国際交流のススメ

舞台芸術・海外公演に関する情報をニューヨークから発信します。

海外公演における字幕の重要性って

2009年11月09日 | 海外公演
以前、蜷川幸雄演出の「身毒丸」がケネディセンターで上演されたとき、字幕がつかなったのですが、これに関して地元紙であるワシントン・ポストが以下のような記事を掲載したことがあります。記事の全体的なトーンとしては、作品と演出を賞賛する記事になっています。ただ、字幕が付かなかったことに関しては不満があったようで、タイトルもそれに触れたものになっています。また記事には写真(白石加代子と藤原竜也が抱き合っているもの)も掲載されていましたが、その写真の注釈にも “Although the play suffers from a lack of translation, the intensity that Kayoko Shiraishi and Tatsuya Fujiwara bring to their love-hate relationship is not lost. ー 芝居は翻訳が無かったことで痛みを被ったが、白石加代子と藤原竜也の愛憎関係が損なわれることは無かった。”と書かれています。


The Washington Post

記事タイトル:   ‘Shintoku-Maru': At a Loss for Words
              ー‘身毒丸’言葉を失う-

By Peter Marks
Washington Post Staff Writer
Saturday, February 9, 2008

(記事中段からの抜粋)
・・・I’d love to say that the visual dimension of “Shintoku-Maru” was enough, but a half-hour into the production, I found myself craving more information than I had access to. Because of the language barrier, the compact, 90-minute work at times lulls you into a state of woozy indifference. A rather esoteric decision was made by the director not to provide a running English translation of “Shintoku-Maru’s” dialogue scenes. The intention for non-Japanese speakers seems to be an unadulterated immersion in Ninagawa’s refined design elements.

In some productions, words might indeed be secondary. (As a leftover from a presentation of the piece in London a decade ago, British actor Alan Rickman recorded a plot synopsis that is played before the show over the public-address system.) The fabric of “Shintoku-Maru,” however, is of some psychological complexity, and the protracted scenes in which the teenage Shintoku-Maru (Tatsuya Fujiwara) vents his feelings or engages in battles of will with his stepmother-to-be, Nadeshiko (Kayoko Shiraishi), cry out for the explication that much of an American audience is denied.・・・


筆者は、身毒丸のビジュアル的な側面は十分であったが、開演後30分ぐらいからもっと内容を理解したいという欲求に駆られた、90分というコンパクトな舞台ながら、言葉の壁のためにぼうっとしてしまうことがある、と書き、ある種の舞台では言語は2次的な要素であるが、身毒丸のような心理的に複雑な舞台では、それなりの説明があったほうがとの主旨で書いてあります。

記事の全文を読みたい方は以下のサイトで読めます。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/08/AR2008020803525.html


海外で日本語の演劇などを上演する時、大きな問題の1つが字幕です。これにはハードとソフトの2つの面があります。ハードとはどういう技術でもって字幕を付けるか、そしてソフトはどう翻訳・字幕を準備するか、です。

当然ながら字幕を付けるか付けないか、という選択がまずあります。作品によって意見が分かれるでしょうが、僕の経験から言えば基本的には不可欠だと思っています。確かにあまりに字幕の分量が多くなると、観客は読むのに手一杯で舞台を見る隙がなくなるかもしれません。しかし洋画の場合、私たちは必ず字幕を見ながら映像も見ているのですから、つまり分量と映写方法・位置さえきちんとできれば、字幕があるから舞台が台無しになるということはないと思います。また字幕のいらない人は見なければ良いとも言えますから。

むしろ、字幕がない場合を想像してみてください。たとえば「12人の怒れる男たち」がロシア語で上演されたとして字幕がなかったらどうでしょう?動きや演技だけみてこの映画の魅力を十分に理解できたと言えるでしょうか?映画や演技の専門家でもない一般の観客が字幕なしに映画を楽しめるでしょうか?ましてや映画のビジュアルによる情報伝達は舞台の何倍も豊富にもかかわらずです。

逐語訳ではなく、場面の状況説明やあらすじを各シーンの頭にだけ映写するという方法もあります。まあ、内容によってはそういう方法も可能かもしれません。ただ現代演劇の場合、筋だけ分かってもねえ、と僕なんかは思います。時々、「演技を見ていれば伝わるものがある」「むしろ文字からの情報より動きや表情から読み取って欲しい」という人がいます。そういう部分もあるとは思いますが、トータルで1時間も2時間も台詞のシーンがあるのに、演技だけで十分物事を伝えられると思うのは、いささか傲慢な感じがします。むしろ、どう字幕(あるいはそれ以外の情報伝達手段)を上手く劇に取り入れるかを検討したほうが良い結果に辿り着けると思うのですがどうでしょう?

今ほど映写が簡単でなかった時代は、スライドで映写したり、要約を印刷したプリントを配布して観客はシーンごとにそれ読みながら観劇するなんて時代もありました。スライドでAとかBとか出して、観客はその符号のページを読むなんて方法もありました。

実際、アメリカで字幕付きでの演劇上演をなんども経験していますが、字幕を読むスピードを考慮して文字数を減らしたり、同じことの繰り返し分部は字幕をカットし舞台に目を向ける時間を作ったりするようにしますが、それでも「あの間はなにを話していたの?」「字幕よりも役者はもっとなにかを言っていたけど、なんて言っていたの?」といった質問を受けることがあります。台詞量やシーンの長さに反して字幕が少なすぎる、と感じた時、フラストレーションを抱く観客は多いように思いました。もちろん、多すぎても読み切れなかったり、疲れてしまうので、タイミングと量をどう調整するかが字幕の難しいところですね。

それと、映写位置や方法も非常に重要です。よく文字やプロセに映写したり、スクリーンを吊ったりして映写することが多いのですが、特に前列に座った観客からは字幕が高すぎたりして不評なこともあります。チェルフィッチュの「三月の5日間」の海外ツアーでは、字幕は別途スクリーンを設けずに背景となるバックパネルに映写しています。


チェルフィッチュ『三月の5日間』@Esplanade(シンガポール)


これだと、役者と字幕の距離が近いので、演技を見ながら字幕を目で追うことが比較的容易になります。またジャパン・ソサエティで上演した落語公演では高座の真後ろに舞台美術の一部としてスクリーンをはめ込み、落語家からさほど視線をはずさずとも落語家の肩越しに字幕が見えるように、しかもリアスクリーン使って裏打ちしました。また文字だけでなくイラストなどを活用したこともあります。例えば長屋が話題になった時には長屋のイラストを、花見の話しのときには日本式の花見の様子を出したりしました。古典落語のように外国人には馴染みのない物品や事象が話題になるときに、そういったビジュアルイメージを出したりできるのも、字幕映写の有効的な活用方法ではないでしょうか。

また、500人ぐらいまでの劇場であれば、スクリーン+映写の変わりに、50-60インチ程度のプラズマモニターを使って字幕を出すことも多くあります。これだと少々舞台が明るくても文字が読めるし、登場人物によって文字の色を変えるとか、書体を変えるとかも自由なので便利です。字幕だとだいたい2行から3行が一般的ですが、プラズマなら5行から6行出すことが可能です。通常、舞台の左右に1台づつ置きますが、クナウカの米国ツアーではそれを舞台セットの少し上に吊りスクリーンのようにして使っていました。

面白いのでは、メトロポリタン・オペラではそれぞれの客席の前座席の背中に小さな専用スクリーンがあって、言語も英語、ドイツ語、と選択できるようになっています。言わば飛行機のパーソナルTVの要領で字幕を見ることができます。

舞台背景に映像を使い、その中に上手く字幕を配置し、字幕が必要ということを逆に積極的に利用している映像クリエーターの人がいました。その人はたしか「カッコいい字幕を出したかった」とか言っていたような気がします。実際の舞台は見れませんでしたが、写真で見る限り文字通り“カッコいい字幕”の映写方法となっていました。

     
太夫座の左に見えているのがプラズマを使った字幕。    現在、字幕のオペはもっぱらパワーポイントで行います。
写真には写っていませんが、舞台下手にもう1台       データのアップデートも簡単にできますし
プラズマによる字幕モニターが設置されています。      どこの劇場に行ってもPCとパワーポイントは持っていますから
                                    いざと言うときには劇場のを借りられるので便利です。 


字幕以外に、同時通訳という方法もあります。白石加代子さんの「百物語」ツアーを北米で実施したときは同時通訳を使いました。入口でヘッドセットかイヤホン型のレシーバーを配布し、ブースで同時通訳者が芝居に合わせて準備した原稿を読んで行きます。同時通訳のメリットは観客の負担が少ないということでしょう。吹き替え映画のようなものですから。デメリットは生音が聞こえ難い、基本的には一人の同時通訳者が全キャストを演じるので分かりにくい(男女ペアで行うときもありますが)、同時通訳装置の方が映写より費用も設営の時間もかかる、ヘッドフォンの配布と回収が面倒、同時通訳者を毎公演必要とする、などでしょうか。

字幕を付けるか付けないか、付けるとすればどういう方法で付けるか、その翻訳の分量やタイミングをどうするか、の判断はアーティストだけで下すべきものではありません。劇団の手打ちの公演であれば、他人がとやかく口を挟むこともないのかもしれませんが、招聘公演ではむしろ主催者側の問題とも言えます。現地の観客や言語について当然主催者のほうが知識が豊富でしょうから、現地の意見を取り入れて、アーティストと主催者で最善の方法を検討するべきでしょう。