードウェーでミュージカル」なる記事が掲載されていました。(興味のある方はこのアドレスで記事が読めます)http://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY200911190279.html
いわく・・・
「・・・・三谷に言わせれば・・・・「言葉の壁」を乗り越えることに挑戦したという。」
「毎月1回はミュージカルを見ているというスチュアート・ドルギンスさん(73)は・・・・と思う」と話す。」
「俳優陣にとって本場の反応は新鮮だったようだ。香取は「練習とは違う、想定外のところで盛り上がった」と驚いた。」
「三谷は「自分の作品を生の姿でこっちの人に見てもらうあり得ない機会を得た。次は日本語の芝居で笑わせてみたい」と手応えを語った。 」
と結局、主には直接の関係者からのコメントを引用しただけの記事で、(専門家などによる)客観的な検証はなく、また記者個人の公演の中身へのコメントもないので、「それで、この記者さんはこの公演をどう思ったのかしら?」と尋ねたくなったのですが、第三者からの引用は一般観客から肯定的なコメントだけを引用していますから、つまり、多少の批判はあるものの、全体としては公演は上手く行ったという印象を与えようとしているんだな、と読みました。(違うかな??だってネガティブなコメントだっていくらでも取れたであろうに、あえて肯定的なコメントだけを選んで載せたのですから、つまりはそれが記者の意図と考えるのが普通ですよね?しかも、この後触れるNYポストのレビューはかなりさらっとしか触れていないことも考えるとねえ・・・・・。)
しかし、記事からは逆に、三谷さんが試みたことが大成功を収めた!という積極的な肯定も読みとれません。記者の個人的な感想と記事で意図しようとしたことは別物なのかもしれませんが、こういう記事をなんと言うのでしょう。劇評ではないし、記者や新聞社の意見が積極的に述べられている訳でもないし、公演があったと言う事実だけを伝えている訳でもないし・・・。現地からの報告というのかなあ・・・。
それで僕が面白いと思ったのが、地元紙ニューヨーク・ポスト電子版が掲載したネガティブな批評の取り扱いです。
朝日新聞の記事では、NYポストの批評を要約して、
“音楽は良かったが、1曲1曲が短すぎる。内容も2時間向きの素材ではない」と辛口の評を載せた。”
と書いています。
辛口・・・
このNYポストの記事は、11月16日に既に掲載されていて、僕はその日に読んだのですが、自分で公演を見る前にこの記事を取り上げるのはどうかな、と思ったのでブログでは紹介しませんでしたが、辛口と言うよりは、めちゃくちゃ辛辣です。ちょっとどうかな?と思う部分もあるぐらいです。
このポストのレビューがほとんどメジャー紙では唯一のレビューだったし、ネガティブな意見があるのに載せないのもバランスを欠くし、まあ現地からの声として取り上げたのかもしれませんが、随分ソフトな表現になっています。また核心部分にも触れていません。批評に賛同できなかったのかもしれないし、あまりに辛辣だったので遠慮したのかもしれませんが、でも事実を伝えるなら、そしてポストの批評について紹介すると決めたのなら、さらっとでも批判の核心を書いたほうが良かったんじゃないかなあ・・・。それが三谷さん、ひいては日本の演劇界のためでもあったと思うんですけど・・・・。
NYポストの批評家が主に書いた内容は、もっとダイレクトで辛辣なものでした。
つまりは“音楽は素晴らしいが、脚本がそれをぶち壊した”と、批評家は書いています。
批判の対象はそのものズバリ、脚本です。
タイトルは
「Still waiting for the great Pizzicato 5 musical」
-それでも偉大なピチカート5のミュージカルを待望しているー
2009年11月16日、ニューヨーク・ポスト電子版掲載
http://www.nypost.com/p/still_waiting_for_the_great_pizzicato_XWKWWJad0db2BL5iIXMPSI
まず記者は「ピチカート5の小西康陽によって書かれた曲だけがこの公演の唯一の優れた点である。」と書き出し、「ピチカート5は1990年代の優れたバンドのなかの1つであり、ピチカート5のCDを25枚ほど所有し、今も時々彼らのCDを聴いている」、「渋谷系ミュージシャンに多大な影響を与えたバート・バカラックにならって、なぜ小西もミュージカルを作曲してこなかったのかと思っていた。」と書いています。筆者は音楽通でピチカート5にかなり好意的な人のようですが・・・
彼は今回の公演での音楽や演奏についても好意的に記述した上で、「最大の失望は、どの曲も90秒ぐらいか、馬鹿げた台詞(英語であれ日本語であれ)によって、短く乱暴に打ち切られていたことだ。」
そして批判は三谷さんの脚本に及びます。「“Talk Like Singing” は馬鹿げた脚本である。」「三谷幸喜自身が演出を手掛けても何の助けにもならない。」「1時間にしかならない題材で2時間の作品を作っている。」「高校生の公演を見ているようだ。」「役者たちは非常に頑張っているが、その努力も台本の馬鹿さ加減を隠す助けにはなっていない。」「そして観客は大なり小なり次の音楽が始まるのを待つことになる。」
今回の三谷さんの脚本や演出が非常に残念な物であったことは僕も同感ですが、そこまで音楽だけが秀でていたかと言われるとちょっと疑問が残りますが・・・。そして筆者は文末をこう締めくくっています。
「このことを念頭に置くと次にやるべきことは明確である、第一にTalk Like Singingのサントラを出すこと、そして第二に小西氏にもっと良い脚本を与えることである。」
言葉を選べば辛辣な記事と言えますが、カジュアルな言い方をすれば、つまりはボロクソですね。ピチカート5好きのこの批評家はそうとう頭に来たのでしょう。ニューヨークポストはタブロイド紙ですから、まあ、ちょっと刺激的な文面になるのでしょうし、全面的に同意できる訳でもありませんが、朝日新聞の何やらはっきりしない記事よりは、言いたいことははっきりしています。
余談ですが、今回の“Talk Like Singing”に関する後記事(レヴュー・劇評)が出ていないか、メジャーどころのメディアを検索してみたのですが、現在のところ記事を発見できたのはニューヨーク・ポスト1社のみでした。
個人的な感想ですが、観る前は「音楽や歌はどうなんだろ?」とか「ダンスや芝居はどうなんだろ?」とか、期待半分で観に行ったのですが、そんな次元ではなかったです。「三谷さん、どうしちゃったんだろ??」と思うぐらい脚本と演出が・・・。むしろ、あれでは熱演のキャストが浮かばれないんじゃないだろうか。
内容の詳細は書きませんが、三谷さんの脚本って人間の弱さだったり愚かさだったり、そしてそれゆえの面白さであたり、といった部分を上手くドラマに仕立てて、可笑しいんだけど泣ける、笑えるけど納得できる、みたいなのが大きな魅力の1つだと思っていたけど、そんな感情の機微を楽しめるような脚本に全くなっていなかった。記者会見でも「日本語と英語を半分づつ取り入れ、字幕なしで上演する」「気持ちで芝居するから、英語であろうと、日本語であろうとお客さんに伝えられる」と言っていたから、どんなふうにするんだろうと期待して行ったが、たしかに、同じシーンを英語と日本語で2回繰り返す、英語の台詞はほとんど大村役の川平 慈英さんに任せる、大村に英語で説明させる、電光掲示板やフリップをネタと絡ませて使うなど、それなりに工夫をしていたし(まあ、こういう工夫が1時間の中身しかないのに、2時間の公演になっていると批判される大きな原因にもなるんだろうけど、日本語と英語を繰り返すので、かなりまどろっこしい場面もあるし・・・)、英語しか分からない人にも話しの筋は伝わったと思います。だけど肝心の伝える中身が・・・。
はっきり言えば、英語しか分からない人にも、日本語しか分からない人にも、そこそこ内容が伝わるようにしようとしたのが失敗だったと思います。どっちもつかずだし、内容が薄くなってしまっているし、まどろっこしいし。アメリカで上演するんだから、アメリカ人が理解できるようにすることに重点を置くべきだし、作り込みやクオリティを考えると日本人キャストで日本語でと思ったのなら、素直に字幕にすれば良かったと思う。そして字幕の中身と映写の仕方を、映画や映像業界で培った技術と経験で工夫すれば良かったのではないでしょうか?
美術セットも照明も僕は全く好きになれなかったです。キャストが4人しかいないせいもあるけど、舞台が広々閑散として感じられてしまって、ミュージカルの臨場感も迫力もなく・・・
大の三谷ファン、ということではないけれど、前にも書いたように「You Are The Top/今宵の君」は大好きな作品だし、「やっぱり猫が好き」もビデオで何度も見たし、三谷映画は毎回楽しく鑑賞していますが、今回のミュージカルは非常に残念な作品と言うほかないです。せっかく大々的に日本から作品を持って来たのに、もうちょっとどうにかならなかったのかなあ・・・と思っています。救いは(僕の場合はピチカート5ではなく)大村役の川平さんが芸達者だったこと。THE 役者な感じではないけど、センスが良くて器用な人なんだろうなあ、と思いました。あ、それと♪そ~めん~♪ネタも好きですけどね。
2007年に三谷さんの「笑の大学」が英語に翻案されて、英国で活躍する演出家と役者でもって上演されています。三谷さんは今回のNY公演をこういった形で上演する気はなかったのかな。2007年の経験は三谷さんにとってあまり良い経験ではなかったのでしょうか。いきなり新作、それもミュージカルを持ってくるのではなく、規模は小さくても日本で良く準備されて上演された作品を持って来るとか、ワークショップやリーディングなどを開催してフィードバックを得るとか、現地の役者や演出家、作家と交流して人脈や情報源を拡げたり意見を交換するとか、過去の三谷作品でアメリカ人が興味を持つのはどんな作品のどんな題材なのかリサーチするとか、現地の役者を使ってワーク・イン・プログレス形式で試演の場を設けるとか、字幕と英語表現について実地で試してみるとか、そういう活動をしようとは思わなかったのかな。(やっているけど、世間には出てこないだけかもしれませんが・・・)日本でだけで考えないで、NYでのそういった活動を通して少しづつNYの演劇界の状況を知り、普通にNY(アメリカ)で暮す人たちに向けた作品を育て上げ、NYで観客・ファンを増やして行こうとは思わなかったのかなあ。三谷さんは誰に作品を見てもらいたかったのか?
今回の観客の9割以上は日本人だったと思います。少なからず無料招待券というタダ券も日本人社会の中でばら撒かれました。25%オフのディスカウントチケットが英語媒体で販売されている一方で、劇場価格の倍ほどの料金でチケットが日本語媒体で販売されたりしました。普段、普通に劇場に足を運ぶアメリカ人への訴求は全く十分でなく、残念ながらオフブロードウェー公演と名乗りながら、それに相応しい認知は現地社会では全く得られませんでした。でも、そういったことはある程度は仕方ないことだと思います。むしろ華々しいTV的な記者会見に象徴されるような制作のあり方や、現地の実情をあまり理解していないのではないかと思われるようなやり方に、三谷さんは自身を取り巻く状況をどの程度理解していたのか、ブレーンの人たち経由ではなく、三谷さんはどの程度、直接現地の状況を把握できる立場に自分を置いていたのか・・・。
前にどういう海外公演が良い海外公演かは、なにを成し遂げたいと思うかによって違うと書きましたが、三谷さんはどういう思惑を持って今回のNY公演を企画したんでしょうね。それとも企画したのはTBSで三谷さんは乗っかっただけだったのですかね。僕が部外者だからかもしれませんが、一体なにがしたくて、どうしてこの作品をこの形で上演したのか良く分かりませんでした。
それでも僕は三谷さんの作品が近い将来、ブロードウェーで見られる日が来ると思っています。今回の作品は様々残念なことがありましたが、三谷さんの脚本はブロードウェーでも十分に通用すると思っています。三谷さんほどの大物になると、いろいろままならないこともあるのでしょうが、やっぱり期待しています。
Still waiting for the great Mitani san’s straight play on Broadway!!