氣比神宮(福井県敦賀市)を掲載しました。
氣比神宮(けひじんぐう)
<通称>けひさん・けいさん(けひさん・けいさん)
【鎮座地】〒914-0075 福井県敦賀市曙町11-68 旧越前国 敦賀郡
【御祭神】伊奢沙別命 仲哀天皇 神功皇后 日本武尊 應神天皇 玉妃命 武内宿禰命
【例祭】 2月3日 節分祭 9月4日 例大祭
【旧社格等】官幣大社(現別表神社)
越前國一の宮
式内社 越前國敦賀郡 氣比神社七座 並名神大
【御由緒】
氣比神宮御由緒
祭神七座
伊奢沙別命(いざさわわけのみこと)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
応神天皇(おうじんてんのう)
玉妃命(たまひめのみこと)
武内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)
主祭神の伊奢沙別命は通称氣比の大神として二千年有余の昔当地に鎮座になりました。大宝二年(七〇二年)の御造営時に他の神々を合せ祀り、祭神七座の格式は言う迄もなく越前之国一の宮・北陸道総鎮守と崇められる元の官幣大社であります。
時恰も平成十四年、御祭神合祀壱千参百年式年大祭が盛大に斎行されました。
境内に式内摂社・角鹿(つぬが)神社があります。「敦賀」の地名発祥の神社でもあります。当神宮と敦賀は古い歴史と伝統を守りながら時代を共にして来ました。
九月に見る豪華絢爛の絵巻さながら、市民参加の敦賀まつり(氣比祭)が之を象徴しています。また六月の御田植祭と牛腸(ごちょう)祭・七月の総参祭(そうのまいり)は、いずれも御祭神ゆかりの特殊神事として注目されています。また仏教との関係も深く遊行上人のお砂持神事。旧跡は明らかでないが神宮寺は日本最古と記されている氣比神宮寺。最澄(伝教大師)・空海(弘法大師)が求法の祈誓をかけて大行を修したと伝える聖地があります。その他芭蕉が「奥の細道」に北陸の勝を探り氣比社参。正保二年(一六四五年)神領地・佐渡の国、鳥居が原にて伐採の榁樹一本で両柱を建立。芸術性に秀でた天下無双の大華表、有栖川宮威仁親王染筆にかかる扁額が爽やかに光を放つ。
古くより国家鎮護の大社として、悠久の歴史に育まれた「日本のこころ」が御参詣の皆さまの心を潤すことを願って已みません。
平成十八年三月吉辰
氣比神宮宮司謹記
(社頭由緒掲示板)
福井県の南西部に位置し、敦賀湾に面した敦賀市にあります。JR北陸本線敦賀駅の北およそ1km、敦賀北小学校の南に隣接して鎮座しています。国道8号線に面して大鳥居があります。
大鳥居から参道
高さ11mの朱の大鳥居(重要文化財)は、春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ 日本三大木造大鳥居の一つとされています。
氣比の大鳥居(旧国宝)
当神宮は古く仲哀天皇の行幸・奉拝祈願があり悠久二千年の歴史を有する元の官幣大社で北陸道総鎮守・越前国一之宮である。大鳥居の歴史は通称赤鳥居として嵯峨天皇弘仁元年(八一〇)の造営時に東参道口に創建されたが度重なる災害に依り倒壊した為正保二年(一六四五)境域の西門に配し同礎石を移し寛永年間旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て再建されたのが現在の朱塗の大鳥居である。明治三十四年国宝に指定(現在は国の重要文化財)木造では天下無双の大華表と古くから呼称され各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行なわれ今日にその偉容を伝えている。尚正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。
(現地案内板より)
手水舎から中鳥居
大鳥居をくぐり、綺麗に整備された参道を東に進むと左に猿田彦神社、さらに進むとシンプルな造りの手水舎に続いて朱の中鳥居です。
松尾芭蕉の像中鳥居の前にあります。
元禄2年8月、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中訪れています。この像のそばには句碑が並んでいます。
旗揚松中鳥居の手前右にあります。
延元元年当神宮宮司氣比氏治が後醍醐天皇を奉じ旗挙げした「旗揚松」です。左は旧根、右は2代目です。
中鳥居から拝殿
社殿のある境内は中鳥居から朱の垣に囲まれています。入ると左に授与所、右は回廊から儀式殿、正面に拝殿から本殿です。
拝殿
以前は氣比神社、または笥飯宮といっていましたが、明治28年以降氣比神宮と称しました。延喜式神名帳に「越前國敦賀郡氣比神宮七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められています。
現在の社殿は昭和57年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊が新設されています。
本殿
主祭神伊奢沙別命は境内の聖地(現在の土公)に降臨した神と伝えられ、「古事記」で御食津大神と称され、食物の神霊と考えられています。
主祭神伊奢沙別命とともに仲哀天皇、神功皇后が合祀される本宮を中心に、東殿宮・日本武尊、総社宮・応神天皇、平殿宮・玉姫命、西殿宮・武内宿禰命の四社之宮が並んでいます。
境内社・九社之宮社殿の左、鳥居の奥にあります。
左、伊佐々別神社・御食津大神荒魂神、社殿が北方の海を向いているのは、漁撈を守る神であるからと伝えられています。右、擬領神社・武功狹日命、一説に大美屋都古神又は玉佐々良彦命とも。
境内社・九社之宮
左手より、天井弉奈彦神社(式内社)・天伊弉奈彦大神、天井弉奈姫神社(式内社)・天比女若御子大神、天利劔神社(式内社)・天利劔大神、鏡神社・神功皇后宝鏡、林神社・林山姫神、金神社・素盞鳴尊、劔神社・姫太神尊です。
末社・神明両宮本殿左、九社之宮の奥にあります。
左、豊受大神(外宮)、右、天照皇大神(内宮)外宮は慶長17年3月28、内宮は元和元年9月28日それぞれ勧請奉祀されたものです。
神水苑 境内東側にあります。
敦賀の地は往古より良質の水が湧き出ており、当神宮の神域はその水脈の中心です。昭和の大造営に続いて大規模の神水苑が築造されました。
東駐車場から天筒山
後方の山は御祭神・伊奢沙別命の霊跡とされる天筒山(標高171m)です。鳥居は氣比宮古殿地遥拝所です。
氣比宮古殿地
氣比之大神降臨の地であり神籬磐境の形態を留める「土公」の遥拝所です。
氣比宮古殿地の事
氣比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触るべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが 嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は氣比之大神降臨の地であり 傳教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修した所とも伝えられる
土公は陰陽道の土公神の異称で 春は竃に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ 其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた 戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公と参道はかろうじてそのままの形で残された 大宝二年(七〇二)造営以前の氣比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた 此の聖域を通して氣比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遥拝設備が立派に完成されるに至った次第である
(現地案内碑)
末社・式内社大神下前神社東参道入口にあります。
御祭神・大己貴命、氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在地に遷座、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀。
末社・兒宮
大神下前神社の右にあります。御祭神は伊弉冊尊。神社パンフレットには「徳川時代から子育ての神と称され小児の守神として信仰が篤い。」とあります。
摂社・式内社角鹿神社
兒宮の右にあります。御祭神は崇神天皇の御代、渡来した任那の王子、都怒我阿羅斯等命。天保10年松尾大神が合祀されています。
現在の敦賀の地名はもと「角鹿」でこの命の御名に因るものです。
気比の松原
当宮の西およそ2Km、敦賀湾に面してあります。三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つに数えられています。
かつては当宮の神領で、渤海使が訪れ、交易が行われるようになり天平神護2年(766)勅によって渤海使停宿の処として、松原客館が建設されました。
およそ東西1km、南北400m、広さ37.9ha、樹数約1万2千本を数え、海岸林としては珍しく赤松が群生しています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます