菅生石部神社(石川県加賀市)を掲載しました。
菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)
<通称>敷地天神(しきじてんじん)
【鎮座地】〒922-0011 石川県加賀市大聖寺敷地ル乙81-2 旧加賀国 江沼郡
【御祭神】天津日高日子穗穗出見命 豐玉毘賣命 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命
【例祭】 2月10日 例大祭 2月17日 祈年祭
【旧社格等】国幣小社(現別表神社)
加賀國二宮
式内社 加賀國江沼郡 菅生石部神社
【御由緒】
由緒
当社は、敏達天皇の願いにより、宮中でお祀りしていた神様を用明天皇がご即位元年(五八五)にこの地にお移ししたことにはじまります。
創祀以来続く祭りは天神講や敷地祭といい、三日間特別なお祓いの神事を行います。天武天皇は、白鳳五年(六七六)御願神事(ごんがんしんじ)をはじめさせ、現在も石川県無形民俗文化財の指定を受け、例祭(竹割まつり)として続いています。
この神社は延喜式内社で、越前國三ノ宮のちに加賀國二ノ宮(一ノ宮は白山比神社)となり、明治期には国幣小社に列せられました。中世には福田の庄が京都北野天満宮領となることから天神信仰も盛んとなり、別名菅生天神や敷地天神とよばれるようになりました。
天神信仰としてこの地に住む人々や越前に住む人々からの崇敬を受け、この地に始まり美濃から全国に住む斎藤氏の氏神として美濃各地に勧請されました。美濃園の天神社、天満宮全十七社は当社より勧請された社です。このほか京都市敷地神社(わら天神)、鯖江市敷山神社など関係の社が多くあります。
崇敬では、伏見天皇(一二八七~一二九八)の頃より正親町天皇(一五五七~一五八六)の頃まで春秋年二回の居大祭(おりいさい)に朝廷より御衣・神宝がお供えになりました。
現在、居大祭に遅れた際の詫状や皇子ご降誕の祈祷礼状が残っています。
そのほか木曾義仲、足利義持、豊臣秀吉や前田利家はじめ前田家による寄進や奉納も多くありました。現在その多くが宝物として残っています。
創始 用明天皇元年(西暦585年)
御祭神 菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)
境内社 春日杜(大兒屋根命・径津主命・武甕槌神・姫大神)
八幡社(応神天皇)
白山社(菊理姫命)
稲荷社(宇迦御魂命)
事比羅社(大物主命)
菅原社(菅原道眞公)
藤森社(大國主命)
(神社パンフレットより抜粋)
石川県の南西部に位置し福井県と接する加賀市にあります。JR北陸本線「大聖寺駅」の北東1.5kmの大聖寺敷地町に鎮座、国道305号線「菅生交差点」から北に500m、大聖寺川に架かる橋を渡った道路沿いに鳥居です。
神門
鳥居の左には明治31年3月建立の社号標「國幣小社 菅生石部神社」とあります。正面階段上に荘厳な神門が見られます。
年代を感じさせる扁額には「菅生石部神社」とあります。
加賀市指定文化財(建造物)
神 門
指定年月日 昭和五十一年七月十九日
菅生石部神社の入口に建つ神門は、文政七年(一八二四)起工、翌九年落成した。
設計者は建仁寺流の名工山上善右衛門嘉広の系統で七代目の善右衛門吉順と伝える。
総欅造唐様の楼門で、軒は扇垂木とL、天井は碁組となっている。
大聖寺藩主を始め有力町人や各階層の人々の寄進によるもので、大聖寺・加賀両藩の大工棟梁を動員して造立されたということが棟札に記されている。
昭和五年修理の際、屋根が桟瓦葺から銅板葺となったが、全体に保有状態は良好である。
昭和六十一年十二月
加賀市教育委員会
(現地案内板より)
神門から拝殿
神門を入ると広い境内、左に手水舎から奥に授与所、右には神楽殿があります。正面一段
高い位置に拝殿、奥に本殿と続きます。
参道から拝殿
現在の社殿は、「平成祭データ」に「社殿は本殿以下昭和十三年八月、十ケ年の日子と十數萬圓の工費とを以つて新改築工事完成せるものにして、、、」とあります。
拝殿
当社は延喜式内社で、越前國三ノ宮のちに加賀國二ノ宮(一ノ宮は白山比神社)となり、中世には当地が京都北野天満宮領となり、別名菅生天神や敷地天神と呼ばれていました。その名残りで拝殿前に立派な牛の像があります
往古より朝廷をはじめ、藩主、武将の崇敬が篤く、木曾義仲、足利義持、豊臣秀吉や前田利家はじめ前田家による寄進や奉納も多くありました。現在その多くが宝物とし て残っています。
扁額にはシンプルに「菅生石部神社」とあります。
本殿
御祭神は菅生石部神とされ、これは天津日高日子穗穗出見命(神武天皇の御祖父、別名山幸彦)、豐玉毘賣命(日子穗穗出見命のお妃)、鵜葺草葺不合命(神武天皇の御父君)の三柱の総称とされています。
創始は、用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まると伝えられています。
御神木拝殿の右(境内東側)にあります。
境内社
拝殿の右、御神木の左にあります。鳥居の奥に社殿です。
「白山社」「事比羅社」の額が掲げられています。御祭神は白山社(菊理姫命)、事比羅社
(大物主命)です。
境内社の狛犬
社前に牛の像、小さな狛犬が数対奉納されています。これは春日杜(大兒屋根命・径津主命・武甕槌神・姫大神)、八幡社(応神天皇)、菅原社(菅原道眞公)、藤森社(大國主命)が合祀されていることによります。
境内社・敷地稲荷社の鳥居拝殿左、渡り廊下の前にあります。
境内社・敷地稲荷社
渡り廊下の下をくぐり、朱の鳥居から階段を上がったところにあります。社前に狛狐、御祭神は宇迦御魂命です。
神楽殿拝殿の右手前にあります。神楽殿かと思われます。
境内から神門
境内は大きな樹木に囲まれ、綺麗に整備されています。
菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)
<通称>敷地天神(しきじてんじん)
【鎮座地】〒922-0011 石川県加賀市大聖寺敷地ル乙81-2 旧加賀国 江沼郡
【御祭神】天津日高日子穗穗出見命 豐玉毘賣命 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命
【例祭】 2月10日 例大祭 2月17日 祈年祭
【旧社格等】国幣小社(現別表神社)
加賀國二宮
式内社 加賀國江沼郡 菅生石部神社
【御由緒】
由緒
当社は、敏達天皇の願いにより、宮中でお祀りしていた神様を用明天皇がご即位元年(五八五)にこの地にお移ししたことにはじまります。
創祀以来続く祭りは天神講や敷地祭といい、三日間特別なお祓いの神事を行います。天武天皇は、白鳳五年(六七六)御願神事(ごんがんしんじ)をはじめさせ、現在も石川県無形民俗文化財の指定を受け、例祭(竹割まつり)として続いています。
この神社は延喜式内社で、越前國三ノ宮のちに加賀國二ノ宮(一ノ宮は白山比神社)となり、明治期には国幣小社に列せられました。中世には福田の庄が京都北野天満宮領となることから天神信仰も盛んとなり、別名菅生天神や敷地天神とよばれるようになりました。
天神信仰としてこの地に住む人々や越前に住む人々からの崇敬を受け、この地に始まり美濃から全国に住む斎藤氏の氏神として美濃各地に勧請されました。美濃園の天神社、天満宮全十七社は当社より勧請された社です。このほか京都市敷地神社(わら天神)、鯖江市敷山神社など関係の社が多くあります。
崇敬では、伏見天皇(一二八七~一二九八)の頃より正親町天皇(一五五七~一五八六)の頃まで春秋年二回の居大祭(おりいさい)に朝廷より御衣・神宝がお供えになりました。
現在、居大祭に遅れた際の詫状や皇子ご降誕の祈祷礼状が残っています。
そのほか木曾義仲、足利義持、豊臣秀吉や前田利家はじめ前田家による寄進や奉納も多くありました。現在その多くが宝物として残っています。
創始 用明天皇元年(西暦585年)
御祭神 菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)
境内社 春日杜(大兒屋根命・径津主命・武甕槌神・姫大神)
八幡社(応神天皇)
白山社(菊理姫命)
稲荷社(宇迦御魂命)
事比羅社(大物主命)
菅原社(菅原道眞公)
藤森社(大國主命)
(神社パンフレットより抜粋)
石川県の南西部に位置し福井県と接する加賀市にあります。JR北陸本線「大聖寺駅」の北東1.5kmの大聖寺敷地町に鎮座、国道305号線「菅生交差点」から北に500m、大聖寺川に架かる橋を渡った道路沿いに鳥居です。
神門
鳥居の左には明治31年3月建立の社号標「國幣小社 菅生石部神社」とあります。正面階段上に荘厳な神門が見られます。
年代を感じさせる扁額には「菅生石部神社」とあります。
加賀市指定文化財(建造物)
神 門
指定年月日 昭和五十一年七月十九日
菅生石部神社の入口に建つ神門は、文政七年(一八二四)起工、翌九年落成した。
設計者は建仁寺流の名工山上善右衛門嘉広の系統で七代目の善右衛門吉順と伝える。
総欅造唐様の楼門で、軒は扇垂木とL、天井は碁組となっている。
大聖寺藩主を始め有力町人や各階層の人々の寄進によるもので、大聖寺・加賀両藩の大工棟梁を動員して造立されたということが棟札に記されている。
昭和五年修理の際、屋根が桟瓦葺から銅板葺となったが、全体に保有状態は良好である。
昭和六十一年十二月
加賀市教育委員会
(現地案内板より)
神門から拝殿
神門を入ると広い境内、左に手水舎から奥に授与所、右には神楽殿があります。正面一段
高い位置に拝殿、奥に本殿と続きます。
参道から拝殿
現在の社殿は、「平成祭データ」に「社殿は本殿以下昭和十三年八月、十ケ年の日子と十數萬圓の工費とを以つて新改築工事完成せるものにして、、、」とあります。
拝殿
当社は延喜式内社で、越前國三ノ宮のちに加賀國二ノ宮(一ノ宮は白山比神社)となり、中世には当地が京都北野天満宮領となり、別名菅生天神や敷地天神と呼ばれていました。その名残りで拝殿前に立派な牛の像があります
往古より朝廷をはじめ、藩主、武将の崇敬が篤く、木曾義仲、足利義持、豊臣秀吉や前田利家はじめ前田家による寄進や奉納も多くありました。現在その多くが宝物とし て残っています。
扁額にはシンプルに「菅生石部神社」とあります。
本殿
御祭神は菅生石部神とされ、これは天津日高日子穗穗出見命(神武天皇の御祖父、別名山幸彦)、豐玉毘賣命(日子穗穗出見命のお妃)、鵜葺草葺不合命(神武天皇の御父君)の三柱の総称とされています。
創始は、用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まると伝えられています。
御神木拝殿の右(境内東側)にあります。
境内社
拝殿の右、御神木の左にあります。鳥居の奥に社殿です。
「白山社」「事比羅社」の額が掲げられています。御祭神は白山社(菊理姫命)、事比羅社
(大物主命)です。
境内社の狛犬
社前に牛の像、小さな狛犬が数対奉納されています。これは春日杜(大兒屋根命・径津主命・武甕槌神・姫大神)、八幡社(応神天皇)、菅原社(菅原道眞公)、藤森社(大國主命)が合祀されていることによります。
境内社・敷地稲荷社の鳥居拝殿左、渡り廊下の前にあります。
境内社・敷地稲荷社
渡り廊下の下をくぐり、朱の鳥居から階段を上がったところにあります。社前に狛狐、御祭神は宇迦御魂命です。
神楽殿拝殿の右手前にあります。神楽殿かと思われます。
境内から神門
境内は大きな樹木に囲まれ、綺麗に整備されています。
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