
2/11(木)、建国記念の日、かつては紀元節と称していました。今年は神武天皇が即位されて節目の紀元2670年となります。
例年、この日には神武天皇ゆかりの社に参拝しています、今年も出掛けようとしましたが、暴風警報のでる生憎の天気で取りやめました。
そこで神武天皇その他皇祖神を主神とする、知立神社(愛知県知立市)を掲載しました。
知立神社(ちりゅうじんじゃ)
<通称>知立の明神さん・池鯉鮒大明神(ちりゅうのみょうじんさん・ちりふだいみょうじん)
【鎮座地】〒472-0023 愛知県知立市西町神田12 旧三河国 碧海郡
【御祭神】鵜葺草葺不合命 彦火火出見尊 玉依比賣命 神日本磐余彦尊 (配祀)青海首命
【例祭】 5月3日(元旧暦 4月3日)
【旧社格等】県社(現別表神社)
三河國二の宮
式内社 三河國碧海郡 知立神社
【御由緒】
知立神社由緒
當神社は近世池鯉鮒大明神も称え奉り、延喜式内の古大社であって、第十二代景行天皇の御宇、皇子日本武尊の東国御平定の行路、此の地に於て皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い、御帰途報賽のため創建あらせられしと云う。
延喜撰格の際は官社に列し、暦朝或いは神階を奉られ或いは昇叙せられ、又元冦襲来に際して異国降伏の勅願あり。明治元年明治天皇御東幸の際には勅使を差遣わして国運の発展を祈願し給う等、古来朝廷の御崇敬篤く、又歴代各藩主も或いは土地を献じ或いは社殿を造営し、或いは神饌幣帛を献ずる等夫々赤誠を捧げた。又衆庶の崇敬も厚く古来より蝮除け雨乞い安産等の御霊験を以て全国に聞え御分社は県内は固より遠く関東関西に亙って所々に奉祀せられ、崇敬者は全国に散在して其の数を知り難い。
又當社は弘法大師の崇敬殊に厚く、三河三弘法巡拝者の必ず當社に詣ずるは蓋し大師の敬神の精神を体するものである。
御祭神
鸕鷀草葺不合尊 彦火火出見尊 玉依比売命 神日本磐余彦尊(神武天皇)
相殿 青海首命
例祭日
五月三日(元旧暦 四月三日)
(社頭由緒掲示板)
愛知県のほぼ中央部に位置する、知立市にあります。名鉄名古屋本線「知立駅」の北
およそ1km、国道1号線と国道155号線の交差する「宮腰交差点」の直ぐ西に鎮座しています。
社号標には「延喜式内 知立神社」、側面に「正三位勲一等 男爵 千家尊福 謹書」、裏面に「明治四十五年建立」とあります。
「明治天皇 駐駕館史」の碑
境内左(西側)「養生館」前にあります。
「養生館」は明治19年12月、碧海郡役所の東隣に明治用水事務所および議事堂として建築されました。明治23年、陸海軍合同の大演習に際し、明治天皇のの御座所として使用され、その経緯が刻まれています。現在、養生館は「老人クラブ 憩いの家」とされているようです。
石橋

鳥居をくぐると駐車場から玉砂利の敷き詰められた広い境内です。左に手水舎、右に多宝塔、正面ほぼ中央に御手洗と呼ばれる神池に架かる石橋です。
真正面に拝殿が見えますが、現在は通行できません。
片目の魚
御手洗の中に、身代りとして娘を目の病から救ったため片目になったとの伝わる片目の魚があります。
知立神社石橋
市指定文化財 (建造物)
昭和四十四年四月一日指定
この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長6.6m、幅2.4m、水面より高さ1.7mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ12cmの石の板19枚が並べられている。
欄干南側石柱には「享保十七年(1732)十一月吉日敬白」と刻まれている。
『東海道名所図会』には「石橋は神籬の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている。片目の魚は、身代りとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある。
知立市教育委員会
(現地案内板より)
水琴窟
境内左、社務所の手前にあります。
音は聞こえませんでした、現在稼動するかどうか不明です。
拝殿

拝殿前にも玉砂利が敷き詰められて参道の区分けはありません。立派な灯篭などが並んでいます。拝殿は奥行きのある縦長で、檜皮葺の尾張造と呼ばれる、この地方特有の様式のものです。
社殿全景
第12代景行天皇42年、日本武尊が東国平定の帰途、伊知里生命をこの地に留め皇祖神を祀り、仲哀天皇元年に社殿を造営したことが創始と伝えられています。
かつて池鯉鮒大明神と称した三河国二の宮(一の宮は砥鹿神社で、三の宮は猿投神社)で、熱田神宮、三島大社と共に東海道三大社の一つとされた歴史のある名社です。
本殿
本殿は屋根が少し見えるだけで全容は全く見られません。
境内社
拝殿右に並んであります。
写真左から摂社・親母神社(うばがみしゃ)御祭神は本社主神・鵜葺草葺不合命の母君の豐玉毘賣命。父君彦火火出見尊(山幸彦)のお后です。
その右は末社・合祀殿(ごうしでん)、天照大神 豐受毘賣神 素盞嗚尊 大物主神 倉稻魂命 市杵嶋姫尊 猿田彦大神 大山積神 菊理媛神 伊弉諾尊 伊弉册尊 と多くの神が合祀されています。
さらに、末社・小山天神社(こやまてんじんしゃ)御祭神は少名彦命です。
神馬
境内右(東側)、合祀殿の前にあります。中にちゃんと動かない?神馬がいました。
境内末社・秋葉社
境内右(東側)神馬の右にあります。
御祭神は火之夜藝速男之命、石造りの鳥居から瓦葺の社殿です。
拝殿から境内
拝殿前に明治三十九年(1906)四月奉納の狛犬、写真右(拝殿向かって左の吽の狛犬)に
は頭に角が生えています。
多宝塔

知立神社多宝塔
国指定重要文化財(建造物)
明治四十年五月二十七日指定
社伝によれば、八五〇年(嘉祥三)天台宗僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立した。後知立神社の別当寺となった。
現存する多宝塔は、一五〇九年(永正六)重原城主山岡忠左衛門が再建した。
三間二層の塔であり、正面に桟唐戸を配し、左右には連子窓、他は嵌板張りである。屋根は柿葺で、塔高は約十mあり、室町時代の建築である。
明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き、瓦葺にかえ、「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難をのがれた。
知立市教育委員会
(現地案内板より)
例年、この日には神武天皇ゆかりの社に参拝しています、今年も出掛けようとしましたが、暴風警報のでる生憎の天気で取りやめました。
そこで神武天皇その他皇祖神を主神とする、知立神社(愛知県知立市)を掲載しました。
知立神社(ちりゅうじんじゃ)
<通称>知立の明神さん・池鯉鮒大明神(ちりゅうのみょうじんさん・ちりふだいみょうじん)
【鎮座地】〒472-0023 愛知県知立市西町神田12 旧三河国 碧海郡
【御祭神】鵜葺草葺不合命 彦火火出見尊 玉依比賣命 神日本磐余彦尊 (配祀)青海首命
【例祭】 5月3日(元旧暦 4月3日)
【旧社格等】県社(現別表神社)
三河國二の宮
式内社 三河國碧海郡 知立神社
【御由緒】
知立神社由緒
當神社は近世池鯉鮒大明神も称え奉り、延喜式内の古大社であって、第十二代景行天皇の御宇、皇子日本武尊の東国御平定の行路、此の地に於て皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い、御帰途報賽のため創建あらせられしと云う。
延喜撰格の際は官社に列し、暦朝或いは神階を奉られ或いは昇叙せられ、又元冦襲来に際して異国降伏の勅願あり。明治元年明治天皇御東幸の際には勅使を差遣わして国運の発展を祈願し給う等、古来朝廷の御崇敬篤く、又歴代各藩主も或いは土地を献じ或いは社殿を造営し、或いは神饌幣帛を献ずる等夫々赤誠を捧げた。又衆庶の崇敬も厚く古来より蝮除け雨乞い安産等の御霊験を以て全国に聞え御分社は県内は固より遠く関東関西に亙って所々に奉祀せられ、崇敬者は全国に散在して其の数を知り難い。
又當社は弘法大師の崇敬殊に厚く、三河三弘法巡拝者の必ず當社に詣ずるは蓋し大師の敬神の精神を体するものである。
御祭神
鸕鷀草葺不合尊 彦火火出見尊 玉依比売命 神日本磐余彦尊(神武天皇)
相殿 青海首命
例祭日
五月三日(元旧暦 四月三日)
(社頭由緒掲示板)
愛知県のほぼ中央部に位置する、知立市にあります。名鉄名古屋本線「知立駅」の北
およそ1km、国道1号線と国道155号線の交差する「宮腰交差点」の直ぐ西に鎮座しています。
社号標には「延喜式内 知立神社」、側面に「正三位勲一等 男爵 千家尊福 謹書」、裏面に「明治四十五年建立」とあります。
「明治天皇 駐駕館史」の碑

「養生館」は明治19年12月、碧海郡役所の東隣に明治用水事務所および議事堂として建築されました。明治23年、陸海軍合同の大演習に際し、明治天皇のの御座所として使用され、その経緯が刻まれています。現在、養生館は「老人クラブ 憩いの家」とされているようです。
石橋


鳥居をくぐると駐車場から玉砂利の敷き詰められた広い境内です。左に手水舎、右に多宝塔、正面ほぼ中央に御手洗と呼ばれる神池に架かる石橋です。
真正面に拝殿が見えますが、現在は通行できません。
片目の魚

知立神社石橋
市指定文化財 (建造物)
昭和四十四年四月一日指定
この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長6.6m、幅2.4m、水面より高さ1.7mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ12cmの石の板19枚が並べられている。
欄干南側石柱には「享保十七年(1732)十一月吉日敬白」と刻まれている。
『東海道名所図会』には「石橋は神籬の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている。片目の魚は、身代りとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある。
知立市教育委員会
(現地案内板より)
水琴窟

音は聞こえませんでした、現在稼動するかどうか不明です。
拝殿


拝殿前にも玉砂利が敷き詰められて参道の区分けはありません。立派な灯篭などが並んでいます。拝殿は奥行きのある縦長で、檜皮葺の尾張造と呼ばれる、この地方特有の様式のものです。
社殿全景

第12代景行天皇42年、日本武尊が東国平定の帰途、伊知里生命をこの地に留め皇祖神を祀り、仲哀天皇元年に社殿を造営したことが創始と伝えられています。
かつて池鯉鮒大明神と称した三河国二の宮(一の宮は砥鹿神社で、三の宮は猿投神社)で、熱田神宮、三島大社と共に東海道三大社の一つとされた歴史のある名社です。
本殿

境内社

写真左から摂社・親母神社(うばがみしゃ)御祭神は本社主神・鵜葺草葺不合命の母君の豐玉毘賣命。父君彦火火出見尊(山幸彦)のお后です。
その右は末社・合祀殿(ごうしでん)、天照大神 豐受毘賣神 素盞嗚尊 大物主神 倉稻魂命 市杵嶋姫尊 猿田彦大神 大山積神 菊理媛神 伊弉諾尊 伊弉册尊 と多くの神が合祀されています。
さらに、末社・小山天神社(こやまてんじんしゃ)御祭神は少名彦命です。
神馬

境内末社・秋葉社

御祭神は火之夜藝速男之命、石造りの鳥居から瓦葺の社殿です。
拝殿から境内

拝殿前に明治三十九年(1906)四月奉納の狛犬、写真右(拝殿向かって左の吽の狛犬)に
は頭に角が生えています。
多宝塔


知立神社多宝塔
国指定重要文化財(建造物)
明治四十年五月二十七日指定
社伝によれば、八五〇年(嘉祥三)天台宗僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立した。後知立神社の別当寺となった。
現存する多宝塔は、一五〇九年(永正六)重原城主山岡忠左衛門が再建した。
三間二層の塔であり、正面に桟唐戸を配し、左右には連子窓、他は嵌板張りである。屋根は柿葺で、塔高は約十mあり、室町時代の建築である。
明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き、瓦葺にかえ、「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難をのがれた。
知立市教育委員会
(現地案内板より)
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